投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


明解「法華経要義」 薬王菩薩本事品 第二十三 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2017年11月20日(月)11時35分1秒
編集済
  (現代語)
宿王華よ、たとえば一切の河川や大河よりも、大海が第一のものであるように、法華経は如来が説かれた諸経の中で最も深く優れた教えである。また、日天子(太陽の神)が様々なる闇を除くように、この経は一切の不善の闇を破るものである。仏が諸法の王であるように、この経もまた諸経の中の王であるのだ。

(要文)
宿王華よ、譬えば一切の川流・江河の諸水の中に、海これ第一なるが如く、此の法華経もまたまた是の如し。諸の如来の所説の経の中に於て最もこれ深大なり。また日天子の能く諸の闇を除くが如く、此の経もまたまた是の如し。能く一切不善の闇を破す。仏はこれ諸法の王なるが如く、此の経もまたまた是の如し。諸経の中の王なり。

(要義)
上記は法華経を称歎する十喩の中の三つ、海の譬え・日の譬え・仏の譬えを挙げて他は略したものです。水の中には小さな川も大きな河もあるが、海の如くに大きく深きものは無い。そのように、一切経の中に於いて、また仏教以外の宗教の中に於いても、法華経を超すものは無い。光には色々あるけれども、闇を除くに太陽の光に比すべきものが無いように、法華経は一切の不善の闇を破るものである。そして諸法とは宇宙の万有であって、仏はその宇宙を覚って統御している所の法王であるが如く、法華経は釈尊の説かれた一切経の中においての王であることが示されています。このように法華経が他の経典よりも秀でているという主張は、法華経の本文の中に明晰に現れていることですが、浄土宗や真言宗は法華経の開顕ということを乱用して「一旦開顕すれば他の経典も法華経も同じではないか、日蓮の折伏の思想は間違っている」というような事を言い、そして天台宗がこれに調子を合わせて、今日まで日本の仏教が紛乱を極めている訳です。また、日蓮門下においても「本門においてすれば迹門も本門も同じじゃないか」と一致を言うがために、寿量品の特色を発揮することが出来ない、寿量品も方便品も同じようにやろうとするが故に、そこに中心となる教義を失って、方便即真実などと言っては何でもありの堕落した状態に陥っているわけです。

成る程開顕する所に包容の力はありますけれども、開顕してもやはり中心というものは明らかにしなければなりません。そこで、薬王品はすべての開顕が終わった後に、今一度歴然たる優劣を示されているのです。開顕ということが、ただ同じ事であるとの意味ならば、それは開顕ではなくて混同ということになります。能開・所開と言って、同じ開顕と言っても、どちらが開顕したのか開顕されたのか、能く開顕するものと開顕される所のものとの、その能所の関係を明らかにしなければなりません。法華経が一切経を開顕する、本門が迹門を開顕するのであるならば、やはりそこには相違が生じて来ます。これを体内の権実・体内の本迹と古来申していますが、開顕し終わった同一体内に於いても、そこに権実本迹というものが顕れて来るのです。権教が実教の意志に随い、迹門が本門の意志に随っていれば問題は起こりませんが、「開顕したから同じものじゃないか」という事を口実にして、権教が実教に刃向かい、迹門が本門に刃向かおうとするならば、「能開、所開を忘れるのか」と、もう一遍楔を打たなければなりません。開顕を言えば、必ず統一ということ考えなければなりません。混一ではいけません、統べる中心がどうしても要るようになるのです。折伏を言えば折伏だけに引っ掛かり、開顕を言えば開顕だけに流れて行くようならば、それは完全な思想とは言えません。開顕と折伏と統一、この三つを併せて、そして日蓮聖人の主義というものを見て行くことが大切です。


 

立正安国論 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2017年11月14日(火)07時02分35秒
編集済
  宗教と政治との関わりについてもよく考える必要があります。日蓮聖人の時代に劣らず現在の日本においても、「釈迦も釈迦の教えも役に立たない、願いが叶うナンミョーホンレンゲキョー」などと宣伝して、他を邪宗と罵倒してきた創価学会が日本最大の宗教団体となり、その創価学会の公明党が組織票を餌に政権与党にいるわけですから、宗教的立場からすれば何時日本に危難が起きても不思議ではありません。憲法第二十条に「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」とあるにも拘わらず、このような政治を続けていれば、政治は右往左往するばかりで、国家の大事な指針が一向に決まらなくなります。政治の本義は、まずは国の在り方を根本に立てることにあります。今日は国民の利益を優先した議論ばかりが盛んですが、国民の利益幸福を全うするためには、まず日本は如何にあるべきか、美しい日本とは何かということを宣揚しなければなりません。欧米の多民族で構成されているような国家は多少事情が違うかも知れませんが、日本の国は、日本人としての理想、日本国の理想ということを柱として組織立てられるべき国家であるのです。

日蓮聖人の出でられた鎌倉時代も、やはり多数民心を収攬さえすれば良いと、政治の根本を忘れている状態にありました。執権・北条時頼は人民の租税を免じて色々な社会事業を行い、或いは真言律宗の良観を招いて癩病を救ってやるとか、行き倒れ人を助けてやるとか、貧民を救済してやると言って、非常に社会政策的な民政を施したので、それを喜ぶ人民は、北条様は偉い、実に結構な天下だと言っていました。ところが、その北条氏が何をしたかと言えば、天皇を流し者にし、京都の勢力を破壊して、国家の体制を混乱に陥れていた訳です。それにも拘わらず、当時の坊主はその提灯を持った、北条が勢力を得ると、今まで京都の方で朝廷のために宝祚万歳を祈っていた真言や天台の坊主が、京都は最早駄目だというので見切りを付けて、鎌倉武士の機嫌を取って武運長久を祈ったのです。宗教は天下に対して正邪の標準になって行かねばならないのに、鎌倉に勢力が移れば、京都の朝廷のために力を尽くした坊主が鎌倉に来て頭を下げて、尻尾を振って武運長久を祈っていた、それが生き如来だというような顔をしているから、日蓮聖人は「このがらくた坊主が」と悲憤されたわけです。安国論において最も痛切に論じてあることは、宗教家が政治家と結託して国の在り方を壊している、一方の政治家も国の在り方を壊してでも、権力を維持するために宗教家を利用しているということです。この悪政治家と悪宗教家を懲らしめなければ、国家は立たぬというのが立正安国論における議論です。この状況は、今日と実によく似ています。ところが当時から坊主は皆黙従していた、徳川三百年の間も、本当に真面目であった者は迫害されたり流されたりと酷い目に遭っていましたが、日蓮門下の坊主も大抵は眠っていた、そしてそれは残念ながら現在の今も殆ど変わっていないのです。


 

