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(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 5月20日(日)17時09分3秒
  いつも本当に有り難うございます。

菩提寺のお上人が、中川日史猊下の『法華経の行者日蓮聖人』という講演録を下さいました。「恵存」と一筆入っていましたので、猊下ご本人からいただかれたものと思います。『日蓮主義の常識』を読んでいて、画竜点睛を欠くと言いますか、隔靴掻痒の感がありましたが、それはまさにこの本尊観のことであったと、もやもやが雲散した気がします。

ネット上の書き込みを読んでいても、私のような在家の新米信者には、今日の日蓮教学は難解にすぎます。鎌倉時代、日蓮聖人が民衆にみ教えを説かれた際、その一人一人に「これを拝め」と曼荼羅を書きしたためてお与えになったわけではないはずです(そもそも文字が読めないでしょうし)。み教えくださったのは、「なむみょうほうれんげきょう」のお題目と、「これを受持すれば、この世界の師であり主であり親であるお釈迦さまのお徳をそのまま受けることができますよ」ということ、それに尽きたと思うのです。もちろん、現代に生きるわれわれは、有り難いことに法華経や日蓮聖人のご遺文を拝読することができますし、その内容をよく知って信心させていただくほうがずっと有り難いと思うのですが、それをこねくりまわして難解極まりないものにしてしまっては、本当にもったいないと思います。

本多日生猊下、そしてshamonさんが教えてくださっている通り、久遠実成の釈尊をこそ本尊とし、そのお慈悲にすがっていく日蓮聖人の信仰に立ち返るべきだと思います。「塔中聴法の次第」、そうなのですね、改めて日什大正師の法脈につながることができたことを有り難いと思います。

しかし、什祖があそこまで厳重に言い置きをされ、本多日生猊下が信心一新と呼んでいい運動を展開なさりながら、同時代に管長まで勤められた碩学が、異なる本尊観を持ち、信者を教導なさるとは、いったいどういう理由によるものなのでしょうか。とても不思議です。
 
    (shamon) 「若し善男子善女人、我が寿命長遠なるを説くを聞いて深信に信解せば、即ち為れ仏常に耆闍崛山に在って、大菩薩・諸の声聞衆の囲繞せると共に説法するを見る」

深信観成に至れた人と、そうでない人の違いでしょうね。
 

開目抄 その14

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 5月19日(土)08時17分37秒
編集済
  「いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず、二乗作仏も定まらず」

迹門の方便品において、この一念三千と二乗作仏が説かれたから、二つの失の中の一つが消えた訳であるが、発迹顕本せざれば、即ち寿量品において本仏が現されなかったならば、その二乗の作仏も定まったものではない。二乗作仏とか何とか言っても、上の方に本仏がなければ、本来仏性を持っていても、それを現す機会がない。二乗作仏と言っても、本仏を忘れるならば、「水中の月を見るがごとし、根なし草の波上に浮(うかべ)るに似たり」と日蓮聖人は論じています。卵はあっても、それを温める親鳥が居なかったならば、卵も終いには腐ってしまう、仏性を有していたとしても、本仏の威徳と美徳に感化されることがなければ、仏性を顕すことは出来ないのです。法華経の本門に至って寿量品に久遠実成が現れたならば、そこにおいて一切の解決が付く、総ての人が本仏との結合が出来、私達が持っている仏性は始めなき以前より本仏と関係を取っていることが分かります。私達は仏性を持っている所の子であり、釈尊は久遠の本仏であって、私達の父である。この関係は今度釈迦牟尼仏が天竺に出てから発生したのではありません。法華経の譬喩品に「今この三界は皆これ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり」とありますが、この衆生は子であるというのは、天竺に出て成道を遂げてから、そこに親子の関係が生じたのではありません。私達の魂が生まれ変わり死に変わりする無限の過去より、その根本より、本仏の釈迦如来は、私達を救わんとする大慈大悲を持たれているのです。

私達がこの娑婆世界から離れることがあっても、堕落して餓鬼世界や畜生世界に堕ちようとも、私達の信じる根本の本仏は、私達の陥った所までも光を放って済度して下さります。過去を考えれば限りなき長い間、この大慈大悲の恵みを私たちは受けていた。自らは真に堕落しやすい不都合極まるものであるけれど、餓鬼界を巡り畜生界を巡っている間、そして人間界にある間も、本仏釈尊の大慈大悲に感激して進んでいたがために、今生にその機熟して正法を聞き、そして法華経の行者になることが出来たのである。人として今日の自分があるのも、自分だけの力ではない。それは自分の力もあろうけれども、本仏釈尊が何時も慈悲の恵みを垂れて下されたからこそ、どうにかこうにか、ここまで来ているのである。もし本仏釈尊から全く離れてしまったならば、今頃はもう地獄のどん底であったに違いない。このように、本仏の大悲大慈に感謝する所がなければなりません。病気を治して貰ったから有り難い、信心しても治らなければ捨ててしまうというような関係ではない。生まれ変わり死に変わりして行く過去に現在に未来に、三世を貫いて本仏との関係は離れない、本仏と私たちは父子の関係である。そこが寿量品において現れている、ここに本当の一念三千の義理もあり、法華経の心髄があるのです。それ故に日蓮聖人は、この意味を十分に考えて、そして一切経を判釈すべしと教えられたのです。


 

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 5月18日(金)11時06分29秒
  日蓮聖人ご遺文の真偽について、本当に有り難うございました。
重ねてお伺いします(質問ばかりで申し訳ありません)。中川日史上人の『日蓮主義の常識』に、本多日生上人の謦咳に接したご信徒が、「日生猊下とあなた(中川上人)の本尊観が違う」と詰め寄るくだりがあります。
日生猊下は釈尊本尊、中川上人は曼荼羅本尊で、中川上人は宗是から言っても曼荼羅本尊が正しい、と譲られないのですが、私には二つが矛盾するようには思えないのです。宗是はあくまで「道場に奉掲する本尊」を曼荼羅とする、ということであって、私は日々のお勤めでは、お曼荼羅を観念し(言葉が正しいでしょうか)、その場をまさに法華経会座の場といただき(会座の末席に座らせていただき)、久遠実成のお釈迦さまを礼拝する、という心持ちでおります。同書にしたがって言えば、「釈尊本尊か曼荼羅本尊か」ということについて、ご教示いただけたら、と思います。
 
    (shamon) 中川猊下は、本多猊下の教義とは異ならないと弁解されていますが、人法不二なれど法に重きを置くと言われていたことを考えると、仏教は真理を悟ろうとするものである、中川猊下が言う曼荼羅本尊とは、即ち「南無妙法蓮華経」を法本尊の対境として真理を悟るという考えだったように思えます。どちらかというと日蓮宗の教義に近いですが、そのようなことで真理を悟った人は、見たことも聞いたこともありませんし、おそらく今後も現れないでしょう 。もし、そう言う人が現れたら、怪しむべきでしょうね(笑)。人法不二なればこそ、本多猊下が説かれたように、本仏釈尊の実在に感激して、そうして法を授かることの方が信仰として現実的です。

