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元から絶たねば、

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 7月 4日(土)09時07分37秒
  私の所でも、先週あたりから新聞広告とか選挙ポスターも早々と貼られています。数日前には、初めて街頭演説にも遭遇しまして、ありゃりゃ〜本気なんだ…と感じました。当然気分悪いです。
幸福実現党ですーー)。先のオウム麻原といい、今回の大川教祖といい、創価学会の商法(正法じゃありません^^)を真似ているのは一目瞭然です。臭いにおいは何とやら〜元から絶たねば…。

それにしましても、今回のは、もっと低俗(しかし学歴は東大出)で、比較すればオウムはまだマシでしょうか(宗教的ということでは)。

自分は釈迦やキリストの生れ変りとか、"イタコ"よろしく日蓮の言霊とか本等を出版していたとおもいます。罰当りもいいとこですが、未だ…しかし、オウムといい、足の裏を見て"天声だっー"とかいうアホみたいな宗教なんかに、どうして騙される人が多いのでしょう。そういうところに向かう人たちの殆どは、願掛け(藁にもすがりたい心境、心理状態で)や、若者には、キャッチセールス如き勧誘もありますね。

そこに正しい宗教であれば良いんでしょうが、その弱みに付け込むような悪徳商法如き教団にかかると不幸が重なることになる。人の心配をする身分ではありませんけども、哀れに思います。と同時にやはり、臭いにおいは、元から絶たねばと思います××。
失礼しました。
 

五百弟子受記品第八 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 7月 3日(金)13時19分43秒
 編集済
  (現代語)

五百人の阿羅漢は、歓喜して仏の前に到り、自らの過ちを述べました。世尊、譬えば親友の家に行き、酒に酔って寝てしまった者があります。この時、公用のあった親友は彼を起こさず、非常に高価な宝珠をその男の衣の裏に結び付けて出かけたのです。酔い潰れて何も知らぬ男は、目を醒ますと彼方此方を巡って他国に至り、衣食のために仕事を探し求めるも甚だ困窮し、少しでも得るところあればそれで満足する有様でした。その後、偶然に出会った親友は、彼を見てこう嘆いたのです。「何と拙い男であることか、ただ衣食を得るためにこのような有様に至るとは。私は、あの日、君が生活に安らぎを得て、五欲の欲する所も叶うようにと、非常に高価な宝珠を君の衣の裏に結び付けておいたのだ。今もそこに在るではないか。それを知らずに、苦しみ或いは憂い悩みながらもその日暮らしに甘んじるとは、何と君は愚かであろうか。君は今、その宝を求める所へと持って行き、金銭や物に換えるがよい。常に思いの如く暮らし、乏しくすることなかれ」と。

我等もまた、当にその通りであります。世尊は長く煩悩に迷う人々を常に憐れんで教化され、そしてこの上なき誓願を私達に植えておられたのです。

(要文)

世尊、譬えば人あり、親友の家に至って酒に酔うて臥せり。是の時に親友官事の当に行くべきあって、無価の宝珠を以て其の衣の裏に繋け之を与えて去りぬ。其の人酔い臥して、すべて覚知せず。起き已わって遊行し他国に到りぬ。衣食の為の故に勤力求索(つとめぐしゃく)すること甚だ大いに艱難なり。若し少し得る所在れば便ち以て足りぬと為す。後に親友会い遇うて之を見て、是の言を作さく、咄哉(つたなや)、丈夫、何ぞ衣食の為に乃ち是の如くなるに至る。我れ昔汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣(ほしいまま)ならしめんと欲して、某の年日月於いて無価の宝珠を以て汝が衣の裏に繋けぬ。今なお現にあり。而るを汝知らずして、勤苦・憂悩して以て自活を求めること、甚だこれ痴なり。汝今此の宝を以て所須に貿易(むやく)すべし。常に意の如く乏短なる所なかるべしといわんが如し。

我等もまた是の如し。世尊は長夜に於いて、常に愍(あわれ)んで教化せられ、無上の願を種(う)えたまえり。

(要義)

衣裏繋珠の喩です。貧乏な友人が遊びに来て、そして彼は酒に酔って寝てしまいました。その友人を憐れに思った親友は、その友人の衣の裏に貴い珠を繋(か)けて仕事に出かけたのですが、それに気が付かない友人は他国へと流浪を続け、貧しく乞食のように生きてはその日暮らしをする有様でした。美味い物が食いたいと思えば食べられるように、綺麗な服が着たいと思えば着られるように、所謂世間の欲などは望めばすべて満たされるようにと、親友が非常に貴い珠を着物の裏に結びつけておいたにも拘わらず、愚かにも乞食のような生き方をしては苦しみ悩む日々を送っていたのです。しかしながら、その貧しき者も再び親友に遇うことを得て、衣の裏に高価な珠が繋(か)けられていたことに気付かされ、その珠を以て一時に富める者となり、そして幸福を得ることが出来ます。この譬えにおける親友とは釈尊のことであり、そして流浪する貧しき人とは、前の化城品の譬喩にもあった如く、釈迦牟尼仏によって既に法華経を与えられたことを知らず覚らずに、迷いを繰り返して流転している衆生のことです。

