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カミさんのPCからです。

 投稿者:shamon  投稿日:2009年11月 5日(木)09時50分41秒
  息子にやった古いパソコンをネットに繋ぐためにウィルスバスターを入れようとしたところ、容量の関係で重くなりそうでしたので、マイドキュメントの削除を始めました。すると、あと少しというところで、残りのマイドキュメントの内容が勝手にコピー・コピーと繰り返し、ものすごい勢いで急激に増殖し始めたのです。とても削除が間に合うスピードではなく、このままではパソコンがパンクすると思われたため、すべてのドキュメントを空にする手段を取りました。きっと、何らかの攻撃を受けていたのでしょうね。

復旧には、もう暫く掛かりそうです。法華経の要文解説すべてに読み仮名を付けていたもの、漢文で書かれた先師論文の読み下しと現代語訳等、また初めからやり直しと思うとげっそりですね。負けずに頑張りましょう。と、その前に、来週の「おやじファイト」熊本大会、メインイベントのライト級九州王座決定戦ですので、負けないように頑張りま〜す(笑)!
 

PC

 投稿者:慎之輔  投稿日:2009年10月31日(土)11時12分43秒
  復旧はまだのようですね。('_')
メーカーの修理は、まずHDDの交換から手をつけますからね。
もしお役に立つことがあれば仰ってください。
 

古いパソコンからです。

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月27日(火)10時17分23秒
 編集済
  慎之輔さん、ご丁寧に有り難う御座います。

パソコンに詳しくないので、言われるままにNECの修理工場に宅配便で先ほど出してしまいましたが、今調べて見るとパソコン修理とデータ救出の会社って結構近郊にもあるんですね。知るのがちょっと遅かったです(涙)。ハードディスク交換や再セットアップでデータが消えるようなら、そのまま返してくださいと言ってありますので、きっと何もせずに戻ってくるのでしょうね。
 

HDDの復旧 参考までに

 投稿者:慎之輔  投稿日:2009年10月27日(火)09時41分47秒
 編集済
  災難ですね。仕事柄顧客のHDDの復旧を頼まれることがありますので参考になればと思い、私の使う方法をお知らせします。まず、PCを分解してHDDを取り出す、外付けUSB専用HDDケースがPC専門店にあるのでサイズを確認して購入、壊れたHDDをセットします。正常に動くPCにファイナルデーターhttp://ipshop.jp/SHOP/384323/384373/list.htmlという
復旧ソフトを導入して復元作業をします。HDDがハード的に壊れていなければかなりの確率で普及できます。ただし、時間はかかります。これだと3,4万の予算で対応できます。
専門業者だと何十万かかりますから、試す価値はあると思います。HDDをはずして、コロコロ軸や部品の音がしたら可能性は薄いです。HDDのヘッダー部分の破損なら普及できます。復旧できることをお祈りします。
 

天魔の仕業か?

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月26日(月)14時25分6秒
 編集済
  パソコンが壊れました! disc read error ハードディスクが読み取られず、立ち上がりません。すべてのデータが消失するかも(泣)・・  

勧持品 第十三 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月22日(木)14時47分43秒
 編集済
  (現代語)

黙して仰せつけにならない仏を前にして、菩薩達は如何にすべきかを考えました。そこで菩薩達は、仏の心に敬い従って本来の誓願を満たすために、獅子の如くに声を轟かせて誓いを立てたのです。「世尊、我等は如来の入滅の後に十方の世界を往来し、人々がこの経を書写し、受け持ち、読誦し、その意義を解説し、その教えの如くに修行し、心に正しく念じることが出来るようにさせましょう。それらの努力は、すべて仏の威徳の力によるものでございます。どうか世尊、他の国土にあって遠きに居られましても、我等をお護り下さりますよう御願い申し上げます。」

(要文)

仏今黙然として告勅せられず。我れ当に云何(いかん)がすべき。時に諸の菩薩、仏意に敬順し並びに自ら本願を満ぜんと欲して、便(すなわ)ち仏前に於いて師子吼(ししく)を作して、誓言を発(おこ)さく、世尊、我等如来の滅後に於いて、十方世界に周旋往返して、能く衆生をして此の経を書写し、受持し、読誦し、其の義を解説し、法の如く修行し、正憶念せしめん、皆是れ仏の威力ならん。唯願わくは世尊、他方に在(ましま)すとも遥かに守護せられよ。

(要義)

法華経を弘めることを喜んで許して下さると思っていたにも拘わらず、釈尊からは何等の御返事を頂くことは出来きませんでした。そこで菩薩達は、まだまだ自分達の精神が足らぬからであろうと思い、「師子吼」と言う程に熱誠の声を振り絞ります。「私達は一つ所に恐れ畏(かしこ)まることなく、十方世界に於いて此方彼方を行き巡り、多くの者がこの法華経を写し、持(たも)ち、読み、教えを正しく解釈して、説かれた通りに修行を為し、法華経の意味を正しく心に念じるようにさせて参ります。無論、私達が法華経の為に尽くすことが出来るのは、仏の加護の力でございます。仏の威徳の力をお借りして法の為に尽くすのであって、ただ自分の力のみを頼みにしては到底叶いませぬ。それ故にどうか遙か遠方にお出でになっていても、私達が法華経を弘めることを守って頂きたい。」と、菩薩達は自分の決心を述べ、そして守護を受けることを願って誓いを立てたのでした。

法華経の意味を正しく解釈し、法華経に説かれた如くに修行をして、そこで初めて私達は教主釈尊の導きと加護の確かさを感得することが出来ます。その誓いの精神、方法に於いて何等の欠点が無いにも拘わらず、釈尊がこの菩薩達に直ちに法華経の弘通を命じ給わなかったのは、これらの菩薩達が誓いを立てる時には確実なる決心をしても、これまで法難重なり来る時には退転をした事があるが故です。この過去に決心のぐらついてきた者を迹化の菩薩と称し、後に出現する、本仏釈尊に従って道心を発してより一度も法華経の伝道に失敗しない者を本化の菩薩と言いますが、釈尊は此の本化の菩薩を召し出して命じ給わんとの思し召しがあるために、迹化の菩薩には此処では法華経の宣伝を御許しにはならないのです。
 