日蓮聖人も、観念を凝らして真理を悟るようなことは困難と考えられたからこそ、信心のための曼荼羅本尊を描かれたのですね。曼荼羅本尊は、南無妙法蓮華経の題目を拝むものではありません。日蓮聖人が曼荼羅本尊に描かれたのは、征尚さんが仰る通り本門の霊山虚空における説法の会座で、本仏釈尊に見(まみ)えて感激し、授かった妙法の五字を受持して法華経の流布を誓願したことを覚るためのものです。塔中とは、本門の会座のことですが、什祖が「塔中聴法の次第」を確かに伝授したと書き残されているのも、正にこの事です。ですから、曼荼羅本尊を前にお勤めをしますけれども、曼荼羅本尊が前に無くとも、南無妙法蓮華経と唱えたならば、曼荼羅本尊の世界が目の前に現れる、本仏釈尊を拝することが出来るようになることが大事ですね。


 

明解「法華経要義」 方便品第二 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 5月17日(木)18時47分59秒
  (現代語)
その時、世尊は瞑想より覚めて心静かに起ち上がると、舎利弗に告げました。仏の智慧は、まことに深く限りなく、理解し難きものである。一切の声聞・縁覚には知ることの出来ないものである。その故は、仏はかって数限りなき諸の仏に仕え、数限りのない修行に精進し、そして、まことに深き法を得ることを成し遂げているからである。その上にあって、人々の意の深浅に随って説きたまう所なれば、その意趣もまた覚り難きものである。

(要文)
その時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。その智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。所以は何ん。仏、かって百千萬億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞こえたまえり。甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもうところ、意趣解り難し。

(要義)
方便品は、寿量品の次に大事な法門が説かれています。この題号の「方便」を世間では「嘘も方便」という誤った使い方をして、正しく理解している人は少ないようですが、本来の意味は「真実に導く巧みな手段」です。天台大師は法華文句において、「法用方便」「能通方便」「秘妙方便」の三種の方便について特に説明をしています。「法用方便」とは、衆生の機根に応じて教えを説くことで、四角の器に水が入れば四角に、丸い器に水が入れば丸くなるように、相手の能力や好みに合わせて教えを説くことですが、それは法華経の説く方便には非ずと天台大師は述べています。方便は「善巧方便」と言って、非常に善良なる意味と巧妙なる意味を有していなければならないものです。したがって、今日の仏教界のように、教えを軽んじて機根を重んじ、「これも方便」「あれも方便」と都合良く俗信を用いるようなものは、釈迦如来が応用する方便ではありません。そのような方便を用いていれば、必ず宗教は低劣なものとなり、或いは迷信化して行きます。また、第二の「能通方便」は、「能通とは門である」と言われるように、仏教は始めに浅き教えを与えても必ず深き所へと導くものでなければならないものです。もし能通の方便のみであって、真実の相に至ることがないのであれば、それもまた法華経の採る方便ではないと天台大師は言われています。

そして第三の「秘妙方便」とは、方便のようであって実は真実を微妙に説いたもの、教化のために真実を応用したるものを言います。それは例えば、嘗て小学校の国語教科書に載せられた御伽噺等が善悪や物事の考え方を教えていたように、通俗的に書かれたものであっても、その精神に至れば、その中に非常に高遠な意味が含まれているようなものです。この善巧の智慧を以て一切経を説いているもの、これが法華経で説く所の「秘妙方便」です。それ故に法華経は、釈迦一代の方便の教えを開顕して、方便を讃歎しているのです。法用方便のように教えを軽んじて気根に流れ、仏教を低級なものにしてはなりません。そして、方便に名を借りて人を迷わし人を誤らせ、無闇に「方便だから」と自分の非を弁護するようなことは非常に悪いことです。また、ただ日蓮は正義である、法華経は真実である、最高の真理であると頑なに言うのみになって、応用の上に適当した方法が取れなくなる、その教えが足らぬということになるならば、それは法華経の精神ではありません。釈尊は、宇宙の大真理を有し、そしてそれを運用する上に於いて巧妙自在であるのです。その両方の最高の意味合いを併せ得ている、法華経は最高の真実と完全なる方便とを併せ得ている、そのことが法華経の巻頭に方便品として説かれているのです。それ故に完全なる方便の応用ということは、寧ろ真実を研究するよりも大事なことになります。譬えれば医者の病理に関する知識と実際の診断・投薬との関係のようなもので、「病人の診察や薬を盛ったりすることは時々間違うかも知れないが、病理の研究に於いては間違いないから、俺は立派な医者である」という者があれば、それは間違いなく「危ない医者」です。それと同様に、宗教家というのは実際に活きた人々に対する精神の医者なのですから、「俺は真実の方だけは得ているけれども、応用の方に於いては如何なる薬を盛るか分からん」というようなことであったならば、実に「危ない宗教家」であるのです。今日仏教が振るわないのは、やはりそのような事で、ただ法華経を研究すると言えば古い書物として法華経を読んで、脈の取り方も分からないような医者が出来る、引導を渡すと言えば古い紙に書いてある事を暗唱で覚えて唸る事だけしかやらぬ、教えを説くなどと言っても少しも分かるような事は言わぬ、実に釈尊の思し召しに背いた状態にあるからです。

仏の智慧を斥けて、ただ宇宙の真理を語らんとすれば、それは哲学となります。また、私達が直接その真理に向かうことが出来るならば、宗教というものは必要ではないのです。しかしながら、私達が過去の人智に学ぶ所なくして、如何に静思瞑想したとしても、碌な考えが涌いて来るものではなく、一種の幻覚妄想が起こるに過ぎません。天台大師は「仏智に約して実相を論ず」と言われましたが、人々は直接宇宙の真理に向かうことが出来ないが故に、そこに宗教が必要となり、そして宗教的偉人の智慧を通じて現れたものを見ようとするのです。したがって仏教では、仏が覚った智慧は偉大である、その智慧に照らされた宇宙の真理は斯様なものである、そしてそれを教えにしてくるという順序を立てます。仏の悟りとは甚だ深くそして広く、矛盾や対立のない絶対のものであり、その智慧は学んで容易に得難きものです。ただ自分一人の身を修めて、自己の完成を目指そうとする所謂小乗の教えにある者では、真の仏の智慧に至ることは出来ないとされます。何故ならば、仏はかって多くの諸仏の下で勇猛精進に修行を積み、そして功徳を重ね、その名誉高く秀でたる人であったが故に、遂に偉大なる悟りを得たからです。そして、その仏の成就した「未曾有の法」とは、他の哲学や宗教、世俗の考えとは趣を異にしている真実です。仏は、その未曾有の法を応用の上に最善を尽くし、そこに適当したる所の教化を打ち立てているのです。したがって、私達が切れ切れに仏教を学ぶならば、「宜しきに随って説いた」枝葉を学ぶが故に分裂した仏教となり、全く要領の得ないものとなってしまいます。しかしながら、もし真実と方便の関係を了解し、未曾有の真実の奥を突いて、そこから出た応用の全体を達観して見た時には、仏教は統一の教えとして、すべての仏の間にも共通したる教えとして、少しも分裂したものとはなりません。ここに釈尊が「解り難し」と述べているのは、それが難行道であるが故に、浄土門のように「無駄だから止めておけ」との意味ではなく、一層熱心にそれを覚ろうとする心を奮励するものであることは言うまでもありません。