立正安国論 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2017年11月11日(土)08時51分36秒
  平成23年に甚大なる被害を及ぼした東日本大震災に続いて、平成24年には尖閣諸島領有における中国の度重なる挑発、そして昨今は北朝鮮の核開発とミサイルよる活発な挑発が続いています。丁度日蓮聖人の当時においても、大地震と疫病の流行、それに引き続く他国侵逼の危機がありました。そして、日蓮聖人が駿州の岩本実相寺に入って一切経を御覧になり、この国難の根源を突き止めてお記しになったのが、この立正安国論です。立正安国論は日蓮聖人三十九歳の時の御著作で、時の執権北条時頼に提出されたものですが、七百年後の今日に至っても、今なお国民に大なる警告と指導を与える尊い御遺文と言えましょう。

立正安国論は、一往は大地震と疫病の流行という所から著されたものですが、日蓮聖人には、もう一つのお考えが既にありました。それは、当時の坊さんが人生の実生活と離れ、また国家の興廃存亡を余所に見て、ただ自分は心静かに仏道修行をしようと山の中に籠もっている者が多かったことによるものです。当時の日本は承久の乱により、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条泰時の為に京都を追われて隠岐の島に、土御門天皇は四国の土佐、順徳天皇は佐渡島に流され、そして朝廷に仕える臣下は悉く鎌倉に呼び寄せるという名の下に、東海道にて皆撃ち殺され、京都の勢力は全滅という状態でした。この幕府が皇室を襲って暴虐の限りを尽くすという、日本史以来の大事変が起ころうとする以前から急速に広まっていたのが、黒谷の真如堂に籠もって朝から晩まで「南無阿弥陀仏」と唱え、末法においては称名念仏だけが相応の教えであるという「選択本願念仏集」を著した法然上人の浄土宗であったわけです。

「国亡び人滅せば、仏を誰か崇(あが)むべき、法をば誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて、須く仏法を立つべし」

この問答式の立正安国論において、客は「国が亡び、人が滅せれば、仏法を弘めるも何もないのだから、国の安泰を祈ることが先ではないか。したがって、まずは国家の災難を除く方法があれば知りたい」と尋ねます。これに対して家の主人は「様々に方法はあるようだが、仏教において考えるならば、まず正法を謗る者を禁じ、そして正法を信じている人を重んじれば、天下は泰平になる」と答えます。日本の国が蒙古にやられてしまい、民心は腐敗してただ「ナンマイダー」の声のみ盛んになった所で、それが一体何になるのか、当時の宗教家が宗教の本義を忘れてしまっていることを、所謂一般の知識人を代弁して日蓮聖人は指摘しているのです。釈尊が世に出られた真の目的が地に墜ちて衆生済度の目的が亡びている、死んでから救われるなどということを結構なことに思うのかも知れないが、どうにも当てにはならない所がある。生きている間に非常に困っていても構わずに、疫病で死のうが国が亡んで死のうが、「阿弥陀様確かにお救い下さい」と引導を渡せば極楽に行けると言うだけの話では、本当に行ったかどうかは分からない。そういうことは本当の坊主のすることではない、お釈迦様の教えとは、そういう呑気なことを言っているのではない。生きている人の人生において、様々に起きる苦痛を、今日只今より根本より救ってやろうというのが衆生済度の目的である。人は色々と悪いことをして罪を持っているが、この人間の汚れている精神を矯め直して、そして生きている今日の日々の活動の中に徳を積ませて、清い精神にしてやろうと釈迦如来は奮闘されたのである。それを忘れてしまって、死んで浄土に行ってからなどという、そういう考えは駄目だということを日蓮聖人は論じています。

 

明解「法華経要義」 薬王菩薩本事品 第二十三 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2017年11月 9日(木)06時10分25秒
編集済
  (現代語)
その中に居た諸々の仏は、同時に讃めて次のように言われました。「善きことである、善きことである、これぞ真の精進である、これこそ真の法をもって供養すると名付けるものである。例え、華・香・装身具・焼香・抹香・塗香・天蓋・幡蓋及び最上の白檀香、これ等の様々な供物によって供養したとしても、到底及ぶことではない」と。

(要文)
其の中の諸仏、同時に讃めて言わく、善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり、是れを真の法をもって如来を供養すと名づく。若し華・香・瓔珞・焼香・抹香・塗香・天繒・旛蓋及び海此岸の栴檀の香、是の如き等の種種の諸物を以て供養すとも、及ぶこと能わざる所なり。

(要義)
過去世において薬王菩薩は、仏に供養するために香油を飲み、香油を身に濯ぎ、自らの身を燃やし、その光明で無量の世界を照らしました。そして再び仏の下に生まれ変ると、仏舎利の安置のために八万四千の仏塔を建て、両臂を燃やして供養します。この「焼身供養」と言われる、薬王菩薩が過去世に臂を焼いて供養したというようなことは、必ずしも今日の手本とはなりません。日蓮聖人も「日本国に油なくば臂をも灯すべし。あつき紙国に充満せり。皮をはいで何かせん。」と言われたように、時と場合によっては頸を切られようとも奮闘をしますが、身体に香を盛り、自ら身を焼いて供養するというようなことは全くしません。ただ、薬王は臂を焼き、雪山童子は身を投ずと、時によって修行の態は様々に異なるものだという事を繰り返し述べて、道を存するためには身を捨てて臨むという、その精神を日蓮聖人は実行されたのです。

諸仏が「善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり」と称歎されたのも、身命を捨ててまでも仏及び法華経に感謝するという真心があれば、本当の精進の行をやっている、法を以て如来を供養する者だということです。法供養とは法を発揚宣伝することですが、唯言葉で説いているよりも、身命を捧げることになれば、それが法に対する所の一番の供養となる、万巻の書を著して宣伝するよりも、身命を法華経に捧げるということになれば、更に偉大なる者であるということです。その意味に於いて、日蓮聖人は全く身を捨てて法を存し、法を以て如来を供養されたのです。法華経を擁護し宣伝するということも、それは如来を供養する所の根本精神に基づいて行なわれている訳です。このような法華経の経旨を、私達はよく味はなければなりません。ただ法華経のために奮闘した、努力したと言っても駄目です。どの様な立派な天蓋・幡蓋を作り、どの様な良き匂いの香を焚いて如来を供養したとしても、到底身命を捨てて法華経に尽くす以上のものは無いという事を、仏達は薬王菩薩のことについて称歎をせられた。この精神が後来法華経を弘める者の心得となる、論語でいう所の「身を殺して仁を為す」との意味にもなる訳です。




 

報恩抄 その27

 投稿者:shamon  投稿日:2017年11月 5日(日)18時40分40秒
編集済
  「花は根にかへり、真味は土にとどまる。此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経」

