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明解「法華経要義」 陀羅尼品 第二十六

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 1月20日(土)14時00分12秒
編集済
  (現代語)
世尊よ、私はこの神秘なる呪文によって法師を守護致しましょう。また、自らもこの経を持つ者を必ず擁護し、その百ヨジャーナの内にあっては衰えと患いを無くします。たとえ私の頭の上に登ることが許されたとしても、法師を悩ますことはあってはなりませぬ。もし、私の呪文に逆らって説法者を悩ますならば、その頭は七つに裂けて阿梨樹の枝の如くなりましょう。父母を殺す罪の如く、また胡麻の油を搾る時に沢山の虫をも圧殺する罪、枡や秤を誤魔化して人を欺く罪、提婆達多が和合僧を分裂させる罪の如く、この法師を害する者は必ずその罪の報いを受けるでありましょう。

(要文)
世尊よ、是の神呪を以て法師を擁護せん。我また自ら当に是の経を持たん者を擁護して、百由旬の内に諸の衰患無からしむべし。寧ろ我が頭の上に上るとも法師を悩ますことなかれ。若し我が呪に順ぜずして説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん。父母を殺する罪の如く、また油を壓す殃、斗秤もって人を欺誑し、調達が破僧罪の如く、此の法師を犯さん者は、当に是の如き殃を獲べし。

(要義)
陀羅尼品では、薬王菩薩、勇勢菩薩、毘沙門天王、持国天王、鬼子母神と十羅刹女が、五種の陀羅尼を説いて、法華経の行者である説法者を守護することを誓います。法華経の陀羅尼は、病気を祈るような祈祷の陀羅尼ではなく、法師擁護の為の陀羅尼ですから、これによって病気平癒の祈祷などを行うことは全くの間違いです。上記は、毘沙門天王と鬼子母神・十羅刹女の誓願を挙げたものですが、いずれも法師を擁護することを説いています。神秘の呪文によって法華経の行者を護り、その行者の周囲を常に守護して、災いを受けさせないように誓っているのです。

鬼子母神は、土足で頭の上に登られても腹は立てないけれども、法華経を弘める法師沙門を悩ますようなことがあれば承知をせぬ、それが為に呪文を唱えているが、それにも拘わらず説法者を尚悩乱するならば、その頭を七つに裂いて阿梨樹の枝の裂けている如くにすると述べています。阿梨樹とは中国や日本には存在しませんが、地に堕ちれば即ち破れて七分となると言われる枝の裂け易い木で、裂け目から赤い血のようなものが出るそうです。法師を悩ます罪は父母を殺す罪に同じである、胡麻の油を搾る時に虫を沢山湧かして一緒に圧搾する罪、枡や秤を誤魔化して不正な利益を得る罪、仏教教団を分裂させようとした提婆達多の罪と同じである。それ故に、もし説法者を悩乱する者があるならば、その者の頭を七分に打ち破って守護すると誓ったのです。病気の事など一つも言っていません、法華経布教の守護神であるのです。日蓮聖人が本尊の中に鬼子母神を書いたのは、法華行者守護の鬼神として特筆したのであって、「治病抄」という御遺文にも、身体の病は世間の医者が治す、仏法は心の病を治すものであると、きちんと区別が立てられて教えは説かれています。それにも拘わらず、中山の法華経寺に鬼子母神を安置して、日蓮聖人が何か祈祷の相伝を伝えたなどというような事を言っているのは、すべて誤魔化しであって、そのようなものは真言の祈祷の真似事をした作り事に過ぎません。勿論宗教ですから、鎮護国家のためにとか、病気に対する祈念を日蓮聖人がしないという訳ではありませんが、それは祈るといっても、陀羅尼を読んで祈る訳でも、鬼子母神を本尊にして祈る訳でもありません。そういう愚かなことは皆教義の観念の無い俗物が始めたことです。教義が重いか、賽銭箱が重いかという事が分からない輩であるのです。それを今なお改めないというのは、苟も一天四海皆帰妙法を称えて、教化に任ずる者のするべき態度ではありません。そのようなことを放置しておくから、今度は霊断師会などという好い加減な占いと祈祷を以て人心を惑わす輩が、最大の日蓮宗で勢力を得て、従来の日蓮教学を打ち壊し、そして権力を得ようとする訳です。日蓮主義は平凡なる教化運動ではなく、教化者の誤りを覚醒させることを任じている訳ですから、そういう問題は一々理義を正してやらなければ、日蓮主義の本領は発揮する事は出来なくなるのです。

(現代語)
仏は羅刹女達に告げました。「善きかな、善きかな。汝等がただ法華経の名を受け持つ者を守護することでさえ、その福徳は量り知れぬものである」と。

(要文)
仏、諸の羅刹女に告げたまわく、善い哉善い哉、汝等但だ能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず。

(要義)
この所は、鬼子母神と十人の羅刹女(鬼女)が法華経を受持する者を擁護すると誓った事に対して、法華経の名を受持する者、即ち題目を唱える者を護っても、その福徳は量るべからざるものである、まして法華経の宣伝に任ずる法師を護る功徳は更に大なるものであると、釈迦牟尼仏が言われたものです。この経文は、法華行者守護の誓いを奨励したものですが、日蓮聖人が題目を唱える証拠の一つにこの文を引かれているので、序に摘出して置きます。



 

立正安国論 その12

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 1月17日(水)07時23分12秒
編集済
  8 謗法退治の方法を示す

客は驚いて言います。では貴方が引かれた涅槃経に説かれたように、謗法の者を絶つためには、その首を斬ってもよいと言うのでしょうか。他の経典によれば、その是非を問わず、自戒・破戒に拘わらず、僧侶であれば供養を捧げなければならないとあります。ですから、仏の教えに背いて僧侶に危害を加えるなどというのは、とても信じがたいことです。これに対して主人は、涅槃経に書いてあることは釈迦如来が世に出られる以前のことである、過去の有徳王・覚徳比丘の時はそういう坊主の首を斬ったけれども、お釈迦様以後の教えでは、ただ施しを止めればよいのだと答えます。即ち、ガラクタ坊主は飯を食うために坊主になっているのだから、そういう所にお布施を持って行ったり、食べ物を持って行ったりしなければ坊主を止めるに違いない。彼らはその主義主張を信じているのではなく、住む寺があり食い扶持があるから、その中に入り込んで飯を食っているのであって、食えなくなれば自ずと散じてしまうというわけです。

「然らば則ち四海万邦一切の四衆は、その悪に施さず皆此の善に帰せば、何なる難か並び起らん、何なる災か競い来らん」

ここに非常に深い意味があります。立憲主義を言うならば、国民の方に正論を聴いて善き政治に与し善き政治家に与するということが無ければなりません。国民の方に聞き分ける力が無く、多数多数といって間違った方へでも行け行けとなったならば、終に国家は覆滅してしまうことになります。だからこそ、偏向的な思想やマスコミに安易に誘導されることなく、善悪を聞き分けて、そして善い方に賛成して、悪い方へは行かぬということが、国民の自覚の根本になければならないのです。

9 謗法の退治を促す

ここで客はいよいよ襟を正して、「仏教のことは広くもあり、よく分かりませぬが、法然上人の選択集は現在も書物としてあり、貴方の仰る通り、あらゆる仏、あらゆる経、あらゆる善神、すべてを捨閉閣抛せよとの文は、顕然として今なお残っております。それがために仏法盛んなるに似て、却って仏法の正義が地に墜ちていると仰るのも実にご尤もなことです。斯様な間違ったものを矯め直すならば、国は必ずや安らかになろうと思います」と述べます。そこで主人は喜んで言われます。