 

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 5月17日(木)12時54分30秒
  平素のご教導、本当に有り難うございます。
またしても質問なのですが、日蓮聖人の御遺文のうち、これは真蹟に相違ないというものは、具体的には、
「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」「撰時抄」「報恩抄」の五つでいいのでしょうか。
日蓮聖人の思想についてついて知りたいと思い、ネット検索をしても、出てくる文言は、
法華経(私の場合は『明解法華経』なのですが)に照らして違和感や疑問のあるものばかり、
とても日蓮聖人から出てくるとは思えないものばかりです。
youtubeでも「大聖人の仰せ」などと、法華経を学べば学ぶほど、
「本当にそんなことをおっしゃったのか」と首をかしげざるを得ない言説が語られていて、
これ以上ない法華経や日蓮聖人に対するネガティブキャンペーンだと感じます。
 
    (shamon) 大石寺関連のみならず、日蓮聖人の御遺文と言われるものには、偽書や、誰が書いたか分からない真蹟の存在しないものが多く存在します。そういうものを根拠に各宗派が教義を立てるから、本当の日蓮聖人の教えが分からなくなるのですね。

「立正安国論」「開目抄」「観心本尊抄」「撰時抄」「報恩抄」、真蹟のある御遺文で最も大事な五大部です。これを中心に正しく理解すれば、日蓮聖人の教えは疎通できます。
海外布教用の Kempon Hokke サイトなのでローマ字になってますが、こちらを参照してください。http://www.kempon.net/authentic%20writings.html

AAA:  五大部御遺文
AA:  その他の重要な真蹟のある御遺文
A:   真蹟のある御遺文
A':      一部真蹟のあるもの

Non:  真蹟なし、写本と言われるものがあるだけ
Caution:  真蹟なし、日蓮聖人の思想とは相容れない内容多々
Warning: 偽書

明らかな偽書は、ここには出していません、ここに題名のない御遺文は、まあ参考にしない方がよいでしょうね。
 

開目抄 その13

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 5月12日(土)06時07分36秒
編集済
  「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり等云云」

法華経第十五の涌出品において、上行等の菩薩が現れた時に弥勒菩薩が疑いを起こします。そして、この大勢の菩薩達は一体誰が教化をして、このような偉い方々となられたのかと問うた時に、釈迦如来は、この上行等の菩薩は私が教化したのである、私が初めて発心せしめた弟子であると言われます。驚いた弥勒は、疑って更に問います。悉多太子であられた貴方が成道を遂げてから今日まで、漸く四十年しか経っておりません。その間私は貴方の傍らを離れたことはありません。この大勢の菩薩を何処で教化されたでしょうか。私は、この中の一人も見覚えのある者がおりません。もし貴方が十分な御説明を下されなければ、それは恰も二十五になる若者が、百歳の老人を捉まえて俺の子であると言い、百歳の老人が二十五の若い人に向かって、お父さんと言ってお辞儀をしているのと同じことになります。その時に、この疑いを晴らさんがために釈迦如来はいよいよ寿量品を説いて、多くの者が今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して菩提を得たと思っているが、それは汝らのただ上辺の考えである、実には成仏してから数限りも知れない年数を経ている、久遠実成の如来であると答えられたのです。此処が、法華経の顕本ということです。難しいことではありません。汝らは、釈迦はこの間に仏になったと思うから、大勢の弟子が出て来たことに驚いているが、私の本体を明かせば、始め無き以前よりの本仏であり、人々を教化するためにこの娑婆世界に現れたのである。そして今、私が遙かなる過去より教化している弟子達が、我が教化を助けるために此処に現れたのであると説かれたのです。

「華厳ないし般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成をときかくさせ給へり。これらの経々に二つの失あり」

華厳から般若・大日経と沢山の経があるが、それらには二乗が仏になれる事と、釈迦如来の久遠実成ということが説かれていない。この二つの大きな失が、これらの経にはある。この寿量品の顕本は、仏教において一番の大事なことであるのに、その久遠実成を説かないばかりか、二乗作仏までも隠すのは一体どういうことであろうか。ここにおいて日蓮聖人は、二乗作仏と久遠実成の二つの問題から一切経の判釈を下します。如何に華厳経が十玄六相という立派な教理を説こうとも、大日経が毘盧遮那如来の説法であると虚仮(こけ)威しを幾ら言おうとも、一番大事の二つの問題が現れていない。この仏性の事と本仏の事は、主体・客体と言って宗教の根本です。主体は我々宗教を信じる人、その本質を明らかにする事であり、そして客体は神とか仏とかいう対境の完全なる説明をすることです。この客体である本尊と主体である私達の、上から来る関係と下から行く関係が宗教となるのですから、二乗作仏と久遠実成の二つの問題が現れていなければ、仏教は宗教としての根本を失ってしまいます。二乗作仏の問題は、法華経の一念三千論であって、如何なる者にも仏性があることを論証するものですが、権経にはそれが現れていません。そして久遠実成は、釈迦如来の絶対価値を現すものですが、それも権経には説かれていません。そこで日蓮聖人は、「これらの二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり」と言われた、この二乗作仏と久遠実成とが、一切経中一番大事な問題である、広げて言えば一切の宗教の本質であることを明言されたのです。


 

お礼

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 5月11日(金)17時22分0秒
編集済
  ご丁寧にお答えくださり、心からお礼申し上げます。
なるほど、勧請文は、件の一文を削除すればよさそうですね。
回向文でも、宗門のCDでは「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏」で始まる一文が飛ばされているので、
自分は省略せずお唱えしています。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。
 

質問

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 5月 7日(月)15時09分52秒
  いつも本当に有り難うございます。
『明解法華経要義』やこちらのサイトで学ばせていただきながら、要品でお勤めさせていただいています。

