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化城喩品第七 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 5月10日(日)11時08分28秒
 編集済
  (現代語)

世尊がこの世に未だ出現されなかった時、十方の世界は常に暗黒の如くであり、餓鬼・畜生・地獄の境界にある者が増大し、阿修羅による闘争もまた盛んでありました。

願わくは、此の功徳の利益が普く一切の者に及ぼされ、我等と衆生とが皆共に仏の道を成し遂げられることが出来ますように。

(要文)

世尊未だ出でたまわざりし時は十方常に闇瞑にして、三悪道増長し阿修羅も亦盛んなり。

願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん。

(要義)

この一節は、十方世界の創造者である梵天王達が、大通智勝如来に供養を捧げて法を説くことを勧請しているところです。大通智勝如来の事に寄せて話は進められますが、これは釈迦牟尼仏が世に出て教えを説かれなかった場合も同じで、十方は真っ暗であり、少しもそこに光明のある生活が開かれることはなく、人間でありながら地獄・餓鬼・畜生の三悪道の性質を発達させ、瞋恚・貪欲・愚痴の三毒を盛んとして高遠の理想を無くし、低級なる思想に堕落してしまうことになります。それ故に「阿修羅もまた盛んなり」で、国と国の間には意味無く戦争が開かれ、権力利益、その他政権などの争奪が盛んとなって、高潔なる道徳や平和な生活というものが無くなってしまうのです。そして、仏の教えがあってもそれが振るわない時、それを信心せざる時には、やはり同じ傾向となるのです。

社会の動向を深く観察し、現在の儘に行くならば三悪道は増長し阿修羅は盛んとなり、そして人々は皆その累を免れることは出来ない。そのように考えられる時、仏教を修行する者ならば、どうかこれを救いたい、現在の生活に真の平和と光明を与え、死に際しては悪道の境界に生まれ変わることのないように、永遠の悟り、幸福に至らしめなければならぬとの精神に立たなければなりません。「願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし」とあるように、私達が仏教を修行し仏教を宣伝していくのは、ただ自己一人の利己的・独善的な修行ではありません。「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」と、勿論自分も救われなければならぬけれども、その功徳は他の衆生も救うという、所謂自利利他の菩薩的精神を発揮すべきものなのです。
 

化城喩品第七 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 5月 6日(水)12時18分38秒
 編集済
  (現代語)

計り知ることの出来ぬ遠い過去の時に、大通智勝如来という名の仏が在った。私は如来の知見の力によって、彼の遥かなる過去を今日のように観ることが出来るのである。

(要文)

乃往過去過去無量無辺不可思議阿僧祇劫、爾の時に仏いましき。大通智勝如来と名く。我如来の知見力を以ての故に、彼の久遠を観ること猶お今日の如し。

(要義)

方便の意義を開いて真実を顕わす「開権顕実」を了解させるため、法華経の迹門において釈尊は、法説周、譬説周、因縁周という三通りの説き方(三周説法)をされます。これは教えを受ける人々の能力や性質、即ち機根に違いがあるためであって、法説周とは方便品において智慧第一とされている舎利弗等の上根の者に対して諸法実相や一乗の思想を説き、譬説周とは中根の者の理解のために三車火宅などの譬えを説いて行きます。そして因縁周では、今度は下根の者を教え導くために、この化城喩品において衆生と釈迦如来との遙かなる過去からの深い因縁を説くのです。

真理というもの、原理原則というものに古今は在りません。嘗てありし事は今もある事であって、「彼の久遠を観ること猶お今日の如し」と、釈迦如来は大通智勝如来の事に寄せて非常に古い話をするようですけれども、これは仏と衆生の関係が一時的なものではなくして、廻り廻りして長い関係を結んで行くものであること、縁有る所の仏の下に救われて行くことを、これから人々に説くためです。仏と衆生の関係に限らず、私達の人との関係において互いに救い救われるという事も、それは夫婦であれ友人であれ、やはりその時に始めて関係が起きたのではなくて、前世からの種々なる経歴を経て、そうして今互いに救われるような関係になっているのだと考えるべきものです。また、私達が自分とは直接関わりの無さそうな過去の古い話をしていても、これは決して古いことではない、恰も今日の事のように思えるならば、それはその昔からの因縁を意識している、その時の奥に潜んでいる所の、その事柄の精神が時を超えて今なお活きているということなのです。
 

授記品第六 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月26日(日)12時41分42秒
 編集済
  (現代語)