「汝、蘭室の友に交りて、麻畝(まほ)の性となる。誠にその難を顧みて、専らこの言を信ぜば、風和ぎ浪静かにして、不日に豊年ならんのみ」

誠に嬉しいことである、中国の故事に「鳩化して鷹となり、雀変じて蛤となる」ということがあるが、貴方にように初めはプリプリしていた者も、私との議論によって遂に了解されたか。「蘭室の友に交りて、麻畝(まほ)の性となる」と言って、蘭の室に入って善き友と交われば、その身は香り高くなり、麻のように真っ直ぐな心となるようである。考えてみれば薬師経の七難の内、五つの難は既に起こり、残る二難は他国による侵略と国内における反乱である。大集経の中の三つの災いの内、飢餓で穀物が高騰し、疫病が流行るという二つは既に現れて、残る一つは戦争によって国が破られるということである。既に二つが来たのだから、この一つが来ないとは言えまい。金光明経に説かれた様々な災難は一通り起こったが、他方の怨賊が来て国内を掠奪するということが一つ残っている。仁王経の七難においても、六難は既に盛んに現れているが、四方の賊来たりて国を侵すという難が残っている。その仁王経には「国土乱れん時は先ず鬼神乱る」とあるが、既に今の日本は全くそのような有様で、実に狼狽えた状態にある。この時期に今申した国家の一大事が起こったならばどうするか。国家が亡びるとか破れるとかいう問題は、如何なる政治家と雖も一大事だということを知らなければならぬ。国民にも自分の商売さえ上手く行けば良い、自分が達者でさえあれば良いと思う者が多いようだが、国民は国家の保護の下に幸福を得ているのである。故に国民の生命と財産を守る国家が破れたる時には、その国民は決して幸福を得ることは出来ない。ならば四方より賊来たってこの国を侵し、国内に反乱が起こるということになっては、どんな無神経な者であっても驚かずにいられないはずである。国を失い、家を滅ぼしてしまえば、何れの所にか世を遁れることが出来ようか。

「汝すべからく一身の安謂を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祷るべきものか」

自分一人の安泰を思うにしても、先ず国家の安泰を考えなければならぬ。然るに今や正法は地に墜ち、国はまさに他国より侵されようとしている。この場合に本心に帰らずして、何時までも間違った信仰や間違った政治を取っているならば、必ずやその災いは目前に現れるのであると、日蓮聖人は客に見立てた鎌倉幕府の執権・北条時頼に諫言しています。そして、この客が分かったと言うにも拘わらず、貴殿が分からないようであれば、「早く有為の郷を辞して、必ず無間の獄(ひとや)に堕ちなん」、本当に早死にして無間地獄に墜ちてしまうと言われたのです。果たせるかな、時頼はこれが分からなかったために本当に早死にしてしまいました。後に時宗の時になって、日蓮聖人は讒言のために喚問されて、「貴様は、時頼殿は地獄に墜ちたということを陰で言っているそうだが、どうだ」と責められた時、「いや陰では申してはおらぬ、時頼殿存命の時分に目の当たり申したことである」と答えていますが、それは安国論のこの文を指してのことです。

「汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一善に帰せよ。しかればすなわち三界は皆仏国なり」

主人は多くの経文を引証して、謗法の罪が如何に重いものであるかを説かれ、一刻も早く信仰の寸心を改めなければならないことを忠告します。仏法を信じると言っても、千切れ千切れの小さな信仰は捨てて、薬師様も有り難い、お地蔵様も有り難いというような信心は改めなければなりません。道徳も宗教も、政治も生活も、すべてが一つの大精神の下に一致している、このような仏教を信じて、これを基にして、国民の精神を作り、文明の基礎を作り、建国の理想を実現して行かなければなりません。日蓮聖人は、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と法華経の経文を引いて、「宮仕えを法華経と思し召せ」と言われたように、お題目を唱えるばかりが法華経の信仰ではありません。法華経の信仰を基として、一切のことが調和を保って進んでいくならば、この世界というものは元々仏様が守っておられる所の国である、決して斯くの如き災難が競い起こるべきものではない、必ず国は栄えて行き、そこに居る人は幸福を保ち得るものであると説かれたのです。


 

観世音菩薩普門品 第二十五 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 1月14日(日)09時36分58秒
編集済
  (現代語)
無尽意菩薩は、「世尊、今、私は観世音菩薩を供養致します」と仏に申し上げると、首に掛けた百・千両の金に値する様々な宝珠の飾りを外して観世音菩薩に与え、「貴殿よ、法施としてこの珍宝の首飾りを受けたまえ」と言いました。しかしながら、観世音菩薩がこれを受け取ろうとしなかったため、無尽意菩薩は重ねて「貴殿よ、私達を憐れむのであれば、この飾りを受けたまえ」と申し上げたのです。その時、仏は観世音菩薩に「この無尽意菩薩ならびに比丘・比丘尼・信士・信女の四衆、天神・竜神・夜叉・香音神・阿修羅・金翅鳥・舞踊神・蛇神の八部衆、これらの人、人に非ざる者達を憐れむならば、その飾りを受けるがよい」と告げます。即時に観世音菩薩は四衆の人々及び天竜の八部衆、人ならびに人以外の者達を憐れんで首飾りを受けると、二つに分けて一つは釈迦牟尼仏に、もう一つは多宝仏の塔に捧げたのです。

(要文)
無尽意菩薩、仏に白して言さく、世尊、我今当に観世音菩薩を供養すべし。即ち頚の衆宝珠の瓔珞の価直百千両金なるを解いて以て之を与え、是の言を作さく、仁者、この法施の珍宝の瓔珞を受けたまえ。時に観世音菩薩肯て之を受けず。無尽意、また観世音菩薩に白して言さく、仁者、我等を愍れむが故に此の瓔珞を受けたまえ。その時に仏、観世音菩薩に告げたまわく、当に此の無尽意菩薩および四衆・天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽、人・非人等を愍れむが故に此の瓔珞を受くべし。即時に観世音菩薩、諸の四衆および天・竜、人・非人等を愍れんで其の瓔珞を受け、分って二分と作して一分は釈迦牟尼仏に奉り、一分は多宝仏塔に奉る。

(要義)
無尽意菩薩は、観音菩薩が様々に衆生を教化するために尽力されていることに対して敬意を表したいと仏に申し上げて、そして色々な宝で飾られた瓔珞を捧げようとしました。これは何か願いがあるからとか、財施として捧げるのではなく、法施として観音菩薩の説法教化に賛同し、その徳に対して感謝するために捧げるのです。しかしながら、観音菩薩は敢えてこれを受けない。そこで無尽意菩薩は、我々の志を憐れんでこれを受けて欲しいと言いますが、観音は容易に返事をせずに躊躇します。何故ならば、観音菩薩が衆生を説法教化するのは、畢竟釈尊の大化導の下に働いているのであって、自分が中心となって他からの感謝を受けるのは心ならぬことであるからです。その精神を御承知になった釈尊は、彼等の気持ちを憐れんでこれを受けるがよいと告げられる訳です。釈尊のお言葉であれば、即時に瓔珞を受けなければなりません。そこで、観音菩薩は恐縮してこの瓔珞を直ぐに受け取り、それを今度は二つに分けて、一分を釈迦牟尼仏に、そして一分は多宝塔に奉ったのです。観音菩薩自身が瓔珞を受け取らなかったのは、観音菩薩の功徳も本に帰せば釈尊の功徳であるからです。自分が功を為したのではない、それは大いなる義に尽くすように導かれたことであるという、この法華経に現れた精神は、仏教に限らず大事なことです。もし、この一節が無ければ、観音菩薩が法華経の中に取り入れられることは出来ないのです。したがって、法華経においては観音の事を説けば観音が有り難くなり、阿弥陀の事を説けば阿弥陀が有り難くなるような、分裂した信仰観念は採りません。法華経の教義に何の関係もない観音信仰などという世俗の迷信を鼓吹するならば、そのような堕落したものは切り捨ててしまわなければなりません。

 

転載: FB 創価学会・日蓮正宗を批判する

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 1月12日(金)07時17分44秒
編集済
  名誉会長「私は絶対に第9条だけは変えてはいけないと思います」
岩見「憲法を見直すこと自体はいいと」
名誉会長「その通りです。論議は結構だ。9条は変えてはいけない」
(2001年9月25日 毎日新聞 池田大作名誉会長インタビュー)

創価学会の宣伝媒体となっているのは、毎日新聞や朝日新聞に限らない。

創価学会・公明党のスタンスは、反戦平和という偽善を売り物にしてノーベル平和賞を貰うことに固執した池田大作の発言から一歩も下がること出来ないであろう。何故ならば、それは池田大作が創った公明党の解党を意味するからである。

安倍晋三首相が憲法9条に自衛隊を明記する改定提案をするなか、護憲派の「九条の会」呼びかけ人でノンフィクション作家澤地久枝さん(86)の講演会が24日、加賀市吸坂(すいさか)町の硲(はざま)伊之助美術館であった。澤地さんは首相提案に強く反対し、「災害救助部隊に自衛隊を作りかえない限り、戦争の愚を繰り返す。平和憲法は何としても守るべきだ」と訴えた。その後、「かつてないひどい政権。お先真っ暗」と語気を強めて批判したのが安倍政権だ。(2017年6月25日 朝日新聞)