以前のshamonさんの書き込みに、現要品の勧請文に「南無三大秘法事の一念三千の妙法蓮華経」とある(「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏」の前に挿入されている)のは他宗の影響で、shamonさん自身のお勤めでは飛ばしておられる、という趣旨のものがあったと思います。そのような文言は、他の箇所にもあるのでしょうか。少しでも正しく勤行したいと思います。ご教示いただけましたら、幸いです。
 
    (shamon) 忙しくBBSのチェックが出来ていませんでした。返答が遅れて申し訳ありません。

勧請文は、「末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文」が参考にされています。その本門の勧請文は「勧請本門寿量本尊、南無三大秘法事一念三千妙法蓮華経」で始まるものではなく、以下の通りです。

勧請本門寿量本尊南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼如来 一礼
南無証明法華多宝世尊 一礼
南無自界他方本仏迹仏等 一礼
南無上行無辺行浄行安立行等六万恒河沙等地涌千界大菩薩 一礼
南無開迹顕本法華中一切常住三宝 一礼
惣受持者擁護諸天善神 於末法行者令息災延命 真俗如意 広宣流布 得已満足給。南無妙法蓮華経。

日蓮聖人の本仏を顕す顕本法華の教義からすれば、この通りに行うのが筋でしょう。本多日生猊下が管長を退いた後の昭和四年に、日蓮宗の勧請文の影響を受けたのか変更があったようです。

題目を釈迦如来の上に置き、一致派でもあった日蓮宗勧請文の「勧請本門寿量本尊、南無平等大慧一乗妙法蓮華経」は、中世に付加された祈祷経言上にあります。

南無平等大慧一乗妙法蓮華経。
南無霊山浄土久遠実成釈迦牟尼仏。
南無宝浄世界証明法華多宝如来。
南無上行・無辺行・浄行・安立行等本化地涌大士。文殊・弥勒・普賢・薬王・薬上・観音等迹化他方大権薩嬉。身子・目連・迦葉・阿難等新得記諸大声聞。
惣而霊山・虚空二処三会発起影向当機結縁四衆。乃至尽虚空微塵刹土古来現在一切三宝に申言願奉読誦寿量品を以為助行奉唱妙法蓮華経を以て為正行速整正助二行奉読誦之

勧請し奉る本門寿量本尊が、久遠実成の釈迦如来でなく、南無妙法蓮華経(如来)では宜しくないですね。また、偽書が濃厚の「当体義抄」にも、「天台大師云く、南無平等大慧一乗妙法蓮華経の文」とありますね。これでは教義の大事を迹門に立脚するということになります。


 

明解「法華経要義」 序品第一 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 5月 6日(日)16時11分0秒
編集済
  (現代語)
仏は、この「妙法蓮華経」を説いて人々を歓喜せしめ終わると、続いてその日直ちに天の神々や人々に告げたのである。「一切の事物の真実の在りようは、既に汝達のために説いた。私は、今日夜半において当に涅槃に入るであろう。汝等よ、一心にこの教えに精進して、けっして怠ることなかれ」と。

(要文)
仏、是の法華を説き衆をして歓喜せしめ已って、ついで即ち是の日に於て天・人衆に告げたまわく。諸法実相の義、已に汝等が為に説きつ。我今中夜に於て当に涅槃に入るべし。汝一心に精進して、当に放逸を離るべし。

(要義)
これは、過去の日月燈明仏が涅槃に入る際の光景ですが、釈迦牟尼仏の涅槃の時にも同じ言葉が語られます。大乗経典に於いて釈迦牟尼仏は様々な事柄を、色々な仏の名前に託して説かれていますが、後に法華経において一切の仏が皆釈迦牟尼仏の分身であり、すべてが久遠の釈迦如来の大化導であるとの真実が開顕されます。まだ法華経の説き始めであるが故に、涅槃の夕べのことを釈迦の名で説くことが出来ないだけであって、「これは日月燈明仏のことで、釈迦牟尼仏とは違うものだ」とか「この経典に説かれたのは、釈迦牟尼仏とは別の何々仏のことだ」と拘っていると、仏教というものが分からなくなってしまいます。ここで大事であることは、法華経を説く前から、釈迦牟尼仏の涅槃時の大切な戒告が日月燈明仏の名に於いて挙げられていることにあります。

諸法の実相、宇宙の真理、仏教の哲理は、法華経に於いて汝達に残らず説いた。故に、夜半には涅槃に入るとして仏が留めた最後の遺訓は「汝一心に精進して、当に放逸を離るべし」という短い決別の言葉です。「一心」とは心の散乱を防ぎ、「精進」とは正しい目的に向かって退転することなく気力を加えて進むことであり、そして「放逸を離るべし」と、怠けてはいかん、如何に善き教えがあり真理があったとしても、その教えを護り伝える者が怠惰であってはならない、諸法実相の義と、その真実の教えを盛んにならしめる奮励努力が最も大切であると説いています。それ故に、法華経を信仰して社会に働く人々は、それぞれの務めに自覚を持って、そして日蓮聖人に倣って、この努力の精神を発揮して来るのです。ただ心閑かに暮らせればと願うような厭世悲観の消極的仏教ではなくして、法華経の教えは活動的に奮闘する精神を尊びます。日蓮聖人は守護国家論に「放逸とは謗法の名なり」と述べ、放逸とは謗法の罪の一つ、無間地獄に堕ちる罪であると戒めているにも拘わらず、今日日蓮門下にあっても怠惰の人があるのは、それは経を棒読みするばかりで、少しも自覚を持たないことにあります。幾ら法華経が善き教えであっても、そこに精進奮励というものが無かったならば駄目だということを、私達は強く感じなければなりません。



 

開目抄 その12

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月29日(日)14時36分57秒
編集済
  「(華厳経は)三処まで始成正覚と名のらせ給て久遠実成の寿量品を説きかくさせ給き」

それから次には、釈迦如来の久遠実成を説いてあるか無いかという大事の問題に進みます。釈迦如来は悉多太子として生まれて、後に仏に成られて華厳経を説かれた。その華厳経は非常に立派なものではあるが、どういう訳か三カ所までも「始成正覚」と、釈尊は菩提樹の下において今度初めて正覚を成じた、即ち始めて仏に成ったと言うのである。久遠実成ということは、久遠の過去に成道された根本の如来が人類を救うがために、悉多太子として人界に御降誕されたということです。ところが華厳経に、今度始めて仏になったと説いてあるがために、この前にはもっと偉い仏があるに違いないと、そこで阿弥陀仏が出て来たり、大日如来が出て来たりと、様々な仏が出て来るようになってしまったのです。釈迦如来が久遠実成で、始めなき以前より娑婆世界を中心にして、十方世界に大活動をされている、絶対無限の本仏なりということが顕れていたならば、そういう他仏に向かう信仰は起こりません。その過ちを正すためにも、日蓮聖人の主義に立つ者は、釈尊を中心として、釈尊の御名において絶対の本仏を光顕しなければならないのです。仏教徒ならば、釈迦如来の絶対価値を認めることを前提としなければなりません。釈迦の教えなどは要らぬと向こうに回すことは、反仏教徒が仏教を破壊して別の宗教を打ち立てることに同じです。日蓮聖人は、そういうことを否定し強く警告されたのですから、日蓮聖人の主義に立つ者ならば、釈尊の恩徳を、如何なる名前の下から冒して来ようとも、悉くこれを斥けなければならないのです。

