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報恩抄 その11

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 6月22日(木)07時28分4秒
編集済
  「此の人々の義にいわく、華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈迦如来の説の分也。今の大日経等は大日法王の勅言なり」

次に真言の中国における状態が述べられます。法相宗の後には、善無畏三蔵と金剛智三蔵が天竺からやって来て、次の三代目に不空三蔵が現れました。この不空三蔵の流れを汲むのが、中国に渡って色々と教えて貰って帰って来た日本の弘法大師です。彼等は「大日経」、「蘇悉地経」、「金剛頂経」という三つを真言の三部の妙典と称していますが、無論大日経と言っても釈迦牟尼仏が説かれた経典であったにも拘わらず、この大日如来というものが釈迦如来より偉い、その偉い大日如来が説いたものだと妙なことを言い出したのです。この世に出て仏法をお説きになった方は、釈迦牟尼仏より他に無いのは人類の歴史上も明白なことです。仏様というのは、釈迦如来より他には実際に居られません。この世に現れていない仏が説いた御経などがあるはずはありません。ところが、宇宙には大日如来という釈迦如来よりも偉い仏がいると言い出した。最初は中々はっきりとは言っていませんでしたが、弘法大師に至ってそれは一層明確になって来たのです。

当初中国で彼等が言っていたのは、法華経には印と真言が無いから大日経の方が優れているということでした。印とは指を色々と組み合わせて妙な形に結ぶこと、真言とは呪文や陀羅尼を口に唱えることで、これはバラモン教で行われていたことが取り入れられたものです。そして法華経にはそれがない、その点において大日経の方が良いと言い出した訳です。しかしながら、釈迦如来の仏教は、寧ろそういう形に囚われた宗教を改革したるものでした。バラモン教の印を結ぶとか断食するとか、あるいは妙な言葉を唱えるとか、山の中に入って素っ裸で石の上に座るとか、そんな事はやっても仕様がない、形において色々なことをするよりも、宗教の本領は先ず精神において正しき心を持ち、正しき道徳観念を有することであると釈迦如来は説かれたのです。弘法大師はそこが分からなかった、最新の仏教と思って持ち込んだ密教は、実はバラモン教の影響を著しく受けた本来の仏教とは異なるものだったわけです。中国では後に天台大師に次ぐ大学者である六祖妙楽大師が出られ、天台大師の「摩訶止観」「法華玄義」「法華文句」に対して、「摩訶止観輔行伝弘決(ぐけつ)」「法華玄義釈籤(しゃくせん)」「法華文句記」という各々十巻の講釈を書かれて、法華経の卓越したることを再び発揮し、天台大師以後に頭を持ち上げた法相宗・華厳宗・真言宗の三宗を悉く粉砕されました。しかしながら、日本では特にこの真言密教が次第に大きな影響力を持つようになったのです。


 

明解「法華経要義」 分別功徳品第十七 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 6月20日(火)10時28分42秒
編集済
  (現代語)
また、如来の入滅の後に、もしこの経を聞いて毀ることなく、心の底から喜びを感じるならば、当に知らねばならぬ、既に深信解の相を得ているものであると。ましてや、読誦し受持する者は言うまでもない。この人は、即ち如来を頭上に頂いているのである。

(要文)
又また如来の滅後に、もしこの経を聞いて毀訾せずして随喜の心を起こさん。当に知るべし、すでに深信解の相となづく。如何に況や、これを読誦し受持せん者をや。この人は即ちこれ如来を頂戴したてまつるなり。

(要義)
四信五品という位を分けて詳しく説いたけれども、その中の妙旨は随喜と信念に存するが故に、信仰というものは決して難しいものではない事を上記の文は明らかにしています。この事を日蓮聖人は、「一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解・初随喜の気分となすなり。これ則ちこの経の本意なり」と言われている訳です。その随喜も「毀らず」とあるのですから、そう深い信仰ではありません。この一念信が直ぐに深信解の相となるので、本仏に対する一念信は実に平易なるものであっても、その内容を辿れば最高の理智に一致するのです。平易なる信仰は平易のみに偏し、理智は理智の方ばかりに傾く事を教えるのではありません。信念と理智が一致した時には、一念に信じたことと同じ事を必ず心に観る、それ故に毀らず随喜の心を起こせば、それが直ちに深信解の相であると説かれているのです。この随喜でさえも成仏の功徳を得るは無論ですが、その上に法華経を読誦して受持するという事は、これ即ち朝夕不断に本仏釈迦如来を頭の上に頂き、我が頭の上には本仏在せりとの信念に立つことです。それにも拘わらず、如来を忘れるが如き解釈に至るのであれば、それは経旨とは全く懸け離れたものとなります。私達は、日蓮聖人が「分別功徳品の四信と五品とは、法華を修行するの大要、在世滅度の亀鏡なり」と述べられた意味を考えて、一人一人に対して言われたその時々の言葉でなしに、法華経信行の根拠がここに在るという事を深く記憶して置かねばなりません。そして次の経文に説かれるように、要するにそれは如来を頂戴し奉ることであるのです。



 

報恩抄 その10

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 6月 9日(金)07時56分20秒
編集済
  「法華経を打ちかへして、三乗真実、一乗方便、五性各別と申せし事は心うかりし事なり。天竺よりは渡れども、月氏の外道が漢土に渡れるか」

大乗の宗旨と言われているのは、華厳宗・法相宗・真言宗に天台宗を加えた四宗です。華厳経については如何に立派な御経であると言っても、久遠実成を現していない、私達仏教徒の奉ずる所の仏身観が明らかになっていないことから、法華経より劣るということを既に論結されました。そして次の法相宗は、天台大師が御入滅された後、唐の太宗の御宇に玄奘三蔵が立てられました。玄奘三蔵には、印度に十七年も行って色々の経論を求め、それを中国に持ち帰って翻訳されたという大功労があります。彼の有名な「西域記」は、その印度歴遊の間の見聞を書かれたもので、今でも当時の印度の様子や歴史を知る上で大事な書物となっています。ところが彼の研究したる仏教の趣意が、天台大師の教えたる法華経を中心とした仏教とは、全く正反対のものだったのです。日本では奈良の仏教として、法相宗は華厳宗と共に一時は非常に勢力を占めて多くの学者も輩出しましたが、伝教大師のために殆ど滅びてしまいました。その法相宗は、玄奘三蔵が「法華経は一切経には勝れているが解深密経よりも劣る」と言い、また「五性各別」ということを論じます。五性各別とは、人々に五つの性質の違いがあり、(一)菩薩の性質を帯びている者、(二)縁覚の性質、(三)声聞の性質、(四)菩薩か縁覚か、それとも声聞に行くか未だ定まっていない性質、(五)無性といって徹底して仏性を有さない性質があると、人間を五つに区分したものです。そして決定性といって縁覚と声聞に決定してしまった者と、無性といって仏性を有さない者は、如何なる仏が出て来ても力は及ばない、成仏することは出来ないと言う訳です。これに対して法華経の方は「人開会」といって、人格の平等を認める、如何なる者でも、表面は違っていても、人として生まれてきた以上は、その価値は同じであるということを力説します。それは今日に至る印度のカースト制を確立し、徹底した差別を説くバラモン教に対するが如くであるために、日蓮聖人も「外道が(密教として)漢土に渡れるか」と論じられたに違いありません。