執着は血の巡りを悪くします(笑)

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月17日(土)08時21分6秒
 編集済
  ○○な朝日新聞とは違いますね。産経新聞の「単刀直入」には、民主党の選対委員長になった石井一氏の「公明党は衆院から撤退せよ」という気持ちの良い論評が掲載されていました。「われわれが公明党に手を伸ばしたら国民から鉄槌を被るよ。」と断言する石井氏が選対委員長でいる限り、公明党が民主党に擦り寄るのは無理でしょう。

権力に執着して国民の目線に立つことを忘れたことが敗因だと分からないようならば、自民党の今後の復活は無いかも知れません。まあ、民主党も社会党なんかに胡麻を擂って国民目線を疎かにしては、政権の維持も危なっかしいものです。民主党の政策に国民は賛成したのではない、自民党に嫌気が差したのが、今回の審判の結果であることを忘れてはいけませんね。

BBS-sanghaの内容に少々論評。相変わらず偉そうにするのが好きな日蓮宗の坊さんが時々出てきては、今度は投稿者を野犬呼ばわりしていますが、百年も前の田中智学居士の言を引き合いに出して「浄土宗の坊さんは、公文書体という文体も知らずに、日蓮は漢文の法を知らないと言っている。」などと批判を始めたなら、それ見たものかと日蓮門下が馬鹿にされることが全く分かっていないようです。

そんなことよりも、日蓮聖人が公文書として書かれた論文が本来の漢文とは少々文法が異なる和化漢文であることを悪用し、日蓮正宗ならびに創価学会が「地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となりて一閻浮提第一の本尊、この国に立つべし。」と読むべき所を、「地涌千界出現して“本門の釈尊を脇士と為す”一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し。」と読むのだと歪曲して、「日蓮が本仏で本門の釈尊は脇士」の根拠としていることの方が遙かに問題ですね。
 

勧持品 第十三 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月16日(金)08時10分32秒
 編集済
  (現代語)

その時に薬王菩薩等二万の菩薩は皆、仏の前に於いて誓いの言葉をなしました。どうか世尊、御憂慮なきようお願い申し上げます。私達は、仏の入滅後もこの経を謹んで受け持ち、読誦し、そして人々に説きます。後の悪しき世の人々は、善行を為す心は非常に少なく、驕り高ぶる者多く、他からの供養を貪ぼり、不善の心を増して、解脱することを疎ましく思うでありましょう。彼等を教化することは困難ですが、私達は大いに忍耐の力を起こして、この経を読誦し、受け持って説き、書き写し、種々に供養することに身命を惜しまぬ所存でございます。

(要文)

その時に薬王菩薩及び大楽説菩薩、二万の菩薩眷属と倶に、皆仏前に於いて是の誓言を作(な)さく、唯願わくは世尊、以って慮(うらおも)いしたもうべからず。我等仏の滅後に於いて当に此の経典を奉持し読誦し説きたてまつるべし。後の悪世の衆生は善根転(うた)た少なくして増上慢多く、利供養を貪り、不善根を増し、解脱を遠離せん。教化すべきこと難しと雖も、我等当に大忍力を起こして、此の経を読誦し持説し書写し、種々に供養して身命を惜しまざるべし。

(要義)

此処では、薬王菩薩を代表者として大勢の菩薩達が熱心に誓いを立てます。どうか法華経の事は御心配召されるな、世尊が御入滅の後は、必ず我等が法華経を持ち、読誦して世に弘めまする。勿論、悪世の人々は善根少なく慢心多く、そして多くの僧侶は利益を貪り良からぬ事を考え、真の解脱を求めず精神の苦悩を脱することを求めず、心広く体裕(ゆた)かにして世の人を救うというような事からは遠ざかっているでありましょう。斯様な者を教化することは甚だ困難ではありますが、私達は大いに忍耐の精神を発揮して、法華経の為に御奉公をし、命に関わる事があっても決して後へは引かぬ考えであります。ここに「種々に供養する」とあるのは、法に対するものであって、御宝前に恭しく食膳を用意して花を飾ること等を専らとするのではなく、「法供養」と言って法華経の意味を世に弘めて、そして衆生を利益することを意味するものです。
 

堤婆達多品 第十二 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月15日(木)14時53分37秒
 編集済
  (現代語)

龍女は智積菩薩と舎利弗尊者に言いました。「私は宝珠を世尊に献上致しました。世尊が受け取られること、速やかであったでしょうか、そうではなかったでしょうか。」 二人が「甚だ速やかであった」と答えると、龍女は続けて言いました。「貴方方の神通力を以て、私が仏と成る姿を御覧なされよ。これよりも更に速やかなることを。」

(要文)

我宝珠を献る。世尊の納受是の事疾しや不や。答えて言く、甚だ疾し。女の言わく、汝が神力を以って我が成仏を観よ。復此れよりも速やかならん。

(要義)

釈尊が宝珠を速やかに受け取られたことよりも、これから示す成仏は更に速きことであるが故に、神通力を以て見損なわないようにと、龍女は智積菩薩と舎利弗に注意を与えています。この悟りを開くこと速やかなることを頓証菩提と言いますが、これは法華経の大切な思想の一つであって、私達が成仏する時に於いても大いに信仰の力となるものです。

