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堤婆達多品 第十二 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 9月28日(月)17時48分49秒
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  (現代語)

龍王の娘は、生まれながらにして智慧に優れ、衆生の性質や能力によって為される行為をよく知り、陀羅尼という非常に含蓄のある意味深い言葉を得て、仏達の説かれた奥深き秘蔵を悉く受け持ち、深く禅定に入ってあらゆる存在の真実に達し、瞬く間に菩提心を発して不退転の境地を得ています。その弁舌は自由自在であり、人々への慈しみは、恰も赤ん坊に接するが如くです。功徳を具えて、心に念じ口に唱えることは、非常に優れていて広大であり、その慈悲は思いやりに溢れ、心は穏やかに優しく美しく、よく仏道を成就しています。

(要文)

智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説・甚深の秘蔵、悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、刹那の頃(あいだ)に於いて菩提心を発して不退転を得たり。弁才無礙にして、衆生を慈念すること、猶お赤子の如し。功徳具足して、心に念ひ口に演(の)ぶること微妙広大なり。慈悲仁譲・志意和雅にして能く菩提に至れり。

(要義)

釈尊に促されて智積菩薩は、海中の竜宮において常に妙法蓮華経を以て多くの菩薩を教化してきた文殊菩薩に、この経を修行して速やかに仏と成った者は有るのかと問いました。そして、沙竭羅竜王の娘について答えたのが、女人成仏の証文となる上記の一節です。智積菩薩は、仏になるためには相当の難行苦行と徳を積まねばならないから女人には無理であると述べ、そして舎利弗尊者は小乗仏教の意見から、五つの障りを説いて、女人が仏に成ることは有り得ないと疑います。しかしながら、法華経の教化を受けた龍王の娘が、仏前に現われてその成仏を示すことによって、それ等の考えは全くの誤りであったことを悟るのです。女人は智慧が愚かである、教えに関しても鈍根である、状況や道理を考えず、自分の考えを意味も整わずに喋るばかりで、他の者の性質を知って教えを説くというような能力は乏しいなど、初期に成立した経典では女人の欠点が沢山論じられてきました。種々の事情によっては、女性の多くにそのような傾向が生じ易いのかも知れませんが、法華経ではそれ等の一つ一つを挙げて、女人の本質に必ずしもそのような欠点があるわけではないことを説きます。そして、龍王の娘を代表として、女人の人格及び能力の侮るべからざることを教えるのです。

そもそも仏教は、女性を排斥するものではなく、最初から婦人を啓発し、婦人をして希望を懐かしめてきた教えです。それ故に、釈尊に帰依して仏教の為に働いた在家婦人、または比丘尼として立派な仕事をした人が非常に沢山おられるのであって、大蔵経によって婦人に関する経文を総合して観察するならば、仏教が婦人を圧迫したり蔑視したりする所は殆どないことが分かります。婦人は宗教の為に働くのが一番良いということは、釈尊のお考えの中にもあったことで、仏教は女性を蔑視しているなどと考えるのは大きな間違いです。これは法華経のみが、他経と逆行して斯様なことを説いているのではありません。法華経が秀でているのは、他の経典に部分々々に現れ、そして説明が浅く整頓されていない思想を総合して統一している所にあります。侮る無かれ、女性は自分が語らんと欲することは自由に話をしても少しも差し障りなく、母の子を愛するが如き心は、広く押し広げられて多くの人に及ぼされるものである。優しさと謙虚さを持ち、その心は和らいで気品を備え、そうして結局は菩提に至り仏様になることを得るのだと、法華経は女性の性質というものを肯定して教えを説くのです。
 
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