法華経は人格の平等を認めますから、第一に決定性と言われる所の舎利弗、目連、迦葉、阿難がみな二乗作仏として成仏を許されます。そして提婆達多のような非常に悪い者、何処を叩いても仏性などありそうもない悪人を活かして来て、天王如来となると言うのです。またそれに続いて、女人の成仏、愚者の成仏が許される、即ち龍女が女人の代表となり、須利槃特が馬鹿の代表となって、皆悉く法華経によって救われる、十界悉く仏道を成ずるということを法華経は主張します。法相宗が永久に成仏しないと言う決定性、無仏性の二つを、法華経では悉く活かすのです。そして法相宗が、法華経のように菩薩でも女人でも悪人でも二乗でも皆一つにして、畢竟して一乗に住せしめるというようなことは方便である、三乗差別の教えが真実であると主張することと闘って来ました。これは非常に大事なことで、表面は違っていても根本においての価値の平等を認めなければならないことは、現代の文明を作る上で根本となる思想でありましょう。表面的には悪人と善人との違いはあっても、その悪人が何処までも悪人という訳ではありません。心の奥底には仏性があり明徳があるのですから、導くに道をもってすれば必ず変化するものである、その変化の可能ということを言うためには、人格の平等が根本になくてはなりません。それは義務教育などの上にも言えることで、如何なる者でも教えればそれだけの教育が出来るということが前提であるが故に、国民は子供に平等の教育を受けさせる義務があります。今はまた、義務教育以外の教育の無償化ということも唱えられ、如何なる貧乏な者であっても、如何なる不幸せな者であっても、同じ程度の教育を受けられるように国家がしていかなければならないという時代になりました。そして仏教は、本当の人間の心得を教える、この人生を味わう所のもので、普通の大学よりもう一つ大きな大学です。本当の人生学、宇宙学として、如何なる人間でもこの大きな学校に入れる場合には、誰でも生徒となり、誰でも卒業せられるということを前提とします。それを最初から、「あれは駄目だ、こいつはいかん」というような見当をつけて除外することはいけないというのが、法華経の教えです。それが法華経の二大教義の一つ、二乗作仏、仏性の開発ということです。


 

明解「法華経要義」 分別功徳品第十七 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 6月 3日(土)09時09分29秒
編集済
  (現代語)
弥勒よ、もし善男善女が、私の寿命が永遠であることを聞き、深き心において信じるならば、仏が常に霊鷲山に在って菩薩・声聞達に敬い囲まれて説法しているのを見、また、この娑婆世界が瑠璃をもって大地となし平らかで歪みなく、閻浮河の黄金によって八つの道は仕切られ、宝樹が立ち並び、高殿・楼閣は悉く宝をもって飾られ、菩薩達が皆その中に居るのを見るであろう。もし、この如くに観る者あれば、これは当に深信解の相と知るべきである。

(要文)
阿逸多よ、もし善男子・善女人、我が寿命長遠なるを説くを聞いて深心に信解せば、則ちこれ仏常に耆闍崛山に在って、大菩薩諸の声聞衆の囲遶せると共に説法するを見、また此の娑婆世界、其の地瑠璃にして坦然平正に、閻浮檀金以て八道を界い、宝樹行列し、諸台楼観皆悉く宝をもって成じて、その菩薩衆咸く其の中に処せるを見ん。もし能く是の如く観ずること有らん者は、当に知るべし、是れを深信解の相と為く。

(要義)
この所は四信最後の深信観成であって、平易なる信仰から理智の極地に合することが説かれています。仏教の信念と理智とが最高点に達した所に、この深信観成の妙味は現れます。釈尊の寿命の長遠なることを聞いて、この寿量品の本仏の実在を真心から信解するならば、その信解の中に仏はいつも霊鷲山に在って、大勢の大衆が囲繞する中で説法をされている、仏はいつも生きて、いつも大勢の人々を助けておられる。そしてその仏の居られる世界、この娑婆世界が立派な浄土なのであるから、西方に浄土を求める必要はない。この一節は、寿量品の「大火に焼かるると見る時も我が此の土は安穏」という事を一層具体的に美しい浄土の光景として説かれたもので、大勢の菩薩衆が居て、その中心で本仏釈尊がお働きになっている様相です。このように観ずるのが深信解の相であり、このように観ずるのが理智の完成した所です。宇宙が真如の一理より発して万象となったというような事は、それは初歩のことであって、けっして仏教思想の完成ではありません。天台大師は法華経の理智を探究するばかりに信行には達し得ませんでしたが、日蓮聖人は信行に達して自ずから理智を完成されたのです。日蓮聖人が正観を立てると言うのは、この深信観成を指しての事です。然るに、日蓮聖人亡き後の法華信者が「法」という字に引き摺られて、真言の阿字の如くに、天台宗の実相妙理の如くに流れて、本仏に対する信仰を失うに至ったことは何よりも残念なことです。それでは、寿量品の根本の大事を無にしてしまいます。

また、「末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し、但南無妙法蓮華経なるべし」などという真蹟の無い御遺文に拘泥して、信仰の中身などはどうでもよい、ただ南無妙法蓮華経とさえ唱えれば、仏に成れる、現世利益があるなどという低俗な信仰が未だ多くの日蓮門下で主張されていますが、そもそもこの御遺文の一節は、他宗の影響で日本国の殆どの衆生が法華経を捨て、久遠の釈尊を謗っている現状を嘆いて言われたものです。それらの者には、釈尊が説かれた余経も、その真髄の法華経を説いても致し方ない、罵られようと迫害されようと、ただ南無妙法蓮華経と唱えて、彼等の後生に法華経の縁を結ぶことが大事であるからです。だからこそ、真蹟の法華取要抄には「逆縁のためにはただ妙法蓮華経の五字に限るのみ。例せば不軽品のごとし。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり」と述べられている訳です。すなわち「ただ妙法蓮華経の五字に限る」のは、法華経を謗る逆縁の者に対してであって、日蓮聖人の門弟に対して言われたものではありません。

 

報恩抄 その9

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月31日(水)18時24分51秒
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  「智顗法師は末座に坐して色を変ぜず、言を苅(あやま)らず、威儀しづかにして、諸僧の言を一々に牒をとり、言ごとに責め返へす」

天台大師は6世紀の中国に出た偉い人で、本名を智顗と言い、後に智者大師と称せられた方です。無論天台大師以前にも、天台大師以後にも偉い坊さんは出ましたが、天台大師程に一切経を見分けた人は居ないので、「智者以前に智者なく、智者以後に智者なし」と言われています。その天台大師が、その頃十派に仏教が分かれていた、その十人の大学者を対手にされた訳ですが、その中に南三の第三流派に属する光宅寺の法雲法師という偉い人が立てた教義がありました。彼は釈尊一代の仏教を五つに分けて、その中から優れた三つの経を選び出し、華厳経が第一で大王の如く、涅槃経が第二で摂政関白の如く、そして法華経は第三の公卿の如しであると言い出したのです。法雲法師は梁の武帝が光宅寺という寺を建てて帰依した人で、法華経にも非常に縁があり、大旱魃があった時に法華経・薬草喩品の「その雨普く等しく四方より倶に下る」という句を講釈されただけでも雨が降ったと言われています。その法雲法師が講釈を書いた法華経の疏で、「この経未だ碩然(せきねん)ならず」、この経は未だ大事な所が明らかになっていないと言ったのです。ちなみに、日本の聖徳太子は法華経を第一とされましたが、未だ天台大師の天台大師の「法華文句」などは未だ見ておられなかったため、「法華義疏」の講釈を書く時分には法雲法師の書物に依っています。

この法雲法師が亡くなられた後に、智顗法師即ち天台大師が生まれて来られました。そして南岳大師という有名な高僧を師として、法雲法師が華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三と立てたことを不審に思った天台大師は、一体何処に法華経が華厳経に及ばん所があるかということを明らかにせんと研究されたのです。そして法華経が第一、涅槃経が第二、華厳経が第三と天台大師がお定めになると、盛んに反対が起こり「智顗法師の頭を破(わ)れ、国から追放せよ」との騒ぎとなり、それを聞いた国王の命によって、法雲法師の弟子、慧栄・法歳その他の百人余りの偉い坊さんと議論することとなります。「何あの年の若い十七歳の青坊主が、やってしまえ」という訳でありましたが、天台大師は実に不出世の高僧で、齢十七ですが少しも動じることがありません。非常に落ち着いた態度をもって、百人ばかりの華厳宗の学者を対手として戦われました。その問答の様子は、天台大師が「華厳経が法華経より勝れている証拠は何処にあるか、挙げられるのならば証文を出してご覧なさい」と言えば頭を垂れて色を失い、法華経の開経である無量義経には、「次に方等部経・摩訶般若・華厳海空を説く」と華厳経の名をあげて、未だ真実を現さない「未顕真実」とあることを責めれば、華厳の学者が皆一言もなく行き詰まってしまう有様でした。