弟子達は皆、合掌して声を揃えて世尊に唱えました。もし我が深き心を知られて仏となる予言を授けてくださるならば、不死の甘露を灌がれて煩悩の熱を除き、清涼を得るが如くなりましょう。例えば、飢饉の国より来て王の食す膳を施されたとしても、その心は未だ疑い恐れて直ちに食べることは出来ないものです。もし再び王より許しを得るならば、その後に憚りなく食することも出来ましょう。偉大なる勇者世尊は、常に世間を安らかにしようとされておられます。願わくば、我等に仏となる予言を与えたまえ。飢えたる者は、その仰せを待って食するが如くなりましょう。

(要文)

若し我が深心を知しめして授記せられば、甘露を以て灑(そそ)ぐに熱を除いて清涼を得るが如くならん。飢えたる国より来って忽ちに大王の膳に遇(あ)わんに、心猶お疑懼(ぎく)を懐いて未だ敢えて即便(すなわ)ち食せず。若し復王の教えを得ば然して後に乃ち敢て食せんが如し。大雄猛世尊、常に世間を安ぜんと欲す。願わくば我等に記を賜え。飢えて教えを須(ま)って食するが如くならん。

(要義)

甘露とは、飲めば熱悩を癒し長命を得る、あるいは苦しみ除いて不死を得るとされる天の霊水のことです。他の大乗経典では、二乗と言われる弟子達に成仏は許されてはいませんでしたが、今この法華経に至って殆どの者に仏の記別が与えられることとなります。摩訶迦葉に対する仏の授記が行われ、我々も同じく仏に成れるのだろうかという不安に感じている他の弟子達は、自分達もはっきりとその言葉を釈尊より得たいと次のように嘆願します。私達の今の気持ちは、飢饉の国から辿り着いた者が、王様の召し上がるような御馳走を目の前にしながらも、黙って手を出すのは行儀の悪いことだと躊躇して空腹に堪えているようなものです。もし王が許しを与えて「さあ、お上がりなさい。」と言って下されば、喜んで食することが出来ますと。

よくお盆の施餓鬼などの旗に書かれているのが、この「如以甘露灑、除熱得清涼、如従飢国来、忽遇大王膳」の四句です。甘露を以て濯がれると言い、飢饉の国より来るというのは、宗教の法悦を言い表す言葉として大変良い譬えでありましょう。物質的には十分である今日においても、なお人心が不安であるのは、その精神が物質以上に飢えているからだと言えます。法華経というのは、その苦悩を抱えた人生に、その渇したる精神に、甘露を与えて清涼を得させるが如く、飢饉の国より来たる者に大王の御馳走を与えるが如き教えであるのです。

ここに釈迦如来を大雄猛世尊と申し上げ、仏様は優しいと言わずして、非常に勇気のある猛々しい方であると言い表されています。それは「常に世間を安んぜんと欲す」と、死んでから先が云々などと言わずして、奮闘的に人生の罪を滅ぼして、人を皆道徳の人たらしめ、その煩悶を打ち破って幸福の人とするために闘っているからです。したがって、私達の得るべき法悦と言うものも、今日の人が考えるような、貧しき者が物を与えられて喜ぶような、苦しむ悩む者が優しい言葉を掛けられて癒されるような一時的なことではなくして、困難なる人生に奮闘して臨み、しかも悦びある人生を得るために勇気を与えるものでなければなりません。世間一般が仏教を知らずして勝手に想像するものとは違って、真の仏教徒の意識する仏と仏の教えとは斯様なものでなければならないのです。
 

43年ぶりの帰国

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月22日(水)16時24分19秒
 編集済
  インドの佐々井秀嶺上人、実は21日に43年ぶりに帰国してるんです。今朝は、本多日生猊下と桃中軒雲右衛門(佐々井師の好きな明治の著名な浪曲師)の墓がある品川・天妙国寺にお連れしてきました。御一行は、その後成田山新勝寺へ、私は飛行機で福岡へ先程戻りました。25日には、日蓮聖人御生誕の地である安房小湊誕生寺へと。御恩のある所、各宗派有縁の方の支援を得て2ヶ月ほど全国を回ります。

6月中旬に九州、その後インドに帰ります。私の所に宿泊することになると思いますが、フライトの仕事と6月14日の「おやじファイト」長崎大会出場に備えたボクシングの練習が重なっているため、十分な対応が出来ないかも知れません。どなたか、お手伝い頂ける方が居られましたら、恐縮ですが御連絡下さい。長崎、鹿児島方面にも行かれる予定です。

え、ボクシングなどしている暇は無いって? 暇でしているのではありません。今度負けたら、家内に家を追い出されます(笑)。これもストイックな私の修行の一環です。勿論、インド・カースト制度における被差別・貧困層(ダリット)の子供達の教育支援事業も、実現に向けて着々と準備を進めていますよ。
 