「アベ政治を許さない」のプラカードを作った九条の会・澤地久枝氏とそれを煽って広めた国賊・朝日新聞。軍隊は悪である、自衛隊を無くせば戦争は起こらないという、幼稚な考えに基づくイデオロギーを何処まで広げれば気が済むのだろうか。どのような時に、その民族の国家が失われることになるのか、歴史の事実を見ようとはしないのだろうか。戦争を嫌い、平和を願うのは人間誰しもである。一方は、そのために国を守るために命を投げ出し、一方は国を失っても構わないと偽善を叫ぶ。敗戦により、戦争を起こした責任はすべて日本にあった、日本の軍隊は悪事の限りを尽くしたという戦後教育、占領軍によって日本には自衛のためであっても一切の戦力を持たせないことが盛り込まれた日本国憲法。日本が責任のある国家であるためには、今こそ一人一人が責任のある国民とならなければならない。

 

立正安国論 その11

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 1月10日(水)16時06分42秒
編集済
  7 災妖をはらい除く法を明かす

客は大分態度を和らげて述べます。法然上人が経典を軽んじたり、僧を誹ったりしているかどうかは分かりませんが、確かに大乗経六百三十七部、二千八百八十三巻、並に一切の仏、一切の菩薩、一切の善神を捨・閉・閣・抛の四字を以て斥けたことは、選択集の文に明らかです。しかしながら、これをもって貴方が法然上人を誹謗することが正しいことかどうかは分かりかねます。迷って言っているのか、覚って言っているのか分かりませんが、災難が起こる原因は選択集にあるとする貴方の考えだけは十分に理解しました。天下泰平・国土安穏は、すべての人が願うことであり、国は仏法によって栄え、そして仏法は人に貴ばれます。しかしながら、国が亡びてしまい、人が滅びてしまったならば、仏を崇むことも仏法を信じることも成り立ちませぬ。されば先ず国家を祈って、それから仏法について考えるべきでないでしょうか。何か災難を除く術があれば聞きたいと思います。この客の問いは、国家の存亡と仏法とは切っても切り離せない関係にあるという日蓮聖人の考えを鮮明にするために、ここに敢えて設けられたものです。

「謗法の人を禁めて、正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん」

その時に主人は涅槃経を引いて、人に施すということは非常に結構なことだが、ただ一人だけにはいかぬ、殺生・偸盗・邪淫・妄語の四重禁を犯したり、父母や阿羅漢を殺し、仏を傷つけ、あるいは僧団の和合を破る五逆罪を犯したりしても、怖れることもなく懺悔する心もなく、正法を誹ったり見下したりする者にだけは施してはいかぬ、即ち法然のような者を助けることが、日本の罪の根本であると日蓮聖人は論じられたのです。立正安国論では親鸞上人のことには触れていませんが、法然上人から発展した浄土真宗では絶対他力と言って、弥陀の本願によって、どんなに馬鹿でも悪人でも悉く救われことになっているのだから、何も努力することはない、ただそれを信じ切るだけで極楽に往生できることを説きます。仏教は、因果の道理を説き、悪を止め、善を促し、心の迷いを除くものであるのに、もうこれは信じれば救われるというような催眠術か何かにかかっているようなもので、丁度今の改憲反対派が、戦争の放棄・戦力の不保持を定めた9条を掲げている限り、日本が戦争に巻き込まれることはない、他国から攻められることもないと頑なに主張しているのに似ています。目的を達成するためには、どのようにすれば上手く行くか、どのようにしたら不味いことになるかを考えなければなりませんが、やっても無駄だとか、失敗したって構わないというのでは、いつまでたっても混迷から抜け出すことは出来ません。そういうものは、本当の宗教とは言いません。

それから色々な経を引かれて、仏教は釈迦如来入滅の前において国王に付嘱された、勿論坊さんには仏教のことを託しているけれども、政治家も心ある者は仏法のことを考えなければならない、宗教家に悪い奴があったならば政治家が退治せねばならぬと、政治の力を認めて仏法を付嘱せられたことが説かれます。そして涅槃経を引かれて、覚徳比丘という良い坊さんが悪い坊主に刀杖をもって迫害された時、有徳王が命懸けで戦って覚徳比丘を助けたこと、そして生まれ変わって無量の果報を得たこと、その時の有徳王とは釈迦牟尼仏自らの身であったことが述べられます。ですから、今日のような有様になっているのであれば、政治家は目を覚まさなければなりません。政治家となった以上は、宗教の正邪善悪を知らなければなりません。それを信教の自由だから、何を信仰しようと構わない、他人の信仰について何かを述べようとは思わない、選挙の時に票だけ回して頂ければなどと擦り寄って、創価学会のような似非宗教団体に利用されているようでは駄目なのです。政治家もすべてが善いとは言えません。政治家の中にも腐った者が居ますから、国民も善き政治家と悪しき政治家を見分けなければ、国民が政治に参加するという意味での立憲政治というものは発達しません。信教の自由が保証され、政教分離の原則があるのですから、法律をもって圧迫的に宗教を強いるようなことは出来ませんが、道徳教育の推進に取り組むと言うのならば、政治家も国民も宗教の善し悪しぐらいは判断すべきであって、「宗教は要らぬものだ」とか「いや、要るものだ」とか、そんな粗雑なことを何時までも論じているような薄ぼけた頭では駄目なのです。この立正安国論は、表向きは法然上人の念仏を攻撃する如くですが、目標は鎌倉幕府の執権・北条時頼にありますから、そこでこのような政治論が入って来るわけです。


 

観世音菩薩普門品 第二十五 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 1月 6日(土)09時12分23秒
  (現代語)
この故に、汝等は心を込めて観世音菩薩を供養せよ。この観世音菩薩は、恐るべき災難が切迫せる者に、畏れなき心を与えるのである。それ故に、この娑婆世界に於いて、皆は彼の菩薩を「施無畏者」と呼ぶのである。

(要文)
是の故に汝等、当に一心に観世音菩薩を供養すべし。是の観世音菩薩摩訶薩は、怖畏急難の中に於て能く無畏を施す。是の故に此の娑婆世界に、皆之を号して施無畏者とす。

(要義)
この品は「普門示現」と言って、観世音菩薩が三十三身に身を変現して衆生を済度する、衆生を摂化する所の方法が普く行き渡っているという事が説かれています。その名を称えれば現在の種々の厄難から観世音菩薩が神通力を以て衆生を救うということが説かれているが為に、法華経に関する俗信として観世音菩薩、略して観音菩薩が中々多くの者に信仰されました。しかしながら、この普門品の根本精神は三十三身に身を変現して衆生を教化することにある訳ですから、やはり仏教の根本の救いを意味しています。一見すれば、観音菩薩が無畏を施すという事は、火事や水難、或いは盗賊に遭った時に、そこから救うことのように見えますが、根本の無畏とは、所謂宗教的な安心立命を指すのであって、どんな事にも心を乱されることのない、畏れることの無き境地であり、それは確実なる信仰に活きて始めて得られるものです。観音菩薩を施無畏者と称揚するのも、法を説いて衆生を精神的な安心立命に達せしめているからなのです。

観音の力を念じれば如何なる危難も直ちに除かれると説く偈文は、羅什訳の法華経には無く、したがって天台大師の「法華文句」にも解釈はされていません。この品の最初にも、苦悩する衆生の音声を観じて、そして解脱させるが故に観世音菩薩と名付けるとあるように、説法を以て衆生を教化することが仏教の正則です。また、この品はただ観世音菩薩の活動の盛んなる事を説いているものではなく、観音すら三十三身に変現す、如何に況や本仏釈尊に於いてをやと、菩薩の働きを以て本仏の活動の偉大なる事を顕していると見なければなりません。妙音菩薩は東の方から来て釈尊を讃歎し、観世音菩薩は西の方より来て釈尊を讃歎する、十方の仏が使いを遣わして釈尊の威徳を讃歎するということが趣旨であって、ただ観世音菩薩の効能を説くのが目的ではないのです。

 

