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堤婆達多品 第十二 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2009年10月 3日(土)10時41分41秒
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  (現代語)

智積菩薩は、疑って言いました。釈迦牟尼仏は、遥かなる過去より菩提を求めて休むことなく、そしてこの三千大千世界に菩薩として身命を捨てなかったところは芥子粒程もありません。それは、すべて衆生の為であるのです。

その言葉が終わらざる時、竜王の娘は仏の前に忽然と現れて、礼拝すると偈を以て如来を讃歎しました。「優れて浄らかなる如来の法身は、三十二の相を具え、八十種の特徴をもって厳かに飾られております。」

(要文)

智積菩薩の言わく、われ釈迦如来を見たてまつれば、・・・三千大千世界を観るに、乃至芥子の如きばかりも、是れ菩薩にして、身命を捨てたまふ処に非ざることあることなし、衆生の為の故なり。

龍王の女(むすめ)、忽ちに前に現じて、偈を以って讃めて曰さく、微妙の浄き法身、相を具せること三十二、八十種好を以って用て法身を荘厳せり。

(要義)

智積菩薩が疑って言うには、釈迦牟尼仏は、この広い三千大千世界に芥子粒ばかりの場所でも命を捨てなかった所はない、衆生を憐れむ精神から身命を抛って、尊い菩薩の修行を積まれた結果として仏になったのである。すなわち、仏に成るには非常に長い年数の修行が必要であると説く別教の見地から、女人が発心して而も速やかに成仏するようなことは、信じる訳には行かないと述べている所です。

そこに竜王の娘が忽然として現れ、「微妙(みみょう)の浄き法身、相を具すること三十二〜」との讃仏偈を唱えます。多くの仏教者は、法身と言えば「真理としての実在」であって姿もなければ形もない、報身・応身には姿があるが、姿のあるものは実在の仏ではないなどと考えています。そこを今龍女は、法身である絶対の仏において、智慧と慈悲によって荘厳された微妙の美しき姿、報身と応身の姿を重ね合わせて見ているのです。龍女は、真理と智慧と慈悲の結晶として、真善美を兼ね備えた三身即一の不滅の如来を拝しているのであって、釈迦は応身、弥陀は報身、大日は法身というように、そこに区別を立てて見る隔歴三身の思想を否定しています。

真理である法身云々を人格的実在の仏を傍らに置いて論じることは一見高い思想のようですが、そのようなものは決して信仰を導きたる所以とはなりません。真言宗のように、山でも河でも何でも法身だ、皆すべて真理の現れだなどと言っておれば、大日如来に対する信仰を忘れて、不動明王を信じたり弘法大師を奉ったりするようなもので、日蓮門下に於いても久遠の釈迦如来に対する信仰を忘れて、鬼子母神の霊力を頼ったり、日蓮聖人を本仏だなどと崇める可笑しなことも起きるのです。人間の精神は、ただ冷ややかなものには心が動きません。情意が理智と共に離れずに動くというようなことを忘れた宗教は、人間の宗教としては効力を持たないのです。そのような理智に囚われた学者を辛辣に批判して、八歳の娘は讃仏偈を歌って成仏したとも言えます。
 
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