五十展転

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月20日(月)17時40分32秒
 編集済
  端くれさん 有り難う御座います。

お釈迦様を悪人にして教育しているのは、仏教を封じ込めるためのヒンズー至上主義の仕業でしょうね。「釈迦仏法など立てるのは去年の暦と同様で役に立たないしろものである。これを使用するから生活に破錠をきたすのは当然である。」と教えている創価学会と同じです(笑)。

最近は、アクセスカウンターも伸び悩んでいるようです。私も頑張りますので、どうか皆さんの御協力を。
 

ある意味、感動

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 4月20日(月)17時30分19秒
  どうやら端くれも、”次元の異なる”うちの、前者の域を出ていないような感じ。実在するものとして捉え…は、難し。
インド仏教徒のことについても、なにか結びつきが複雑でしょうかね。後半部分は、なるほど、そういう事もあるのかと知り更に納得をしました。創価学会のことですから想像はつきますが、ここまで来ると、ある意味感動?します。

(先日のガイド本のお話、ヒンズー教は、その際、お釈迦様と提婆達多を取り違えたのでしょうか^^)
拝読中の「開目抄」前半には、外道について「附仏教・学仏法成」と示されています。よく区別は解りませんが、いずれにせよ、盗人猛々しい?邪見が非常に深く悪質と、ご指摘されているようです。すると今の創価学会の行動は、悪等のなんとか・・その上を行くんじゃないか、とさえ感じます。知れば知るほど”姑息だが周到”です。


>一般的には、論理整然とした人よりも、正しい見解よりも、親身な人情の方が勝ってしまうんですね。

・・・なるほど、これは実感しますね。普段の生活においては、なおさらです。しかし残念なことに、昔創価の先輩も同じ趣旨の事を言っていました××流石です…こういうとこも”姑息だが周到”でしょうか。


それにしても、このご時世、朝刊一面に広告をうてる財力には嫌になります、マスコミも黙らせるわけです(溜息・・)。
ラジオも、ある特定の局は、朝から晩まで創価系のCMばっかりです。大変素晴しい、尤もなことを云っています。それだけに腹立たしく、と同時に多くの人が、このCMに勘違をされ、騙されなければ良いのになぁ、と常々思っています。

ところで、話は変わりますが、こちらのURLは、私も適宜、紹介して宜しいでしょうか(むやみやたらには貼りませんので^^)。
失礼しました。
 

親身でも・・誤っているならば

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月19日(日)23時25分41秒
 編集済
  People don't care how much you know until they know how much you care.
「人というものは、あなたがどれだけ親身になってくれるか知るまでは、あなたにどれだけの知識があろうと気にかけないものだ。」

米国で「リーダシップ論」の権威と評価されているマクスウェルの名言です。これは、本来リーダーたる者への戒めですが、人々の信仰にも同じ傾向があります。だから、おせっかいなオバちゃん達は創価に利用され、しかも知識はなくとも活躍するわけですね。一般的には、論理整然とした人よりも、正しい見解よりも、親身な人情の方が勝ってしまうんですね。

人の慈悲に感謝することも確かに大切ですが、何よりも本仏釈尊の慈悲を感じ取れるようになって貰えれば、間違いは起こらないのですけれども・・。

教主釈尊の親身なる慈悲を皆で伝えましょう、さすれば人々は釈尊の智慧を得ることが出来ます。
 

姑息だが周到

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月18日(土)14時41分40秒
 編集済
  阿弥陀仏も西方宇宙の極楽浄土も、宗教的に方便として仮作され信仰しようとするものですね。久遠の教主釈尊や仏界は、私達の精神の根底を指すものですから全く次元が異なるんです。所謂信仰的に実在を信じようとするものと、実在するものに対する哲学的かつ宗教的な解釈の違いですね。

日本ではガンジー尊者が偉人として知られているから、池田大作はガンジーに並びたがる、創価学会はガンジーに並んだ池田大作を崇拝する。ガンジーさん、えらい迷惑でしょうね。まあ、ガンジー尊者に拘わらず、マインドコントロールのために池田大作・創価学会に気安く利用されている偉人は沢山いるようですね。

アンベードカル師に従うインド仏教徒の現在の多くは被差別階級からの改宗者で、ヒンズー主義を保護しカースト制度を肯定したガンジー尊者をアンベードカル師の政敵として見なす傾向があります。ですから、ガンジー尊者を掲げた日本山妙法寺は、アンベードカル師によって復興した仏教徒からは敬遠されています。そして、多くが被差別階級である新仏教徒には拘わるべきではないという馬鹿な風潮が、日蓮門下にも随分と広がっていました。

