|
|
(現代語)
内に菩薩の行を秘し、外には自分は声聞であると現われ、少欲にして生死を厭いながらも、その実には自ら仏の国土を浄めているのである。人々に自分たちに貪欲・瞋恚・愚痴の三毒があることを示し、また邪見に陥っている様相を現すこともある。私の弟子達は、このように方便を以て人々を救うのである。
仏は、五百人の阿羅漢に記別を与えて言われました。迦葉よ、汝は既に五百人の自在を得た者達のことを知ったであろう。他の諸々の声聞達もまた、当にその如くになるであろう。今この会に在らざる者達には、汝から必ず説き明かすがよい。
(要文)
内に菩薩の行を秘して、外に是れ声聞なりと現ず。少欲にして生死を厭えども、実には自ら仏土を浄む。衆に三毒ありと示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く、方便して衆生を度す。
迦葉汝已に、五百の自在者を知りぬ。余の諸々の声聞衆も、また当に復是の如くなるべし。其の此の会に在らざるは、汝当に為に宣説すべし。
(要義)
法華経以前の大乗経典では、声聞等を自己の解脱のみに執着する者として、成仏は出来ないと呵責してきました。しかしながら法華経に至っては、これ等の者を「内に菩薩の行を秘している者」、表には声聞の相を現じてはいるけれども、心の中に菩薩の精神を維持して人々を導いている者として、これまで辱めを受けてきた声聞弟子達の真実、その本地を顕します。仏についての顕本は寿量品において行われますが、この文では弟子についての顕本が為されています。菩薩の相を敢えて避け、小乗仏教の「少欲にして生死を厭い」そうして阿羅漢となる姿を見せてきたのは、外の者を導く為に行ったのである。それは方便化導の上から起こったものであって決して侮蔑すべきものではなく、寧ろそのような仲間の中に下って行って、そして彼等を導いたことは尊きことである。我が仏弟子は衆生を教化するためには、大勢の者に対して貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩が有るような顔をして導くこともあれば、敢えて誤った見解に陥っている相を現わして導くこともあると説きます。
二乗として蔑まれ、呵責を受けても忍び忍んで、そして法華経の開顕の席まで来て漸く喜びを述べる声聞達の苦心は、一時的には非常な侮辱を受けるようなことがあっても、それを堪え忍ばなければ大なる目的を達することが出来ないことがある、外部がどう見ようとも、そのように自在に変化し適応して衆生を導くことが、仏教の化導にはあることを教えています。清く行い澄まして、ただ仏は正しいものという単調なことであっては、悪逆なる者を教化することは出来ません。この思想は、法華経や涅槃経によく現れている所であって、そのような上辺だけの仏教を盛んにしていたのでは、社会はいよいよ偏ったものになり、やがて国は悪しき者のために引っ繰り返されてしまいます。根本は慈悲であり清浄なる精神であるけれども、実際の上には様々なる手段方法を具備せねばなりません。この法華経の説く意味合いが備わって、初めて仏教の教化上において過ちを取らぬことになって行くのです。衆生を教化するために菩薩は方便を以てその相を変えることを説いて、まず五百人の阿羅漢に成仏の記別を与え、そして、この法華経説法の法座に居らぬ声聞達にも、釈尊は間接的に記別を与えます。菩薩としての新たなる生命の自覚を得て、一切の仏弟子が社会において、自己に与えられた役割を大いに発揮することが法華経の理想であるからです。
|
|