華厳経に釈尊の久遠実成が説かれなかったことは、如何に良いことが説いてあっても、珠が割れているようなもの、月に雲がかかっているようなもの、日蝕で太陽が欠けているようなものである。ましてや、阿含経・方等経・般若経・大日経など、華厳経に比べれば言うに甲斐なき小経に、華厳経に秘されたことが明らかにされることはない。阿含経には「初めて成道した」とあり、大集経には如来が成道を遂げてから始めて十六年と説き、維摩経にも菩提樹の下に魔を降して成道を遂げたとある。大日経には昔道場に坐してと言い、仁王経には成道を遂げて二十九年とある。これらの経は皆、釈迦如来の絶対を顕さずして、今度悉多太子から始めて仏になった新仏であると説いている。そればかりではない、華厳経の唯心法界、大集経や般若経の海印三昧・混同無二等の哲学的に優れた法門を書き上げて、これまでの四十余年には未だ真実を顕していないと他経を批判している無量義経でさえ、菩提樹の下に端座すること六年、菩提を成ずることを得たと述べている。これは不思議と思うところだが、未だ法華経の序分であるから、真実を顕さないということもあるであろう。ところが法華経の迹門に至って、多宝如来が皆是真実なりと証明せられている所においても、久遠実成を秘して「我始め道場に坐し樹を観じてまた経行する」と説かれているのである。これが法華経において本迹問題の起こってくる所です。未だ釈迦如来の久遠実成を顕さざる点においては、同じ法華経といえども本門と迹門には大きな価値の違いがあると言うわけです。



 

明解「法華経要義」 序品第一 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月27日(金)10時41分15秒
編集済
  (現代語)
仏の子、文殊よ、できれば何事が起きているのか、人々の疑いを解きたまえ。人々は皆喜び、そして君及び私を仰ぎ見ている。世尊は何故に、この光を放たれるのであろうか。仏の子よ、どうか疑いに答えて彼らを喜ばしたまえ。何の衆生を利益する所があって、このような光を放たれるのであろうか。

文殊菩薩は、答えました。私は、量り知れぬほどの過去の世に、このようなめでたき出来事があったことを憶えている。推し量るに、今日、如来も当に「妙法蓮華」、菩薩を教える法、仏の護れるものを説かれるのであろう。

(要文)
仏子文殊、願わくは衆の疑を決したまへ。四衆欣仰して、仁及び我を瞻る。世尊、何が故ぞ、この光明を放ちたもう。仏子よ、時に答えて疑を決して喜ばしたまえ。何の饒益する所あってか、斯の光明を演べたもう。

今此の瑞を見るに、本と異なることなし。是の故に惟忖するに、今日の如来も当に大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもうべし。

(要義)
この尋常ではない光景に驚き、そしてその訳を知りたいと願う人々の気持ちを代表して、弥勒菩薩は、過去世に無量の諸仏に仕えてきた文殊菩薩に問います。そして文殊菩薩は、釈迦牟尼仏が光を放っておられるこの瑞相が、遙かなる過去に日月燈明仏に仕えた時に拝した光景と違わず、そして仏の世に出でた大乗の真実、法華経がその時に説かれたことから、今日の釈迦如来においても当に妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名付けられる尊き法が説かれるのであろうと答えます。これによって、法座に集まれる者は皆法華経の説き始まることを待ち焦がれ、そしていよいよ仏が静かにお立ちになり、法華経の幕が開いてくるのです。この品において文殊菩薩は、過去世において日月燈明仏の滅後に法華経を説法し続けた妙光法師とは自分のことであり、そして心怠け名利を求めるが故に求名と名づけられた弟子が、今の弥勒菩薩であることを明かしています。これは実は、これから説かれる法華経に集える衆生の因縁を、微妙に示唆しているものなのです。

「教菩薩法・仏所護念」とは、菩薩を教える法、仏の護念する所のものであって、仏教の中で特に高い教えを示す言葉として使われます。菩薩を教える法とは、その偉大なる精神を奨励して他者を利する所の教えであり、今日優先されるような個人の利益や権利を中心とした思想ではありません。したがって、物質的なものに限らず高い精神生活においても、個人的なものに留まる教えに対しては、独善的であるとか小乗であると大乗仏教からは批判されます。菩薩の精神とは「上求菩提、下化衆生」とされ、上には何処までも仏の智慧である菩提を求め、そして下には迷える衆生を教化して苦しみから救うものです。即ち、高遠な理想に活きつつ、そして利他の救済活動をする者を菩薩と言うのです。無論、衆生に対する社会的な救済活動とは精神的・物質的両方面に渡って行うものですが、仏教における主なるものは精神の方面です。菩薩が行う実践行「六波羅蜜」の一つ、布施には、財施・法施・無畏施と言われる三種がありますが、財施とは法を護る修行者や教団、そして貧窮者に対する物質的な助けであり、法施とは精神的救済のために教え(法)を説き与えること、無畏施とは如何なることに遭っても精神の安定を破られないような信念に立たせることです。現在の文明は、物質的な救済を重んじて、精神的な救済を軽く見ている傾向がありますが、大乗仏教では信仰による安心立命を得て、肉体は滅びると雖も、不滅の生命は必ず無上の菩提を成就して仏と成る、そのような幸福に立って活動することによって、自らを高め、他を感化する徳が得られることを説きます。そして、その徳が大悲となって衆生を救済する所となり、その人の活動が更に多くの者を菩薩として働かしめることが大切と考えています。この大事な教えであるが故に、「仏自らが護られている」との尊号が加えてあるのです。


 

開目抄 その11

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月22日(日)12時46分13秒
編集済
  「爾の時に宝塔の中より大音声を出して歎めて言わく、善哉善哉。釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て、大衆のために説きたもう」