次に「涅槃経が法華経よりも勝れているという経文は何処にあるか」と問えば、これまた返答が出て来ない。涅槃経よりも法華経が勝れているという明文は涅槃経の中にある。法華経において大勢の弟子達が成仏の記別を受けた。それは秋に稲を刈って収穫し冬には蔵に収まっているようなもので、涅槃経は残された落穂を拾い集めて歩くようなものであると説かれている。この経文は正しく涅槃経が法華経よりも劣っていると自ら述べているのに、何故に涅槃経を第二に置いたかと問えば、やはり何も答えることが出来ない。そこが面白い、法華の議論の良い所はそこにあります。彼等は「両眼を閉じ一頭を低(うなだ)れたり」とあるように、少しも答弁することが出来ないから、遂に天台大師の議論に従わなければならなくなりました。この有様によって法華経は華厳経、涅槃経に勝れているということが支那の国中に知れ渡ったのみならず天竺にまで聞こえ、天竺の書物も天台大師の講釈には及ばない、お釈迦様が再び世に現れた如くであると褒めそやされたのです。そして、この天台大師の偉大な貢献のように、日蓮聖人もまた仏教諸宗を統一して、再び思想の紛乱を救うようにしようと念願されたのでした。


 

創価学会教義の破綻

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月27日(土)12時51分54秒
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  創価大学に雇われている宮田幸一教授は、仏教学者としての良心から、偽書や真蹟のない御遺文に依拠する、こじ付けの「日蓮本仏論」は破棄する方針だと2015年に創価大学で行われた宗教学会で発表しました。しかしながら、創価学会上層部からの叱りを受けて、あくまでも私見であったと訂正した上に、情けないことに「日蓮本仏論」という教義を残しながら新たな屁理屈を構築できないかと模索しています。即ち、顕本法華宗のように釈迦本仏を立てる他宗を散々に邪宗と罵倒してきた創価学会の教義は、現在は完全に破綻し、ただ池田大作を崇拝するカルト宗教団体になっているということです。

未だ創価学会員が「日蓮本仏論」をもって、間違った信仰だなどと他を罵ってきたならば、「お前のところの宮田教授とでも勝手に法論しとけ」と一蹴しておけば良いでしょう。

 

明解「法華経要義」 分別功徳品第十七 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月26日(金)08時22分49秒
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  (現代語)
仏の名は十方の世界に聞こえて、広く人々を利益されました。すべての人は善根を具えて、無上の心を助けるものとしたのです。

(要文)
仏の名十方に聞こえて、広く衆生を饒益したまう。一切善根を具して、以て無上の心を助く。

(要義)
釈迦牟尼仏の御名は十方に聞こえて、そして大勢の衆生が利益を得て救われます。釈尊の名の及ぶ所、人は善根を具え、その善根は菩提を成就しようとする精神、無上の心を助けます。先に述べた成仏の主因である一念信解によって善根を有し、その善根が助因として無上心を助ける、即ち主因助因が相協力して行くという、仏教の一貫とした精神が此処に説かれています。浄土門などが、無上心を尊ぶが為に善根を敵とするような説明は如何にも愚かな話であって、そのようなものは法華経の説く所ではありません。

(現代語)
その時に、仏は弥勒菩薩に告げました。阿逸多よ、誰であれ、仏の寿命が永遠なることを聞いて一念の信解を生じるならば、その得る所の功徳は量り知ることが出来ない。もし善男善女が、私が寿命を説くのを聞いて一念も信ずるならば、その福徳は五種の波羅蜜を超えよう。もし人、一切の疑いを懐くことなくして、深き心にて少しの間にも信じるのであれば、得る所の福徳は斯くの如くなるであろう。

(要文)
その時に仏、弥勒菩薩摩訶薩に告げたまわく、阿逸多よ、それ衆生あって、仏の寿命の長遠是の如くなるを聞いて、乃至能く一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量あることなけん。

善男女等有って 我が寿命を説くを聞いて 乃至一念も信ぜば その福彼れに過ぎたらん。もし人悉く一切の諸の疑悔あること無くして、深心に須臾も信ぜん。その福此の如くなることを為。

(要義)
阿逸多とは、弥勒菩薩の名です。その弥勒菩薩に、衆生がこの本仏の寿命の長遠、即実在である事を聞いて一念の信解を生じたならば、その者の功徳は量り知る事が出来ないと述べられています。信解の「解」とは、一般的には内容を理解することですが、「解の一字は後の奪わるる故なり。」と日蓮聖人が述べられるが如く、「解」は四信の第二である略解言趣の位に当たりますから、ここでは「信」ということに最も重きを置きます。したがって、下段の経文にも解の字は省かれている訳です。「その福彼れに過ぎん」の彼れとは、先に述べた六波羅蜜の智慧行を除いた五つの功徳です。本仏釈尊の寿命が無量であることを疑う心なく信じる功徳は、仏や菩薩を供養し精舎を荘厳すること、戒律を保ち清らかで欠けることない人格であること、魔に心動かされず増上慢に悩まされても耐え忍ぶこと、志堅固に怠りなく精進すること、静寂なる所で心を統御し無上道を求めること、これらによって得た功徳をも超えます。深心ということを難しく考える必要はありませんが、これは心の奥底からということですから、須臾とあるからと言って、決して上っ面に信じても良いということではありません。

 

報恩抄 その8

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月16日(火)22時03分15秒
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  「かくて一切経の中に法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給いてなげき給うやうは、如来の聖教は漢土に渡れども、人を利益することなし。かへりて一切衆生を悪道に導びくこと、人師の苅(あやまり)によれり」

日蓮聖人が師として仰ぐのは、法華経を第一とされた天台大師と伝教大師であって、天台大師が中国において南三北七の十流の学説を統一し、日本のおいては伝教大師が南都六宗を統一したる事蹟は、日蓮聖人の最も深く感激しておられることです。そして日蓮聖人一代の目的もまた、鎌倉時代における仏教の紛乱を統一しようとすることにありました。故に今日と雖も、日蓮聖人の主義を受け継いでいる者は、やはり仏教を統一し、進んでは我が国の思想問題に対しても、健全なる思想の統一を図ることを本領とすべきであると思うのです。そのためには、批判的精神をもって、斯かる宗教、斯かる道徳、斯かる思想は大いに国家に対して害があるものであるということを明白にしていかなければなりません。今頃になっても訳の分からぬような信仰をしていることは、恥ずかしいことだと思わなければなりません。日蓮聖人が「真言亡国」と言われたことも、従来の思想界が幼稚で浅薄であったがために、ただ悪口を言ったように思われただけであって、今になって考えれば実に明晰な論断です。釈迦如来が教えを立てられた娑婆世界にも拘わらず、弘法大師が出て来て「釈迦如来はいけない、釈迦の説いた仏教は駄目だ、釈迦如来など側にも寄れない大日如来が説いた大日経という御経がある」などと言うようなことは、インドで護摩を焚き呪文を唱えるヒンズー教が釈迦仏をヴィシュヌ神の九番目の化身とし、敢えて間違った宗教を弘めた者として、お釈迦様の仏教を蔑ろにしてしまったことと少しも違いがありません。