如何にも法華経は有り難い教えである。その法華経のために尽くすことを得たことは、この上ない仕合わせなことである。そして日蓮が法華経のために捧げた功徳、国のために捧げた功徳は、どうか師匠である道善房御身に御回向致したい、自分の積んだ功徳は、そのまま師匠道善房に差し上げたいとして報恩抄は結ばれています。花が咲くのは、根が土壌の養分を吸い上げてくれたからである。日蓮が法華経の弘通の花咲くのは、師匠道善房のお陰である。ならば日蓮の功徳は、必ず師匠道善房に返るはずである。その報恩道徳の心が、「花は根にかへり、真味は土にとどまる」という優しい言葉に言い現されています。今立派に活動して徳を積めるのも、父母の源があればこそ、大事に育ててくれたお陰であるならば、私達はどうしても父母に恩を報ぜざるを得ません。あるいは親から虐げられた、辛い目に遭わされたとしても、今もし立派に活動して徳を積んでいるのであれば、法華経の提婆達多品に説かれた如く、親が反面教師として試練を与えたからこそ、自分は鍛え上げられたのかも知れません。ならば、それが原因で今は疎遠であっても、やはり最初は子を得て喜んだ父母あればこそですから、最後には自らが積んだ功徳を回向するという優しい気持ちを起こさなければなりません。教えの方から言えば師匠もまた然り、国家の方からすれば、国主もまた然りです。今自分が一生懸命に生きて功徳を積めるのは、種々の人に導かれたお陰なのです。日蓮聖人は、仏教を学ぶ者は決して恩に報いる生き方を忘れてはならない、そして如何に生きるべきかを教えられた、それが教主釈尊の弟子、仏子としての私達の進むべき道だと思います。(完)



 

明解「法華経要義」 薬王菩薩本事品 第二十三 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2017年11月 2日(木)09時22分34秒
編集済
  (現代語)
この三昧を得た一切衆生憙見菩薩は、大いに喜んで次のように心に念じました。「私が現一切色身三昧を得ることが出来たのは、すべて法華経を聞くことを得たお陰である。私は、今こそ日月浄明徳仏と法華経に供養を為すべきである」と。

(要文)
此の三昧を得已って心大いに歓喜して即ち念言を作さく、我現一切色身三昧を得たるは、皆是れ法華経を聞くことを得たるの力なり。我、今当に日月浄明徳仏及び法華経を供養すべし。

(要義)
この品では、薬王菩薩が過去に日月浄明徳仏の下で一切衆生憙見菩薩であった時の因縁を挙げ、場合によっては身命を捨てて法華経のために尽くさねばならないことを説き、また次に十喩と申して、十種の喩えを挙げて法華経の卓越していることを称嘆します。そして終わりに、この経を宿王華菩薩に付嘱して、後五百歳広宣流布の言葉を留め、法華経が閻浮提の人の良薬であることが説かれます。上記の一節は、種々に身を現す所の神通、様々に身を変化させて衆生を済度し得る所の自在力「色身三昧」を得ることが出来たのは、法華経を聞いて修行したからである、その法華経を聞くことが出来たのは仏がこれをお説き下さったからであるから、先ず第一に日月浄明徳仏に感謝しなければならぬ、そして同時に法華経を供養し讃歎しなければならぬと言っている所です。

「色身三昧」とは、法華経には一個の魂に十界を具しているという大原理があり、その原理を事実に現す所の力を言うのですから、この「色身三昧」という事も非常に大事な問題です。菩薩でさえ、色身三昧を得れば斯くの如きですから、況や本仏釈尊は、無限に身を変じて活動をすることが出来る訳です。法華経の精神は、ただ菩薩の徳だけを称嘆するだけではなく、それに依って本仏の無限の活動を反面に証して行くということにあります。したがって、菩薩が法華経を得て喜んだという場合にも、ただ法華経だけに感謝をしているのではない、直ぐに仏とそうして法華経という事が言われる訳です。これが非常に大事な点です。日蓮門下には、ただ「法華経が有り難い、題目が有り難い」と言って仏を忘れてしまう者が非常に多いですが、これ等はすべて学び損ないの人々と言えます。日蓮聖人が「仰ぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり」と言われているにも拘わらず、一般の日蓮門下が仏と法に対する意識というものを論ぜず、本尊論をする時でも形式ばかりを論じて、それに対する信仰意識というものを鮮明にしないのは、全く学問未熟の致す所であると断言せざるを得ません。




 

報恩抄 その26

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月29日(日)08時17分11秒
  「極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず」

如何に愚なる政治家が圧迫しようとしても、如何にガラクタ宗教家が寄って集って攻撃をしようとも、日蓮の主張したるこの正しき宗教の思想、正しき国民教化の理想は、後年大勃興を来すはずである。日蓮の行いは、日本国の人びとの精神の盲目を開く功徳があり、無間地獄への道を塞いで苦しみを受けないようにしているのである。伝教大師や天台大師、竜樹菩薩や迦葉尊者は、いずれも尊い人であるけれども、この点においては日蓮の方が優れているかも知れない。ある人は極楽に行って、ゆっくり百年でも修行しようと考えているかも知れないが、そのような所に行って何の苦労もなくノソリノソリと善いことをしたところで何もならない。本当に修行しようと思うのなら、この五月蠅い世間において、現在に奮闘して善いことをしなければならないと日蓮聖人は言われているのです。人間の徳は、奮闘において上るものです。敵が来たと言って尻込みするような弱い兵隊では役に立ちません。敵が見えたなら勇み立つ強い軍隊でなければ国は守れません。世の中を暮らしていくのに、「雨が降ってくる」「風が吹いてくる」と言って、一々驚いているようでは駄目です。江戸時代の儒学者、熊沢蕃山の歌にも「憂きことの なおこの上に 積もれかし 限りある身の 力試さん」とあるように、予め人生は斯くあるべきものなりと覚悟して、何でも来るがよい、重なり合って来るがよい、自分の持てる限りの力を試す時であるとの奮闘の精神を日蓮聖人は教えているのです。


 

明解「法華経要義」 嘱累品 第二十二 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月27日(金)08時39分16秒
編集済
  (現代語)
菩薩達は皆、仏の説法を聞き終わって大いなる喜びをその身に満たし、益々仏を慎み敬って、身を屈めて頭を垂れ、合掌して共に仏に申し上げました。「世尊の仰せの通りに、具に行じて参ります。どうか世尊、願わくは御心配されませんように」と。菩薩達は、このように三度声を合わせて申し上げたのです。「世尊の仰せの通りを、具に行じて参ります。どうか世尊、願わくは御心配されませんように」と。

(要文)
時に諸の菩薩摩訶薩、仏の是の説を作したまうを聞き已って、皆大歓喜其の身に遍満して、益々恭敬を加え、躬を曲げ頭を低れ合掌して、仏に向いたてまつりて、倶に声を発して言さく、世尊の勅の如く当に具さに奉行すべし。唯然世尊、願わくは慮有さざれ。諸の菩薩摩訶薩衆、是の如く三反、倶に声を発して言さく、世尊の勅の如く当に具さに奉行すべし。唯然世尊、願わくは慮有さざれと。