この二乗も成仏するであろうということを聞いて、天魔が仏の姿をして法華経を説いているのかと疑い、釈尊の自語相違に不審を抱く聴衆の前に、大地から涌くように宝塔が出現します。その宝塔の中から多宝如来が、今釈迦如来の説き給うたことは真実である、この平等大慧の妙法蓮華経、即ち一切の者みな平等に仏性があり、平等に救われる所の尊い教えが説かれたことは誠に感服すべきことであると大音声を出して賛嘆されます。そして十方から来たった分身の諸仏も、皆広長舌を出して無量の光を放ち、これに賛成を表せられたのです。この法華経に現れた多宝如来と十方の諸仏の証明は重大な問題であって、二乗の者にとってはこれほど有り難い事はありません。また、二乗について論じるということは、他の経典で非難の対象とされた女人、悪人、愚者を法華経は皆救うということですから、法華経に賛成するということは、即ち現代の自利心に陥った文明も救う道がある、如何に堕落した人間も向上すべき余地がある、悪人もまた立派な人格を養うことが出来る、如何に愚かな者も救われる道がある、各々が希望に活きて向上するということに賛成することになります。法華経は、すべての者の復活を教えているのです。それにも拘わらず、何故に法華経に反対が起こってくるのかということについて、日蓮聖人がその誤りの起こる原因を示されます。

「爾前の経々は多言なり、法華経は一言なり。爾前の経々は多経なり、この経は一経なり。彼々の経々は多年なり、この経は八年なり」

これは法華経の一経に対して、二乗を排斥する経が圧倒的に多い、法華経は八巻だがこっちは七千巻だ、だからこっちに賛成だ、多い方に付けというようなわけで間違った方へ行くのである。多数の考えが正しいという安易な考えによって、権教方便の仏教が盛んになり、法華真実の精神が隠れてしまうのである。しかしながら、有り難いことに日蓮は仏法の方便と真実とを見分けることにおいて、非常に明らかな知識を持っている。日蓮の見るところでは、日本には沢山高僧が出たけれども、まず正しいのは伝教大師である。真に仏法の本意を得て、仏教の統一主義を取って、また日本の文明に貢献して、そして法正しく国安らかという、この鎮護国家の精神を以て文教を助けたのは伝教大師一人である。今は世が濁っているから、政治を執る鎌倉が愚かであるから、日蓮が申しても意見を用いないのである。賢王が世を治めている時には道理が勝つが、愚かな王の世では非道なことが先んじる、桓武天皇のような聖君が世に出られたならば、日蓮の議論も取り上げられたはずである。悲しいことに、多い方に付けという、この多数主義なるものが勢力を得るならば、永遠に仏法は方便の教えにやられてしまいます。二乗を攻撃した所が多い法華経以前の経典を、多数であるから賛成するというのであれば、二乗は永遠に仏に成れない、悪人も、女人も、愚者も仏には成れない、世の中には成仏の出来ない者が沢山になります。法華経を捨てるということは、汝ら自身が救われないことになる、それで良いのかということを日蓮聖人はここに問われているのです。


 

明解「法華経要義」 序品第一 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月21日(土)09時39分9秒
編集済
  (現代語)
その時に、世尊は眉間の白毫相より光を放ち、東方一万八千の世界を行き渡らざるところなく照らされたのです。

(要文)
爾の時に佛眉間白毫相の光を放って、東方萬八千の世界を照らしたもうに周徧せざることなし。

(要義)
釈迦牟尼仏が眉間の白毫から光を放ったことにより、東方一万八千の地獄から天上界まで六道の世界のすべてが照らし出されます。順序を追って物事を説こうとすれば長くなりますが、照らせば一時、私達は照らした中に総ての事柄を見ることが出来る、照らすという光景は物を統一大観するということを現しているのです。所謂「達人は大観す」と言うように、光を以て全体を照らせば見えない所は無い、高い所に上がって町全体を見れば、何処に家があってどういう有様になっているという総てを一遍に見ることが出来る訳です。これは即ち、真理もまた説こうとすれば長いものであるけれども、照らせば一時に現れるということを示しています。そして、この光に照らされた実相、仏の光明によって照らされた有様を、皆は見ることが出来たけれども、その意味合いについて仏が語られることを聞こうとする所に法華経が起こって来るのです。

仏教が教えである以上は、その照らしたる事実を説き出さねばなりません。そして、所謂「理教不二」と言って、真理と教えとが二ならず、説き出された教えと照らしたる事実とが合致しているものが善き教えとなります。語らなければ宗教は生じないのですから、禅宗のように教えを説く経典を蔑視して「事実は事実だ」と黙って見ているというのならば宗教は成り立ちません。「教外別伝、不立文字」と「言葉である教えと真理は別だ」というならば、「その別だという真理は何か」ということになります。そのようなことは贅論であって、真理というものはやはり教えを以て語らなければ分からないものです。次の方便品には「仏と仏のみ乃し能く諸法の実相を究尽したまへり」とありますけれども、真理を知り尽くした仏同士が肯き合うことはあっても、判ってない者達が判ったようなつもりになって肯き合っているようでは愚にも付きません。一方に仏という真理を照らし出している存在があり、一方に判ってはおらぬ無明の衆生があるからこそ、そこに教えが起こるのです。

 

日本国憲法 前文

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月18日(水)09時35分4秒
編集済
  連合軍総司令部(GHQ)によって敗戦国である日本に定められた憲法。その前文の意図を読んでみましょう。

「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」

邪な日本政府の行為によって悲惨な戦争の惨禍が起こされた。しかしながら、我々正義の連合軍が定めた憲法によって今や主権は国民に存するようになった。したがって、日本国民は政府に二度と戦争をさせないように決意しなければならない。

「日本国民は、恒久の平和を念願し~、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」

日本の国民が恒久の平和を念願するならば、日本国以外の中国やソ連(ロシア)、米国などの平和を愛する立派な国民の公正と信義を信頼して、自らの安全と生存を図らなければならない。今後の日本の運命は、中国、ソ連、米国などの信頼できる国家に委ね、決して自分たちの力で、安全と生存を保持しようとなどとは思ってはならない。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」

日本国民は、中国、ソ連(ロシア)、米国など連合国を信頼して従うことを、国家の名誉と思って、全力で達成することを誓わなければならない。この目的を達成させるため、憲法9条を定めて、陸海空軍その他の戦力は一切保持させない。自らの安全と生存のために交戦する権利は認めない。

GHQによって敗戦の翌年に急いで公布されることになった日本国憲法。そのGHQによって、これまでの日本の価値観を否定するような戦後教育が徹底的に指導されます。ところが共産主義が拡大して、その四年後に朝鮮戦争が始まると平和を取り巻く環境は大きく変わります。GHQの指示により日本には自衛隊の前身である警察予備隊が創設され、日本は日米安保条約によって、資本主義側の国家として平和を担保することになったのです。

 

(無題)

 投稿者:もり  投稿日:2018年 4月16日(月)20時19分28秒
  日本山の方々は戦前は国粋主義的な活動をされていました。
日本軍のアジア進出に歩調を合わせ、中国大陸などで活動していましたよね。
戦後は軍部に協力していた某新聞と同じく変節しました。
今の彼らの活動を見ると、あれっと思ってしまいます。
 