また、今日最大の宗教団体である創価学会や日蓮正宗が、盛んに「釈迦の説いた仏教は役に立たない、日蓮大聖人が御本仏であって釈迦の及ぶ分際ではない、釈迦仏法など使用すれば生活に破綻をきたすのは当然」などと言ってきたことも全く恐ろしい思想でありましょう。のんべんだらりとしている者であれば、仏教徒がお釈迦様を捨てることも何とも思わないかも知れませんが、例えばキリスト教徒がイエスを捨てるなどということになれば容易なことではありません。仏教を信じる者が、教主である釈迦牟尼仏を捨ててしまう、釈迦の説いた一切経は皆役に立たないと言われて、一切経をパッと捨てるようなことになれば、道徳の上において如何なる大事なことでも、同じようなことが起こります。仏教徒でありながら釈迦を蔑ろにし、一切経を捨てるという思想が一転して国民に入ったならば、また、そういうことを教えて信じさせる宗教が政治に関わっていたならば、遂に国家を滅ぼすものであるということを日蓮聖人は叫んだのです。ただ何となく宗教と道徳と政治は切り離して考えた方がよいと考えている人が多いようですが、しかしながら人間の思想というものは、そうそう分離して論じることが出来るものではありません。始終融通していて、その一点が他の全てに影響を与えているものなのです。だからこそ、日蓮聖人が論じた事が、今日にも適切なる影響を与えてくるのです。


 

明解「法華経要義」 分別功徳品第十七 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月15日(月)10時09分57秒
  (現代語)
弥勒菩薩は座より立ち上がると、右の肩を袒にして、合掌して仏に申し上げました。それは、未だかって私達が聞いたことのないものです。世尊には偉大なる力が有り、その寿命は量り知ることも出来ません。数え切れない程の多くの仏子が、世尊が法の利益を得る者について詳しく説かれるのを聞いて、皆歓喜を身に満ち溢れさせております。

(要文)
その時に弥勒菩薩、座より起って偏に右の肩を袒にし、合掌し仏に向い奉りて、偈を説いて言さく。仏希有の法を説きたもう、昔より未だかつて聞かざるところなり。世尊は大力ましまして、寿命量るべからず。無数の諸の仏子、世尊の分別して法利を得る者を説きたまうを聞いて、歓喜身に充遍す。

(要義)
会座にある人々を代表して、弥勒菩薩が讃仏偈を奉った所です。希有という事は、尋常の人が説くものではありません。孔子・孟子のように、生命の無限を明らかにせずして、ただ善を教えたり、因果律の根本を明らかにせずして、ただ義務の上に善を為すというような根拠なくして道徳を説いたりするものではないのです。普通世間の人は、法と言えば何か抽象的な真理みたいなことを思い浮かべていますが、今「希有の法」と指したこと、正法として具体的に説かれたことは、仏の広大なる功徳の力と寿命無限である仏の実在です。仏の力、仏の生命を指して「希有の法」と言っているのです。日蓮門下には真言宗の影響を受けて、訳の分からぬものに法という言葉を使い、仏の頭の上に法が位いするというようなことを考える者が多々居りますが、法華経にはそのようなことは全く説かれていません。仏の力と仏の寿命、その広大なる仏の事を聞いたことによって功徳を得、その功徳を説き分けられた本仏の有難さに感激して、弥勒菩薩は「歓喜身に充遍す」と歓びが心のみならず全身に溢れていることを申し上げたのです。

 

報恩抄 その7

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月10日(水)14時56分51秒
編集済
  「小失なくとも大難に度々値う人をこそ滅後の法華経の行者とは知り候わめ」

釈迦如来の在世に色々の反対があったのも、実は法華経のために起こったことである。釈迦牟尼仏が摩耶夫人のお腹に宿られた時に、第六天の魔王は、これは容易なことではない、この懐妊している子供が生まれて人の世に出るならば、悪を働こうとしている我々は全滅されてしまうかも知れない、法華経という尊い教えを説いて人々に与え、その法華経の利剣によって斬りまくられては堪らないから、今のうちに謀(はかりごと)を立てなければならぬと考えた。そこで医者に化けて浄飯王宮に入り込み、「この薬を召し上がれば安穏にお産が出来ます」と言って、毒薬を摩耶夫人に服ませたのである。また、お生まれになった時には石を降らせ、乳に毒を混ぜて悉達太子を殺そうとした。そして悉達太子が城を出て修行されようとする時には、黒い毒蛇となって道を塞ぎ、更には提婆達多や阿闍世王などの身に入って、大石を投げつけて殺そうとしたり、酒を飲ませた像に踏み殺させようとしたりと、法華経を世尊が説き給うのを恐れて、どうにか亡き者にしようと謀ったのである。

法華経には「如来の現在すら猶怨嫉多し」とあり、その次には「況んや滅度の後をや」とある。釈尊の御身には九通りの大難があったが、それにも優って滅後の法華経の行者には難が起こると説かれている。即ち、過失もないのに兎にも角にも度々の難が起こって、如何にも容易ならぬことであるとの証拠がなければ、真実の法華行者とは言われないのである。したがって、ただ今のように諸宗に偉い人があって、それに味方している僧侶や信者が沢山いて、法華経第一という主張に大反対を試み、寄って集って日蓮を迫害しようとすることは、これは正しく日蓮をして法華行者たらしめ、法華行者たることを証明していることになる。法華経の金言を活かす訳であるから恐ろしいことではあるけれども、そのように考えるならば、容易ならぬ所の反対を受けて、法華経の正義を貫くことは、一面から言えば実に愉快なことであり、自ら法華経の行者たるを証拠立てる点において、喜び身に余ることであると日蓮聖人は述べられたのです。


 

明解「法華経要義」 分別功徳品第十七 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月 7日(日)15時29分21秒
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   (現代語)
この説法の会座に集いし者達、仏の寿命の永遠なることを聞いた量り知れぬ大勢の衆生は、広大な利益を得ることが出来たのです。

(要文)
その時に大会、仏の寿命の劫数長遠なること、是の如くなるを説きたもうを聞いて、無量無辺阿僧祇の衆生大饒益を得つ。

(要義)
分別功徳品では、寿量品を聞いて信じる者は必ず仏になる功徳があるということを詳しく説かれます。この中では四信五品といって、釈尊在世の行者を四つに分け、滅後の行者を五つ分けて、法華経を修行する者の階級が示されています。日蓮聖人は、「四信五品鈔」に「分別功徳品の四信と五品とは、法華を修行するの大要、在世滅度の亀鏡なり」と特にその大事を述べて、その中でも在世四信の初めの一念信解と滅後五品の第一の初随喜は同じであり、この一念信解こそが法華経修行における信念成仏の根拠であると言われています。それ故にこの品を知るには、まず四信五品の意味を了解することが大切です。

四信:一念信解、略解言趣、広為他説、深信観成
五品:初随喜、読誦、説法、兼行六度、正行六度

第一の一念信解とは、寿量品に説かれた本仏釈尊の妙なる化導を聞いて一念に有り難いと感激せるものであって、ここでは解の字には重きをなしません。第二の略解言趣も、寿量品の釈尊に対して一通りの了解を持つ者であって、何も詳しく知る訳ではありません。第三は広為他説と、その寿量品の意味を他の為にも説くものです。そして、第四の深信観成とは寿量品の本仏の実在に対して深く信じ、ただ感情的に信じるばかりではなく、真心を以て信じるその信念が自己の理智と一致するのを観る、即ち信仰の上に現れる本仏と宇宙の真如、信と智が一体に帰している有様です。それ故に分別功徳品を講ずれば、この一念信解の所において信念の成仏を了解し、そして深信観成において信仰と理智との一致を会得することが極めて大切なのです。五品は、大体同じことを滅後の行者について述べたものです。初随喜とは、寿量品の教えに自分の心を随えて、そうして有り難く感じる最初の位であり、四信の一念信解と同じで、一番大事な初めの所です。随喜心という自らを随える所が定まってこそ宗教の価値は生じるのであって、今日の退廃せる日蓮門下のように、何に随喜するのかを明らかにせずして題目を有り難がっているようなことは、これは明らかに迷信の標本であると言わねばなりません。第二の読誦とは寿量品の経文を読むことであり、第三の説法とは寿量品の意味を他に向かって説くことです。そして第四と第五の六度とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜の菩薩行であり、兼業とは部分的に、正行とは完備して行うことです。