(要義)
仏の委託に対して多くの菩薩達が、皆大歓喜を生じて誓いを立てます。心に満つる以上に身体にまで歓喜が溢れて、仏に対して益々の尊敬の心を起こし、そして仏に申し上げるのです。如来は一切衆生の大施主である、その如来が汝等も大施主となって如来の遺教を宣伝せよと仰せになられたこと、その仰せの通りに具に奉行して、決して忘れることは致しませぬと。「唯然」とは「はい」という応諾の言葉ですが、その誠心誠意の発心を表すために、どうか御心配下さりませんようにとの事が三度繰り返して申し上げられています。釈尊は、神力品では本化の菩薩に別付嘱をし、この嘱累品では総付嘱と言って、迹化他方総ての菩薩の頭を摩でて法華経の付嘱をせられたのです。別付嘱は法華経の真髄を弘める事でしたが、総付嘱では一切経を法華経に纏め上げて来ることを付嘱します。その精神を受けて、迹化を代表する薬王菩薩の再身である天台大師並びに伝教大師は、一切経が法華経の中に総合摂取せられるものであることを明らかにし、本化上行の再身である日蓮聖人が神力品の付嘱の通りに法華経の真髄を発揚した訳です。

この嘱累品を以て、多宝塔の扉は閉じて分身の諸仏は各々の仏国土へ帰り、そして上行等本化の菩薩の出現も終わって法華経は一段落します。経典は付嘱を以て完結するのが一般的であり、また薬王菩薩本事品以下の文章の具合や内容が異なるため、純粋な法華経は嘱累品で終わっているものと考えられています。薬王菩薩本事品には、法華経の行者が阿弥陀仏の国に生まれる等とあり、観世音菩薩普門品には羅什訳には無かった偈が挿入され、またサンスクリット版などでは、観音菩薩が阿弥陀仏の弟子として十方に阿弥陀仏の徳を宣揚する内容が盛り込まれています。何時頃からこれ等の阿弥陀信仰が混入してきたのかは今後の研究を待たなければなりませんが、そのような事によって法華経の中心教義である寿量品の精神を乱すようなことがあるようならば、切り捨てても良い訳です。そのような意味に於いて、以後の六章は経典を編纂するにあたって新たに付け加えられたもの、同じ法華経でも一段軽いものであることを理解しておく必要があります。



 

報恩抄 その25

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月22日(日)16時27分11秒
編集済
  「一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし。」

日蓮聖人は、一切経はすべてその経の題目が肝心であると述べた上で、妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心である、五字七字の南無妙法蓮華経の題目の中に、法華経の一切のものが揃っている意味合いを色々と説かれます。天台大師は「法華玄義」において、題目である妙法蓮華経の五字について解釈された、そして妙楽大師も題目は法華経の心であると言われている。また日本という二字の中には日本中の一切のものが摂まっている、天眼をもってすれば日本いう二字を見て、日本の六十六国とそこに住む人畜を見ることが出来るのと同じである。そして諸経は大小の河の如くであるけれども、法華経はそれらの水の全てを漏らさず収めた大海であり、また他の経には二乗を仏に成す働きと久遠実成の釈迦牟尼仏という最も大事なことが顕されていないから、取りも直さず法華経の題目を唱えることが、最も信心の心得方において宜しいということを説かれたのです。

世が末になると、人の智恵は浅くなり仏教は深くなる。それは重病には凡薬でなく仙薬が与えられ、弱い人は強い味方によって助けられるようなものである。中国では天台大師が他から散々に罵られながらも法華経の実義を説かれたが、迹門を面として本門は弘められなかった。天台大師の注釈書を御覧になった日本の伝教大師は、南都六宗の反対に遭いながらも比叡山に大乗戒壇を建立されたことは、天台大師を超える偉業であったが、東方の薬師如来を本尊として、本門の釈尊と釈尊の脇士である四菩薩を顕わさなかった。今や日蓮は法華経の本門によって、天台大師・伝教大師などが弘められなかった一大事の正法をいよいよ現す時が来たのである。それには三つの特色がある。一つは未だ嘗て他の人が顕さなかった所の本門の教主釈尊、寿量品において顕本せられたる所の実在の大人格者たる釈迦牟尼世尊を本尊とせよということである。二には本門の戒壇である。この「所謂宝塔の内の釈迦・多宝」以下の文節をもって、教主釈尊と釈迦は別だ、釈迦も多宝も脇士だと愚なことを主張して日蓮教学を偏狭なものにする者がおりますが、これは観心本尊抄の「その本尊の為体、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり」に符節を合せるものです。即ち法華経の本門が説かれた霊鷲山虚空の会座を現したもの、釈迦牟尼仏を久遠実成の本仏と顕すための法華経に基づく様式であって、本門の教主釈尊と釈迦は別の存在だと言うためのものではありません。したがって「所謂」以下は、寧ろ次の「本門の戒壇」の様式を述べたものと見るべきでしょう。「本門の戒壇」とは、日蓮聖人が曼荼羅本尊に描かれたように、本門の教主釈尊と多宝如来、脇士である上行等四菩薩の尊前で授戒の儀式を行う場です。今や日本の仏教が統一されて、国家によって戒壇が建立されるというようなことは望めませんが、実際に「本門の戒壇」が建立されたならば、先に述べた政治の理想と宗教の理想が一致して、内外呼応して人心の教化を全うする理想も実現できたでありましょう。そして第三は宗教の簡易なる形式として、南無妙法蓮華経と誰でも彼でも唱えることによって、そこに法華経への大信念が現れて来るということです。今は日蓮一人が声を惜しまず唱えているが、「根深ければ枝しげし、源遠ければ流れ長し」というが如く、日蓮の慈悲が広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年どころか未来永劫にも流れるであろう、必ずこの南無妙法蓮華経は、後年大いに花咲くときが現れてくると高らかに宣言されたのです。



 

明解「法華経要義」 嘱累品 第二十二 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月19日(木)13時19分0秒
編集済
  (現代語)
如来には大いなる慈悲があり、少しも惜しむことなく、また畏れる所もなく、衆生に仏の智慧、如来の智慧、自然の智慧を与えるのである。如来は、一切衆生には偉大なる施主である。汝達もまた、私に随って如来の法を学び、そして物惜しみの心を生じてはならない。

(要文)
如来は大慈悲あって諸の慳悋無く、また畏るる所無くして、能く衆生に仏の智慧、如来の智慧、自然の智慧を与う。如来は是れ一切衆生の大施主なり。汝等また随って如来の法を学すべし、慳悋を生ずることなかれ。

(要義)
釈迦如来は、慈悲というものを出発点に置いて一切衆生を済度しようと思われているのですから、如何なる学説教義に対しても打ち破られないという確信を以て、少しも惜しむ所無く仏の智慧を施しています。仏の智慧・如来の智慧・自然の智慧、この三つの智慧は本来同じ一つものですが、敢えて分ければ仏の智慧とは、迷える衆生に接近して救い上げる所の応用の智慧、如来の智慧とはその根本をなす所の智慧で、衆生の心や輪廻する有り様を照らしている智慧、そして自然の智慧とは宇宙に対しての絶対原理を見開いた智慧です。その衆生を済度する応用の智慧、衆生の根本を見る智慧、宇宙の本源を突き止めた智慧を釈迦如来は悉く有し、そしてそれを惜しむ所無く総ての者に与えるのです。仏教において色々と施しをする人を施主と言っていますが、それは僅かな物質を施すのであって、如来が大慈悲を以て大智慧を施す、一切衆生に対する大施主であることを考えれば実に小さなことです。したがって、仏弟子となる者は、他の者から物質の供給を受けたからといって、その位の事は何も意とするには足らない、寧ろ自分の本分を顧みて如来と同じように大慈悲を根底として、他の諸説教義に畏れる所無く、惜しむ心無く、この大智慧を施して行かねばならないのです。