ところが、インドでは創価学会はこのアンベードカル師に従う勢いのある仏教徒を取り込もうと既に画策し、ダリット解放運動に伴う仏教改宗運動に接近してきているのです。創価学会はインドでは、ガンジー尊者でなく、仏教指導者であるアンベードカル師に池田大作を重ねて、被差別階級出身者を煽ってヒンズー教を邪宗と罵らせ、権力に対する大衆の革命とばかりに勢力を拡大する創価学会のやり方を進めようとしているのですね。平和な日本では好き勝手に出来たかも知れませんが、インドでそんなことをしたら過激なヒンズー至上主義の連中との闘争が拡大する危険性が大です。どこまでも姑息な・・・やっかいな輩です。
 

上辺・面

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 4月18日(土)14時00分8秒
  「法華経に説かれた久遠の釈迦だって実在しない架空じゃないか!」

およそ、ご僧侶の言葉とは思えない言葉、仏教徒の端くれもびっくらこきました(アッ失礼しました)。
その考え理屈からしますと、そのお方は、自宗のご本尊阿弥陀仏をも否定しておられますか?。

無信仰の方がよく口にする理屈ではありますが…、信仰者でも、心の奥底にはそういう思いは常にあるでしょう?。だからこそ、修行、教学を続けてゆく意味も、そういうところのあるのではと。

さて、アジア圏でイスラム教、ヒンズー教が興隆し仏教は衰退したという事実、詳しくは勉強していませんが、大乗仏教のほうが自然だと思うんですがね…。かといって日本でも事実上は衰退です。

現在でも訳の分からん新興宗教は花盛り、そのがん元、創価学会は宗教を隠れ蓑に或いは悪用し、社会的には恐ろしいほどの影響力を持ち続けているという事実。

その創価学会はなにやら、ガンジー・キング・イケダ・・展(当初はパロディーかと思った^^)なるものを開催、度々にガンジーを持ち上げているようです。

ここでガンジーがどうこう書きませんがー、
以前テレビ番組で、佐々井秀嶺師のことを知りまして、勉強しましたところ、さらに、アンベードカル博士 のことを知りました。
"仏教徒からすればむしろ、アンベードカルこそ尊敬し(世に)知らしめるべきではないか"という趣旨の記事もありました。フムフムです。(ガンジーは小学校の教科書にも載りますから、知らない人は殆どいないでしょうが、アンベードカル博士のことはどうでしょう?)…。そうい事を鑑みましても、なるほど・こういうところにも創価学会の性質が現れているんだろうと、感じたしだいです。

失礼しました。
 

たまげた!

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月17日(金)17時58分53秒
 編集済
  一昨日、某空港島に閉じこめられて、本屋でインドのガイド本をチラッと立ち読みしたんですが、ヒンズー教のビシュヌ神の解説には唖然とさせられました。ビシュヌ神は、ラーマやクリシュナなど10の化身を用するのですが、その九番目を仏陀釈迦としています。しかも、仏陀釈迦はヒンズー教では、善い化身である偉人ではなく、人々を誤った教えに導く悪人とされているのです。その上で、悪人さえもビシュヌ神の化身として取り込んでしまう所が、ヒンズー教の懐の深さだと書いてあるわけですね。懐が深いというか、理屈に合わないというか、解説を書いた方の日本人としての見識も疑いますけど、お釈迦様は、バラモン僧に対して誤った考え方を正し、物事の正しい考え方を説かれたんですけどねぇ(苦笑)。

・・と、昨年10月の訪印の事を思い出しました。インドの佐々井秀嶺上人と迎えに来て下さった車の中で次のような会話をしていました。「妙法の行進の成功で、仏像や仏教書等の寄付などの協力依頼が多数インド僧から寄せられているのですが、それがどれもこれも、どういうわけか『ナモ・アミタバ・ブッダ(南無阿弥陀仏)』なんですよね。何らかの誤解が生じているのだと思いますが、インドで仏教を混乱させずに復興させるためには、やはり法華経によって唯一仏のお釈迦様に統一せねば」と雑談していましたら、最近佐々井師の下に駆け込んで弟子入りを願い出たという一応浄土真宗に籍を置くMr.T僧侶が、偉い剣幕で噛み付いてきました。

