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五百弟子受記品第八 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 6月 8日(月)12時57分1秒
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  (現代語)

その時、富楼那弥多羅尼子は、仏を仰ぎ見て思いました。世尊は極めて優れた御方であり、その為される所は実に希なることである。世間の様々なる素性に応じて、巧みなる手立て以て真実の教えを説き、人々のあれこれへの執着を抜き出される。我等は、如何にして仏の功徳を言葉によって述べることが出来ようか。唯、仏・世尊のみが、我等の深き心にある本来の誓願を知っておられるのである。

(要文)

世尊は甚だ奇特にして、所為希有なり。世間若干の種性に随順して、方便知見を以て為に法を説いて、衆生の処々の貪著を抜出したもう。我等 仏の功徳に於いて、言をもって宣ぶること能わず。唯 仏世尊のみ能く、我等が深心の本願を知しめせり。

(要義)

釈尊より法華経を聞くことの因縁が説かれ、そして五百弟子授記品ならびに授学無学人記品において、下根の人々は仏の記別を受けます。法華経に関して古来の学者が、迹門は諸法実相のみを説いたように解釈してきたが為に、仏の慈悲には余り触れることはありませんでしたが、迹門と雖も仏の有り難さが至る所に説かれていることに留意すべきです。方便品においては「大慈悲心を起し」と説き、譬喩品では「我一人のみ能(よ)く救護を為す」と述べられ、信解品には我が子を憐れむ長者の譬えを、そして化城喩品には道案内者として志に弱き人々を導くことが説かれているのであって、寧ろ冷ややかな実相妙理を説くことは僅かなことです。薬草喩品を見ても、三草二木が潤う雨とは仏の説法であり、仏の説法によって、仏が源になって一切が救われるのですから、言葉を以て述べることは出来ないと言う程に弟子達は非常に感謝をしているのです。

釈迦牟尼世尊は、政治を以て人々を救うのでも、経済を以て人々を救うのでもありません。釈尊は、そのような普通の遣り方ではなく、完全円満なる覚りを以て人々を心の底から救います。仏は、個人の人生を理想に導くにしても所謂文明を打ち立てる根底の所から教えを立てられる、即ち個人も家庭も社会も国家も人類も、十方法界が光明に包まれるような達観せられた所から教えを立てられるのです。しかしながら、仏の覚りが実に申し分のないものであっても、世間には色々の性質があり、賢き者もあり愚かな者もあります。そして、権力、名誉、金銭、性欲、その他衆生が囚われている煩悶や欲望が皆それぞれに違うが故に、仏は方便知見を以てそれぞれに適うような応用の教えを立てて法を説かれるのです。その中には、無論思想に囚われている者、偏狭なる教義に囚われ、或いは迷信に囚われている者もあります。そのように賢き者も愚かな者も、様々に囚われている者も、仏は種々にこれを誘導し摂受教化して、そして最後に法華経に来たって、上中下根の者を漏らさずに最高の教えを与えられます。釈尊は、私達の心の奥にあって隠れていた根本の発心、菩薩行の源である本願の精神に蘇らせて真の満足の境界を与えて下さるのです。
 
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