釈迦牟尼仏との因縁関係を辿って考えたならば、私達衆生は本来の仏性がある上に、その仏性が顕現するようにと、仏から新たに善き教えが与えられていたのです。その自覚に私達は帰らなければなりません。そして、その時に発した無上菩提への誓願は、何時でも私達を富める者、幸福なる者、立派な者にすることが出来るものなのです。一旦善き教えを与えられていても途中で退転し、貴い珠を持っていても乞食のように生きていることがあります。日本に聖徳太子や伝教大師、そして日蓮聖人が出て、このような結構な教えがあることが説かれたにも拘わらず、浅薄な教えや偏狭な思想に惑わされて詰まらぬ生き方をしているならば、貴い珠を繋(か)けながらも日々貧しい生活をしていた愚かな酔人と同じになりましょう。釈迦牟尼世尊は常に我等を憐れんで教化を垂れて下さり、そして私達も一旦は発心して無上菩提の願を起してやりますという所まで導かれていたのです。それを打ち忘れて、今日また一時発心しては再び忘れてしまうような、そのような過ちを私達は繰り返すべきではないのです。
 

「立正安国論奏進750年」の意義

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 7月 2日(木)23時49分46秒
 編集済
  2泊3日のフライトを終えて、家には戻らずそのまま本山妙満寺での1泊2日の布教師の研修会と総会に直行、そして明日の夕刻からはまた泊まりのフライトです。我ながら、よく続きますね(笑)。

宗教界の低迷が叫ばれる中、我が宗門にも漸く新しい風が吹き始めているような手応えを感じて帰ってきました。他の日蓮門下においても、今年は「立正安国論奏進750年」を掲げて檄を飛ばしているようです。しかしながら、私shamonとしては正直どうしても合点が行かないことがあります。

日本語の読める常識人ならば、「立正安国論」に述べられたことは至って明確でありましょう。「釈迦も釈迦の説いた法華経も役に立たない」という謗法の宗派と手を切り、これを禁(いさ)めて正法に帰依すべきであると、そう為政者に諫言したのが日蓮聖人の「立正安国論」であったはずです。ならば、「立正安国論奏進750年」を掲げて日蓮門下が今すべき事は、はっきりしているのではないでしょうか。

「釈迦も釈迦の説いた法華経も役に立たない」という、噸でもない最大の宗教法人「創価学会」が、日蓮の名を騙って日本の政権与党に与し、マスコミも経済界も彼等に胡麻を擂っているのが今の日本の現状であるのは誰が見ても明確です。しかしながら、それを呵責する動きは日蓮門下の何処からも聞こえてきません。

このままでは、日蓮宗を始め日蓮門下の「立正安国論奏進750年」は、既成仏教の崩壊が危惧される中、ただ自宗のみの経済的繁栄のために「法華経、御題目を弘げましょう」という綺麗事の布教を呼びかけるものに終わってしまいそうです。それは、僧侶と一部の信徒にとっての自己満足に終わるものであって、けっして人々を引きつける芯のあるものにはなりません。

だからこそ今の既成仏教界は人々から見切られているのだ、諸天善神からも見切られているのだと、日蓮聖人の叱責する声が聞こえて来るのは私だけなのでしょうか。「立正安国論奏進750年」を掲げながら立正安国論の精神を誤魔化す、「損得を考えて面倒な相手を避ける」弟子の屁理屈を聞いたら、日蓮聖人ならば間違いなく檄キレするでしょうね。百年前の奏進650年には、「日蓮主義」を正しく説いた本多日生猊下が大活躍をされました。

私shamonも微力ながら何とか続かねば・・・と思っている最中に新聞を広げれば、新興宗教の「幸福の科学」「幸福実現党」が一面広告で脈略不明の事を宣う。一体この国は、何処へ行く?
 

創価学会信者への反論:英語版(マーク氏のブログ)に投稿したもの

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月26日(金)22時28分5秒
 編集済
  英語から直訳するとちょっと変な日本語になりますけれども、大体を参考に(笑)

> 日蓮こそが本仏である。神の如き釈迦を拝むのではなく、日蓮は、一切衆生に仏性のあることを示されたのである。

歴史的な仏陀釈迦は、人間の精神に存在する久遠仏をその身に完全に具体化できた唯一の人です。 したがって、釈迦牟尼仏は本仏であり、彼の人格は久遠仏そのものです。 そして、歴史的な仏陀釈迦牟尼仏は仏教の創設者となったのですね。 久遠実成の釈迦牟尼仏は「ゴッド(神)」の類ではありません。 釈迦牟尼仏は、人間の精神の核心です。上記は法華経と日蓮聖人の御遺文に説かれていることです。 また、完全な悟りを得た仏の相は法華経にも述べられています。

歴史的な日蓮聖人は仏陀ではありません。 日蓮聖人は、久遠釈迦牟尼仏の弟子の筆頭として迫害と戦ったのです。 日蓮聖人は上行菩薩の応現です。日蓮聖人は、己心の釈迦牟尼仏の実在を確証して、法華経を弘めたのです。このことは、釈迦牟尼仏によって説かれた法華経を役に立たないと主張する創価学会や日蓮正宗を信じている人々には、無駄なことかも知れません。

創価学会・日蓮正宗は法華経と日蓮聖人の御遺文の解釈を歪めています。 カルト的な指導者の下に統制されている宗教は、非常に危険です。 それらの信者は、その教義への信仰こそが正義であると信じ込んでいます。 それらの人々は、客観的な判断を持つことができないでしょう。創価学会の信者の皆さんが、早く真実に目を開くことを願っています。

> では、唯一の偉人だけが成し遂げられたと言うのなら、我々は諦めましょうか。何故、貴方がそんなことを信じているのか分かりません。人間こそが本仏であり、釈迦などは単なる人間の虚妄です。日蓮が言及したのは、寿量品の釈尊であって歴史上の釈迦ではない。

