|
|
未だ本迹論についての学術的な詳細な議論があると、何故にもっと簡単に理解出来るように整理されていないのかと思うことがあります。そんなことに何時までも細々と拘って、分かり易く整理されなかったならば、日蓮門下が統一して布教なんか出来るわけがないですものね。「巧遅は拙速に如かず」の孫子の言葉が、武人である私には染みついているのかも知れませんが、これって、鎬を削っている優秀な企業は皆取り入れていることなんです。伝統なんてものに胡座をかいて、うだうだやっていると何時か潰れてしまうことになります。
さて、天台大師の見方は、体(本体)と用(はたらき)に差別を見ないことにあります。凡夫は目の前のものに囚われるだけですが、仏はその本体を見極めることが出来ます。そして、「体」を明らかに知った上で、その変化である「用」を見るが故に、そこに差別を見ません。そのようなことから、天台大師は本門の重要性を説きながらも、最終的には本(本体)と迹(垂迹)に差別を見ない故に、法華経の本門と迹門にも「一致」を説くのですね。これは、真実と方便の関係も同じです。開顕といって、真実を明らかにした上で、真実の応用である方便に価値を見ていきます。
一致派というのは、この天台大師の釈によって、本門と迹門の一致に拘ったわけです。末法で仏教が危機となっている時に、「何奴も此奴も本仏である釈尊を捨てて、用である他仏を有り難がるとは何と怪しからん!」と日蓮聖人が言われていたにも拘わらずですね。きっと、難しい天台教学を理解し、新たな主張を構築することが、インテリジェンスの証だと思ったのかも知れませんね。まあ、当世の仏教学者と言われる方々も、そっちの方がメインのような方が多々いらっしゃいますけれども。
日蓮聖人は、天台大師の教学を踏襲した上で、方便も真実の現れだなんていうのは、真実を明らかに知っている者の言うことで、真実が何やら分からずに枝葉の方便に拘っているような末法には、まず真実・本仏を明らかにすることが大事であると言われたのですね。方便と真実に差別は無いなどと暢気な事を言っている場合じゃない、差別を明らかに示して真実を宣揚すべき時だと日蓮聖人は強く言われたわけです。
そのために、日蓮聖人は法華経の本門が大事であることを打ち出しました。「一往勝劣再往一致」などというのは、言ってみれば日蓮聖人は確かに本迹に勝劣を唱えているが、天台大師は一致を唱えているのだと言っているようなものです。そこで、天台大師の釈に拘る一致派に対して、開顕の上になお差別を打ち出し、久遠釈尊の実在を説く本門の優位を唱えるのが日蓮聖人のスタンスであろうというのが、勝劣派である顕本法華宗の主張でした。ところが、他の勝劣派には少々ニュアンスが違う所があったんですね。一致派が余りにも「天台が、天台が」と言うものだから、「何を言うか、こっちは日蓮だ、日蓮だ!」となり、例えば八品派など、勢い余って遂には「教主釈尊が常に教えを以て導かれている」という寿量品に説かれた真実を覚ることよりも、「末法に日蓮聖人が救世主となって題目を下種して下さった」ことの方が重要だと考えるようになってしまうのですね。そして、これが今度はもっと勢い余って、「何が釈迦だ、こっちは日蓮だ、日蓮こそが本仏だ!」などという富士派(日蓮正宗)の屁理屈が出来上がってしまうわけです。
で、もう一つウンザリするのが、一致派は本門と迹門の一致に拘るために、本仏であるはずの釈迦如来に、そのまた本体、例えば「諸法実相」「宇宙の真理」があるなどと言い出したことですね。そして日蓮正宗もまた、釈尊を本仏としないために、久遠元初仏などを作り出し、その久遠元初仏の現れが日蓮大聖人だなどと訳の分からぬ事を言い出すわけですね。そんな・あんなが日蓮聖人の名前を騙って作られ、しかも難解な言葉で語られて、益々日蓮教学を訳の分からないものにしています。で、これまたその反発で、「題目さえ唱えれば良い」と主張も声高々となるわけです。
誰が、ああ言った、こう言ったではなく、過去の主張に何時までも拘らずに、日蓮聖人の真蹟に基づいて、何時何処でどのような目的で説かれたことかを把握した上で、そして常識的な仏教知識と読解力を以て、一般の信徒にも「なるほど、そうか!」と分かり易い真実を伝えることが出来る人々が、これからの日蓮門下・新生のためには必要になるでしょうね。まあしかし、日蓮聖人の教義を正しく勉強して理解しようとしない方々に、宗門の在り方を説くのは至難の技かも知れませんが。
|
|