申し訳ありません。

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 1月 5日(金)02時27分59秒
編集済
  『明解法華経要義』、Amazon最後の1点というのは、Amazonで売り切れになった、という意味でした。
現在、「1~2ヶ月以内の発送」と表示されています。
Amazonでも大型書店でも、もっと途切れず配本してほしいものです。

うまくリンクが貼れているでしょうか。
立ち読み機能もついていますね。
それにしても、本多日生上人のプロフィールを読むと、
shamonさんとあまりに似ていて、感慨深くなります。

http://kaichosha-f.co.jp/books/religion/2128.html

 
    (shamon) 有り難う御座います。本多猊下ほどの才覚がないのが残念ですが(笑)。リンクは張れているようですよ。取り次ぎ会社は大手書店と頻繁に本の出し入れをしているとのことですが、残念なことに品切れにも拘わらず店頭には補充されないようですね。

まあ、部数に限りがありますので、本当に必要な人に届いてくれれば有り難いことと思います。書籍の方は、400ページすべての漢字一つ一つにルビを自分で打つという大変な作業でしたから、お陰ですっかり目が悪くなりました。
 

立正安国論 その10

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 1月 3日(水)09時18分50秒
編集済
  5 選択集の非を呵責する

客人は一層顔色を変えて、そうは仰っても浄土の三部経というものは、お釈迦様が説いたものではありませぬか、それを軽んじて先師を誹り、更に近年の災いは法然上人にあると罵るのは、一体どういうことかと怒って帰らんとします。その時に主人が止めて微笑んで言うには、蓼(たで)食う虫も好き好きといい、臭きを溷厠(こんし)に忘るといって、蓼のような辛いものを喜んで食べる虫もあれば、便所の臭さに慣れてしまえば臭さも分からぬということがある。善い言葉を聞いても悪いように聞こえ、間違った事を言う者が正しいように見えるのは如何にも哀れなことである。そのように迷いを深からしめた根本の罪は軽からぬことであろう。心静かに考えて見よ。釈尊一代の説法の中には権教、実教というものがあって、まずは人々を導くために方便として仮の教えを説き、そして最後に真実の教えが説かれる。ところが法然などは、権経である浄土の三部経を実教とし、法華経を権経と見るのである。阿弥陀経などは方便の教えであって、宇宙西方の果てに極楽浄土が実際にあるわけでもなく、阿弥陀如来が実在するわけでもない。要するに彼らは仏教の淵底を探らざる者である、仏教をやったと言っても上っ面から見ているのである。さもなければ法華経に対して、捨閉閣抛などということは恐ろしくて言えるものではない。これは法然一人の勝手な解釈であって、仏様の教えではない。仏陀出現の真目的は法華経にありということを、十分に注意せられているにも拘わらず、その迷いが醒めぬというのは不届きなことであろう。しかしながら、残念なことに人は皆その妄語を信じて選択集を貴び、浄土の三部経だけを崇めて、極楽世界の阿弥陀仏だけを拝むようになったのである。

「彼の院の御事は既に眼前にあり。然れば則ち大唐に例を残し、吾が朝に証を顕わす」

そして主人は二つの譬えを引かれます。天台大師の摩訶止観、並びにその注釈書である「弘決」には、国難が起こる時には、世の中に礼儀を構わない者が出て、それを真似る若者が増えるなどの前兆が必ずあると言われている。また慈覚大師の「入唐求法巡礼行記」には、弥陀念仏の教えを弘めると戦乱が続き、仏教を排斥した皇帝は乱を治めることが出来ずに命を落としたとある。人心が腐敗し、下らぬ議論によって思想が乱れ、詰まらぬ輩が勢力を得るようになると、遂に国家が滅びるような事が起こってくるのである。我が国においても論より証拠、法然は後鳥羽上皇の時代、建仁年中の人である。そして後鳥羽上皇は痛ましいことに隠岐の島へ流し者にされたのである。念仏が日本全国に流行っている最中、京都の朝廷は鎌倉の兵隊に打ち破られたのである。疑ってはならない、怪しんではならない。凶を捨てて善に帰し、災いの源を塞がなければならないと、釈尊を捨てた法然上人の念仏が亡国の教えであることを日蓮聖人は推断されたのです。

6 詰責の上奏文を挙げる

「予少量たりといえども、忝くも大乗を学す。蒼蠅(そうよう)、驥尾(きび)に附して万里を渡り、碧羅(へきら)、松頭(しょうとう)に懸りて千尋を延ぶ。弟子一仏の子と生まれ、諸経の王に事(つか)う」

客は少し和らいで、およその趣旨は理解しましたが、仏門におられる立派な方でさえ未だ進言していないというのに、貴方のような身分の卑しい者が上奏するなどというのは到底理解できないと難じます。そこで主人は答えます。蝿でも千里の馬の尻尾に付いていれば一日に一万里も飛ぶ、蔦も松の木に頼れば高き所に登る。学問が無くとも、お釈迦様の本当の子として、一切経の王である法華経に仕えているのである。それ故に身は卑しくとも遠きに至り、高きに上ることも出来るのである。したがって、この仏教の衰微を見て、悲しまずにはおられない、黙っている訳にはいかないのである。しかも日蓮のみならず、法然がいけないということは、元仁年間に延暦寺と興福寺より奏聞があり、勅宣・御教書を申し下して選択集の板木を取り上げ、比叡山の大講堂の前において三世の諸仏の御恩を報じるために焼き払い、そして法然の墓は感神院の犬神人に仰せ付けて壊させ、その骨は加茂川に流したのである。また法然の弟子である隆観・聖光・成覚・薩生という者は、その罪を問うて遠国の島に流されたが、その後未だに御勘気を許されたということは聞いていない。当時は弟子として知られるほどではなかったのか、御遺文の中には名前が挙がっていませんが、親鸞上人が越後に流されたのもその罪を問われたからです。このように、お釈迦様を拝んではならないとか、伊勢の大廟を拝んではならないとか、極楽往生のためには、ただ愚鈍の身になりきって念仏をひたすら唱えよと主張した法然上人を批判することは、日蓮聖人が初めてではないことが述べられます。




 

あけましておめでとうございます

 投稿者:もり  投稿日:2018年 1月 3日(水)06時44分21秒
  本年もよろしくお願いします。  
    (shamon) 今年も、与えられた使命を求めて参りましょう。  

明けましておめでとうございます

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 1月 3日(水)00時17分34秒
  2016年5月31日、6月1日に、書き込みをさせていただいた者です。
『明解法華経要義』、購入させていただきました(Amazon最後の1点でした)。
本日、落掌しております。
本当の意味での、顕本法華宗の信徒にならせていただきたい、と切に思います。
これからも、どうかよろしくご指導ください。

南無妙法蓮華経
 
    (shamon) 末永く宜しくお願い致します。

お知らせ:「明解法華経要義」は、出版社に在庫がありますので取り寄せ可能です。
 

2018年 明けましておめでとうございます

 投稿者:giniro_syounen  投稿日:2018年 1月 1日(月)11時57分8秒
  shamon様 皆様、旧年中はご指導いただきありがとうございました。

本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。南無釈迦牟尼仏 南無妙法蓮華経  合掌
 
    (shamon) 皆様のご多幸をお祈りしています!  

明解「法華経要義」 妙音菩薩品 第二十四 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2017年12月24日(日)15時25分21秒
編集済
  (現代語)
その時、華徳菩薩は仏に尋ねました。「世尊よ、この妙音菩薩は如何なる善根を植え、どのような功徳を積んで、このような神通の力を得たのでありましょうか」と。

妙音菩薩は、救うべき者に応じて、様々にその姿を変えて現れるのである。また、入滅によって救済することが出来る者には、入滅さえも現じて見せるのである。華徳よ、妙音菩薩は斯くの如くして、その大いなる神通の力と智慧を完成させているのである。

(要文)
その時に華徳菩薩、仏に白して言さく、世尊よ、是の妙音菩薩は如何なる善根を種え、如何なる功徳を修してか是の神力有る。

是の如く種種に度すべき所の者に随って為に形を現ず。乃至滅度を以て得度すべき者には滅度を示現す。華徳よ、妙音菩薩摩訶薩は大神通・智慧の力を成就せること、其の事是の如し。