イエス・キリストと彼の教えが役に立たないと言うキリスト教の宗派があれば、それはとんでもないカルトセクトです。 これらの常識を理解していない人々、創価学会の虚偽を鵜呑みにして、その教義を繰り返す人と言い争うのは時間の無駄であるに違いありません。 この投稿は貴方のための最後になるでしょう。

沙門ゴータマは、苦悶された普通の人間でした。 沙門ゴータマは自己の心に存在する本仏と一体となりました。 それは普通の人間が仏になる可能性を示しています。 それは誰でも仏性を有していることを教えるための、久遠の釈迦牟尼仏の方便です。 歴史的な釈迦牟尼仏が、法華経第十六(寿量品)の釈迦牟尼仏とは異なると言うどんな愚かな人々も、創価学会・日蓮正宗の信者を除いては居ません。 そして、日蓮聖人は自己の心に実在する久遠釈尊を覚って、その指導を得るべきであると説いています。

創価学会は、日蓮が本仏であると言います。 しかしまた、創価学会は、凡夫こそが本仏であると言います。 それは、日本の中古天台思想の一つであり、日蓮聖人の偽書において説かれたものです。 日蓮宗の多くの僧侶も、未だにこの教義に影響を及ぼされています。 また、それは日蓮聖人によって批判された日本の禅宗の教義でもあります。

凡夫は、全く悟りを得ていない凡夫です。 仏は、最上の智慧を得ている方です。 慢心してはなりません。貴方は、宇宙の真理を得ている仏とは完全に異なっています。 貴方の知識は仏の智慧とは完全に異なっています。 過剰な自尊心を持つべきではありません。 カルト宗教は、人間の虚栄心を利用します。 貴方は、創価学会の教義を信じている貴方自身を正当化することにムキになって怒りを持つでしょう。 それはすべて貴方の過ち、貴方の悪いカルマの原因になるでしょう。 貴方は心の中に存在する本仏、久遠釈尊の教えを聞くことが出来なくなります。

池田大作の声に従うべきではありません。 貴方の心にある天魔の声を聞くべきではありません。 釈迦牟尼仏の教えを学ばなければなりません。 「南無妙法蓮華経」と唱えて、真実の法を弘める誓いを釈迦牟尼仏に立てなければなりません。日蓮聖人は、釈尊の声を聞いて真実の法を弘める人が、地涌の菩薩であると言われています。

顕本法華宗には、特別な独自の教義はありません。 顕本法華宗には、仏教と哲学に関する常識があります。 そして、私達は釈尊の説かれた法華経を信じています。 そして、私達は日蓮聖人の真蹟の御遺文を信じています。
 

もうすぐ出番です! あぁ、忙しい!

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月24日(水)21時51分5秒
 編集済
  鬼の形相ではないですよ〜。ウチのカミさんには、「何で貴方、試合の時には恐い顔してないの!」って、怒られちゃうくらいですから(笑)。上腕神経叢を痛めているために、強い衝撃が首に伝わると、電撃様放散痛が肩から指先にかけて生じて脱力してしまう「バーナー症候群」に直ぐなってしまうようです。殴り合いのボクシングですから、それじゃ致命的ですよね。しっかり治して、チャンピオンを目指して頑張ります!(えぇ、なんでそこまで?)

「沖縄慰霊の日」も、「平和を希求する宗教団体」との偽善的宣伝のために創価学会に利用されてしまっているわけですね。沖縄は元々独自の信仰を持ち、仏教が盛んな土地柄ではありませんから、創価学会は沖縄には随分と力を入れて好き放題やっているようです。

嘘デタラメを捏造して他を排斥する独善主義の団体が、どうして平和団体を標榜できるのかと言えば、日蓮聖人のように真実を人々に知らせようとする人が宗教界に少なく、宗教に無関心な人、宗教を避けている人が世の中に多いからでありましょう。

ちょっと仏教を専門的に研究し始めると、創価学会の研究者なども一緒の仏教学会に参加して、「なんだ創価学会の研究者も、真面目で熱心な良い人達じゃないか」と思い、そしてその組織の根幹の教義と組織の体質自体を問題視しなくなってしまう方が多いようです。正しい信仰云々よりも、”学者づもり”の自分に傾倒してしまうのでしょうかね。

まあ、shamonはそういう方々とは違って仏教学会にも興味がありませんから、毎回総選挙の時にはスピーカーを付けた赤いジープを街宣車にして、今回は麻生総理の地元である飯塚で、カルト創価学会の政教一致と自民党との常識無き連立を、(一人でも)徹底的に糾弾してやります! お釈迦様、日蓮聖人、しっかり見ていて下さい! 諸天善神よ、しっかりと護り給え! もうすぐ、カルト宗教と手を結んだ自民党政権崩壊の瞬間に、自ら臨戦出来ると思うとワクワクします(笑)。

票のためなら何でも有りが通用する政治では、この世が良くなるわけがありません。「幸福の科学」も立党しますし、新興宗教と政教分離の問題を取り上げる良い機会になって欲しいと思います。参加希望者は、佐々井秀嶺上人と同じように、我が小庵のバルコニーでバーベキューが出来ます(笑)。
 

善人のふりして…

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 6月23日(火)23時42分52秒
 編集済
  shamonさん、お久しぶりです。
時間経っているようですが、何はともあれ、初勝利おめでとうございます(状況からして、今回は棄権だと思っていましたよ)。拝見しますと、逆境の中での勝利、ドラマを地で行くような話しで、尚更、感服いたしました(鬼の形相が目に浮かびます^^)。