そもそも宗教は婦人の信仰及び努力を非常に要するものであって、その宗教が婦人に感激を与えないものであったならば、それは家庭に入ることはなかなか出来ません。法華経は、最も婦人が一般に信仰すべき教えであるのに今まで家庭に十分に入らなかったのは、この堤婆達多品の意味が十分に宣伝されなかったからです。この女人成仏の一節は法華経の中にも大切な教義であり、それ故に日蓮聖人は「一切の女人の成仏をあらわす」と言われて、多くの婦人に御手紙を認(したた)められてきたのです。法華経の真意を知って、そして他の経典にある婦人観を総合するならば、仏教が如何に婦人の味方であって、釈尊が如何に婦人の自覚を促し、如何に理想を与えるかと努力されていることを、感激を以て知ることが出来るでありましょう。
 

御批判に対して

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月11日(日)09時21分49秒
 編集済
  通りすがりさんから、「戦前とは違って、現在の日蓮宗は一致派ではない」と御批判があったようですが、どうやら御自分で全文削除されたようですね。誤解があったようですが、長く当掲示板を御覧になっていらっしゃる方は既に御存知のように、「現在の日蓮宗は一致派ではない」とは、私shamonが度々申していることでもあります。ですから、下記投稿も”一致派は云々”とあっても、”日蓮宗は云々”とは言及していませんね。それと、前にも申し上げましたが、「通りすがり」というハンドルは、言に責任を持たないという感じがしますので、当掲示板では変えて頂けたらと思います。

昭和16年、戦時下の政府政策もあって他の勝劣派は法華宗として統合し、そして本門宗(北山本門寺)を加えて、顕本法華宗と旧日蓮宗は新日蓮宗として「三派合同」しました。そして昭和17年、本多日生師の高弟でもあった顕本法華宗管長・井村日咸は日蓮宗の立正大学学長に就任し、昭和19年には日蓮宗管長に就任します。ここで、新日蓮宗における本仏・本法・本僧の三宝は確定されたはずです。戦後、顕本法華宗の約半数の寺院は日什門流として新日蓮宗の為にと残留し、半数は宗風護持の為にと再独立します。ですから、現在の日蓮宗は「一致派」ではありません。本来ならば、統一会派であるべきものです。

しかしながら、現在の一般の日蓮宗僧侶に本迹に関して聞けば、ほぼ間違いなく「我々日蓮宗の教義は、一往勝劣再往一致だ」と答えることでしょうね(笑)。そして、霊断師の問題然り、鬼子母神の霊力を扱う祈祷師然り、稲荷信仰に七面様・大黒天の雑乱然り、宇宙神や凡夫本仏などの中古天台思想への逆戻り然り、喧しく言っていなければ、どんどん元の木阿弥に戻るのが教義的には統率の取れていない、何でも有りの日蓮宗です。そして、勢力拡大に成功して立正大学も有する最大の日蓮宗の影響は、他の日蓮門流にも大きく影響を及ぼしています。教学も歴史も真摯に学んでいないような方は、ただ単に顕本法華宗に対して日蓮宗としての対抗意識も持つことでしょう。

「ウェブサイトには超党派を謳っているはずであるのに残念」との内容がありましたが、超党派というのは、信仰云々は別にして仲良く「与同」しましょうと言うことではありませんね。「超党派」には、信仰の根幹である大事な部分を統一し互いに共有して、釈尊に還り、日蓮に還り、日蓮門下全体、そして社会全体に働きかけていきましょうという「維新の志士」の気概が込められています。何でも有りではないのですね。
 

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 投稿者:.  投稿日:2009年10月 9日(金)17時48分44秒
 編集済
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本迹論

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月 8日(木)10時40分39秒
 編集済
  未だ本迹論についての学術的な詳細な議論があると、何故にもっと簡単に理解出来るように整理されていないのかと思うことがあります。そんなことに何時までも細々と拘って、分かり易く整理されなかったならば、日蓮門下が統一して布教なんか出来るわけがないですものね。「巧遅は拙速に如かず」の孫子の言葉が、武人である私には染みついているのかも知れませんが、これって、鎬を削っている優秀な企業は皆取り入れていることなんです。伝統なんてものに胡座をかいて、うだうだやっていると何時か潰れてしまうことになります。

さて、天台大師の見方は、体(本体)と用(はたらき)に差別を見ないことにあります。凡夫は目の前のものに囚われるだけですが、仏はその本体を見極めることが出来ます。そして、「体」を明らかに知った上で、その変化である「用」を見るが故に、そこに差別を見ません。そのようなことから、天台大師は本門の重要性を説きながらも、最終的には本(本体)と迹(垂迹)に差別を見ない故に、法華経の本門と迹門にも「一致」を説くのですね。これは、真実と方便の関係も同じです。開顕といって、真実を明らかにした上で、真実の応用である方便に価値を見ていきます。

一致派というのは、この天台大師の釈によって、本門と迹門の一致に拘ったわけです。末法で仏教が危機となっている時に、「何奴も此奴も本仏である釈尊を捨てて、用である他仏を有り難がるとは何と怪しからん!」と日蓮聖人が言われていたにも拘わらずですね。きっと、難しい天台教学を理解し、新たな主張を構築することが、インテリジェンスの証だと思ったのかも知れませんね。まあ、当世の仏教学者と言われる方々も、そっちの方がメインのような方が多々いらっしゃいますけれども。

日蓮聖人は、天台大師の教学を踏襲した上で、方便も真実の現れだなんていうのは、真実を明らかに知っている者の言うことで、真実が何やら分からずに枝葉の方便に拘っているような末法には、まず真実・本仏を明らかにすることが大事であると言われたのですね。方便と真実に差別は無いなどと暢気な事を言っている場合じゃない、差別を明らかに示して真実を宣揚すべき時だと日蓮聖人は強く言われたわけです。