それが如来の法です、如来の法というは、今申す所の大施主の実行であって、ただ如来の説いた御経を黙読しているようなことではありません。活ける一切衆生に対して大智慧の光明を与えていくこと、それが如来の法なのですから、その事を忘れないようにしなければならないのです。そのためには、この法華経に基づいて如来の智慧を学び、法華経に基づいて仏教を弘めなければなりません。しかしながら、その場合にも一切経を除外してはならない、一切経を法華経によって開顕して、そして統合統一したる仏教として衆生を済度して行かねばならないのです。また、「この教えは容易に得られなかったものであるから、そう容易く人に与えることは出来ない」というような物惜しみの心を生じてはなりません。これも宗教の通弊として起こる事ですが、最初は一番善い所の教えを与えないというようなことで、それを蔵って置くような為に、その精神が終いには分からなくなってしまうことがあります。日蓮門下にあっても、寿量品や観心本尊抄等は、立派な能化でなければ説くことが出来ないとの風潮があったために、一般の僧侶は寿量品を講ずるとか本尊抄を説くということは殆ど無くなる、まあ最初の頃は知っていて説かなかったのかも知れませんが、次第には本当に教義を知らなくなってしまう、僧侶が説かないのですから信者に至っては全く知らない、そうして現に第一の寿量品に対する日蓮門下の無知識というものは驚くべきものとなってしまった訳です。そういう事にならないように誡められたのが、この「慳悋を生ずることなかれ」という経文なのです。如来の遺訓に背いた失敗は日蓮門下にも歴々として現れているのですから、始めから真実を学ばず、本当の所を抜きにしている他の宗派に於いては無論の事で、何処まで行っても仏教の本旨は発揚出来ません。そうして仏教は、いよいよ影を潜めることに至っている訳です。



 

報恩抄 その24

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月16日(月)12時24分19秒
編集済
  「此功徳は定めて上三宝、下梵天・帝釈・日月までも知ろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶かり給うらん」

法華経に捧げた功徳は、仏法僧の三宝から梵天・帝釈・日月までもが知られていることであるから、父母や師匠の精霊も必ず助かるはずである。日蓮聖人は一代の迫害をお書きになって、難儀をしたけれども、それが法華経のため、国家のためになったと思えば誠に冥加至極のことであると述べられています。しかしながら、母が餓鬼道に堕ちた目連尊者のように、釈尊の弟子・善星比丘が邪見を起こして地獄に堕ちたように、自業自得のために力が及ばぬこともあるとして、自分のお師匠さんである道善房のことを心配なされたのです。道善房は、弟子として日蓮を可愛がられたけれども、何分極めて臆病な人であった。その上に清澄の寺を離れたくないと執着した人である。地頭の景信に日蓮の味方になってはならぬと脅され、圓智、実城という兄弟弟子に抑えられて自由を失われていた。そういうことがあったために、どうも日蓮の言うことをお聞きにならなかったのである。ただ一つ良かったことは、地頭の景信と圓智、実城が先に死んだことである。その際に道善房が決心をして法華経を信じられたならば良かったけれども、日蓮が佐渡島に流された時にも一度も訪ねて下さらなかったことを考えれば、残念ながら法華経の正義を信じなかった人と断定せざるを得ない。師匠である道善房の御死去と聞いては、火の中にも入り、水に沈んでも走って行って、経をも読み、御回向も致したいと思うけれども、日蓮は遁世などとは思っていないが、世間の人は遁世していると思っているから、意思を最後まで貫き通すためにも、軽々しくこの山を出ることは出来ない。それがために代わりに弟子を送って、この報恩抄上下二巻を追善回向に捧げるのであるということをお書きになったのです。


 

お会式

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月13日(金)23時18分0秒
編集済
  さあ、誓いを新たにしましょう!

 

明解「法華経要義」 如来神力品 第二十一 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月12日(木)13時27分18秒
編集済
  (現代語)
この経をよく持つ者は、如来の入滅の後に、仏が説かれた経の因縁と次第を知って、その意義に随って偽りなく教えを説くであろう。日月の光明が暗闇を除くように、この人は世間に出でて衆生の心の闇を滅し、一切の菩薩たるべき人々を教えて、遂には一乗に住せしめるであろう。これ故に智慧有る者は、この功徳の利益を聞いて、私の入滅の後に必ずこの経を受持すべきである。この人が仏道において成就することは、決定して疑いは無いのである。

(要文)
如来の滅後に於て、仏の所説の経の因縁及び次第を知って義に随って実の如く説かん。日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅し、無量の菩薩を教えて、畢竟して一乗に住せしめん。是の故に智あらん者、此の功徳の利を聞いて、我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て、決定して疑い有ること無けん。

(要義)
この所は、この経を付嘱するにあたって、釈尊が上行等の本化の菩薩達に奨励の言葉を説かれたものです。「所説の経の因縁」とは、例えば阿弥陀経は、韋堤希婦人が、子である阿闍世王に座敷牢に入れられて苦しんでいるために説かれたものであるとか、その経典がどのような事から起こったものかということです。経によっては大した因縁でないものもあれば、法華経のように釈尊一代の教義を結束して最高の真実を現さんとするものもある訳です。華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃の五時教判は、仏教思想の順序次第を釈尊一代の化導として整理されたものですが、天台大師や日蓮聖人が言われた如く、経の次第因縁という事は、今日はなお一層明らかにして整頓して行かねばなりません。そして仏教の紛乱は、本化の菩薩が出現して大体の綱格を示し、法華経の真実義を説いて始めて解決される訳です。恰も日月が出でて世の闇を除くように、彼の菩薩は人の心の闇、殊に宗教に関する迷い、深い思想の問題についての闇を照らします。つまり本化の菩薩とは、思想善導の菩薩である、末法に至って思想言論の紛糾錯雑を極める時に出でて、快刀乱麻を断つ所の任務を帯びている者であるのです。