さて…本日は朝から気分が悪かったです。今日、沖縄は慰霊の日でありました。私の祖父母も戦争の犠牲者でありました。その屍さえ見つからず、まだ幼少だった父は、その浜辺から石ころを拾い集めて、遺骨の代わりにお墓に埋めたそうです。その父たちも、集団自決の一歩手前で、当に九死に一生だった様です。

そういう意味でも、今日は少々感慨深い日でありますが、今朝、朝刊を開くと、創価学会?…そう、聖教新聞の一面をそのまま持ってきたような紙面で一瞬目を疑いました。

胸糞悪いので、一々は読みませんが、「沖縄慰霊の日」記念特集と題しながら、中身はSGI池田大作の提唱している「SGIの日」記念提言なるもの、世界での平和活動をしているという自慢めいたもんで、まさに、この日を利用した立派な布教活動です(これは先にshamonさんが書かれました、日本ではガンジー、一転インドではアンベードカル博士と通じるもんです)。これまでは、機関紙などの広告ばかりだったと思いますが、今回は、かなり踏み込んだ内容です。ラジオでは四六時中cmを流していますが、とうとう一般紙にも蔓延ってきたという感じです。

創価学会がマスメディアに強い影響力を持っていることは、周知の事実ではありますが、今回はその事を身近に感じ恐怖心すら覚えました。新聞社にも腹が立ち、一言云いたいのではありますが、私如きが、カルトの…どうのこうの…だっ~つても始まりません××。

インドで仏教は、ヒンズー教興隆の中で衰退しました。いま日本で、創価学会等のカルト教団が興隆し、再び、仏教が埋没してしまっては、その仏の存在さえ疑念しかねません(仏様、御免なさい)。

ちなみに、私自身は創価学会にどうのこうのとかいう事は特にありませんが、ただ、善人のふりして悪事を働く者、人を誑かす者は、余計に許せないです。
取り留めがなくなってきました、失礼します。
 

ありがとうございました

 投稿者:maya  投稿日:2009年 6月22日(月)21時21分52秒
  なるほど、上下で元版が違うので食い違いが出来ている可能性がある、という理解でいいんでしょうか。それほど神経質に気にするほどのことではなく、そのまま理解すればいい、ということでしょうかね…。

http://mixi.jp/show_profile.pl?id=20442337

 

法華経の訓読

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月22日(月)20時44分47秒
 編集済
  法華経の訓読は一般的に平楽寺書店の「訓訳妙法蓮華経開結」がスタンダードになっていますね。mayaさんの懸念は広済寺さんのホームページからですが、次のように書いてありました。

「妙法蓮華経(訓読) 、無量義経(訓読)、仏説観普賢菩薩行法経(訓読)、平楽寺版妙法蓮華経開結 正誤表は、鈴木 大道師(米沢市)入力によるものをもとにデータベースを作成した。何か問題が発生したときは鈴木師ではなくホームページ管理者まで連絡願いたい。」

江戸時代頃まで、日本では興福寺の開版した「春日版」が主流だったようです。上記鈴木大道師が正誤表としたものが何かは、よく存じ上げていません。平楽寺書店の「真訓両読・妙法蓮華経」は、上段に日蓮宗の日相が元禄時代に真読として刊行したものと、下段の頂妙寺版による訓読を配置しているそうです。大蔵出版の仏典講座「法華経」の真読は大正新脩大蔵経によるものですが、その訓訳の方は頂妙寺版によるものに手を加えたものですから、現在皆さんが保有している平楽寺書店の「訓訳妙法蓮華経開結」と若干の違いはあるものの、ほぼ同じもののようですね。
 

五百弟子受記品第八 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月22日(月)19時24分42秒
 編集済
  (現代語)

内に菩薩の行を秘し、外には自分は声聞であると現われ、少欲にして生死を厭いながらも、その実には自ら仏の国土を浄めているのである。人々に自分たちに貪欲・瞋恚・愚痴の三毒があることを示し、また邪見に陥っている様相を現すこともある。私の弟子達は、このように方便を以て人々を救うのである。

仏は、五百人の阿羅漢に記別を与えて言われました。迦葉よ、汝は既に五百人の自在を得た者達のことを知ったであろう。他の諸々の声聞達もまた、当にその如くになるであろう。今この会に在らざる者達には、汝から必ず説き明かすがよい。

(要文)

内に菩薩の行を秘して、外に是れ声聞なりと現ず。少欲にして生死を厭えども、実には自ら仏土を浄む。衆に三毒ありと示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く、方便して衆生を度す。

迦葉汝已に、五百の自在者を知りぬ。余の諸々の声聞衆も、また当に復是の如くなるべし。其の此の会に在らざるは、汝当に為に宣説すべし。

(要義)

法華経以前の大乗経典では、声聞等を自己の解脱のみに執着する者として、成仏は出来ないと呵責してきました。しかしながら法華経に至っては、これ等の者を「内に菩薩の行を秘している者」、表には声聞の相を現じてはいるけれども、心の中に菩薩の精神を維持して人々を導いている者として、これまで辱めを受けてきた声聞弟子達の真実、その本地を顕します。仏についての顕本は寿量品において行われますが、この文では弟子についての顕本が為されています。菩薩の相を敢えて避け、小乗仏教の「少欲にして生死を厭い」そうして阿羅漢となる姿を見せてきたのは、外の者を導く為に行ったのである。それは方便化導の上から起こったものであって決して侮蔑すべきものではなく、寧ろそのような仲間の中に下って行って、そして彼等を導いたことは尊きことである。我が仏弟子は衆生を教化するためには、大勢の者に対して貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩が有るような顔をして導くこともあれば、敢えて誤った見解に陥っている相を現わして導くこともあると説きます。