そのために、日蓮聖人は法華経の本門が大事であることを打ち出しました。「一往勝劣再往一致」などというのは、言ってみれば日蓮聖人は確かに本迹に勝劣を唱えているが、天台大師は一致を唱えているのだと言っているようなものです。そこで、天台大師の釈に拘る一致派に対して、開顕の上になお差別を打ち出し、久遠釈尊の実在を説く本門の優位を唱えるのが日蓮聖人のスタンスであろうというのが、勝劣派である顕本法華宗の主張でした。ところが、他の勝劣派には少々ニュアンスが違う所があったんですね。一致派が余りにも「天台が、天台が」と言うものだから、「何を言うか、こっちは日蓮だ、日蓮だ!」となり、例えば八品派など、勢い余って遂には「教主釈尊が常に教えを以て導かれている」という寿量品に説かれた真実を覚ることよりも、「末法に日蓮聖人が救世主となって題目を下種して下さった」ことの方が重要だと考えるようになってしまうのですね。そして、これが今度はもっと勢い余って、「何が釈迦だ、こっちは日蓮だ、日蓮こそが本仏だ!」などという富士派(日蓮正宗)の屁理屈が出来上がってしまうわけです。

で、もう一つウンザリするのが、一致派は本門と迹門の一致に拘るために、本仏であるはずの釈迦如来に、そのまた本体、例えば「諸法実相」「宇宙の真理」があるなどと言い出したことですね。そして日蓮正宗もまた、釈尊を本仏としないために、久遠元初仏などを作り出し、その久遠元初仏の現れが日蓮大聖人だなどと訳の分からぬ事を言い出すわけですね。そんな・あんなが日蓮聖人の名前を騙って作られ、しかも難解な言葉で語られて、益々日蓮教学を訳の分からないものにしています。で、これまたその反発で、「題目さえ唱えれば良い」と主張も声高々となるわけです。

誰が、ああ言った、こう言ったではなく、過去の主張に何時までも拘らずに、日蓮聖人の真蹟に基づいて、何時何処でどのような目的で説かれたことかを把握した上で、そして常識的な仏教知識と読解力を以て、一般の信徒にも「なるほど、そうか!」と分かり易い真実を伝えることが出来る人々が、これからの日蓮門下・新生のためには必要になるでしょうね。まあしかし、日蓮聖人の教義を正しく勉強して理解しようとしない方々に、宗門の在り方を説くのは至難の技かも知れませんが。
 

ちょっと忙しいので・・更新が

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月 7日(水)07時23分16秒
 編集済
  やらねばならない事が結構溜まっています、サボっていないんですけど(笑)。

昨日は2泊3日のフライトから帰って、夕飯を掻き込むと直ぐにボクシングの練習へ。今日は、これから品川天妙国寺に教学研究所「公開研究例会」へ”とんぼ返り”。来週からはフライトの他に、緊急時のシミュレーター訓練と「定期路線審査」など”てんこ盛り”で、機長として勉強もしっかりとやらねばなりません。それが済んだら、来月早々から「おやじファイト」熊本大会を挟んで、布教師として千葉や岡山へと行って参ります。

忙しさも感謝して楽しむように心掛けていないと、泣きが入るばかりか、人生の好機を潰してしまいます。要は、「捉え方」ですね。

ちゃんと、「イケダン」としてカミさんの相手もしてますよ〜!(たぶん)
 

堤婆達多品 第十二 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月 3日(土)10時41分41秒
 編集済
  (現代語)

智積菩薩は、疑って言いました。釈迦牟尼仏は、遥かなる過去より菩提を求めて休むことなく、そしてこの三千大千世界に菩薩として身命を捨てなかったところは芥子粒程もありません。それは、すべて衆生の為であるのです。

その言葉が終わらざる時、竜王の娘は仏の前に忽然と現れて、礼拝すると偈を以て如来を讃歎しました。「優れて浄らかなる如来の法身は、三十二の相を具え、八十種の特徴をもって厳かに飾られております。」

(要文)

智積菩薩の言わく、われ釈迦如来を見たてまつれば、・・・三千大千世界を観るに、乃至芥子の如きばかりも、是れ菩薩にして、身命を捨てたまふ処に非ざることあることなし、衆生の為の故なり。

龍王の女(むすめ)、忽ちに前に現じて、偈を以って讃めて曰さく、微妙の浄き法身、相を具せること三十二、八十種好を以って用て法身を荘厳せり。

(要義)

智積菩薩が疑って言うには、釈迦牟尼仏は、この広い三千大千世界に芥子粒ばかりの場所でも命を捨てなかった所はない、衆生を憐れむ精神から身命を抛って、尊い菩薩の修行を積まれた結果として仏になったのである。すなわち、仏に成るには非常に長い年数の修行が必要であると説く別教の見地から、女人が発心して而も速やかに成仏するようなことは、信じる訳には行かないと述べている所です。

そこに竜王の娘が忽然として現れ、「微妙(みみょう)の浄き法身、相を具すること三十二〜」との讃仏偈を唱えます。多くの仏教者は、法身と言えば「真理としての実在」であって姿もなければ形もない、報身・応身には姿があるが、姿のあるものは実在の仏ではないなどと考えています。そこを今龍女は、法身である絶対の仏において、智慧と慈悲によって荘厳された微妙の美しき姿、報身と応身の姿を重ね合わせて見ているのです。龍女は、真理と智慧と慈悲の結晶として、真善美を兼ね備えた三身即一の不滅の如来を拝しているのであって、釈迦は応身、弥陀は報身、大日は法身というように、そこに区別を立てて見る隔歴三身の思想を否定しています。

真理である法身云々を人格的実在の仏を傍らに置いて論じることは一見高い思想のようですが、そのようなものは決して信仰を導きたる所以とはなりません。真言宗のように、山でも河でも何でも法身だ、皆すべて真理の現れだなどと言っておれば、大日如来に対する信仰を忘れて、不動明王を信じたり弘法大師を奉ったりするようなもので、日蓮門下に於いても久遠の釈迦如来に対する信仰を忘れて、鬼子母神の霊力を頼ったり、日蓮聖人を本仏だなどと崇める可笑しなことも起きるのです。人間の精神は、ただ冷ややかなものには心が動きません。情意が理智と共に離れずに動くというようなことを忘れた宗教は、人間の宗教としては効力を持たないのです。そのような理智に囚われた学者を辛辣に批判して、八歳の娘は讃仏偈を歌って成仏したとも言えます。
 