この六波羅蜜の菩薩行は、必ずしも困難なことではありません。金銭を施すも布施ですが、自分の余れる力を他に与えること、知識についても経験についても、またその他においても、自分の力を貸して他を利益せんとする場合は、それは皆布施ということになります。凡そ道徳の行為は、この布施の心より起こるものです。持戒ということも、完全に道徳律法を守らんとすれば、それは容易ではないかも知れませんが、人としての律、為すべきこと、為すべからずと定められた道徳の規範を守らねばならないということは、これは当然のことです。それを難行と言って斥けたのでは意義を為しません。成仏の正因は信心に置くのであるけれども、それを助成するものはすべての善根功徳ですから、如何なる善と雖もこれを斥ける所以はありません。宗教を信じていない人でも善を求めている、まして宗教を信じる者が善を斥けるということはあってはなりません。色々な善を寄せ集めて初めて成仏するというのではなく、信心を主因とするのが宗教の本義ではありますけれども、信仰と善根を対立せしめて、信仰を重んずるが故に善根を敵とするような説明は、その根本に於いて間違っています。人間の善心を幾分でも啓発しようとする所に道徳宗教の教化の本領があるのであって、やれないからと言ってそれに甘んじること、出来ない、出来なくても宜しいと断定を与えるようなことは邪説の標本です。釈尊は如何なる極悪の人間に対しても、汝に善は全滅していないと示して、如何なる者に対しても、皆菩薩の道を行じて作仏すべきであると啓発されたのですから、それを打ち切って進まないようにする教えは、閻魔の庁に於いて極刑に処せられても逃れるべき道のない大きな罪悪です。法華経は一念信解の成仏を説くけれども、能ふべくんばと、四信五品の階級を示していることを了解しておかねばなりません。

 

報恩抄 その6

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 5月 3日(水)09時10分57秒
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  「日蓮此れを知りながら人々を恐れて申さずば、『寧ろ身命を喪ふとも教を匿(か)くさざる者』の仏陀の諫暁を用いぬ者となりぬ」

各宗には何れも立派な祖師があって各々に宗旨を立てているが、今法華経の行者としては、これらの宗旨が誤っているということを明らかにして法華経第一の主張を標榜するのだから、こういう立派な人を挙げて敢えて敵としなければならない。右を見れば真言宗があって善無畏乃至弘法の高僧があり、左を見れば法相宗があって慈恩等の学者がある。前を見れば浄土門があって法然・親鸞がいる。後ろを見れば禅宗があって達磨・慧可等がある。宗派の分裂が仏教を災いしているにも拘わらず、どれも偉い者だということになれば、あっちを向いてもペコペコ、こっちを向いてもペコペコするようなこととなって、仏教の正義の信仰は得られない。釈迦如来は法華経を以て一切経第一なりと説き、今日一切経を比較研究しても、法華経に勝る経典がないのは明々白々の事である。然るにその法華経を抑え込むというになっては、一切経の秩序というものが破壊されてしまうのだから、仏教を活かすために、そして釈迦如来の本懐を発揮するためには、その人が如何に尊い高僧碩徳であろうとも、謗法の罪人として論断せざるを得ないと日蓮聖人は言われたのです。

また、これらの人々を恐れて、末流の人々を誤れりと言うことになれば、例えば弘法大師は偉いけれども、後の真言宗の坊さんがやり損なったとか、法然上人は善かったが、後の浄土宗の坊さんがやり損なったとか、偉い者を別にして後の坊主だけを仏敵として批判すれば、「それは私が言ったことではない、我等が祖師の言ったことである。徳の上に優劣があろうとも、智の上に勝劣があろうとも、学んだ学問は祖師のものであって違いはない。ならば貴方が祖師を善いというのならば、我々の言うことも善いとして許さなければならないではないか」と彼等は言い訳をすることになる。故に先哲を蔑ろにする訳ではないが、今日の僧侶の迷いを正さんとするには、その源をなしたる祖師を責めなければならない、それらの人が学徳高き故に、敵に回しては不利益であると考えて生温いことを言っていたならば結局は何もならない、枝葉の上から来た坊主や訳の分からぬ信者などは後回しにして、先ずその元祖に向かって肉薄しなければならないのだと日蓮聖人は論じられたのです。もし日蓮がこの事を知りながら、人を恐れて言わないという時には、恐るべき罪を受けなければならない。そのことは釈迦如来が涅槃の夕べに遺言されたことである。涅槃経には、敵が強いとか、善いことを言うのは困難だとか言って、我が教えを曲げることがあってはならない、寧ろ命に及ぶとも正しき教えを真正直に貫けと言われている。日蓮これを読まなければよいけれども、迫害を恐れて真実を言わずにおれば、釈迦如来の御遺言が自分の良心に呵責を与えてくることになる。進退窮まることであるが、この真実を弘めようと思えば、反対多くして中々容易なことではない、「況んや滅度の後」と法華経に説かれているのは当にこの事であると言われたのです。


 

明解「法華経要義」 如来寿量品第十六 その24

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 4月29日(土)19時36分4秒
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  (現代語)
そして 常にこの念を
この上なき正しき道に
如何に人々を導き
すみやかに 仏の身を得させようかと

(要文)
毎に自ら是の念を作す
何を以てか衆生をして
無上道に入り
速やかに 仏身を成就することを得せしめんと

(要義)
本仏は「毎に自ら是の念を作す」と、始め無き以前より常に考えていることがある。それは、幾ら導こうとしても迷う、どうしても色々の罪を作る衆生を如何なる方法によっても無上道に入らせ、そして速やかに最後の覚りを得させようという事です。この毎自作是念の「是念」とは、衆生を救い終えるまでは止めぬという大慈悲です。この仏の意の働きを慈悲の「意輪」と言います。「輪」とは、転輪聖王の輪宝から来たもので、悪い者を打ち破る力を意味しますが、この慈悲の「是念」が「何を以てか」という手段に移って、そして実際に悉達太子としてこの世に身を現じて、一代仏教を説く所の現身説法となったのです。この現身を「身輪」と言い、そして説法の方を「口輪」と言います。仏教の起こる源は無論仏の真理を覚りし智慧であり、衆生を救わんとする所の慈悲ですけれども、これが宗教として私達に直接するのは真理でもなければ智慧でもない、如来の「毎に自ら是の念を作す」という、燃えるが如き慈悲の精神です。だからこそ、日蓮聖人も観心本尊抄に「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こして、五字の内に此の珠を裏み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまう」と言われたのです。この「五字の内に此の珠を裏み」というのは、現身説法教化の作用を妙法蓮華経の五字に巻いたものです。「何を以てか」ということを妙法に留めたのです。