法華経から言えば、すべての人は仏性を有して菩薩行に進むべきものですから、この「無量の菩薩を教えて」という場合の菩薩とは、一切衆生を指しています。一切衆生を讃歎して「無量の菩薩」と言い、最初は否定され対立する者もあるけれども、その無量の菩薩を教えて畢竟して一乗に住せしめるのが本化の菩薩の働きです。「一乗」ということは種々の義を含んでいますが、言うなれば、一切の思想、教学を適当に調和統一して、採るべきは取り、棄つるべきは捨て、疎通すべきは疎通して、渾然として一なる大文明を造り上げるのが一乗に住せしめるという事です。日蓮聖人が「立正安国論」に「信仰の寸心を改めて実乗の一善に帰せよ」と言われたのも、このことです。色々な信仰思想というものがあり、それは一部分一部分を抑えて見れば一概に悪いことではないかも知れませんが、小さな事に引っ掛かって分裂して争っているのであれば、法華経のこの大思想に来たってそこに統一を教えなければなりません。それ故に、この法華経を中心として一切思想が纏まり、一切の者が闇を除かれるということが判ったならば、我が滅度に於いて必ずこの法華経を受持せねばならぬ、それは広く言えば法華経の宣伝であるし、纏めて言えば経要の受持である。

経要を受持するということは、南無妙法蓮華経と信念することですが、その信念の内容は仏性と本仏との二大教義を逸することは出来ません。ただ漠然たる宇宙観のように妙法を解釈して「妙法とは真理だ」とか「諸法実相だ」と言っても、その実相の内容が仏性と本仏とを考えないものであったなら、法華経の意義を為さないのです。宇宙全体が妙法と言ったのでは押さえ所がないから、天台大師も一念三千という事を言われたのであって、その一念とは心法なのですから、必ず衆生の心から妙法ということを考えなければなりません。宇宙はみな真理だ、これが妙法だなどと漠然たることを言うのは、段々と要路を押さえ来た教学を逆転させるようなものであって、有るべき事ではないのです。斯様にして、南無妙法蓮華経と唱え、内容としては仏性と本仏のことを明らかにして、そこに信念ならびに修行を起こして、行は少なくとも菩薩行の一部分に進んで、そうして法華経の宣伝に努力する人でなければなりません。そして、法華経の行者というのは、ただ独善主義であってはなりませんから、社会のため、国のため、人々のためという所謂菩薩の比丘であり、在家の菩薩でなければなりません。左様にして行くならば「是の人仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」、その人は仏になることを心配しなくとも宜しい、必ずや成仏出来るということを仏がお許しになられる、釈尊の方から間違いなく成仏を保障するという証明が与えられるのです。

 

獅子身中の虫

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月11日(水)23時10分26秒
編集済
  すみません、私も平和のために命を懸けていた元戦闘機のパイロットですから言わせて貰いたい。

さて、本日のテレビ朝日の党首討論。創価学会・公明党も、国民の大半も「自衛隊を容認しております」って一体何なんでしょうね。本当は存在すべきではないが、存在することを「容認」してやっていると言う意味に聞こえるのは私だけでしょうか。「容認」の意味は、本来は認められないことを、よいと認めて許すことです。国の平和を維持するためには、命を賭して任務を遂行すると誓って厳しい訓練に臨み、災害救助でも身を粉にして働いている隊員をここまで辱めますか?それで、国を守る自衛隊を憲法に明記することには反対する、自衛隊を正式に認めることには反対すると言うわけですか?国民の支持を得ていない共産党や社民党、国賊の朝日新聞など左翼系新聞が、国民の半数以上が反対している、自衛隊を正式に認めると戦争になるなどと馬鹿げたデマゴークで思想誘導するのも何をかいわんやですが、カルト宗教の創価学会・公明党が偽善面で平和を唱え政権与党に居続けることにも、日本国民の皆さんは是非とも憤りを感じて頂きたいと思います。

 

偽善

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月10日(火)08時40分21秒
編集済
  仏教的な考えが廃れて、世の中は偽善者ばかりの主張が目立ちます。仏教においては、行為そのものには善も悪もありません。善い考えに基づく行為は善であり、邪な考えに基づく行為は悪です。

分かり易く述べれば、家族が強盗に殺されそうとなっている時に命懸けで闘い、たとえ相手を殺すことになっても、それは悪行ではありません。勿論、金目当てで人を殺すのは悪行ですね。勿論、恋人同士の性行為は悪行ではありませんが、強姦は悪行ですね。

戦闘も体罰も、そのものが暴力であり悪なのではありません。勿論、そこには限度というものがありますが、国家の平和を守るための戦闘も、相手のことを思ってする体罰も、けっして一切が悪いというわけではありません。善人を気取りたがる人は多いですが、そういう人達の主張が強くなると、世の中の秩序や調和は保てなくなるでしょうね。


 

報恩抄 その23

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月 7日(土)11時13分23秒
編集済
  「賢人の習い、三度国を諫むるに用いずば、山林に交われということは、定まる例なり」

段々と難が重なり、龍ノ口では頸を斬られるために座らされ、次には雪の中の佐渡島に流されるなど、一代の艱苦に耐えられました。そして遂に文永十一年二月十四日に赦免されて、三月二十六日に鎌倉に帰り、そして平の頼綱に面会することを得ます。これが最後の殿中の諫奏となりますが、その時に北条時宗が平頼綱をして問わしめたことは、「蒙古は何時攻めて来るのか」ということでした。平頼綱は、これまでの無礼な態度を改めて、相当な敬意を払って日蓮聖人に教えを乞うたとされます。そこで日蓮聖人は、「経文には明らかに何時とは書かれていないが、日蓮が苦言を呈しても顧み給わざるが故に、天の怒りはますます烈しくなっているようである。よも今年を過ぎることはないであろう」と答えられたのです。文永十一年の四月に、今年必ず蒙古が襲来するということを予言し、そしてその年の十一月に至って、蒙古の襲来「文永の役」は起こりました。元軍および高麗軍に侵攻された対馬、壱岐、備前の松浦の有様は惨憺たるもので、対馬・壱岐では武士どころか百姓も悉く殺され、女は素っ裸で掌に穴を開けて数珠繋ぎに船に縛り付けられ、そして海に放り込まれました。日本人が敵国のために酷い目に遭ったのは、この日蓮聖人の予言した文永十一年の役であり、これが後に再び「弘安の役」として現れて来るのです。

人心の統一は破れ、宗教は腐敗し、政治は乱れ、日本は実に危ない有様になっている、蒙古は沢山の兵隊をもって日本を滅ぼそうとしている。日蓮は日本の国家を憂い、そして法のため国のために尽くすことが、取りも直さず父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩を報ずる所以であろうと思うて、命も惜しまず申してきたのである。しかしながら、三度国を諫めても用いられなければ、身延の山に隠栖することも致し方が無い。この「賢人の習い」とは「孝経」や「礼記」などの儒教の方で言うことですが、日蓮聖人が「心には遁世とは思はねども、人は遁世とこそ思うらんに」と述べられているように、法華経の行者としての活動から退いて世間から離れて静かに暮らすことを望まれたわけではありません。鎌倉にあって幕府の恩恵を受けて温々と過ごすよりも、たとえ辛酸を嘗めることになったとしても、信念を貫いて正義を守る所の精神が真実報恩の道であって、そのあり方が後代の人心に感受するからであり、また教えを残して弟子の育成や信徒の教化にも力を注がなければならなかったからです。


 