阿弥陀仏は、説法上に方便として仮作された仏で実在しない、久遠釈尊の分身であるという法華の教義にカチンと来たのでしょうね。それで、「こっちは浄土真宗だが、インドでは佐々井上人の下で南無妙法蓮華経とやっているんだ」と唾を飛ばしながら、「法華経に説かれた久遠の釈迦だって実在しない架空じゃないか!」などと、本人曰くキレたわけです。訳の分からぬことに私の表情が変わったのを読み取った(私、眼光が鋭く変わりますから、笑)佐々井師の「まあ、まあ。」という取りなしで、一旦はその場の矛は納めたようですけれども、御本人の気は治まらなかったのか、彼のブログには有らぬ事を散々に書かれてしまいました(笑)。

法華経の教義を知ったかぶりされた方に、一方的に批判されるのは堪ったものではないですけれど、言わば「久遠の釈尊」とは、一切衆生の精神の根底に実在する人格を言うのですけれどねぇ。まあ、最近は佐々井上人の弟子と名乗って、あれこれと日本でも活動しているようですから、私を毛嫌いしていたとしても善しとすべきですか(笑)。佐々井上人も心配していましたが、どうなることやら・・。
 

授記品第六 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月17日(金)13時05分42秒
 編集済
  (現代語)

そして世尊は次のように告げました。我がこの弟子摩訶迦葉は、最後の身において仏となるであろう。名を光明如来と言い、その仏の国土は厳かに飾られ、穢れなく、瓦礫なく、茨なく、不浄なる汚物もないであろう。その地は平に開け高低無く、穴や窪み無く、丘陵も無し。瑠璃を以て地と為し、宝樹は列を作って並び、黄金の縄を以って道の傍らは区切られ、諸の宝華が散じられて遍く清浄となっているであろう。魔による仕業なく、魔及び魔の眷属ありといえども、皆仏の悟った真理の教えを護るであろう。

(要文)

我が此の弟子摩訶迦葉は、最後身に於いて仏となることを得ん。名を光明如来・応具・正偏知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊といわん。国界厳飾にして、諸々の穢悪・瓦礫・荊棘(きょうこく)・便利の不浄なく、其の土平正にして、高下・坑坎(きょうかん)・堆阜(たいふ)あることなけん。瑠璃を地と為して宝樹行列し、黄金を縄と為して道の側を界い、諸の宝華を散じ、周偏して清浄ならん。魔事あること無く、魔及び魔民ありと雖も皆仏法を護らん。

(要義)

この一節は、迦葉尊者が未来に光明如来として成仏する記別(予言)を受けるところです。因みに如来の十号とは、真理より来たれる者に始まり、応具とは供養に値する者、正偏知とは真理を体得した者、明行足とは智慧と実践を兼ね備えた者、善逝とは完成した者、世間解とは世間を熟知した者、無上士とは最上の者、調御丈とは衆生を導き救済するに巧みなる者、天人師とは人間と神々の師、仏とは覚者、世尊とは世間において尊き者を言います。そして、成仏した時の浄土の有様は、実に美しく、穢れた所は少しも無い素晴らしき所であることが説かれています。

この中に注意すべきは「魔及び魔民ありと雖も皆仏法を護らん」とあるように、悪魔があったとしても皆仏に降伏して仏法を守護するようになっているという、仏教の理想が現されていることです。何処までも魔は仏に対抗的であるのではなく、悪魔のような者でさえも、漸次に教化されて正法を護る人に成るということが示されています。これは、私達の人生の闘いに於いても非常に大事な点です。如何に危険な思想に囚われ、罪悪に陥った者でも、これを教化して行けば最後には正法に帰依して、必ず世は平和の春を迎え得るという信念に立たなければなりません。互いに相闘いて残害を恣(ほしいまま)にして行ったならば、遂に人生や社会は暗黒と成り終わるからです。

法華経は他の経典と違って非常に浄い信念を以て、悪魔でさえも仏法を護るということを示しています。したがって日蓮聖人も、第六天魔王までも御本尊の中に書かれているのです。法華経は、如何なる悪人もまた改心して正義に基づくことを認めます。釈尊の大怨敵であった堤婆達多の成仏を説き、人の子を喰らっていた鬼子母神が法師を守護することを説き、如何なる悪と雖も、取り柄の無い捨て果てた者と雖も、尚これを活かしていくのが法華経なのです。正義を確立するためには、如何なる時でも強く正邪を明らかにして厳しい闘いに臨まねばなりません。しかしながら、その正義を十分に打ち立てることを得て、他を救済し包容して行く時分には、如何に反対した者でも、悪魔のような者でも、大慈大悲を以てこれを導き、保護を与えて行くことを法華経は理想とします。社会も社会の指導者も、この法華経と同じであり、また同じように導かれるべきであると信じて行かなければなりません。
 

shamonさんへ

 投稿者:ちるちる  投稿日:2009年 4月12日(日)20時33分39秒
  早速のお返事ありがとうございました。

言葉の壁の先にある世界を見るのが楽しみになりました。
頭は悪いですが素直さだけは私の取り得です!
あとは根気と努力が必要ですね。
出版されるの楽しみにしてます!
それまでふり仮名つけて頑張ります。