「毎自作是念」、この本仏の大慈大悲の心に感激する所に日蓮主義の信念があります。自我偈は「我仏を得てより」と顕本に始まって「自ら是の念を作す」という本仏釈尊の慈悲に止めを刺すのであって、前後を通じて本仏の大化導にならざるものはありません。妙法蓮華経の五字は良薬の如き関係であり、日蓮聖人は善知識として私達に法華経の精神を御紹介下される所の方であって、本仏の釈迦牟尼仏を仏宝とし、妙法蓮華経を法宝とし、日蓮聖人を僧宝と仰いで、本門の三宝に帰依するのが日蓮聖人門下の在るべき信仰です。聖徳太子の憲法にも、仏法を信ぜよということを「篤く三宝を敬え」という言葉で言われています。そして、三宝の中には仏を本位としなければなりません。古来種々の議論がありますけれども、仏法僧と唱えて仏を先にしなければならないことは、仏教各宗に通じて異論の無いことです。日蓮聖人の門下がただ南無妙法蓮華経と唱えて本仏釈尊を意識しないような信仰は、悉く矯正しなければ万有神論的な真言系統と同じ思想になってしまいます。その結果が、お祖師様は大切にするけれども本仏を忘れ、妙法の名に託して迷信を跋扈させ、坊主が怪しい占術・加持祈祷を以て民心を惹き付けては惑わすことになっているのです。

日蓮聖人の法蓮鈔に云く、「夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。自我偈の功徳をば私に申すべからず。次ぎ下に分別功徳品に載せられたり。此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には、小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候へ。」



 

明解「法華経要義」 如来寿量品第十六 その23

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 4月24日(月)09時03分0秒
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  (現代語)
心 転倒せる人のために
ここに在れども 滅すと言う
いつも私の姿があれば
人は驕りと怠り 快楽に沈み
悪の道に堕ちて行くであろう
私は常に 人々が正しき道を歩むのか
歩まないのかを見て
救うところに随って
そのために種々の教えを説く

(要文)
凡夫の顛倒せるをもって
実には在れども しかも滅すと言う
常に我を見るを以ての故に
しかも驕恣の心を生じ
放逸にして五欲に著し
悪道の中に堕ちなん
我 常に衆生の道を行じ
道を行ぜざるを知って
度すべき所に随って
為に種種の法を説く

(要義)
凡夫の転倒した精神を醒ますためには、不滅の如来も時に入滅するという驚きを与えねばなりません。何時でも如来に会えるとするならば、侮りの心を生じてしまうからです。これは人間の心理作用として免れ難きことであって、桜の花は散ることによって心強く惹かれるのであって、三百六十五日散らぬということであったならば粗末な花にされてしまうのと同じです。人間にはそのような浅ましき考えがある故に、何時も不滅の如来として側に居れば、人は却って放逸にして五欲に著してしまう、色・声・香・味・触の五官の欲望、所謂物質的な欲望に拘泥して、却って罪を作って悪道に堕ちるようになってしまうから、それではいかぬと思って如来は方便の涅槃を現ずるのです。しかし、この不滅の如来は、何時でも影ながら一切衆生の善い事をするのと善い事をしないのを見分けて、どうか善い事をして早く救われるようにと始終考えている。それが為に「度すべき所に随って」と、人それぞれに適当した教化を与えて行くために様々な法を説いたのです。衆生を思う心の切なるがために、人々の意の浅深に随って教えを説くが故に、説かれる法にも浅い深いが起こります。しかも、ただ宛がっただけはない、その宛がった所より遂には無上道に来たらしめんとするのが究極の目的であるからこそ、最後に「毎自作是念」ということを本仏は語られるのです。



 

報恩抄 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 4月19日(水)20時30分24秒
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  「華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給わば、我等が分斉には及ばぬ事なれども、大道理の推すところは豈(あ)に諸仏の大怨敵にあらずや」

華厳宗は澄観、真言宗は善無畏乃至弘法、更には叡山の慈覚・智証という学者が、「華厳経は法華経より勝れたり」、「大日経等は法華経に勝れたり」ということを言い出したことは、我等が分斉では容易に反対出来ることではないけれども、彼等が如何に偉い人であろうとも、道理からすれば釈尊の金言に反することであって、それは諸仏の大怨敵となるのではないか。そうであるならば、気の毒であるけれども、彼等を信じる人もまた真理に敵し、釈尊の金言に反することになろう。そのような恐ろしいことにならないように、どうか仏教に来たからには法華経には背かぬよう、釈迦如来の思し召しに反しないようにすることを頭において貰いたい。そのような思いで、日蓮聖人は段々と論を進められます。どうかすると日蓮聖人は独善的に自分の意見を主張したかの如くに考える人もありますが、そうではなくて、日蓮聖人は飽くまでも正義を主張して、そして道徳の意義においても、また仏教の本旨においても、公明正大なる立場から論を進めて行かれたのです。

ただ題目を叫んでいるようなドンドコ法華や鬼子母神の霊力が云々などと木剣を振り回しているようなことは別ですが、日蓮聖人の本当の教えに少しでも近づいている人は、真言の信者と出会っても天台の信者に出会っても、禅宗の信者に出会っても、決して引けを取ることはありません。日蓮聖人の主義から学び得たる真理、法華経に示されたる金言、その信仰の意識を以て他の宗派の人と問答するならば、彼等の信仰が如何に薄弱であるか、如何に真理に反し仏教の本旨に反しているか、直ぐに了解することが出来るでありましょう。それ程に日蓮聖人の教えが秀でているにも拘わらず、法華宗が思うように弘まらなかったのは、江戸時代に徳川幕府が寺の改宗改派を禁じ、個人の改宗改派を禁じて圧迫を加えたからです。日本の宗教が腐敗したのは、何処までも真言の寺は真言だ、禅宗の寺は禅宗の寺だ、我が家は先祖代々天台宗だ、念仏宗だと押さえ込んでしまったことによります。そうなると教えの浅い深いなどということは、どうでも良くなる。優れているか劣っているかは分からないが、兎に角にも何でも良いから信心しておけば構わない、坊主が何を言おうと頷いておけばよいということになります。

そうこうするうちに、今度は近代になって信教の自由だということになれば、既に形骸化した仏教は見向きもされなくなって檀家は去り、縁の薄い人々は耳に聞こえの良いことを言う新興宗教にゴソッと持って行かれ、そして宗教を忘れた国民の思想は大いに動揺するようなことになったのです。今日もし日蓮聖人が居られたならば、確かに第二の立正安国論を作って国民に警告を与えられたに違いありません。今こそ、本当の日蓮聖人の主義が勃興しなければならない時はないのです。私共は不肖ながらその時期を逸してはなりません。ましてや日蓮聖人の名を騙って、「釈迦の説いた法華経は末法には役に立たない」などと、釈迦如来の仏教を破壊する輩が日本最大の宗教団体であって、権力を恣にしておいてよい訳がありません。日蓮聖人の主義を奉ずる僧侶信者であるならば、今日眠りを貪る秋ではない、どうしても目覚めて日蓮聖人の主義発展のために、大努力をしなければならないと思うのです。


 

明解「法華経要義」 如来寿量品第十六 その22

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 4月14日(金)09時21分25秒
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  (現代語)
汝賢き者よ 疑いを起こすなかれ
疑いの心を私は尽くさせよう
私の言葉は真実で偽りはない
父なる医師が手立てをもって
悶え苦しむ子を治すため
仮に「死んだ」と告げても
誰も嘘とは言わぬであろう
私は世の父
人々の苦しみを救う者なり

(要文)
汝等 智あらん者
此に於て疑いを生ずることなかれ
当に断じて永く尽きせしむべし
仏語は実にして虚しからず
医の善き方便を以て
狂子を治せんが為の故に
実には在れども而も死すと言うに
能く虚妄を説くもの無きが如く
我も亦これ世の父
諸の苦患を救う者なり