明解「法華経要義」 如来神力品 第二十一 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月 4日(水)08時52分8秒
編集済
  (現代語)
これ故に汝達よ、如来の入滅後に、この経典を一心に受持し、読誦し、解説、書写して、説かれた如くに修行すべきである。所在する国土で、受持し、読誦し、解説、書写して、説かれた如くに修行することがあれば、経巻を置く所であれ、園庭であれ、林中であれ、樹下であれ、僧房であれ、在家の家であれ、殿堂であれ、あるいは山谷や広野であれ、そこに塔を建てて供養すべきである。当に知らねばならぬ、その故は、この所こそが道場だからである。仏達はここで無上の正しき覚りを得、ここで法を説き、ここで入滅されるからである。

(要文)
是の故に汝等如来の滅後に於て、当に一心に受持・読誦し、解説・書写し、説の如く修行すべし。所在の国土に、もしは受持・読誦し、解説・書写し、説のごとく修行すること有らん。もしは経巻所住の処、もしは園中に於ても、もしは林中に於ても、もしは樹下に於ても、もしは僧坊に於ても、もしは白衣の舎にても、もしは殿堂に在っても、もしは山谷・曠野にても、是の中に皆塔を起てて供養すべし。所以は何ん、当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於いて法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したまう。

(要義)
如来の滅後において、この法華経を一心に受持・読・誦・解説・書写すること、これが五種の修行です。読と誦の違いは、経文を見て読むのと暗で誦むことであり、受持とは元は経の内容を憶えて忘れないようにすることでしたが、その意義は段々と進んで、教えの精神を信じ、その信念を持続することとなっています。そこで、先に述べたように題目の妙法蓮華経の五字が経の精神を包んだものであることから、日蓮聖人に依れば妙法蓮華経の五字を受持・信念するということにもなる訳ですが、観心本尊抄に「釈尊の因行・果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」と述べられた因果というものが、仏性論と仏陀論であるということになって行くと、どうしても寿量品の本仏のことを意識しない訳にはいけません。また、開目抄に「発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず」と、本仏が顕されなければ、一念三千という宇宙観も決まらず、二乗作仏の根拠である仏性も定まらない、寿量顕本の大事を逸してしまったならば、大事な教義が一度に壊れてしまうと言われているのですから、それが判らないというのであれば日蓮教学を宣伝する資格はありません。この「発迹顕本せざれば」という聖訓について、何らの研究も観察も有さずにいるような者は、語るに足らぬ所の者であって、そのような者の意見を聞く必要は無いのです。この点は充分に明らかにしなければ、日蓮教学は危ないものになる、ただ「南無妙法蓮華経」を信じるなどと文字神聖論のような事を言っていては、将来の宗教として到底生命のあるべき筈はありません。

また日蓮本仏論の如きも、宗教の本義から見ては根本的考察を逸したものであって、ただ「末法の導師」というようなことから「本仏だ」と言うようなことでは、そもそも本仏ということの根本の観察が立ちません。本仏とは絶対無上にして一切を包括する所のもので、所謂普遍妥当性を有していなければならない、時間を貫き空間に亘って一切の中心、根本であるということでなければ本仏というようなことは言い得られないのです。したがって、「一切衆生には、仏性があり本覚があるから本仏だ」などというような事も、宗教の本尊を論じる場合には問題になりません。開目抄に在る通り、法華経の二大教義は二乗作仏と久遠実成なのですから、私達はこの大事を受持していかなければなりません。これを不軽品において考えれば仏性の覚醒運動となり、寿量品において考えれば本仏釈尊に対する渇仰の信念となるのであって、その両方を忘れないようにしなければなりません。自己を反省した時には仏性の自覚、仏子の自覚を起して菩薩行の誓いを立てて進み、本仏を仰いだ時はその大慈悲に感激しなければなりません。この二つがあってこそ始めてそこに感応が起こり、信行が立つのです。

この五種の修行をする場合には、経巻所在の処でも、園の中でも林の中でも、何処でも塔を建てて供養して宜しい、そこが即是道場であり、其処に於いて諸仏は菩提を得て法輪を転じ、そして涅槃すると説かれています。釈尊降誕の迦毘羅衛城、成道の伽耶城、説法の霊鷲山、涅槃の双林拘尸那城と霊地巡拝をしなくとも、何処でも世界中至る所、法華経を信心する所が即是道場であって、そこに仏は来臨影嚮し給うとの意味が説かれているのです。これは非常に高い思想で、無論曼荼羅本尊を安置することは結構であるけれども、言葉を以て勧請しても足りるということです。日蓮聖人が余所に行かれるのに、本尊を携帯して行ったということはありません。如何なる所に於いてでも、そこに文字の本尊が無く、木像の本尊が無くとも「謹んで勧請し奉る本門寿量の本尊、南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏」と申し上げれば、本仏釈尊は来臨影嚮し給う、そのような実在の意識が大事であるのです。

日蓮聖人は曼荼羅をお書きになったけれども、そのお書きになった曼荼羅そのものが一番有り難いという意味ではありません、本仏実在の意義こそが有り難いのです。ただ形式のみで内容が無く、実在がなかったならば駄目です。本尊の写象式のみであって、実質の意義が明らかにならなかったならば、それは将来の宗教としては役に立たないのです。寿量品は「近しと雖もしかも見えざらしむ」「常に此にあって滅せず」と説かれ、日蓮聖人は、「この経を信じる人の前には、滅後たりと雖も仏在世なり」と言われて、本仏実在の意識を明らかにしています。寿量品の要点を言えば、釈尊は何時でも此処に活きている、何時でも汝の前に居るぞと仰っておられるのです。その実在の意識を明らかにして導くことが大事であるがために、仏塔が建てられて供養が為される、そして日蓮聖人は曼荼羅本尊を書き顕されたのです。日蓮聖人が図顕された曼荼羅の尊さを相当に説くのは良いけれども、そればかりを喧しく言って、実在の意識が枯れてくるようなことは、大いに考えなければなりません。そのような誤りを誡めるために、この神力品の「即是道場」の経文がある、そして今一つは法師品の「復舎利を安ずることを須いず~この中に已に如来の全身います」との経文もある訳です。

 

総選挙

 投稿者:shamon  投稿日:2017年10月 2日(月)11時02分47秒
編集済
  創価学会は、日蓮正宗の「釈迦の教えは役に立たない、日蓮大聖人こそが本仏」という悪質な教義を利用して、他の一切を邪宗と罵り、無知なる大衆に共通の敵を持たせることによって、組織の拡大を謀ってきた池田大作のカルト宗教である。近年、仏教学者としての良心から、今こそ日蓮聖人の遺文を歪曲・捏造した教義は改めるべきとした創価大学教授の宗教学会での発表を、今更洗脳は止められないと創価学会の上層部は叱責して黙らせた。その似非宗教団体が、政権に与して様々な所で権力を振る舞っているのである。日蓮聖人の予言通りならば、宗教的には彼等を政権から排除しない限り、他国侵逼の難が迫っていることは免れない事実である。自公希維大連立で済む問題では無い。