2009年度版 法話

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 9月30日(水)21時41分16秒
 編集済
  日蓮宗では、祈祷師、所謂「呪い師」になるために、荒行に入って精神の鍛錬をしている等と宣伝していますけど、私の場合は、布教のため、精神と肉体を鍛えるために、修行の一環として今ボクシングをしています。で、「おやじファイト」という全国的な試合に40歳代で参加しているんですね。まあ、大リーグ・イチロー選手の偉業には遠く及びませんが、ボクシングの練習は相当ストイックなもので、ジムでの結構な練習だけでなくて、勿論仕事の泊まり先では走り込みもしています。もう、48才になりますけど、9分走ってから30秒のダッシュを12本、そしてまた9分走る、のキチガイ沙汰です。

で、この間の6月に長崎で試合があったのですけど、ちょうどその試合の1ヶ月前に肩の神経を痛めてしまったんですね。上腕神経叢っていうのが、ここからここ(頸から肩を通して手先まで)に延びているんですけど、ちょっと無理な練習をして、丁度肩の付け根で神経を痛めて、接骨院の治療で更に悪化させて、もう車の助手席にも乗ってられないほどに激痛が走るようになってしまったんです。パイロットの仕事も10日ほど休みましたけど、もう後は、ペインクリニックのお医者さんに痛み止めの注射を打ちまくって貰って、何とか誤魔化していたんですね。もう、右手ではサンドバックも強くは打てない状態で、しかもパンチが顎に当たると、バーナー症候群と言って、肩にバーン!と電気が走るような状態です。何とか、試合までには痛みだけでも治ってくれと思いながらの1ヶ月、遂に、ぶっつけ本番となるその日を迎えてしまいました。

いやー、そりゃホント試練でしたね。何とか優性に凌げるかと思った1ラウンド終了間際、相手のパンチを食らった瞬間に、肩と腕にバーン!と激痛が走って使えなくなってしまったんですね。土屋信裕、もう最大の危機です! セコンドの会長は「どうんすんだ機長、腕が使えないなら棄権だぞ機長、どうすんだ!」って言うんですけど、ここまで来て、今更それはないでしょう。で、選択肢は三つです。棄権するか、このまま片手で続けてボコボコに負けるか、それとも片手で勝つか? もう、2ランドからは右腕は下がったまま、渾身の左フック、左フックのみです。で、勝ったんですね。奇蹟の判定勝利です。ジャッジもよく、有効打を見てくれたのが助かりました。

「闘い」っていうのは、怯んだら負けなんですね。どんなに正しいことでも、怯んだら負けなんです。「一生懸命やってきたのに、何でこんな目に遭うんだ〜。」なんて怯んでいたなら、もうサバーって天魔にさらわれちゃうんです。だからこそ、日蓮聖人は御遺文に「たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。」って励まして言われているんですね。宗教も闘いなんですよ。強く正しい生き方を貫く、我が人生における魔との闘いなんです。

で、私の好きな仏教のお話の一つ、涅槃経にお釈迦様の前世の修業を説いた「雪山童子」のお話があります。衆生の為に菩提心を発して、そしてヒマラヤで一生懸命に修行している雪山童子を見て、帝釈天が「此奴は、果たして本物かどうか。」を確かめるというお話ですね。そこで、帝釈天は恐ろしい鬼の姿に身を変えて天上から降り立つと、雪山童子の側で彼の有名な偈文の前半分「諸行無常、是生滅法」を唱えます。すると、雪山童子はこれを聞いて「嗚呼、これだ!」と思ったんですね。確かに、これは過去から仏が説いたものである。しかし、これは教えの前半分のみで、後ろの半分がない。鬼が何処で仏の教えを聞いたのかは知らないが、どうしても完全な教えが聞きたい。そこで、雪山童子が「どうか、後の大事な半分を聞かせて頂きたい。」と鬼に頼むと、鬼は「我は血肉を食らう者である。お前の身体を差し出すならば」と条件を出すんですね。雪山童子が臆することなく「衆生を利益する大事な教えの為ならば、どうぞ我が身を捧げましょう」と再び願うと、鬼は後の半偈を唱えます。「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と。

雪山童子は非常に悦んで感謝しました。そして、人々のためにと石壁や樹木にこの偈文を書き残して身を整えると、高い樹に上って「さぁ、約束通りに!」と躊躇無く、“ばーっ”と身を投げるんです。すると、彼の鬼は元の帝釈天の姿に戻って、雪山童子が地面に叩き付けられる寸前に、“さぁーっ”と助けるんですね。そして、帝釈天を初め、天の神々が雪山童子を礼拝し、誉め称えて言うんです。「素晴らしいことでございます。貴方こそ、真の菩薩であります。どうか無上の悟りを成就されて、そして一切衆生をお導き下さりますように。」と。皆さん、よ〜く、覚えていて下さいよ。不惜身命の覚悟がなければ、鬼は鬼のまんま、神には決して変わらないんです。

で、そうやって信心を強く保っている私は、何をしているかというと、有志の皆さんの御援助を得て、過去5年、カンボジアやインド、アンコールワットやブッダガヤで、現地の僧侶延べ4000名を動員して唱題行脚しながら、大行進しながら2万冊の現地語に翻訳した法華経を配布してくると共に、平成12年からは、ずっと創価学会・公明党と戦って来たんですね。平成12年は、ちょうど、自公連立政権が始まろうとしている時で、その時に自民党に「政教分離を考える会」っていうのがありまして、その白川代議士を通して、全国会議員700人以上に、この「しられざる創価学会の教義」を配って貰ったのです。全都議会議員には、今度創価学会・公明党の代表となる山口那津男、その山口那津男と選挙区で戦っていた、あのテレビによく出てくる平沢勝栄さん、知ってますよね? あの方に配って貰いました。日蓮聖人を習っての、私の所謂、平成の「立正安国論」奏進です。