(要義)
色々に教えを説いて来たが、仏一代の化導は真実である。如来は常住であって徳有る者には直ちに会い、徳無き者には会わぬとか、方便の涅槃を現ずるとか、或いは久しく業を修して得る所とか、色々な事を言ってきたが、その如来の言葉の一句一句に引っ掛かって疑いを生じてはならない。それでも、なお疑いがある者には、「当に断じて永く尽きせしむべし」と如来は力を加えてでも我が教えを信じられようにしてやろうと思われているのです。「仏語は実にして虚しからず」であって、斯様に方便を応用しても、それは皆最後の開顕という事に達したならば全部真実と変わるものである。方便の応用と言っても、真理に合するように考えて説かれているが故に、開顕するならば全部差し支えのない真実となるのである。一句一句に対する疑いなどというものによって、偉大なる仏教を信じないという事はあってはならない、汝等自らも励んで信心に来たらねばならないという事を言わたのです。「当断令永尽」とは、如何にも慈悲の広大なる事であって、如来は教えを与えて信ぜしめ、なお信じ得られなければ汝の精神の中に入って信じられるように、汝の心の中にまで立ち入って疑いを断ってやろうとまで考えているということです。

長行の方に詳しく説いてありましたが、医者である父は、毒に当てられた子供が薬を飲まない為に、そこで方便を以て他国に行って、父は死んだという使いを遣わして驚きを与えて薬を飲ませました。同様に、死なない者を死んだと言うことは嘘のようであるけれども、不滅である如来が「死す」と言われる事も、それは衆生済度の手段であるが故に、決して虚妄というものではありません。それは前の所で釈尊が「この良医の虚妄の罪を説く者あらんや否や」と言った時に、弥勒菩薩が「否なり世尊」と、大慈大悲のお言葉であったと感謝したように決して嘘を言ったものではないのです。私は世の父として諸の苦患を救う者である、現在の苦痛も未来の苦痛も、物質的の苦痛も精神的の苦痛も、あらゆる人心を襲う所の苦しみを総て救って、世間の楽及び涅槃の楽を与えんとして努力するものである。この「世の父」という言葉も、実に宗教意識の最も善い所を言い表されたものだと思います。肉体の父に対する観念と、この生命の無限が辿って行く上での父、私達の不滅の生命が関係を結んでいる精神的関係の父に対する観念とは、決して矛盾するものではありません。何処までも我々の無限の生命は、本仏を父としているものである、我々は本仏釈尊と親子の関係である、そのような感激の精神があることによって、世間の道徳もよく行うことが出来るようになるのです。




 

報恩抄 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 4月 9日(日)15時31分59秒
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  「此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり」

法華経の文を開いて見れば、安楽行品に「法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」という明文が出ている。あたかも須弥山の頂に帝釈天という神が居るが如くに、転輪聖王の頂きに如意宝珠が乗っているように、数多の木の上に月が宿るように、この経典が秀でていることは、誰が言うのではなく経文が証明していることである。他の経にも、この経が優れているというような言葉はあるが、それは一部に対して言うのであって、このように一切経全体に対して述べているような経文は少しも無い。それは、小国の王であっても臣下にとっては大王というようなものであって、法華経が諸王に対して大王と説かれていることとは大きな違いがある。ただ、涅槃経だけは法華経に似た経文があって、天台大師が出る前に学者が迷って色々と言ったけれども、涅槃経の経文には、「法華経において大勢の声聞が救われた、この涅槃経は米を収穫した後に、田に落ちている稲穂を拾うようなものである」と、涅槃経は法華経には及ばぬということが明らかに説かれているのである。然るに、天台大師、伝教大師の後を継承しながら、その後の叡山の学者、慈覚や智証が法華経よりも大日経が上だと言うような事を言いだしたのだから、いわんや他宗の人が迷うのは尚更である。

また、日蓮聖人はわざわざ問を設けて、日本に伝わった経典の中では法華経が一番かも知れないが、仏教は竜宮界へも伝わり、娑婆世界の他には都率天などの世界もあるのだから、そういう所に法華経よりも優れたものがあるのではないかと言う疑いに対して、法華経には十方世界の諸仏が集まって、法華最第一ということに賛成されているのであるから、決して他の世界に法華経以上のものはないということを論決されています。「一をもつて万を察せよ」と日蓮聖人が答えているように、大体がこのような疑い持つことが詰まらないことで、余所の世界にあろうと無かろうと、そんなことは娑婆世界に生きる私達には構わないことです。そこを、あったらどうするという事を聞いて話を拗らせようとする、この世では法華経に刃向かうことが出来ないから、どこか娑婆世界の他にもっと善い教えがないかというのは、既にある優れた思想を混乱させる以外の何物でもありません。ところが弘法大師などは「天の金剛法界宮という所で大日如来が説いた大日経というものが法華経よりも上だ」ということを言い出した、また浄土宗などでも、娑婆世界では道徳を守らなければならないとか、色々と面倒なことがあるけれども、浄土の門に飛び込めば誰でも救ってくれるから、悪事をしようが構わない、早く来いと教えているわけです。このように他の世界に善いものがあろうというようなことから大日如来を引っ張ってきたり、阿弥陀如来を引っ張ってきたりすることは、そもそも娑婆世界の釈迦牟尼世尊の教えを乱すものであって、甚だ不都合なことである、そこを日蓮聖人は言われているのです。



 

明解「法華経要義」 如来寿量品第十六 その21

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 4月 5日(水)20時19分21秒
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  (現代語)
諸々の功徳を修め
穏やか正直なる人は
皆私が此処にあって
法を説くを見る
この人々のために
仏 無量の命を説き
久しき時を経て 仏を見る者に
遇い難きを説く
仏の智慧斯くの如く
照らす所限りなく
命無限なること
久しく行を積み 得るものなり

(要文)
諸の有ゆる功徳を修し
柔和質直なる者は
則ち皆 我が身
此に在って法を説くと見る
或る時は此の衆のために
仏寿無量なりと説く
久しくあって乃し仏を見たてまつる者には
為に仏には値い難しと説く
我が智力是の如し
慧光照らすこと無量にして
寿命無数劫なり
久しく業を修して得る所なり

(要義)
「諸の有らゆる功徳」「柔和質直」とは、一切の徳とその徳の中心を明らかにしたものです。柔和質直というということが仏に対する所の信仰となり、そして真心となります。質直とは単に素直というのではない、直心とは正しく真っ直ぐな心であり、柔和ということも、ただ穏やかというのではない、理に適っているからこそ穏当なのであり、だからこそ柔和であるのです。この柔和質直という心理状態が非常に大切なものであるからこそ、有らゆる功徳と、そしてその中心である柔和質直という言葉が挙げられたのです。左様に一切の功徳と、その功徳の中心となる柔和質直の精神を失わなければ、「則ち皆、我が身此に在って法を説くと見る」と、私達は本仏釈尊に値うことが出来る。それ故に功徳のある者の為には、仏は寿命無量であって滅びることはないと説き、功徳足らずして漸く値うことの出来るような者には、仏には値い難しと説くのです。これは、仏に値遇するという事が一概に難いというのではありません。徳有る者には直ちに値い、徳無き者は値う事を得ないというように説いて私達の渇仰の心を刺激する、これが衆生を済度する上で大切な方法であり非常に大事な点であるからです。