偽善の平和主義

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月16日(月)18時22分55秒
編集済
  軍事基地になると、左翼過激派と共に成田空港反対闘争を煽った日本山妙法寺の僧侶達。今度は、自衛隊を憲法に認めれば「戦争をする国になる」と「宗教者九条の和」を立ち上げて、安易に平和主義に酔う人々のデモを煽っています。平和を愛するのに右も左もないことが彼らには分かりません。彼らが安倍打倒と題目を唱えるのを見ると、居た堪れない気持ちになります。

日本に二度と軍備を持たせず、連合国だけが軍備を有することによって、連合国側の平和を維持しようと定められたのが、敗戦国である日本国の憲法9条です。彼らは「武力で平和はつくれない」などと、さもありなんなことを叫んでいますが、「武力で平和がつくれる」と考えるからこそ連合軍が敗戦国に定めさせた憲法です。戦後70年以上経って、平和を取り巻く世界情勢は大きく変わっています。国を守る自衛隊を人殺しの訓練だと言っていれば、平和を維持できるなどと思っている人が大勢いることは実に悲しいことですね。

 

開目抄 その10

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月13日(金)17時28分33秒
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  「いかにいわんや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩を知って、知恩報恩をほうずべし」

華厳経は立派な経であるけれども、火坑に墜ちて仏性の育たぬ二乗の者と、善根を破壊し邪見と貪愛の水に溺れている仏性の無い者は、どうしても救うことが出来ないと説いている。そして大集経は、声聞・縁覚の二乗は、死して再び生まれることはないから、恩を知り恩に報ずるという観念を持たない、自身の解脱ばかりに囚われて深い坑に墜ち、自らを助けることも他人を助けることができないと説いている。外典三千余巻、即ち儒教の大切なことに孝と忠との二つあるが、その忠はまた孝の思想から出てくるものである。忠孝の徳を比較すれば忠の方が大事であるけれども、道徳の発生の順序を論じれば親孝行から始まることを日蓮聖人は説かれています。これは、どんな人でも親の世話になったことは分かるけれども、国の保護、国の恩を受けているなどということは、少し思想が発達しなければ分からないからです。それ故に、親孝行の道徳性から始まって、それが進んで忠義の精神に行くことを述べているのです。即ち順序から言えば、孝ということが最も大事です。そこを日蓮聖人は、「孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。また孝とは厚なり。地厚けれども孝よりは厚からず」と、極力この親孝行の徳を褒められたのです。そして、この孝行の徳を聖人・賢人が重んじているのであるから、況んや仏法を学ぶ人が、恩を知り恩に報ずるということが無くて良いであろうかと問い掛けます。日蓮が今更新しく言うのではないが、釈迦如来の教えを奉ずる以上は、四つの大恩に報いなければならない。この四つの恩とは、家において言えば父母の恩であり、社会においては人間相互の恩であり、国家においては国王の恩であり、仏法においては三宝(仏・法・僧)の恩である。仏弟子ならば、必ずこの四つの恩に報いなければならない。この日本の文明を育んできた報恩主義の道徳は、自由だとか権利だとか、自利心ばかりを拡張して様々な弊害が起こっている現代の社会に、今一度見直さなければならない大事な問題でありましょう。

「二乗は自身は解脱と思えども、利他の行かけぬ。たとい分分の利他ありといえども、父母等を永不成仏の道に入るれば、かへりて不知恩の者となる」

父母の家を出て出家となるのも、必ず父母を救うためである。二乗は自分の解脱に囚われて、利他の行ないに欠けていた。父母を成仏できない道に導いているが故に、大乗経典では不知恩の者とされたが、法華経に来たって仏性あることを知り、菩薩の精神に昇って恩を報ずる行いに就けば、彼らが成仏するのは当然であって、二乗は永遠に救われぬということは無いのである。日蓮聖人は、次に翻って法華経以外の経典に、どれ程に二乗が酷く言われていたかを挙げられます。維摩経にはどんな罪の深い者でも救われるが、二乗ばかりは救われない、泥田に蓮華は咲くが、高原の乾いた土には蓮華は咲かない、二乗は高い人間のようだけれども、仏になろうという希望も無ければ、仏性を顕わそうという希望もないから、仏になる望みは無いと説かれている。自ら菩薩の精神を失えるが故に、救われないのである。また、方等陀羅尼経には有名な文殊菩薩の話として、枯れた木には花は咲かない、山を流れる水が水源に帰らない、割れた石は再び元も戻らない、炒った種には芽が出ないように、声聞・縁覚の二乗は仏に成れないと説かれている。そして般若経や首楞厳経という禅宗が用いる立派な経にも、二乗は菩提心を起こさないから仏には成れない、維摩経に至っては、二乗に施せば地獄・餓鬼・畜生という三悪道に堕ちるとまで説かれている。施した人が地獄に堕ちるというようなことであれば誰も供養をしない、釈迦如来は刃を用いぬまでも、言葉をもって二乗の弟子を責め殺そうとしたのではないかと思われる程であると日蓮聖人は言われます。然るに法華経に来たって、この如くに排斥せられた二乗が初めて成仏を許されるのですから、この二乗作仏の問題は、法華経と法華経以前の経との分界を立てる上で、非常に明白な事柄となります。



 

明解「法華経要義」 序品第一 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月12日(木)09時53分28秒
  (現代語)
その時に、世尊は僧侶・尼僧・信士・信女に囲まれ、敬い讃えられて、「無量の意義」と名付けられる、菩薩を教える法、仏の護念する所を説かれました。そして、仏はこの経を説き終わると結跏趺坐し、無量義処三昧という瞑想に入られて身も心も動かさなかったのです。

(要文)
爾の時に、世尊、四衆に囲繞せられ、供養・恭敬・尊重・讃歎せられて、諸の菩薩のために、大乗経の無量義・教菩薩法・佛所護念と名くるを説きたもう。佛此の経を説き已って、結跏趺坐し無量義処三昧に入って、身心動じたまわず。

(要義)
序というのは、これから説こうとする経の内容をおおよそ察知させるものです。そして、法華経の序品は、仏が世に出でた最高の目的、所謂出世の本懐、出世の真実を語らんとすることを表しています。したがって、ある人のために説いたとか、ある出来事について説いたというような内容ではないが故に、この法華経の法座には、聴衆の代表となるべき総ての者が列座して釈迦牟尼仏を囲繞し、そして天よりは華が降り、虚空には音楽が奏でられるという光景が演出されます。その美しき光景は、法華経の理想を現したものと言えましょう。また、煩悩を断つというような個人的な修行を主にするが故に、他の大乗経典においては仏にはなれないと差別されていた声聞・縁覚(小乗とされる二乗)を、この法華経では利他の活動をする菩薩と等しく対告衆にします。これは法華経が、一切の仏道にある者に説かれる大事な教えであるからです。