で、国政選挙の度に街宣運動して来たんですね。東京や大阪では、歩いてでもやりましたけど、主に福岡では、愛車の赤いジープに、こんな大きなスピーカーと取り付けて、日蓮聖人と同じように辻説法です。私は、本来自民党支持者なんですけれども、創価学会に批判的だった代議士も、次から次へと皆創価学会に媚びを売るようになる事態に大変な危機感を持ったわけです。で、今年は7月16日「立正安国論」奏進750年の日に、麻生総理の地元・飯塚の商店街を皮切りに始めました。こんな感じですね。

「福岡の皆さん、こんにちは。仏教の教主が、お釈迦様であるのは世の中の常識です。お釈迦様が説かれた教えが、仏教でございます。これに反して、日蓮聖人の教えを歪曲して洗脳し、「釈迦も釈迦の教えも役に立たない」と教える、噸でもないカルト宗教が創価学会でございます。そして、その創価学会が、国を乗っ取る野望を以て組織したのが「公明党」でございます。日本国憲法第二十条には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」とあります。政権与党とは、政治権力を行使している政党です。その政権与党に創価学会・公明党は在るのです。創価学会と公明党は別モノであるなどいう屁理屈を鵜呑みにするような、非常識的な人間が一体何処にいると言うのでしょうか。

元公明党委員長で、現在は政治評論家の矢野絢也氏は、「創価学会と公明党は『日本占領計画』を着々と実行に移している。池田大作名誉会長による独裁国家の建設だ。私はマインドコントロールにかかって創価学会に操られていた。『池田創価学会』によって、日本の民主主義は、今や危機に瀕している。」と、最近出版した著書にもその真実を暴露しています。その創価学会に票をチラつかされ、学会票という麻薬に冒されて常識を失い、カルトの創価学会・公明党と組んでこの国を危うくしてきたのが自民党ではないでしょうか。その結果、今や政治や行政のみならず、マスコミも大広告主である創価学会に胡麻を擂っている有様です。日本国の平和と発展を本当に祈るならば、自民党はカルト宗教と手を結んだことを猛省し、そして新たに出直すべき時であるのです。それが、本来の自民党の復活となるはずです。国民は、自公連立政権にNOを突きつけています。噸でもない宗教と手を組んで、迷走している自民党にNOを突きつけているのです。それが都議会選挙の結果ではないでしょうか。政権維持のためにカルト宗教、創価学会と手を組んだ自民党、日本の未来に理念なき今の自民党には政権を担う資格はありません。」って。

もうそりゃ〜色々出てきますよ〜。「馬鹿野郎、いい加減なこと言うな!」って怒鳴り付けて、モノを投げ付けようとする奴も居ますし、車の前に立ちはだかってゴリラのように「やるか、この野郎」と威嚇してくる馬鹿も居ます。ずうっと付け回して来る学会員のおばさんの車もあります。で、創価学会に通報されて、のこのこ出て来た警察官には言ってやるんですね。「ピピピー、ちょっとこっちへ!」「何だ、お巡りさん。演説は聞いていただろ。創価学会に味方して、お釈迦様の敵になろうってのか?」って。そしたらですよ、「いえいえ、とんでもありません。職務上、通報があったまでのことですから、どうぞ渋滞に気を付けてお続け下さい。」って。もう、二度と警官は出てきませんね。

そして遂に、カルト宗教・創価学会と組んだ自民党は、天罰下って公明党共々散々に負けて政権から下野しましたね。お前の街宣運動と、自公政権の敗北は関係ないだろって言う人が居るかも知れませんけど、街宣が意味のないことだったなら、候補者が一生懸命やっている街頭演説も意味のないことになってしまいます。そして、何よりも大事なことは、人が見ているからじゃないんです。効果が目に見えるかどうかじゃないんです。損だとか得だとかじゃないんです。信仰として大事なことは、お釈迦様が見て居られるか、日蓮聖人が見て居られるか、仏教守護の神々が見て居られるかということなんです。

日蓮聖人は、弟子達には何度も「天の加護なき事を疑わざれ。現世の安穏ならざることを嘆かざれ。と述べたにも拘わらず」、と開目抄に書かれています。確かに、私は人並み以上にチャレンジ精神が有りますから、それだけに多くの試練を自らに敢えて招いているのかも知れません。しかしながら、それはけっして災いではないんですね。ですから、その試練以上にですよ、有り難い諸天善神の御加護を得て、そしてお釈迦様の有り難いお導きを受けていることを、私は本当に常々実感して感激することが出来るんです。信仰というものは、怯んじゃ駄目なんですね。勇気を奮い起こして臨まなければ駄目なんです。そこで初めて、諸天善神の御加護もあり、仏様も褒めて下さっていることが分かるんです。それに気付いて、嗚呼、何と素晴らしい人生なんだとの想いを得ようとするならば、是非とも、皆さんも、もう一歩、あと一歩、前に前に信仰に突き進んで頂けたらと思います。

ああ、そうそう。で、ボクシングの試合の時、神様でなくて、ウチのカミさんが大声で叫んでいましたよ。「土屋〜! 下がるな〜!」って。で、結局応援の褒美を私から貰ったのは、ウチのカミさんだったんですけどね(笑)。まぁ、今日の所はこの辺で。
 

堤婆達多品 第十二 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 9月28日(月)17時48分49秒
 編集済
  (現代語)

龍王の娘は、生まれながらにして智慧に優れ、衆生の性質や能力によって為される行為をよく知り、陀羅尼という非常に含蓄のある意味深い言葉を得て、仏達の説かれた奥深き秘蔵を悉く受け持ち、深く禅定に入ってあらゆる存在の真実に達し、瞬く間に菩提心を発して不退転の境地を得ています。その弁舌は自由自在であり、人々への慈しみは、恰も赤ん坊に接するが如くです。功徳を具えて、心に念じ口に唱えることは、非常に優れていて広大であり、その慈悲は思いやりに溢れ、心は穏やかに優しく美しく、よく仏道を成就しています。