(要義)
妙音菩薩は、八万四千の宝玉の蓮華を現出させ、八万四千の菩薩を引き連れて、釈迦牟尼仏を礼拝供養し法華経を聴くために、殊に美しき音楽を伴って娑婆世界に現れます。上記は、その妙音菩薩の有している神通力について華徳菩薩が問い、それに釈尊が答えられた所です。音楽に非常に立派な妙音菩薩が、その神通の力を得たのは、それだけの善根を植え功徳を修しているからである。そして、妙音菩薩は法華経に基づいた色身三昧を得て、様々に相を現して衆生を教化するばかりではない、滅度を以て済度せられる場合には滅度も現じる、或いは生じ、或いは滅して、種々に身を変現して衆生を教化し済度するという事が説かれます。

この妙音菩薩品では東方仏国土の妙音菩薩、次の観世音菩薩普門品では西方の観世音菩薩のことが説かれていますが、これは十方の菩薩が釈尊に対して供養礼拝すべきところを、東西の二方を挙げて他を略したものです。これは法華経がこの世界を中心としたものであることを教えたもの、浄土門のように娑婆世界の者が西方の阿弥陀仏に憧れるというような事とは反対のことを説いたものです。娑婆世界が中心の教えであるからこそ、十方の菩薩が皆こちらに参詣をする、妙音菩薩も観音菩薩も娑婆世界に来て釈尊に供養礼拝をするのです。神力品において十方世界の衆生が「南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏」と唱えた如く、この妙音菩薩も次の観音菩薩も「南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経」と唱えてやって来ます。それを切れ切れにして他世界の仏や菩薩を信仰するというのは、開顕と統一を知らない所の思想であって、法華経に通じていなかった時代の考えです。

 

立正安国論 その9

 投稿者:shamon  投稿日:2017年12月23日(土)09時02分49秒
編集済
  4 法然の破法を論ず

「如かず、彼の万祈を修せんより、この一凶を禁ぜんには」

ところが客は、なお怒って言います。あなたは随分と酷いことを言う。悪僧を王が信じるわけがありません、立派な人たちが仰ぐわけがありません。龍の如く、象の如き偉い坊さんが沢山居るにも拘わらず、そのような悪口を仰るのはどういう訳ですか。一体誰が悪僧だと言われるのでしょうか。そこで主人は一つの例として、浄土宗を開いた法然上人を挙げます。親鸞上人の師匠様ですから、法然上人と親鸞聖人は大体同一であって、浄土宗も浄土真宗もこの点においては同じです。したがって、法然上人が悪ければ親鸞聖人も悪いことになります。世間の人は、浄土門の批判をするのは余計なことだと思うかも知れませんが、国のためにも、道のためにも、一切衆生のためにも、この邪説は粉砕しなければならないと日蓮聖人は考えられたのです。そこで主人が言われるには、聴けよ、後鳥羽天皇の時に法然という坊さんが出て「選択集」という書物を二巻作った。選択集には、どういう事が書かれているかと言えば、まず道綽禅師の説を引いて、聖道と浄土の門を立てて、聖道門というのは善い事をして行こうと考えているが、善いも悪いも無い、どうせこの世の中では碌な事は出来ないのだから、人生を向上せしめようなどという希望は捨てて、ただ南無阿弥陀仏と言って浄土門に飛び込めばよいと言う。それから曇鸞法師による「往生論註」という書物の難行・易行ということを引いて、少しでも善いことをせねばならぬといえば難行だと言う。「何もしなくても救ってやる」と言われているのだから、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば良いと言うのだ。何も善い事をすることはない、悪い事をしても構わぬという。そんな詰まらないことばかりに力を入れて、ゴチャゴチャと言っている。人間というのは、そういう事ではいけない。国民には道徳観念というものがなければならない。やれてもやれなくとも、やろうという所がなければならない。善い事が出来ようと出来まいとも、必ず人間は善い事をしなければならないという決心を持たなければならないのである。出来るか出来ないかは二の次です。それを最初から出来ぬものだと言って、「善いことはしなくても宜しい。ただ阿弥陀仏様に救って貰って極楽浄土へ往くことだけを考えれば良い」などというのは、明らかに宗教として間違っています。日本の有識階級が仏教を捨てたのは、そのような退嬰的な思想が発展的なる日本の国民性と矛盾している、現実から逃げているものだと感じたからです。日蓮聖人の言うとおり、仏教の積極的なる意義を宣揚すれば斯かる非難はなかったはずです。日本人はよく聞き分けて、あれは法然上人の誤りだった、仏教それ自身は活き活きとして積極的なものであり、愛国的なものであり、立派なものであるということを了解して、そのような邪説は捨てるべきであったのです。そうであるのに、仏教を捨てる時分には一概に仏教は辛気臭い、陰気臭いと言い、一方では知った顔をして、そんなことを仏教者同士で批判するのは良くないと言うのでは全く話になりません。そういう事を聞き分けぬくらいなら、思想も学問も議論も何も要らなくなります。

それから、もう一つ「選択集」に引用されているのが、善導和尚が立てた五通りの正行・雑行です。第一に読誦雑行といって、法華経であろうが、華厳経であろうが、涅槃経であろうが、浄土の三部経より他の経を読むことは駄目である、そういう御経を読む者は浄土に往生できないと言うのです。そして第三の礼拝雑行では、阿弥陀様以外の仏や神様は一切拝んではいけない、お釈迦様でも、伊勢の大廟でも拝んだならば、それは雑行であるという訳です。それから観察雑行では、阿弥陀様や極楽浄土以外を有り難いと考えてはならない、称名雑行では唱え言葉は南無阿弥陀仏に限る、南無釈迦牟尼仏などと言ってはならない、讃歎供養雑行では阿弥陀仏以外は仏であれ菩薩であれ、諸天であれ一切讃歎供養してはならないと説いているのです。法然上人の選択集は、この道綽・曇鸞・善導の誤れる釈を引いて、聖道・浄土の二門を立て、それから雑行・易行、次には正行・雑行を立てて、この三つの誤った事を根本にして、法華真言総じて釈尊一代の大乗六百三十七部、二千八百八十三巻、一切の仏菩薩等、および諸天善神をば、悉く捨てよ、閉じよ、閣(さしお)け、あるいは抛(なげう)てよと、「捨閉閣抛の四字」以て一切の人を迷わしている、そこを日蓮聖人は責めているのです。阿弥陀如来の他はお釈迦様であろうが皆捨てよ、一切経であろうが法華経であろうが、これを捨てよ、閉じよ、閣けよ、抛てよという四字を以て、印度・中国・日本三国一切の高僧の言われた事を破り、十方の仏を投げ出しているのです。しかしながら、それは阿弥陀如来の十八願にある但し書き「唯、五逆と誹謗正法を除く」、五逆罪といって父母を殺すなどの地獄に墜ちる大罪を犯す者や、正法を誹謗する者は助けることは出来ないという誓文に背いているのではないか。また、一代五時の肝心である法華経第二の譬喩品には、「此の経を毀謗すれば、其の人命終わって阿鼻獄に入る」と説かれている。それ故に、これを憂いて日蓮聖人は念仏無間を叫ばれたわけです。ところが、つばを吐きかけたり、石をぶつけたり、陰から讒言をしたりで、矢面に立って正しき議論をもって向かった者は一人も無く、悪辣なる手段によって日蓮聖人は襲われ、結局は権力に捕らえられてしまいます。そして日蓮聖人に続いた先師もまた、血を飲み涙を飲んできたのです。しかしながら、今や信教自由の時に至ったのですから、信じることのみならず批判することも自由です。これを権力や暴力によって阻止することは出来ません。この仏法を正しき意味に戻して、どうしてもお釈迦様の御本意を世に盛んにするようにしなければなりません。釈迦如来の尊い教えがあるにも拘わらず、娑婆世界の教主を捨てて西方極楽世界の阿弥陀如来を盛んにしたことは最も愚かな間違いである、これを改めなければ日本の思想の根本は改まらないと日蓮聖人は叫ばれました。聖徳太子が法華経を第一とし、伝教大師が法華経を中心に仏教を統一したにも拘わらず、法然上人の議論によって、阿弥陀如来のみが大多数の人に尊ばれるようになったため、今なお日本の仏教は正義に復帰していません。そして「心の教育」の必要性が叫ばれるようになった昨今においても、仏教が分裂していたがために、公立学校では宗教の教育は禁止されているのです。更に今、仏教を混乱させているのは何も法然上人の念仏だけではありません。こともあろうに、日蓮聖人を騙って「釈迦の仏法を用いれば生活に破綻をきたす」などと宣ってきた創価学会が、日本最大の宗教団体となって政権に与し、至る所で教育や文化活動に携わっているのです。立正安国論を講じれば、日蓮聖人の折伏の精神を論じなければならない。今日は新たに、釈迦如来の教えの正義を発揮するために、国民的大運動を起こさなければなら時が来ているのです。