二乗として蔑まれ、呵責を受けても忍び忍んで、そして法華経の開顕の席まで来て漸く喜びを述べる声聞達の苦心は、一時的には非常な侮辱を受けるようなことがあっても、それを堪え忍ばなければ大なる目的を達することが出来ないことがある、外部がどう見ようとも、そのように自在に変化し適応して衆生を導くことが、仏教の化導にはあることを教えています。清く行い澄まして、ただ仏は正しいものという単調なことであっては、悪逆なる者を教化することは出来ません。この思想は、法華経や涅槃経によく現れている所であって、そのような上辺だけの仏教を盛んにしていたのでは、社会はいよいよ偏ったものになり、やがて国は悪しき者のために引っ繰り返されてしまいます。根本は慈悲であり清浄なる精神であるけれども、実際の上には様々なる手段方法を具備せねばなりません。この法華経の説く意味合いが備わって、初めて仏教の教化上において過ちを取らぬことになって行くのです。衆生を教化するために菩薩は方便を以てその相を変えることを説いて、まず五百人の阿羅漢に成仏の記別を与え、そして、この法華経説法の法座に居らぬ声聞達にも、釈尊は間接的に記別を与えます。菩薩としての新たなる生命の自覚を得て、一切の仏弟子が社会において、自己に与えられた役割を大いに発揮することが法華経の理想であるからです。
 

法華経の基準書

 投稿者:maya  投稿日:2009年 6月22日(月)16時46分2秒
  お久しぶりです、真言宗のmayaです。

少しお尋ねしたいのですが、法華経の訓読のスタンダードは平楽寺のシリーズなのでしょうか。というのも、こういう正誤表http://www.kosaiji.org/download/kyoten/seigo.pdfを発見したのですが、ちょっと訂正箇所が多すぎるような気がしまして、もしかしたらもっと決定版的なものがあるのではないかと…。
平楽寺のは小さくて持ち運びも便利、装丁も聖典として相応しいと思いますので利用したいのですが、ちょっと訓読の信頼性に不安があります。
 

五百弟子受記品第八 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月20日(土)09時21分44秒
 編集済
  (現代語)

仏は諸の比丘に告げました。富楼那は、法明如来となるであろう。その仏の国土には、七宝の高殿が満ち、天の神々の宮殿は近くの虚空に在り、人々と天の神々は互いに相接して見ることができるであろう。

(要文)

七宝の台観 其の中に充満し、諸天の宮殿近く虚空に処し、人・天交接して両(ふた)つながら相見ることを得ん。

(要義)

この所はこれ等の人々が悟った場合の浄土、人々が仏と成った場合の仏国土の美しき光景が説かれています。そこは、善行を積む人々と、その人々を助け給う天の神々が交わり接することが出来る世界です。この現実の娑婆世界は損得に惑わされ、多くの人々は餓鬼・畜生の下方へと向かうばかりですが、仏と成って行く人々の世界は、皆上を向いて天の神々と交わっているのです。偽り無き天と人が「両つながら相見ることを得ん」とは、偽り無き方へと人間が近づいている、人間が非常に向上していることを説いています。

仏教は、この娑婆世界を穢土であると捨てて、他の仏国土に新たに生まれ変わることを直ちに目指すものではありません。何故ならば、私達は生々世々、この娑婆世界を離れて存在することは有り得ないからです。したがって、私達はこの娑婆世界を仏国土に変えるべく、この娑婆世界において菩薩行を積んで行かねばなりません。そして、その菩薩行を積む時には、この娑婆世界の中に美しき理想の浄土を観て、そして人々が天の神々と相交わって向上していくように努めなければならないのです。「神を信じる」と言っても、賽銭を投げて拝めば、その願いを叶えてくれるような存在に神をすべきではありません。天は近きに在って私達と交わり、そして人間としての向上を大いに助け給うものであらねばなりません。
 

臓器移植と脳死

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月19日(金)15時57分39秒
 編集済
  有り難うございます。一ヶ月以上も肩の痛みと手・腕の痺れがあると、流石に性格が悪くなりそうです(笑)。次の試合は、11月ですので肩の方は少し安静にして早期の回復を図りたいと思います。

「命は何よりも尊いもの故に、出来得る限りの手立てを尽くすべき」と言う臓器移植を推進する人々に対して、未だ倫理・宗教的には慎重・否定的であるのが一般的でありましょう。前者は「生存の権利」を声高に主張するものですが、特に仏教では日蓮聖人が「我不愛身命」と述べるように、ただ我が身「生存」への執着は目的を妨げる煩悩となることを説きます。

「可延定業御書」では「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり。」とも述べられていますが、これは「命」は確かに大事だけれども、その命とは功徳を尽くすために大事であると言わんとするものです。即ち、命そのものが何よりも大事なのではなく、その大事な命を使って如何に生きるかということが最も大事なことです。それこそが、命の尊厳でありましょうね。

また、仏教では生死を超えるとも言いますが、如何に今生を死ぬかという命題は、如何に今生を生きるかと同義です。死に様、即ち生き様ですね。「葉隠れ」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」も同じ意味です。私達仏教徒と無宗教者の違いは、命は一回限りとは考えない、命の本質は永続するものである、したがって今生の生き様は来世に必ず影響すると考える所にあります。これは、単なる信仰などというものではなく、生命科学を根拠とする哲学から論理付けられるものです。