またへこたれそうな時は、助言をお願いします。
 

初心が大事

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月12日(日)16時55分58秒
 編集済
  はじめまして、ちるちるさん。

現在更新中の法華経の解説も、読み仮名を付けると随分と分かり易いものになりますよ。特に、仏教の場合は通常の読みと異なりますから、出版の際にはすべての漢字に仮名を振る予定です。今年中には、何とか目処を付けようと思っています。

有り難いもの・貴重なもの=難解なものとの先入観で、教えを説くべき人も、教えを聞くべき人も当たらず障らずで、仏教が現在においても、人生や社会に非常に有意義な教えを説いていることを知らない方が多いのは、非常に残念なことですね。また、鰯の頭のように信心を説いていれば、宗教=伝統的な慣習、或いは迷信と馬鹿にする人は今後も増えていくでしょうね。

経典や解説書が難しく思えるのは、まず第一に不慣れな漢字や特別の仏教用語が多いことによるものですね。古典などと同じように、現代語が併記してあるものを用いれば、ぐっと内容は分かり易くなります。また、壮大な戯曲のように説かれた法華経も、現代語感覚で読めれば内容自体はけっして難しいものではありません。もし、素直な信心を以て受け容れることが出来るのなら、深い意味を理解出来なくとも、心理的な向上や信仰上の得益には何らの違いもありません。ですから、仏教では頭の良さよりも、心の素直さが尊重されるのですね。信じることによって、まず心理的な変化を起こして、正しい見方を得ることが大事なことですから、頭がどんなに良くても信じようとする心がなければ、一生理解することが出来ないものです。

もし、戯曲のように説かれた経典の背景にある仏教哲学までも理解した上でと思えば、それなりに広く深い知識が必要になってきます。私などは必死でしたから、夢中で勉強しましたけれども、最初の頃は頭は痛くなるし、理解出来ずに吐き気さえも感じる時がありました。しかし、少々難解な哲学と言っても、それをよく理解している人が、旧来の伝統的な表現から、現代的な日常の表現に分かり易く置き換えて、相手のレベルに応じて話すことが出来るならば、仏教の思想・哲学って、すごく興味深い、面白い、なるほどと納得出来る、有益なものばかりと感動できるものとなるでしょう。

闇雲にやっても、ちんぷんかんぷんになりますし、かえってデタラメナ解釈をしてしまうこともあります。今、自分の仏教に対する知識と理解力が、どの辺にあるのかを自身で把握しながら、それに応じて実践していくならば、けっして難しいものではなく、よく身に付き、効果も早く現れますよ。短い文章では結構限界がありますが、この掲示板が少しでも役に立てばと思います。なにしろ、仏教に興味を持ったのですから、それを是非とも大切にされて下さい。
 

はじめまして

 投稿者:ちるちる  投稿日:2009年 4月11日(土)20時07分9秒
  はじめまして。
全くの初心者、ちるちると申します。
色々事情あって、仏教に興味を持ちました。
けれど本を読めば読むほど底なし沼。
頭の悪い私は耳から脳味噌漏れてきそうです(汗)
法華経は中でも難解だと聞きました。
闇雲に信じるのは納得いかないのですが、私のような者でも少しは解るものなのでしょうか。
アドバイス頂ければ嬉しいです。
よろしくお願いします。
 

薬草喩品第五 その6

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月11日(土)12時08分51秒
 編集済
  (現代語)

貴き者・賎しき者、身分の高き者・低き者、戒を守る者・戒を破る者、威厳のある者・無き者、正しき見解を持つ者・邪な見解を持つ者、才知に優れた者・劣れる者に等しく教えの雨を降らし、しかも怠ることなく疲れることもないのである。

仏の説く教えは、譬えば大いなる雲が一味の雨を以って、仏の道にあるべき人々を潤して花を開かせ、各々に実を成さしめるが如くである。

(要文)

貴・賤、上・下、持戒・毀戒、威儀具足せる及び具足せざる、正見・邪見、利根・鈍根に、等しく法雨を雨らして 懈倦(けげん)なし。

仏の所説の法は、譬えば大雲の一味の雨を以て、人華を潤して、各々実を成ずることを得せしむるが如し。

(要義)