 

(無題)

 投稿者:もり  投稿日:2017年12月18日(月)22時25分1秒
編集済
  ありがとうございます。
今までお寺通っていて、鬼子母神様や日蓮聖人像に唱題していて疑問を感じていましたが、shamonさまのお言葉に納得できました。
前より日蓮聖人の本意は曼荼羅ご本尊にあると思っていましたが、日興上人の門流の宗派にも違和感を感じていろいろ思案していてこのホームページに来ました。
顕本法華宗義弘通所に加入させて頂きたいと存じます。
 
    (shamon) ご加入、有り難う御座います。今後も末永くお付き合い下さればと思います。合掌

追伸:Paypal 登録のメールアドレスが携帯であるためか、 permanent fatal errors となっておりメールが送信が出来ません。再度Paypalの登録をご確認の上、直接私の方へもメール(ホームページに掲載)を頂ければと思います。
 

明解「法華経要義」  妙音菩薩品 第二十四 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2017年12月18日(月)13時27分42秒
編集済
  (現代語)
その時、浄華宿王智仏は妙音菩薩に告げました。汝は、彼の国を軽んじて品性に劣るなどとは思ってはならない。善男子よ、確かに彼の娑婆世界の国土は高下があって平らかではなく、土石・山々あって、穢れに溢れた所である。また、仏の身体は卑小であり、菩薩の身も同様に取るに足らぬ小ささである。それに比べて汝の身は四万二千ヨージャナあり、我が身は六百八十万ヨージャナである。汝は優れた端正な身を持ち、百千万の福徳によって、その光明も素晴らしきものである。しかしながら、汝が赴いた時に、それが故に彼の国を軽んじて、仏や菩薩および国土を劣っているなどと思ってはならない。(ヨージャナ:古代インドの距離で、10kmとも15kmとも諸説あり)

(要文)
その時に浄華宿王智仏、妙音菩薩に告げたまわく、汝彼の国を軽しめて下劣の想いを生ずることなかれ。善男子よ、彼の娑婆世界は高下不平にして、土石・諸山・穢悪充満せり。仏身卑小にして、諸の菩薩衆も其の形また小なり。而るに汝が身は四万二千由旬、我が身は六百八十万由旬なり。汝が身は第一端正にして百千万の福あって光明殊妙なり。是の故に汝往いて彼の国を軽しめて、若しは仏・菩薩および国土に下劣の想いを生ずること莫れ。

(要義)
妙音菩薩は、遙か東方の世界より釈迦牟尼仏と法華経を供養するために、釈尊の化導を助けるために娑婆世界に来る菩薩ですが、娑婆世界に来るに当たって師である浄華宿王智仏より訓戒を受けます。これは丁度今の浄土宗などが、釈尊は娑婆世界の仏だから駄目だ、阿弥陀は報身の如来だとか、真言宗が、大日は釈尊よりも偉いと言うような事を誡めるのと同じです。妙音菩薩でさえも叱られるのですから、弘法でも法然でも仏の前に出れば同じように叱られるのは間違いありません。娑婆世界は今居る世界のように綺麗な所ではない、地には高低があり瓦礫の散乱しているような汚い所である。釈迦如来というのも小さな仏であって、菩薩もなお小さい者がお供をしているような訳である。それに対して、汝の身は大きく非常に美しく立派な容姿であるけれども、それが為に娑婆世界に行って、彼の国を軽しめ、粗末な仏だとか、粗末な菩薩だとか、軽蔑の感じを持ってはならぬ。何故ならば釈迦如来は、その本身に於いては絶対無上の尊き仏であらせるけれども、娑婆世界の衆生を教化するが為に身をそれに応同して、敢えてそのような小さな劣った姿を示されているからである。そういう穢れた世界にまで出て衆生を教化されている、その釈尊の慈悲に感激して尊敬を払うべきである。また娑婆世界の衆生もその穢れた所に於いて発心しているのであるから、浄土に於いて呑気に暮らしている者よりも尊いのである。娑婆世界の国が穢れているのを見て軽しめてはならぬ。娑婆世界に欠陥があるが故に、衆生が発心得道すると思えば、これが却って幸いな訳である。それは貧しき家庭より出でて発奮興起して偉大なる人物と成るが如くであり、富貴顕栄の家なれば却って堕落の者を生じるが如きものである。そのような意義から、「極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず」と日蓮聖人も述べられている訳です。


 

立正安国論 その8

 投稿者:shamon  投稿日:2017年12月17日(日)20時55分22秒
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  3 破法・破国の因縁

坊さんでありながら仏法を破るようなことをするのは、一方では国を破ることになります。お釈迦様の考え、日蓮聖人のお考えからすれば、正法が盛んになれば国は栄えて人民も幸福になる、正法が衰えれば国も乱れ民も苦しむことになります。それは女房が善ければ亭主も良くなる、亭主が善ければ女房も良くなる、女房がふて腐れるならば亭主も自棄になるというような訳で、破仏法・破国の因縁は一つのものだということです。日蓮聖人の時代には、別に坊さんの他に思想家らしい者も学者らしい者も居なかったわけですから、今日に当て嵌めれば、学校の先生でも、政治家でも、思想家でも、およそ国民の思想を論じる者は、皆これ当代における一種の坊主です。そこで坊主が悪いということは、今の言葉にすれば、宗教家に限らず、教育家が悪い、政治家が悪い、思想家が悪いということになります。

「法師は諂曲にして人倫に迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ずることなし」

「客色をなして曰く」で、客人は顔色を変えて怒ります。見渡す限り叡山でも、奈良でも、円城寺でも、東寺でも、日本中には津々浦々に至るまでお寺があり、沢山の坊さんも信徒も居るではありませんか。仏教はなかなか盛んであるのに、一体どこが廃れたと言うのでしょうか。ところが主人が諭して言うには、なるほど寺は軒を並べ、経蔵には経典が立派に備えられて、坊さんも沢山居る。今でも京都あたりに行こうものなら、あっちも坊主、こっちも坊主で、一見仏法は盛んなように見えますが、当時の坊さんもただ古い経を読み、鐘をカンカン叩いているのみで、人倫に迷惑していたと言うのです。人倫とは、君臣・父子などの間の道徳的秩序であって、人として守るべき秩序を意味します。ところが坊さんは、朝廷が衰微して鎌倉が盛んになれば、飯の食い上げになったら困ると、天子様の大切なことを忘れて、今度は鎌倉結構と「武運長久」の御祈祷をやる有様でした。そこで「法師は諂曲にして人倫に迷惑し」と、名誉や利益のために権力者に近づくような宗教家は、必ず法を破り、国を滅ぼすような教えを説く、そして「王臣は不覚にして邪正を弁ずることなし」で、政治家は宗教の正邪を弁えないから、そういう輩を信じて勝手な法制を作る、これが仏教を破り、国を滅ぼすことになると日蓮聖人は警告されたのです。坊主が節操無くして、どうして人を導くことが出来ようか、政治を行う者が、宗教の正邪を分からずして、どうやって国家を安泰に出来ようかと言われているのです。

本が立正安国の精神から出た宗旨ではありませんから、一方はお布施さえ貰えれば祈祷をする、一方は座禅に涼しい顔で聖者を気取る、一方はただ極楽往生を願って木魚を叩く、そのような坊さんのために、徳川時代には人倫は儒者の手に移って、終に明治維新の際には、仏教破却すべしということにまでなってしまいました。そうして今日には、思想の問題において非常に大事なことが押し寄せている、自己の利益のためには一国の大事を忘れるような考えが盛んになり、身勝手な殺人や悪質な詐欺が横行するなど真に心すべき時であるのに、今の日本の政治家は「まあまあ、宗教は放っておいても悪い事もすまい」というような生ぬるいことを言って、いかがわしい宗教団体から選挙の票を回して貰うことばかりを気にしている有様です。そんなことは、到底許されることではありません。国家というのは、宗教思想のことについても、しっかりした考えを取らなければなりません。今のように自由だの”へちま”だのと言って、何でも好きなようにやって良いというのでは、碌なことが起こらない、国は根本から覆ってしまう危険性があります。今は国民に向かって、日本国は斯くあるべし、日本人は斯くあるべしという思想の根拠を教えて、そしてしっかりとした精神を与えていくべきであるのです。