臓器を希望する人達にとって、毎月100人以上の死刑執行が行われる中国での待機は、最近までちょっとしたブームでした。外国人に対する臓器移植を中止したドイツにおいて、待機者の第一位は米国人、次いで日本人でした。米国での臓器移植に、日本人は倍以上の金額(約一億5千万程)を要求されます。貧困のために臓器を売った東南アジアの人々の、その後の苦しみは度々ニュースになります。南米では、臓器のために子供の誘拐があったとも伝えられ、南インドの海岸には臓器のない子供の死体が、よく打ち上げられるとも聞きます。

臓器移植のために、自分のクローン人間を別に作っておくというSF映画もありましたが、現在ステム・セル(幹細胞)の分野は、受精卵からつくられる胚性幹細胞を利用するものから、個人の成体幹細胞を利用するものへと研究が進められているようです。容易なことではありませんが、これは将来自分の細胞から移植をするための臓器を作れる可能性を持っており、これならば倫理的・宗教的な抵抗を除けるのではないかという期待があるようです。

生き延びるために臓器移植の必要があって、臓器提供が希望され、そして脳死が重要な問題となります。今衆議院の可決は、臓器提供を増やすために「脳死は人の死」と定める方向へとなったようですね。確かに、宗教的にも「脳死は人の死」でありましょう。安らかに今生を終え、次の人生に早く送り出して上げるべきだと思います。しかしながら、臓器移植のために「脳死を人の死」とすることは、宗教的には抵抗があると思います。生き延びるために他の手段がなく、死人の肉を食らう行為があったとし、例えその行為が宗教的に許されたとしても、宗教はそれを推奨することはないでしょうから。

明日shamonは、品川・天妙国寺における法華宗三派(陣門・真門・顕本)の統合学院に出没します。
 

(無題)

 投稿者:如説修行  投稿日:2009年 6月19日(金)06時22分46秒
  shamonさま、色々お忙しいですね、[おやじファイト]での、奇跡的な勝利、おめでとうございます。でも、あまり無理をせずに、頑張ってください。又、佐々井老師のご接待、本当に頭が下がります。当宗の上層部のお上人方も、護国寺に行かれたようです。本当に佐々井老師とは、異体同身の関係であることが、感じます。ところで、質問なのですが、脳死、臓器移植を、仏教に関わっているものにとっては、難しい問題であると感じています。是非、shamonさまの見解をお教えくださることを、お願いいたします。  

梅雨休みのバーベQ

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月16日(火)09時58分39秒
 編集済
  空龍・龍勝の弟子二人、カメラマンとビデオマンを引き連れた佐々井秀嶺師、五名様一行は久留米と玉名の寺院を巡ってから我が小庵の別院へ。私shamonがカミさんと用意したのは、眼前に基山、遠方に背振山を望む見晴らしの良いウッドデッキで、佐々井秀嶺上人も初体験のバーベキュー。40年以上も前の日本では、佐々井G曰く「焦がして美味しい」バーベキューって余りポピュラーではなかったのかも知れませんね。

でも、坊さんが揃ってバーベキューって何か傑作。まあ、真言宗的に言えば、ちょっと護摩を焚いているようにも見えますが(笑)。焼きおにぎりが大のお気に入りで、「こりゃうまい、うまい」と3ヶも平らげて、「明日もこれが食いたい」と言っておりました。では、今日の夕飯のメイン「季節はずれの寄せ鍋」に、特別に焼きおにぎりも追加しておきましょう。

創価学会は、日本では藤井日達師のようにガンジーの名声を盛んに利用しながらも、インドではカースト維持を唱えたガンジー尊者と徹底的に対抗したアンベードカル博士の仏教組織に、財力にモノを言わせて接近して来ているようです。最近は、(本人曰く)その邪宗・創価学会の最近の活動を大変危惧されているようで、私の書斎にある、創価学会に関する書籍を注文のために弟子にしっかりとメモさせて、暫し読んでからの御就寝。

朝は6時過ぎに起床、お勤め後に朝ご飯を食べて8時出発、本日は長崎の御縁のある寺院と平和公園への慰霊へ。現地での新聞社の取材も予定してあります。私は肩に注射を打ちに行きたいのと、夕飯の支度も手伝わなければなりませんので、同行せず(長崎から帰って来たばかりなんで)「では皆さん、いってらっしゃい!」と先程送り出して、今ちょっとこれを書いております。明日御一行は、鹿児島を巡った後に飛行機で関西に戻る予定です。相変わらずタフな佐々井師ですが、足を痛がっていたのがちょっと心配です。そりゃ、その古びた「ぺったんこのゴムぞうり」じゃあねぇ・・。では、ハイテクのビーサンを特別に用意しましょう。

佐々井秀嶺師が真言宗で得度した時の師匠・高尾山薬王院の山本秀順師は、実は顕本法華宗・本多日生猊下の在家の弟子、妹尾義郎氏の「釈迦を背負いて街頭へ」と謳う「新興仏教青年同盟」に参加されて、共に戦前に反体制だと投獄された方なんです。で、真言宗なのに佐々井秀嶺師の師匠であった山本秀順師も、日蓮聖人のファンの一人だったわけなんですね。
 

「ザ・おやじファイト」長崎大会 結果報告

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月14日(日)18時12分51秒
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  たった今、「ザ・おやじファイト」長崎大会におけるR40ライト級ボクシングの試合から福岡に帰ってきたところです。

残念ながら痛めた腕神経叢の損傷が完治することなく、首を反らせば未だ肩に強い痛みが走る状態で、「これで試合かよ」と思いながらも遂に今日の試合を迎えてしまいました。これも修行・修行と自らに思い込ませ、娘婿の理学療法士も連れて、いざ参戦です。

本来ならば無謀、どうか試合中は堪えられる程の痛みにと願ってみたものの、案の定、世の中そうはイカの金○でした。第1ラウンド終了間近に相手に食らったパンチで、肩全体に電気が走り腕も上げられないような激痛に! セコンドの博多協栄ジム会長からは、「腕が使えないのなら棄権だぞ。どうする、どうするんだ!」 ここまで来て流石に棄権は出来ないけれども、事態はサイアク・・・キャプテン土屋、絶体絶命です。ここで負けて、もう引退かよ? 頼むよ、法華行者を助ける諸天善神よ! これじゃぁ、人に法華経は説けなくなるぞ!