仏が救うのは、けっして善人や賢き者だけではありません。雨が如何なる草木をも潤すが如く、貴き者も賤しき者も、身分の高き者も低き者も、如何なる者に対しても、仏は平等に教えを与えて少しも倦み疲れる所はありません。この「正見・邪見、利根・鈍根に」などは、実に法華経の理想をよく顕しているものと言えましょう。仏教が最高の宗教であるのは、悪しき者を裁くのではなく、愚かな者を見捨てるのではなく、賢き者も愚かな者も、善人にも悪人にも、等しく法雨を以て潤し導くという所にあります。

薬草愉品は、差別と平等の関係を教えている経文としても知られています。如何に人権が平等であり制度が平等であっても、その人々の勤惰により、或いはその人々の賢不肖によって差別相が生じるのが因果の道理であって、実際の人生をしても何事も平等の状態に置くということは出来得ません。同様に、釈尊の説法教化は、ただ平等という広く浅きものにあらず、子の成長を願う父母の如き深く厚きものとして与えられ、そして衆生の尊き仏性も平等でありますけれども、その受け取り方の違いによって各々の修行法や得益には差別が生じてしまいます。しかしながら、釈尊は自らを大雲に、その説法を雨に譬え、仏性を有する人間を華に譬えて「人華を潤して」と言い、各々その実を成ずることを得せしめながらも、一切の衆生を必ず等しく仏にせんと菩薩道への教化をされ続けているのです。
 

洗脳

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月10日(金)11時48分49秒
 編集済
  mada60さん、お久しぶりです。久しぶりのお客さんのようですが、玄関先に唾だけして帰ってしまうような方も最近は多いようですね。

「もし人信ぜずしてこの経を毀謗せば、すなわち一切世間の仏種を断ず。」

日蓮聖人が度々引用する法華経譬喩品の一節です。

法華経は、仏教の教主である釈迦牟尼仏が常住不滅であり、そして私達の精神の根底に永遠に実在することを顕かにした経典ですね。

創価学会や日蓮正宗が「釈迦も釈迦の説いた法華経も役に立たない」と教え、他門を邪宗だと罵倒することは、日蓮聖人の御遺文をまともに読む機会があれば、噸でもないデタラメだと分かるはずなのですが(読まなくとも中学生レベルの歴史常識ですが)、なかなかそうはいかないようです。元公明党委員長であった矢野絢也氏でさえも、創価学会にマインドコントロールされていたとは述べていますが、教義そのものが誤った信仰であったと考えている節は無いようですね。

創価学会の信者は、しきりに「現証だ!現証だ!」と、日蓮仏法と謳う自分達の信仰は、生活に即した利益が出る”正しい宗教”などと言っていますが、信じるものがなんであれ、人生に積極的になれれば、必ず何らかの結果は出るものです。しかしながら、自己の利益を目指して、結果として社会に害を及ぼすようなことがあれば、一時的には僅かな利益を得たと思っても、後に大変な罪を償わなければならないのは明白なことですね。

彼等の根底にあるのは、自我への執着でありましょう。自我への執着を巧みに利用して、カルト的な信者は排他・攻撃的になります。如何なる縁であれ、この信仰を選んだのは自分である。その信仰は、弱い自分が精神的に強くなるために選んだものである。その信仰を否定されることは、それを選んだ自分自身を否定されることだ、自分への攻撃だと思わせるのですね。まあ彼等に限らず、法華経・日蓮聖人の本来の信仰に目を向けず、他門に対して悪態を取る人はよく見掛けますから、それが悲しい人間の性なのかも知れません。故に、仏教では正しい見解・正しい智慧を得るために、自我への執着を捨てるべく修行が打ち立てられます。

「彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり。能く呵責する者はこれ我が弟子なり。駈遣せざらん者は、仏法の中の怨なり」

日蓮聖人が度々引用する涅槃経の一節です。

転倒した人々は、”良い子”を気取りながら、自宗・自坊の繁栄を第一義にあれこれと施策を考え、仏教の破壊者を呵責することなどはしません。日蓮門下は、社会のために身を犠牲にして仏教を破壊する思想を呵責し、正しい教えを宣伝することで人々からの支持を得たのであって、題目の御利益を謳って今があるのではないことを忘れないで貰いたいと思いますね。
 

気付いて欲しい

 投稿者:mada60  投稿日:2009年 4月 9日(木)08時29分59秒
  はかなしさん、創価学会員さんでしょうね。きっと頭に来ることがあったんでしょうね。

どうでしょうか、私も貴方も「洗脳」されていたんでは、話になりません。
落ち着いて話してみませんか?

お互い、住所も名前も隠しているわけですし、思いっきり話してみませんか?