如来は功徳有れば何時でも値う、功徳無ければ千億万劫を経ても値えぬという事によって衆生を教化して来た、その他様々なる教えを説いて衆生を導いて来たのである。しかも、寿命は無量劫であって何時までも死ぬことはない、不滅の如来である。斯様な智慧があり寿命があり、しかも慈悲を有している如来というものは「久しく業を修して得る所」である。この「久しく業を修して得る所」という言葉に誤解を生じてはなりません。これは功徳のない理身という法身の如来でない事を説明して、非常な功徳を備えている人格の如来を説くために言われたものです。非常に立派な仏を説かんとするものであって、元迷っていた者が久しく業を修して仏に成ったというような、時間の前後を説くものではありません、迷いから覚りに来たという事を説いたのでもありません。日蓮聖人は、真言宗の「山でも川でも毘盧遮那だ、大日如来の姿だ」というような万有神教や、「天真独朗」と言って天台宗あたりで盛んに説かれた、凡夫も覚れば仏である、何もやらないで始めから偉い者だというような思想を非情に嫌います。そのような思想とは違うぞという事を明らかにするのが、この「久修業所得」の人格の如来であり、寿量品の大精神であるのです。それを知らずして、「久しく業を修して得る所なり」とか、或いは長行の「我本菩薩の道を行じて」に引っ掛かって、寿量品の本仏と雖も菩薩であった、菩薩の前は凡夫であったなどと言い、本仏釈尊の尊厳を傷付ける者がありますが、それは一切の寿量品の精神を打ち壊す、また日蓮聖人の大切なる遺訓を皆壊す日蓮教学上非常に注意すべき点です。それにも拘わらず、本仏を叩き落として訳の判らない妙法だ実相だというものを盛んに仏の上に置く、仏頂の妙法といって仏の上という事を盛んに力説する者がある。それは「いかぬ」というのが日蓮教学の最も大切な点であるにも拘わらず、真蹟・古写本も存在しない「諸法実相鈔」を見て、「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へと書いてあるじゃないか、釈迦多宝の二仏というも用の仏なりとあるじゃないか、して見れば釈迦も迹仏だ、妙法が本仏だ」という事を言う訳です。「では、その妙法とは何だ」と問えば、「何だかそれは判らないが、兎に角妙法が本仏だ」などと言う始末です。

この「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」と言う時の妙法とは、法性であって、宇宙的に言えば真如実相、人格的に言えば衆生の仏性のことです。その仏性の方が現れ出ている所の仏よりも上にあると考えて、釈迦如来が主師親の三徳を備へた仏と思っていたが、釈迦に三徳を貸し与えたのは我等凡夫だった、凡夫は本仏であるなどと大きな間違いを起こしているのです。涅槃経に「一切衆生悉有仏性」とあっても、その仏性は瓶の中の光のようなものです。瓶を打ち割らなければその光は外を照らすことはありません。月に雲が懸かっているのと同じで、その雲を追い払う必要がある、雲に覆われている月の方が、光っている月よりも良いという理屈はないという事を何処までも説いているのです。その涅槃経の「群盲象を撫ず」とは、仏性の方が仏よりも上だというような事を、盲人が象の一部を撫でた印象を以て、あれこれと間違ったことを主張することと同じだと戒めたものです。仏の慈悲無くして衆生は救われません。本仏の教化なくして、衆生が仏になることは出来ません。寿量品の経旨は、仏の上には何もない、仏を絶対神聖として説かれているものであり、久しく業を修したということは、仏の人格的偉大さを説くためであって、その価値を引き下げんとする言葉でないと解釈するのが正当です。

 

明解「法華経要義」 如来寿量品第十六 その20

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 3月28日(火)16時51分41秒
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  (現代語)
私の浄土は けっして毀れず
けれど人は 炎に焼き尽くされるように
憂いと怖れ 苦しみに満ち溢れ
罪ある人々は いにしえの悪業に
遙かに久しき時を過ぎ行きても
敬うべき仏と法と僧の
三つの宝の名を聞くことはない

(要文)
我が浄土は毀れざるに
しかも衆は焼け尽きて
憂怖 諸の苦悩
是の如き悉く充満せりと見る
是の諸の罪の衆生は
悪業の因縁をもって
阿僧祇劫を過ぐれども
三宝の名を聞かず

(要義)
尊い仏があり浄土があっても、罪ある衆生はそれに近づくことが出来ない。その精神を誤り功徳が足らない時には、仏に近づくことも出来ず、浄土に入ることも出来ない。それは、その心がこの浄土に近寄ることの出来ないものであるが故である。浄土とは天国であるとか、西方彼方の極楽にあるわけではない、我が浄土は汝の住んでいる世界に遠からぬ直ぐそこにある、汝の住んでいる霊鷲山娑婆世界、それが即ち浄土である。しかしながら、汝の果報が拙いが故に、大火に焼かれていると見て、非常に苦しみの多い世界である、穢土であると思っているのだ。罪ある衆生は、その悪業の因縁によって、長き時を経ても三宝の御名すらも聞くことが出来ない。況や本仏に遇うことは出来ず、本仏の浄土に入ることも出来ないのである。恐るべきは罪である、悪業である、この悪業を滅ぼして福業を積み、罪を滅ぼして善を積むならば、汝は遠くに浄土を求める必要はない、遠くに本仏を求める必要もない、私は直ぐ汝の側に居る、汝の浄土は汝の目前に展開して来るという意味が明らかにされます。ここに「即」という字の非常に大事な意味があります。この娑婆世界が穢土というわけではない、この娑婆世界が浄土というわけではない、穢土に居るとか居らぬということは、すべて自分自身の果報に属する事なのです。だからこそ、この心得を以て功徳を積みさえするならば、必ず浄土に入ることが出来る、仏様に遇えるということが次の経文に説かれるのです。

 

報恩抄 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2017年 3月25日(土)09時41分14秒
編集済
  「大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心は得たれ得たれ等云云~日蓮が愚案晴れ難し」

釈迦如来の教えとしては、統一的な帰着点というべきものがなければなりません。ところが日本には、倶舎・成実・律・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗という十の宗派があって、それが何れも立派な宗旨であるということになれば、仏教が十派に分裂することになります。そして、この中で倶舎・成実・律の小乗の三宗は除いても、大乗の七宗が各々に他を批判して「俺が偉い、俺が偉い」というのですから、これは実に困ったことです。それぞれの宗旨に立派な者が出て教えを開いたが故に、華厳宗の方から言えば華厳経が一番だ、真言宗から言えば大日経が一番だ、禅宗から言えば楞伽経が一番だ、浄土宗から言えば阿弥陀経が一番だという風になって、大勢の弟子も信者もあって仏教は分裂して来ました。それでは我々凡夫は、ただ仰いで信ずれば何れの宗派でも従えば良いというのであろうか。この点において日蓮聖人は、「愚案晴れ難し」と言われたのです。我々が仏教を信じる信仰の根拠は、曖昧なものであってはあってはならない。この大切な信仰を決定するにあたっては、仏陀の本意は何れにあるか、宗派の小さな考えなどは振り捨てて、大聖釈迦牟尼世尊の御本懐は何れにあるか、一切経の帰着点は何処にあるか、仏法の本意は何処にあるかということを、少しも囚われない精神において、全く公明正大なる精神において、誤らざるところを握らなければならないと、日蓮聖人はそこを突っ込んで来ているのです。

色々な宗派が肩を並べて、どれもこれも仏教の本旨だというようなことは、甚だ宜しくない。それは譬えを挙げて述べるならば、国に王様は一人しか無いものであって、それが二人ともなれば国家は穏やかに治まらない。一つの家に主人が二人もあれば、その家は必ず乱れるようなものである。一切経もその通りであって、十宗七宗が互いに論争して譲らず、それぞれ自宗こそが第一だというのであれば、まるで国に七人十人の王様が出て争っているようなもので、万民も穏やかではない。どうしてもこれは分裂を否定して、仏教の本意は此所であるという統一的なる所を発見しなければならない。思い起こせば、嘗て天台大師が専ら経文を師として、南三北七と分裂していた十流の学者を説き破ったように、先ずは一切経を開き見なければならない。涅槃経という経典に仏の遺言なさった所を見ると、「法に依つて人に依らざれ」と、末代に偉そうに言う人があってもうっかり乗ってはならない、何処までも法を本にして人を頼りとしないようにせよと言われている。法というのは仏が説き置かれた一切経である。また、一切経には了義経と不了義経、即ち方便の経と真実の経があると説かれている。義理を十分に説き尽くしているものと義理の隠れているものがあるから、そのことをよく弁えておかなければならない。この涅槃経が指している所の了義経とは法華経、不了義経とは法華経の前後に説かれた華厳経・大日経・涅槃経などの一切経である。そこで日蓮聖人は、法華経が一切経中第一であることは明白なることであるとして、更に論鋒を進められたのです。


 

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