(要文)

智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説・甚深の秘蔵、悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、刹那の頃(あいだ)に於いて菩提心を発して不退転を得たり。弁才無礙にして、衆生を慈念すること、猶お赤子の如し。功徳具足して、心に念ひ口に演(の)ぶること微妙広大なり。慈悲仁譲・志意和雅にして能く菩提に至れり。

(要義)

釈尊に促されて智積菩薩は、海中の竜宮において常に妙法蓮華経を以て多くの菩薩を教化してきた文殊菩薩に、この経を修行して速やかに仏と成った者は有るのかと問いました。そして、沙竭羅竜王の娘について答えたのが、女人成仏の証文となる上記の一節です。智積菩薩は、仏になるためには相当の難行苦行と徳を積まねばならないから女人には無理であると述べ、そして舎利弗尊者は小乗仏教の意見から、五つの障りを説いて、女人が仏に成ることは有り得ないと疑います。しかしながら、法華経の教化を受けた龍王の娘が、仏前に現われてその成仏を示すことによって、それ等の考えは全くの誤りであったことを悟るのです。女人は智慧が愚かである、教えに関しても鈍根である、状況や道理を考えず、自分の考えを意味も整わずに喋るばかりで、他の者の性質を知って教えを説くというような能力は乏しいなど、初期に成立した経典では女人の欠点が沢山論じられてきました。種々の事情によっては、女性の多くにそのような傾向が生じ易いのかも知れませんが、法華経ではそれ等の一つ一つを挙げて、女人の本質に必ずしもそのような欠点があるわけではないことを説きます。そして、龍王の娘を代表として、女人の人格及び能力の侮るべからざることを教えるのです。

そもそも仏教は、女性を排斥するものではなく、最初から婦人を啓発し、婦人をして希望を懐かしめてきた教えです。それ故に、釈尊に帰依して仏教の為に働いた在家婦人、または比丘尼として立派な仕事をした人が非常に沢山おられるのであって、大蔵経によって婦人に関する経文を総合して観察するならば、仏教が婦人を圧迫したり蔑視したりする所は殆どないことが分かります。婦人は宗教の為に働くのが一番良いということは、釈尊のお考えの中にもあったことで、仏教は女性を蔑視しているなどと考えるのは大きな間違いです。これは法華経のみが、他経と逆行して斯様なことを説いているのではありません。法華経が秀でているのは、他の経典に部分々々に現れ、そして説明が浅く整頓されていない思想を総合して統一している所にあります。侮る無かれ、女性は自分が語らんと欲することは自由に話をしても少しも差し障りなく、母の子を愛するが如き心は、広く押し広げられて多くの人に及ぼされるものである。優しさと謙虚さを持ち、その心は和らいで気品を備え、そうして結局は菩提に至り仏様になることを得るのだと、法華経は女性の性質というものを肯定して教えを説くのです。
 

堤婆達多品 第十二 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 9月23日(水)14時33分4秒
 編集済
  (現代語)

妙法蓮華経の堤婆達多品を聞き、浄らかな心で信じ敬い、疑惑を生じなければ、地獄・餓鬼・畜生の世界に堕ちず、十方の仏の面前に生まれ、常にこの経を聞くであろう。もし、人・天の世界に生まれるならば、妙なる法楽を得るであろう。

(要文)

妙法華経の堤婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして十方の仏前に生ぜん。所生の処には、常に此の経を聞かん。若し 人天の中に生まれては、勝妙の楽を受く。

(要義)

この法華経の堤婆品を聞いて疑いを起さなかったならば、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちないのみならず、十方の仏の前に生まれることが出来るとあります。また、自らが生ぜんと欲する所、何れにも自在に生まれることが出来る、そうして常にこの法華経を聞いて、益々菩薩に進み行いて、遂には仏になることが出来ると説かれています。

「勝妙の楽」とは、大海のように安らかな心の境地のことです。我が身にとって悪なるものを、善なるものへと捉え直すことが出来るならば、それがトラウマとなって執着を起こすようなことはありません。酷い目に遭わされた、悔しい思いもさせられた、しかしながら、よくよく考えれば、そのお陰で新たな方向性を見出し、そして今の成功も幸福も得られたのだと実感出来るように、人生に前向きに臨んでいかなければなりません。地獄界・餓鬼界・畜生界とは、瞋恚・貪欲・愚痴の心です。もし心に傷を残し、そして執着するならば、それは何時か怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪の感情となり、欲望を生じ愚かな行為を生じさせることにもなります。しかしながら、法華経を信じることによって心に自在を得て、物事の見方・考え方を変え、嫌悪すべきであったものも感謝すべきものへと転じて行くならば、如何なる境遇も変えていくことが出来る、優れた果報を得て幸福を得ることが出来るようになるのです。
 

朝日新聞、やってくれるねぇ(笑)

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 9月23日(水)12時34分44秒
 編集済
  つい先日は、もろ創価学会婦人部による公明党を擁護・宣伝する投稿が、「声」の欄で取り上げられていたかと思うと、今日は自民再生「処方箋を聞く」で、野中広務元幹事長を登場させています。

野中のお猿さん曰く、「10年間政権を共にした公明党のことも忘れてはいけない。この10年、自民党の暴走で内部から批判が起きるという苦悩を公明党はいくたびか味わったと思う。自民党内には『公明党と10年やったからこんなになったんだ』と言う人たちもいるが、この10年の政権は、公明党の協力と辛抱があったこそやってこられた。自民党が友党への配慮なしに政権を取り戻すのは難しいだろう。」だとか(怒)。
 