 

報恩抄 その22

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 9月29日(金)12時28分26秒
編集済
  「弘長元年辛酉(かのととり)五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆国伊東に流されぬ。其後いよいよ菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし」

日蓮聖人の議論は時の為政者及び宗教家には受け容れられず、遂に弘長年間には伊豆の伊東に流罪となり、その後様々な迫害が身に及ぶこととなります。戒律堅固のように見える人も、日蓮には悪口を言う。律儀で賢者の如く見える人も、日蓮に向かっては理を曲げて非を行う。いわんや世間一般の人は、犬が猿を憎むが如くに、目の敵にして日蓮を迫害します。それは何故かと言えば、日蓮聖人が相手の過ちの急所を突いて、「念仏は無間地獄に堕ちる」「真言は国を亡ぼす悪法である」「禅宗は天魔の教えである」と身命を惜しまずに責めたからです。これは孟子の格言に「もし薬瞑眩(めんげん)せずんば、その疾(やまい)癒えず」とあるように、つまり薬を飲んでも目眩がするほどの反応がなければその病気は治らない、忠言・忠告をするにしてもそれによって相手が激しい反応を起こすほどのものでなければ、その非は直らないとされるからです。

これを仏教では「動執生疑」と言って、相手の執着している心を動揺させ、「これまでの考えは果たして正しかったのか」と疑問を生じさせ、真実の教えに導く方法の一つとしています。もし囚われたる精神が動かなければ、新しい信仰に入ることは出来ません。今まではこう考えていたけれども、それは間違っているかも知れないという動きを生じ、それから更に疑いとなり、今度はその疑いを断ち切って、より高い次元の信仰に進むのです。「断疑生信」と言って、疑いを断って信を生ずるのです。故に相手の執着の心を動かそうとすれば、手緩いことではいかぬ、それが日蓮聖人に対する迫害となって現れて来たわけです。四箇格言の如き、あるいは北条に対する諫言の如く、日蓮聖人の各々の宗旨に対する批評というものは随分と烈しいもので、「中々酷いな」というように感じるかも知れません。しかしながら、「本より存ぜしがゆへに」と言われているように、このような迫害を受けることを覚悟した上で、彼等が迷いを覚ますために急所を突いた、自分は非常な迫害をされるにも拘わらず、大勢の人のためにこれを甘受された日蓮聖人の慈悲なり、智慧なりの光を私達はそこに認めなければならないのです。


 

持妙法華問答鈔

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 9月28日(木)09時35分17秒
編集済
  篤信の方から、本多日生上人が「法華経の心髄」の最後に引用された「持妙法華問答鈔」の一節についてご質問がありましたので、皆さんの参考のために要点の解説をこちらにも転載致します。「持妙法華問答鈔」は、弟子の日持上人が日蓮聖人に、受持の心構えをお尋ねしたものを整理したものだと言われています。

「一切衆生皆成仏道の教なれば、上根上機は観念観法も然るべし。下根下機は唯信心肝要也」

観念観法によって結局に至るところは、曼荼羅御本尊に描かれているように、霊鷲山の説法の座に自らが居たという宗教体験を通して、本化菩薩の一員であったと悟ることにあります。しかしながら、利智精進して、そこに至ることが出来ない下根の人、一般の人であっても、以信得入してそれを確かに信じることが出来るならば、四信五品鈔にも詳しく説かれたように、同じ結果を導くことが出来る、仏道を成ずることが出来るわけです。

「事にふれ、をりに付ても後生を心にかけ、花の春、雪の朝も是を思ひ、風さはぎ、村雲まよふ夕にも忘るゝ隙なかれ。出る息は入る息をまたず。何なる時節ありてか、毎自作是念の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是期する処の余命にはあらざるをや。総て過にし方をかぞへて、年の積るをば知といへども、今行末にをいて、一日片時も誰か命の数に入べき。臨終已に今にありとは知ながら、我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし。さこそは皆成仏道の御法とは云ながら、此人争か仏道にものうからざるべき。色なき人の袖にはそぞろに月のやどる事かは。又命已に一念にすぎざれば、仏は一念随喜の功徳と説給へり。若是二念三念を期すと云はば、平等大慧の本誓、頓教一乗皆成仏の法とは云はるべからず。流布の時は末世法滅に及び、機は五逆謗法をも納たり。故に頓証菩提の心におきてられて、狐疑執着の邪見に身を任する事なかれ」

人世は短く儚く、何時死ぬとも限らない。ならば如何なる時でも、法華経に明らかにされた釈尊が如何に私達に仏の身を得させようと常に慈悲をもって導いておられること、そして「一人として仏に成れないものはいない」というその法華経を信じないなどということは、絶対にあってはならない。慢心を起こしたり利欲を求めたりするばかりで、この妙法を唱えないなどということは非常に残念なことである。

「七難即滅七福即生と祈んにも此御経第一也。現世安穏と見えたれば也。他国侵逼難・自界叛逆難の御祈祷にも、此妙典に過たるはなし。令百由旬内無諸衰患と説れたれば也。然に当世の御祈祷はさかさま也。先代流布の権教也。末代流布の最上真実の秘法にあらざる也。譬ば去年の暦を用ゐ、烏を鵜につかはんが如し。是偏に権教の邪師を貴て、未だ実経の明師に値せ給はざる故也」

災難を滅して諸天善神の御加護を得ようとする時にも、他国が攻めてきたり内乱が起ろうとする時にも、祈るべきはこの法華経以外に優れたものはない。そうであるのに、人々が迷信の邪な祈祷師に頼っているのは、真実を説く法華経の師に未だ巡り会っていないからである。

「惜哉、文武の卞和があら玉、何くにか納めけん。嬉哉、釈尊出世の髻中の明珠、今度我身に得たる事よ。十方諸仏の証誠としているがせならず。さこそは一切世間多怨難信と知りながら、争か一分の疑心を残して、決定無有疑の仏にならざらんや。過去遠々の苦みは、徒にのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん。未来永々の楽みはかつかつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず」

人に認められないなどと嘆いていては駄目である。釈尊出世の本懐である妙なる法華経を我が身に得たのであるから、如何なる困難があっても仏に成れるということを疑ってはならない。一時の名声や利欲に惑わされて、未来永劫の悦びを失ってはならない。

「三界無安猶如火宅は如来の教へ、所以諸法如幻如化は菩薩の詞也。寂光の都ならずずは、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離て何事か楽みなるべき。願は現世安穏後生善処の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべき。南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経」

三界は火宅の如しと如来は教えられ、一切のものは幻の如くであると菩薩は述べられた。もし、この世界の真実が、私達を導かれている本仏釈尊の寂光の浄土であると悟らなければ、一切は皆苦しみである。ならば、現世を安穏とし、後生は善処に生まれることが出来る法華経を持って、そして自らが南無妙法蓮華経と唱え、他に勧めることこそ、今回この世に生まれてきた甲斐あることではなかろうか。




 

/118