涅槃経には、次のように説かれています。如来の経典の文章を抜き出して、前後の位置を変えたり、意味を変えたりするような悪僧は魔の仲間である。また、悪象に踏み殺されても地獄・餓鬼・畜生の三悪道に墜ちることはないけれども、悪知識、悪い思想家に導かれれば、身体を損するばかりではない、魂を破壊されて、永遠に悪道に墜ちることになると。悪知識というのは、今にして言えば思想を誤るところの人で、政治家でも教育家でも、思想家でも宗教家でも、評論家でもジャーナリストでも、知ったが顔をして人に間違ったことを言っている者があれば、皆それは悪知識です。また法華経には、悪世の比丘は邪な知恵があって根性が拗けている、正しき法を弘める者の悪口ばかりを言って、決して自分達はやらぬということが説いてあります。何時の時代でも坊主はそうで、却って善いような顔をしている輩の方が、腹の中では碌な事を考えていない、宗教家ほど誤魔化しの多い者は無いのです。だから涅槃経には、形ばかりは、僅かに経を読んで袈裟を着けているが、三百六十五日一遍も法を説かず、実は飲み食い執着して、猟師が目を細くして獲物に近づく如く、猫がネズミを狙うが如くであるのに、煩悩を断ち切っているかのように装う坊主がいる、そのような沙門にあらずして、沙門の形を現じている者が、邪な考えを盛んにして正法を誹ると説かれているのです。そこで、どうしてもこの悪い思想家、悪い宗教家を戒めん限りにおいては、世の中には善いことが起こらない、従って国も安らかにならないと日蓮聖人は言われたのです。国家を安泰にし、国民の幸福を図るには思想が本であって、思想を教える者は善知識で無ければならないから、昔ならばガラクタ坊主を退治しなければならない、今で言えば悪い思想家を退治することが、国家を安泰にする根本であると論じられたのです。


 

こんばんは

 投稿者:もり  投稿日:2017年12月13日(水)22時26分1秒
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  立正安国論のお話しの途中で書き込み申し訳ありません。
私は前にも申し上げましたが、鬼子母神様を本尊にして唱題したり日蓮聖人の像に唱題したりするのに疑問を感じるようになっていました。
そんなおりネットで調べたりしているうちに、顕本法華宗のことを知りこの掲示板に参りました。
shamon様にお伺いしたいのですが、あるお寺のホームページに日蓮聖人が鬼子母神さまのご加護をを得られるように祈るようべきである、とご教示されているとありました。
これは日蓮聖人のご遺文に本当にそのような内容が書かれているのでしょうか?
私も調べてみたのですが、見つけることができませんでした。
もしご存知でしたらお教え頂けないでしょうか。
どうかよろしくお願い致します。
 
    (shamon) 仰るとおり日蓮聖人の御遺文には、そのような教示は一切ありません。日蓮宗の作り話ですね。

祈祷師を養成する荒行で有名な中山法華経寺は、「文永元年(1264)、房州小松原において、聖人は地頭、念仏者による襲撃、小松原法難にあわれ、鬼子母神の出現によって一命を救われた。日蓮は中山の地に逃れ鬼子母尊神像を御親刻されたと伝える」と記しています。しかしながら、これは「小松原法難で鬼子母神が日蓮を守護したという伝説」と「日蓮聖人の御親刻にちがいないと祭り上げられた仏像」に基づいて作り上げられた大衆信仰であって、日蓮聖人の教えとは全く異なるものです。日蓮聖人の教えの価値を下げている、典型的な信仰の一つと言えましょうね。無論、彼らが鬼子母神の霊力を扱えるはずなどありません(笑)。

 

立正安国論 その7

 投稿者:shamon  投稿日:2017年12月11日(月)11時28分8秒
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  2 災難の経証を挙げる

これは日蓮が勝手に言うのではない、釈迦如来の教えに依るのである。釈尊の教えは世の有様を照らす鏡である。その仏の経典を鏡にしてこの世を照らせば、日本国の災難の状態はありありと分かるということを説明しているのが第二段の所です。客人が言うには、天下の災い国中の難、これは私一人が嘆いているのではなく、心ある者は皆等しく悲しんでいることでございます。それについて如何なる事か、しっかりとした考えを持っている者は誰も居ないのかと案じておりましたが、今こうして貴僧の部屋を訪ねて教えを伺うことにより、漸く世の中の有様のことが少し分かりかけて参りました。仰せの通りに諸天善神が国を去るが故に、悪鬼入れ代わって災難が起こるということは、ご尤ものように思いますが、そのようなことを説かれた御経がありましょうかと尋ねます。

「その文繁多(はんた)にして、その証弘博(こうはく)なり」

この問いに対して、主人は無論一切経の中には沢山の証拠があるがと述べた上で、その中で主なる四つのお経を挙げます。その第一に引かれているのが金光明経です。仏教のことを余り学んでいない人は、お経とは坊さんが呪文のように読んでいるもの位にしか考えていませんが、釈迦如来の説かれた教えというものは、天地の真理を教え、人生の法則を教えているものであり、そこに人間の道徳、人間の心得るべき人生観、一切のものがあります。幾ら学者が出て来ても、この東洋の文明に、大にして言えば人類の文明において、未だにお釈迦様ほどに立派な安心立命を与える教えを説く者は無いのです。ならば、お釈迦様の教えを人生より除き去れば、人は光明を失い、進むべき進路を失うのは明白です。お釈迦様の尊い教えが世に在るにも拘わらず、これを信じず、仏教は詰まらぬというようなことを言って投げ出す、また信じるといっても方便に捉われて、真実の正しき教えを聴聞することを願わないということは実に悲しいことです。聴聞とは、仏様の本当の教えの意味合いを聴こうと、耳を澄まして手を合わせて考えるということが根本です。そういう気持ちがなかったならば、幾ら仏教が有難いと言っても、何時まで経っても仏法は分かりっこありません。たとえ仏教は盛んのように見えても、上っ面の形式的なものとなってその精神は亡びてしまうことになります。したがって金光明経には、諸天善神が呆れ果てて、「斯様な結構な教えがあるにも拘わらず、これを振り捨てて間違った事ばかりをするとは、不都合な奴どもだ、斯様な者達は守ることは出来ぬ」と言って見捨ててしまい、その後に悪魔が入れ代わって戦争ばかりが盛んになり、他の国からは泥棒がやってくる、国民は諸々の苦悩苦痛を受けて人生に頼むべきものが無くなるということが説いてあります。それから次に挙げられた大集経には、仏教ありと雖も仏教の本義が隠れたその時には、色々な災難が起こる、諸天善神はそのような穢れ果てたる濁悪の国を捨てて他の国へ去ってしまう、誰も守る者が無いから、悪魔が勝手放題に働いて、国に禍が起こることが説かれています。

「国土乱れん時は、先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」

そして仁王経には、善神が国を捨て去り悪魔が勢力を得るが故に、人民の心が悪い方へ悪い方へと流れて行くことが説かれています。善い話をして聞かそうとしても善いことは聞かない、悪魔にけしかけられて詰まらぬ事の方へと滔々と流れて行く、その結果は「賊来りて国を劫(おびや)かし」で、人間の心が腐敗するが故に、そこに付け込んだ他国が侵略して一挙にその国は滅亡してしまうと説かれているのです。そして次に引かれた薬師経には、正法を大切にしない場合には、国に様々な災難が起こる、先ずは疫病が起こり、他国から攻められ、国内に反乱が起こり、天候が狂って飢饉が起こると説かれています。この他国から侵攻されるという他国侵逼と、国に謀反人が出るという自界叛逆の二難が必ず来るというのは薬師経の明文であり、ここが立正安国論の骨子となります。日蓮聖人の生まれる前年には、前代未聞の承久の乱によって朝廷が北条義時に武力で倒され、後鳥羽上皇などは隠岐島に配流されてしまいました。そして、日蓮聖人が佐渡に流された翌年には、北条時輔が京都で反乱を起こして鎌倉方と合戦し、三年後には蒙古が来襲することとなります。蒙古の来襲は、立正安国論の予言から九年後とはいえ、その一二年後には既に日本侵攻を企てて準備をしていたと言えましょう。日蓮聖人の安国論における最も大事な所は、仁王経の七難の最後に「四方の賊来りて国を侵(おか)し、内外の賊起り」と説かれているように、今の疫病が流行っている位のことは、まだ序の口である、災害があり飢饉があり、様々な事がある挙げ句に、他国侵逼が起こるということに他なりません。そして更に大集経を引かれて、もし国王が仏法の滅びようとするのを見捨てて、これを護ろうとしなければ、三つの不祥なる禍が起こる、一つには穀実といって飢饉が起こり、二には兵革といって戦が起こり、三には疫病が流行って国民は安らかざることになると諫言されたのです。