交々

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 9月20日(日)21時50分0秒
 編集済
  餓鬼・畜生・地獄の三悪道は、誰の心にも存在します。そして「衆生は皆是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す。」との、お釈迦様も私達の心に実在しているのです。正しき考え方、正しき行為に導いて私達を救わんとする、久遠釈尊の実在を信ぜず者には、餓鬼・畜生・地獄の業も現実化するでしょうね。「南無妙法蓮華経」とは、第一義に、寿量品に説かれているように、衆生を憐れむ久遠釈尊による慈悲の教化が常に行われていることを信じ、そしてそれを人々に弘めることを誓い、実践することですね。そうして、地涌の菩薩としての自覚を得て行くのです。

さて、日蓮聖人の弟子にそれぞれのキャラクターがあるように、日蓮門流の各々にもキャラクターがあるのは当然です。それは、けっして間違いであるとは言えません。しかしながら、日蓮聖人の教えに本質的に違うのならば、それは日蓮聖人の弟子ではありませんし、日蓮門下を名乗ることは許されないはずです。ですから、同じ日蓮門下でも、許し難き誤りは、誤りであると厳しく批判することが大切ですね。

何でも方便と、宗教を生業と考えているような人たちでも、世間から厳しく批判されるようなことになれば商売にはなりませんから、徐々に誤りを改めようとするでしょう。誤りを批判されて敵対してくるような人たちは、そもそも宗教として害ですから排除しなければなりませんが、そういう輩と直接対決するとなると結構面倒な事になります。ですから、世間に向かって分かり易く、どんどんその誤りを訴えていくことが肝要ですね。

大体の考え方の誤った者は、自分達で自分達の誤りを公表するようなことになったら、世間から信用を失って商売にならなくなるだろう等と考えて、何とか屁理屈を並べて誤魔化そうとします。こういう馬鹿は何時の時代でも居ますが、不良品にリコールを掛けないような会社こそが、世間から信用を失って潰れてしまうのだという、当たり前のことを理解しようとはしません。信用を与えるべき宗教が、信用を失するようなことを続けているのでは話にはなりませんよね。

かって本宗でも、私が「法華経を信じなさいと言って御布施を貰っている僧侶が、俺は法華経は信じられないと言ったら詐欺師になるでしょう。」と厳しく発言したところ、反感を持った”そこそこ権力を有している僧侶”に「片手間に僧侶なんかやりやがって、あの野郎は顕本の坊主は詐欺師だと言ってやがる。」と宗門中にデタラメを吹聴され、長年あからさまに皆から嫌厭されたことがあります。まあ、shamonとしては勝負の為所(しどころ)ですね(笑)。

話は変わりますが、昨日は、私が通っている博多協栄ジム、その期待の蔦谷選手の応援に後楽園ホールまで行ってきました。ボクシング界に全くの外から飛び込んで、その復興の為に尽力している著名な瀬端氏が主催している「ダンガン・ソウル」の興業です。おやじファイトも、実はその瀬端会長が興行しているものなんですね。ボクシング界の復興には、何よりも選手達が一生懸命に練習し、そして如何に感動できる試合を人々に見せてくれるかが大事なことです。ストイックなまでに精進したその結果を、全精力を以て互いにぶつけ合う姿に、観客は感動するんですね。観客は、けっして殴り合いの喧嘩を見て楽しんでいる訳ではないのですね。そして選手は、必ず互いの健闘を称え合うものなんですね。うん? 何が言いたいか分かりますよね。

さて、今回プロ4戦4勝で日本ランカー8位の選手に挑んだ23歳・元アマ王(元・東福岡高then拓大キャプテン)イケメン蔦谷選手の結果です。ファイナルラウンドの8R50秒過ぎに、見事なKO勝利を収めてくれました。5回に一度ダウンを与えるも、全般的には試合巧者で強打の相手選手に苦しみ、瞼(まぶた)の上もバックリ割れて出血し、あわや判定では負けるかという”ひやひや”状態の中、大逆転的な素晴らしい勝利で感動を与えてくれました。私も、応援に喉が張り裂けそうでした。

次は、文武両道に修行している私shamonが蔦谷選手の勇気を貰って、11月の「おやじファイト」熊本大会に向けて大いに奮闘せねばなりません。と、如何せん48歳になろうとしている身体、あちこち壊れやすく、今度は肩ではなく腰痛が長引いていて少々苦しんでいま〜す(涙)。何事も天魔に負けないように、皆さん励まし合って頑張っていきましょう! な〜に、死にはしないって(笑)。
 

補足

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 9月20日(日)07時55分22秒
  記憶が不確かと書きましたが、思えば10年以上前だと、日蓮正宗以外は日蓮宗一派一纏めと言う、認識でした。当時は、正しく勉強し始める頃、まだ創価学会経由の知識位しか持ち合わせていない時期だったかと思います。よって、日蓮正宗(正)以外はみな同じ(邪)、題目と言えば概ね日蓮宗、"日蓮宗おまえもかー!!"という思いを持ちました。但し、正宗の(正)は、ないなぁと思い始めた頃ですね。改めてお詫びします。


さて、最近も子殺しのニュースがありました。死んでしまえば、みな同じ、死に方にも差別はないという考えもあるかも知れませんが、私は世の中に親に虐待され殺される事ほど残酷な死はないものと思います。その次に無理心中の巻添えでしょうか、最も守られるべきもの、頼りとすべきものに殺されるのですから、その事を思うと痛まれてなりません。親殺しはまだ、その過程や事情等、考慮される事がありましょうから、一概には言えませんが、被害の幼子だけはその子に落ち度はありません。ただ仏教的にその前世まで遡ってぼって考えますと、この被害の子らには前世において、どれ程の謗法、過ちを犯してきたのだろうかと複雑な気持ちになります。が、そんな考えは別に、端くれの身として、ご祈念の終わりには、被害の子供さん達の冥福、追善供養を陰ながら続けています。私は超微力でも、仏界に届けば供養になるものと信じております。朝から重い話、失礼しました。
 

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