「結跏趺坐」とは心を落ち着けて静かに坐ることであり、「三昧」とは専念するということであって、精神の統一を図って雑念を混じらないようにすることです。そして、身も心も動じることのない安静なる状態で、精神を集中専念されていることは、「無量義」という、一元の大原理とその原理より発現するところの万象の関係です。それは、宇宙の実相について言えば、本体と現象の関係、教えについて言えば、完全なる統一の妙法とそれを説き広げた千差万別の教義の関係です。この無量義処三昧を経て、法華経の統一の妙法は説き出されます。如何なる時代であっても、如何なる国家に於いても、真理を研究する者、思想を研究する者は、まずはどのように纏まりがつくかということを考えなければなりません。幾ら学問をして色々なことを学んだとしても、切れ切れの思想を相闘わしている限りは、一向に混乱より抜け出すことは出来ません。論語を読めば論語のような、法華経を読めば法華経のような、西洋の哲学書を読めばそのような気になって、一向に纏まりがつかないようでは全く未熟なことと言えます。種々なる思想によく纏まりをつけて統一大成しようとすること、眉間より光を放つ如く真実を開顕せんと臨むことは、個人の理想実現のためにも、社会の理想実現のために於いても大変重要なことです。そのためには、この無量義経より法華経に移っていく状態を、総てに於いて身に体現して行くことが大切な事となります。

 

開目抄 その9

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月 6日(金)09時08分42秒
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  「いうにかいなき禅宗・浄土宗におとされて、始は檀那やうやくかの邪宗にうつる。結句は天台宗の碩徳と仰がるる人々みなおちゆきて彼の邪宗を助く」

日本でも同じように、初めは奈良朝の時代に六つの宗旨が起こって、互いに議論をしていましたが、伝教大師が出られてこの六つの宗旨の意見を打ち破り、そして日本の仏教を統一されました。この法論の席には桓武天皇が御臨場になっており、法相宗、華厳宗、三論宗、倶舎宗、成実宗、律宗という六つの宗旨の学者を対手にして、伝教大師は法華経に依り、天台大師の議論を本として法論を遂げられたのです。そして六宗の学者が「大いに感服しました」と帰伏状を伝教大師に奉ることとなり、桓武天皇は都を奈良から京都に遷され、京都の丑寅の方角に叡山を立てられて王城の守護としました。この事を日蓮聖人は大いに敬慕せられています。ところがその後、伝教大師の折角成し遂げた統一の成果を打ち破るようなことが起こってきます。叡山の末学においても伝教大師の仰った事を段々に忘れ、また他の宗旨が起こり、最初は在家の人が浄土宗となり、禅宗となったその人に勢力があるものだから、坊さんがそれに引っ張られて付いて行くようになって、次第に叡山の法華は勢力を失います。そして正法を失い、神々も勢力を失われて、国家を危うくするに至ったのです。それ故に日蓮聖人は、ここに立正安国の精神をお示しになる、比叡山の紛乱を嘆いて、天台・伝教の遺風を継いで法華経を中心として仏教の統一の大事を成就しようと決心されたのです。

「愚見をもて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに、その相違多しといえども、まづ世間の学者もゆるし、我が身にも、さもやとうちをぼうる事は二乗作仏・久遠実成なるべし」

仏教を統一するには、まず標榜するところが無ければなりません。そこで日蓮聖人は、世間の学者も許し、我が身にもこればかりは反対が出来ないと思うことが二つある、その一つは二乗作仏で、もう一つは久遠実成である、この二乗作仏と久遠実成という二大教義は、誰も反対することの出来ない法華経の特長であることを述べられます。先ず第一に法華経を見ると、二乗が悉く成仏を許されています。舎利弗は華光如来、迦葉は光明如来と、二乗の人が皆仏になることが記されています。二乗とは声聞縁覚のことで、法華経以前の経典では、我が身勝手の事ばかりを考えて、人のためを思わない、世の中のためを思わないからと嫌われて、二乗は仏には成れないことになっていました。二乗は自分のことだけしか考えていないから、永不成仏だと宣告を受けていたのです。今日の凡夫即ち一般人も、我が身勝手な思想が非常に強く現れていることを考えれば、二乗が永久に成仏できないという問題は、決して余所事ではありません。そこで法華経は、二乗といえども自利心だけのものではない、導けば大乗の精神に向かって慈悲の心を起こすことが出来るから一切衆生悉く仏性がある、導くに方法を以てすれば仏性は必ず顕れて成仏すると言うのです。自利心に囚われている人も、教えるに道を以てすれば仏性が目を覚まして、立派な利他の精神、人を救い、世を思う所の立派な人になって、菩薩となり、そして仏様になるということを説くのが法華経です。大乗仏教は無論のこと、東洋の倫理思想は、この利他の精神が根底をなしています。例えば親は自分が苦労しても、子供の行く末を思って勤労を惜しまない。子は親の恩に報ずるために、自分が働いて得たるものを捧げて惜しまない。この相互の利他心を本として、家庭の道徳は成り立っています。この道徳の基本は、国家と国民との関係も同じです。国は人民の幸福を願い、国民の方においても自分の都合ばかりを考えているわけにはいかない、どうしても国家の隆運を思うというのが日本人一般の精神であったはずです。そのように、自分のためということよりも、利他のためにする精神が道徳の根本になければなりません。このような意味からも、法華経が二乗成仏を説いて、自利心に囚われたる人を教えて菩薩性に導き、成仏の花を開かせるという、この感化が今後も非常に大切なこととなるのです。


 

内なる仏の声

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 4月 4日(水)16時58分8秒
編集済
  ちょっと前のCNNニュースから~

ニューメキシコ州の警察官ライアンはパトロール中にコンビニの裏でヘロインを打っている麻薬中毒の夫婦を見つけた。女性は妊娠8ヶ月、子供を誰かに引き取って貰いたいと切に願っているようであり、そしてライアン警官は「汝よ、お前ならば出来るであろう」と神が告げているように感じたと言う。ホームレスの夫婦は、未だ麻薬中毒から抜け出せずに幹線道路脇の茂みにテントを張って暮らしているが、四人の子持ちであるライアン夫妻の養子となった女の子はホープと名付けられ、薬物の影響を何週間も治療して今は元気に育っている。警察官ライアンは優しい笑顔で語っている。「ホープを家族に迎えられたことをとても感謝しています。彼女がどんな困難に遭っても、私たちは側にいて一緒に乗り越えて行くつもりです。それが私たちを幸福にすることなのです」

宗教信仰の大事が、とてもよく伝わる美しい話ですね。


 

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