もう第2ランドからは、使えない右手は捨てて左手一本です。しかも、勇姿溢れる相手はバカバカ前に出て打ってくるわで、どうみても私の形勢不利。手数に圧倒される中、身体を潜り込まして渾身の左フック、左フック、ただひたすら「打成一片」の左フック。本来ならば、手数が勝利を左右仕勝ちの「おやじファイト」ですが、今回はジャッジが有効打を取ってくれたのが幸いしました。なんと、2-1で奇跡の判定勝ち! 応援して下さった皆様、本当に有り難うございます。相手選手も、有り難うございました。次には、必ず得意の華麗なファイトを。 嗚呼、これでカミさんから家を追い出されなくて済む・・(涙)。

嗚呼、忘れちゃ行けない、明日からはインド仏教指導者の佐々井秀嶺上人が九州上陸、家に続けて泊まる! また目が回る!(爆)
 

祈祷師と霊断師

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月12日(金)16時35分10秒
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  ある熱心な日蓮宗信徒の方より、「九識霊断説の問題点」その他の資料と丁寧な手紙が送られてきました。有り難く頂戴すると共にお礼の手紙をと思っていますが、少々多忙のためこのBBSで先に触れておこうと思います。

修行として日蓮宗の荒行は有名ですが、それは鬼子母神の霊力を以て厄を払おうとする祈祷師を養成するものであり、それは日蓮聖人の信仰の本義からすれば全く傍系のものであって、日蓮聖人が批判した真言呪術の手法を真似するものといえます。しかしながら、厳しい荒行を経ていない僧侶は一人前ではないという誤解が日蓮宗内に強くあるがために、多くの日蓮宗僧侶が荒行に入って祈祷師となり、その結果日蓮宗内に強力な勢力を有しています。

あくまで、護法の精神を養うための厳しい鍛錬であるという見解ならばまだ許されるものの、厄払いするためには厄を見出す霊断が有れば尚更宜しいと考える不埒な者が後を絶たないようです。不埒ではないけれども、本来の仏教や日蓮聖人の教えをきちんと学んでいないが故に、何だか良さそうだと思って始める者も多いのでしょう。それ故に、多くの祈祷師になった者は霊断師会にも所属するようになり、そして日蓮宗内に霊断師会が非常な勢力を持つ事態となっています。

この霊断師会の「新日蓮教学」「九識霊断」などについては、立正大学の教授陣からも全くの邪道であると批判されてきたにも拘わらず、近年は霊断・祈祷は金になる、金には人が集まる、金を持つ者は権力を持つとの流れから、霊断師会に対する批判はタブーとなり、日蓮宗新聞などを読む限りでは、日蓮宗としても霊断師会を擁護し宣伝するかのような体制となってきています。

この問題については、当BBSなどでも度々批判してきましたが、このような事態に至って、今回は日蓮宗内部からも、真剣に問題に取り組もうとする真摯な方々が活動を呼びかけているようです。しかしながら、多勢に無勢の厳しい戦いになるか、無視されるかのどちらかになるのは間違い有りません。明治より、旧日蓮宗の雑乱信仰や祈祷師の在り方について批判を行い、日蓮門下に今日の事態を招くことを危惧していた日什門流(顕本法華宗)のshamonとしては、何らかの側面援護が出来ればと考えています。
 

五百弟子受記品第八 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月 8日(月)12時57分1秒
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  (現代語)

その時、富楼那弥多羅尼子は、仏を仰ぎ見て思いました。世尊は極めて優れた御方であり、その為される所は実に希なることである。世間の様々なる素性に応じて、巧みなる手立て以て真実の教えを説き、人々のあれこれへの執着を抜き出される。我等は、如何にして仏の功徳を言葉によって述べることが出来ようか。唯、仏・世尊のみが、我等の深き心にある本来の誓願を知っておられるのである。

(要文)

世尊は甚だ奇特にして、所為希有なり。世間若干の種性に随順して、方便知見を以て為に法を説いて、衆生の処々の貪著を抜出したもう。我等 仏の功徳に於いて、言をもって宣ぶること能わず。唯 仏世尊のみ能く、我等が深心の本願を知しめせり。

(要義)

釈尊より法華経を聞くことの因縁が説かれ、そして五百弟子授記品ならびに授学無学人記品において、下根の人々は仏の記別を受けます。法華経に関して古来の学者が、迹門は諸法実相のみを説いたように解釈してきたが為に、仏の慈悲には余り触れることはありませんでしたが、迹門と雖も仏の有り難さが至る所に説かれていることに留意すべきです。方便品においては「大慈悲心を起し」と説き、譬喩品では「我一人のみ能(よ)く救護を為す」と述べられ、信解品には我が子を憐れむ長者の譬えを、そして化城喩品には道案内者として志に弱き人々を導くことが説かれているのであって、寧ろ冷ややかな実相妙理を説くことは僅かなことです。薬草喩品を見ても、三草二木が潤う雨とは仏の説法であり、仏の説法によって、仏が源になって一切が救われるのですから、言葉を以て述べることは出来ないと言う程に弟子達は非常に感謝をしているのです。