「それ四経の文朗かなり。万人誰か疑わん。しかるに盲瞽(もうこ)の輩、迷惑の人、妄りに邪説を信じて、正教を弁えず。故に天下世上、諸仏衆経において、捨離の心を生じて、擁護の志なし。よつて善神・聖人、国を捨て所を去る。是を以て悪鬼外道、災をなし難を致すなり」

日蓮聖人は、これ等四つの経典、金光明経、大集経、仁王経、薬師経の立派な経文があっても、あたかも目の不自由な者のように、耳の不自由な者のように、邪説を妄信して正しき教えを弁えない人が沢山いることを嘆かれています。この邪説の中には、阿弥陀仏のみを信じて他の仏は捨てよ、法華経も他の経典も一切捨てよと盛んに言った法然上人の念仏が含まれます。浄土門は日蓮聖人に攻撃されて、また今は大学であれば仏教史を常識として学びますから、表立って同じことを強く主張することはありませんが、法然上人が立てた選択集には、ただ阿弥陀仏ばかりを念じよ、「雑行雑修をふり捨てよ」と、お釈迦様が有り難いとか、法華経が有り難いとか、そういう考えは起こしてはならないことが説かれています。仏教はすべてお釈迦様が説かれた教えとされますから、教主であるお釈迦様を捨てることなど到底出来ません。それを捨てるというのは仏教の本旨に背くのみならず、東洋文明の和合的な精神にも背くものです。日本には八百万の神があるように、仏教には諸仏・諸天善神があって、これらをすべて集めて、そうして統一的に信じることが求められます。また東洋では汎神の思想が文明の根本をなしているが故に、一切衆生は皆仏性があり、一切衆生は皆成仏するということを言いますが、西洋の思想では神様は唯一人であって、他の者は誰も神に成れない、天国に行って神の僕とはなるけれども神には成れないと考えます。ところが法然上人は、仏教を信じていながら、阿弥陀様より他は見てはいかぬと言う、浄土門は、法華は随分と酷いことを言うと憎みますが、寧ろ自分達が酷いことを言って来たことを反省しなければいけません。彼らは一切の仏を捨て、一切の経を捨てて、「なんまいだー」と言うばかりで、法華経もいかぬ、釈迦もいかぬと言ってきた、そこを日蓮聖人は強く批判したのです。そのような狭隘固陋な者が出て勢力を得たが故に、悪鬼羅刹の輩が付け込んで来る。「仏教を信じると言いながら、お釈迦様を捨ててしまえ、法華経も捨ててしまえ、広大な仏教を捨てて、南無阿弥陀仏と言う、これは面白い奴らが蔓延って来た」と、悪魔が彼らに味方をして押し寄せて来たのだと言われたのです。そうであるのに、あろうことか「釈迦も、釈迦の説いた法華経も役に立たない、ただ南無妙法蓮華経だ」と日蓮を本仏と担ぐ宗教団体が、現代に強大な勢力を得ていることに憤慨せぬというのであれば、最早日蓮門下を騙る資格など全くありません。立正安国論の議論は決して過去のものでありません。今も今後も取り組まなければならない、非常に大きな問題です。そのようなことを放置しておけば、次から次へと邪な宗教や劣悪な思想が出て来て人を迷わし、あるいは人々は道徳の根本である宗教信仰を捨てて国を危うくしてしまうのです。


 

明解「法華経要義」 薬王菩薩本事品 第二十三 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2017年12月10日(日)16時35分13秒
編集済
  (現代語)
それ故に宿王華よ、この薬王菩薩本事品を汝に付嘱する。私の入滅の後、最後の五百年において、法華経を世界全体に広く宣伝して断絶させることなく、悪魔やその眷属、神々や龍神、夜叉・鳩槃荼等にとって都合の良いことにならないようにせよ。宿王華よ、汝は必ず神通の力をもって、この法華経を守護せねばならぬ。何故ならば、この経は全世界の人々にとって良薬だからである。もし人が病んでいても、この経を聞くことが出来たなら、その病は速やかに消滅して不老不死となるであろう。

(要文)
是の故に宿王華よ、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後、後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等に其の便りを得せしむること無かれ。宿王華よ、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。所以は如何ん、此の経は即ちこれ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん。

(要義)
後の五百歳とは、仏の滅後における五つの五百年の一番終わり、二千年より二千五百年に至る間で末法の初めであり、「闘諍堅固」といって、邪見が増して争いが盛んとなる時代です。この一節は、薬王品を宿王華菩薩に付嘱する代わりに、後の五百歳時に法華経を閻浮提即ち全世界に広宣流布して、これを絶やすことの無いように、悪魔の便りを得せしめないようにせよとの事を仰せになります。日蓮聖人はこの文を深く実感し、そして「後五百歳広宣」ということを常に力説され、観心本尊抄の表題を「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」とし、そして曼陀羅本尊の脇書にも「二千二百二十余年の間」という事を書かれている訳です。

汝の神通力を以て法華経を守れと宿王華に命じられた、その所以は法華経が結構な教えであり、全世界の人の病の良薬であるからです。病は心と身体の両方に及びますが、仏教における主なるものは心の病を指します。仏教は身体の病を正面から引き受けてはいません。勿論、精神的な影響は必ず身体の病に影響を及ぼしますから、心の病を治すことによって肉体の病が癒えることは確かにあります。しかしながら、釈尊在世の時にも耆婆という名医が仕えて人々の身体を治療していたように、そもそも仏教の僧院には、学問をして布教をする僧侶とは別に、医薬施療に従事する者があったわけです。それが御経を読んで病気を治すというような方に無闇に走ると、医者が病気を治療せずして説教を始めるのと同じおかしな事になります。法華経は肉体の病の薬を説いている御経ではなく、精神の薬を説いている御経に極まっているのですから、法華の坊主が「法華経は閻浮提の人の病の良薬なり」と大声で唱えて、肉体の病気を治す等と加持祈祷に走ることは皆間違いです。精神の苦痛を除き、精神の罪を滅ぼして、人格の向上と精神的幸福を増加していくことが病の薬なのですから、「法華経を信じていたら病気が治る、幾つになっても死なない」等と、道を学ぶ者がそんな訳の分からぬ事を言っていては、今後世の中を指導することなどは到底出来なくなります。「病即ち消滅して」とは、精神の苦痛と精神の罪悪とが消えて、人格を向上し幸福を増進し、目出度くこの人生を終わるという事であり、「不老ならん」とは、死後に於いて成仏を遂げて仏身を成就するという事です。「病即消滅」の四字は現在の利益を説き、「不老不死」の四字は未来の利益を説く、即ち現当二世の利益を説いているのです。



 

shamonさま

 投稿者:もり  投稿日:2017年12月 8日(金)22時05分20秒
  レスポンスありがとうございます。
私はとくにどこかの宗派に属しているわけでもないのですが、祖父の影響からか日蓮聖人が好きで多少の知識は持っています。
私の通っていたお寺では鬼子母神様を本尊にしているのですが、日蓮聖人のご在世の時代にはそういう信仰がなかったように思えますし、木剣を使った祈祷も無かったように思います。
お寺に通ってから3年になりますが、私の生き方がとても良い方向に向かっているように思えないのです。
それで疑問を持ってしまいました。
本当に正しい法華経の信仰とは…と思うところです。

>「こういう価値観の人とは、お付き合いしたくない」と思われることを、得々と語ってしまった場合などです。
自分でも気づかずに言ってしまっている可能性はあると思います。
もちろん話すことも気をつけていて、突拍子もないことを言ったり、倫理的に問題のあることは言っていないとは思うのですが…
確かに人間万事塞翁が馬で、友人が離れてしまったことが逆にポジティブにとらえてしまえば良いように思うこともあります。

本当にご丁寧にありがとうございます。
 

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