釈迦牟尼世尊は、政治を以て人々を救うのでも、経済を以て人々を救うのでもありません。釈尊は、そのような普通の遣り方ではなく、完全円満なる覚りを以て人々を心の底から救います。仏は、個人の人生を理想に導くにしても所謂文明を打ち立てる根底の所から教えを立てられる、即ち個人も家庭も社会も国家も人類も、十方法界が光明に包まれるような達観せられた所から教えを立てられるのです。しかしながら、仏の覚りが実に申し分のないものであっても、世間には色々の性質があり、賢き者もあり愚かな者もあります。そして、権力、名誉、金銭、性欲、その他衆生が囚われている煩悶や欲望が皆それぞれに違うが故に、仏は方便知見を以てそれぞれに適うような応用の教えを立てて法を説かれるのです。その中には、無論思想に囚われている者、偏狭なる教義に囚われ、或いは迷信に囚われている者もあります。そのように賢き者も愚かな者も、様々に囚われている者も、仏は種々にこれを誘導し摂受教化して、そして最後に法華経に来たって、上中下根の者を漏らさずに最高の教えを与えられます。釈尊は、私達の心の奥にあって隠れていた根本の発心、菩薩行の源である本願の精神に蘇らせて真の満足の境界を与えて下さるのです。
 

感動できるものに

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月 7日(日)10時56分53秒
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  如説修行さん 今日は

信念を貫き続けるには、そこに「美」意識が不可欠となってきます。佐々井上人の「美」とは、いつも経文のように口遊(くちずさ)んでいる浪曲でしょうね。それがそのまま、佐々井上人自身の生き様を支え、そして決定して来たと思います。

辛いことも悲しい出来事も、美に昇華させることによって初めて感動的に受け容れることが出来るようになります。日蓮聖人の場合も、当にそうです。自らの為、他の為、互いに精進して参りましょう。

ところで、佐々井秀嶺上人は他宗主催の講演でも、アンベードカル師の本地は上行菩薩と言われていると思います。つまりアンベードカル師は日蓮聖人の再誕である、即ちインドの仏教徒のみならず佐々井上人に関わる皆さんは、本仏釈尊の弟子、地涌の菩薩を意識しなければならないということになりますね。そのような大事なメッセージを無視して、佐々井上人の褌(ふんどし)を担いでいるような人があれば少々残念なのですが・・。
 

佐々井秀嶺大老師の講演

 投稿者:如説修行  投稿日:2009年 6月 5日(金)10時46分17秒
  shamonさま、ご無沙汰しております。いつもロム専で勉強させていただいております。
昨日、総持寺においての、佐々井氏の講演を拝聴いたしてきました。
shamonさまも、インドでの運動をがんばっておられ、本当に不信感を抱かれているのは、僧呂のほうですね。(苦笑)今後も宜しくご指導をお願いいたします。
秋葉原の事件から8日で一周忌になります。自分も信念をもって、精進していきたいと、あらためて思っております。
 

化城喩品第七 その6

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月 3日(水)16時14分52秒
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  (現代語)

今、汝達の為に真実を説こう。汝達が得たと思っている境地は寂滅の涅槃ではない。汝達は、仏の一切智を得るために、当に大いなる精進を起こさねばならぬ。汝達が仏の一切智・十種の力等の仏法を会得し、その姿が三十二の相好を具えたならば、即ちそれを真実の涅槃と言うのである。

(要文)

今汝が為に実を説く。汝が所得は滅に非ず、仏の一切智のために当に大精進を発(おこ)すべし。汝一切智・十力等の仏法を証し、三十二相を具しなば乃ち是れ真実の滅ならん。

(要義)

真の涅槃とは、一切の物をよく照らし見ることが出来る大いなる智慧が開かれ、その大いなる智慧よりして大いなる活動が起こってくるのですから、小乗仏教の修行者が得たと思っているような、消極的な消え去って行くような意味に仏教は説かれているのでありません。本来の寂滅とは消えて無くなることではなく、矛盾・対立や惑いを生じさせることなく、すべてが智慧によって完全に調和統一されて機能している淀みのない状態を言うのであって、それを成し遂げる為には、大いなる智慧に大精進を起こして大奮発をして進んで行かねばなりません。一切智を得て総ての物事の道理に通達し、宇宙に関しては実相の奥を究め、そして一切衆生に関してはその心の行く所を察知し、上にも下にも曇りなく智慧が働き、十種の仏のみが有する所の卓越した力を具え、その上に三十二相の優れた姿を具える、即ち精神も智力も相も一切が完成している実在を以て、「真実の滅」であると仏教は説きます。

したがって法華経からすれば、仏教を消極的であるとか悲観的であると考えるのは甚だ間違ったことです。消極的である、悲観的である仏教等というものは本当の仏教ではありません。聖徳太子が法華経を以てこの日本の国造りをされたのも、「万善同帰」と言って、総ての善いことが統一した所に働き、社会の道徳が守られ、善良なる風俗が育まれ、そして理想的な文化が開発されて行くことを法華経に観たからです。哲学的なる真、道徳的なる善、芸術的なる美、この真善美を希求して行う、そのような積極的な菩薩行こそが仏の智力と相好を得る者となり、そして社会を理想化せしめます。法華経に説かれているような思想の基準を無くし、或いはその思想の根底に動揺を来たすならば、それは個人の生活のみならず、人類の築いてきた文化文明を退化させ、そして社会に様々な問題を生じさせることになってしまうのです。
 

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