ただ、私は難しい話はできません。

まず最初に「入会してみたら?」とありました。

はかなしさん、少し聞いてください。日蓮大聖人様は法華経を身読しました。
そして私たちに「御本尊にお題目を唱えなさい」って教えてくださいました。

はかなしさん、七百年も八百年も前のことなのですが、現代でも日蓮大聖人様の自筆のご本尊様は百幅をこえて現存していることは、はかなしさんはご存知でしょうか?

ここんところはだいじな事ですのでよく聞いて下さい。気が付いて欲しい事があるのです。

創価学会であろうと顕正会であろうと日蓮正宗であろうと、有り難い間はいいんです。
が、たぶん仏教で説くところの功徳は出ません。

そんな時にぶちあたって、はじめて、
自分が今まで信じてきた指導者たちは唯の一度も日蓮大聖人様が「魂をこめて御図顕なされた自筆の御本尊様」を,礼拝供養した事の無い、

今世では「未曾有の大曼荼羅」に逢う縁など無い人達が
大勢あつまって、「あれが謗法だ、これが邪教だ」なんぞと自分たちが好き勝手に仏教を解釈している教団である事に気付くのです。

はかなしさん、嘘だと思ったら聞いてみてください「この世に生を受けて、一度でも大聖人様御図顕の御本尊に勤行唱題供養してから「御指導」していましたか?」って。

はかなしさん、貴方の事を信じて疑わない人に「この本尊を大聖人様が拝みなさいって言った」と言い切れますか?

はかなしさん、日蓮大聖人様の直筆御本尊に礼拝供養すべきではないのでしょうか?
それともそんな必要はないですか?
騙されていませんか?(池田氏も含めて)
 

はかなし はかなし

 投稿者:はかなし はかなし  投稿日:2009年 4月 7日(火)19時59分9秒
  君たちのなかで、ヤフー知恵袋とか、教えてgooといった質問サイトを、創価学会の悪口を言って荒らしているのがいるな。そんなヒマがあったら、創価学会に入会して、真面目に日蓮仏法を実践したらどうか、と言いたい。  

薬草喩品第五 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 4月 4日(土)10時51分6秒
 編集済
  (現代語)

我は如来、人・天の最も尊き者である。この世に現れること大雲の如く、しぼみ枯れんとする一切の人々を潤して、その苦しみより離れしめ、心乱されること無き安らぎの楽しみ、世間の楽、涅槃の楽を得させるのである。

(要文)

我は為れ如来、両足の尊なり、世間に出ずること猶大雲の如し。一切の枯槁の衆生を充潤して皆苦を離れて、安穏の楽、世間の楽、及び涅槃の楽を得せしむ。

(要義)

印度で両足尊とは、二本足を持つ人間や天人の中で最も尊い人を称していましたが、このような場合には、智も満足している、徳も満足しているというような知徳兼備の意味に後世は解釈しています。その完全なる如来がこの世に出でるのは、日照りの時に天に現われた大雲の如くであり、如来の説法は雨となって、将に枯れんとする草木のような一切の衆生を潤すように降り、そして苦を離れて安穏の楽、世間の楽、涅槃の楽を得さしめます。仏教が救わんとする「苦しみ」とは、生老病死の四苦、そして愛する者と離れる愛別離苦、怨み憎む者と関わり合う怨憎会苦、求めて得られぬ求不得苦、身心を有するが故に受ける様々な五陰盛苦を合わせた四苦八苦の人生です。世間において「病気を治す」とか「金運をもたらす」等のみを殊更に宣伝するようなものは、所謂迷信的かつ劣等な宗教のすることであって、釈尊は、如何なる健康体の人であっても、如何なる金持ちの人であっても逃れることを得ない、どうしても人生において遭遇せざるを得ない苦しみを説いて、そしてどのような境界に置かれても精神の平和を破られることのない、すべての苦しみを離れた安穏の楽を与えます。

日蓮聖人が頸を切られんとする時にも「これ程の悦びをば笑へかし」と言い、佐渡に流されて雪の中に閉じこめられても「悦び身に余れり」と述べられたのは、当にこの安穏の楽を体験せられたからです。ただ快適に生活することを楽しみとして、腹が減ったら飯を食い、寒ければ暖を取り、暑ければ涼む、眠くなったら湯に入って寝るということを人生とするならば、何も宗教も修養も必要ではありません。しかしながら、人生とは中々そうはいかない、次から次へと所謂四苦八苦に襲われるものです。ならば何とか精神の力を発揮して、如何なる境遇に遭おうとも、精神の安楽を破られぬだけの修養鍛錬が必要です。それを与えるのが釈尊の為されてきた活動であるからこそ、苦を離れて安穏の楽を得せしめると述べられています。ただし、その安穏の楽を偏った精神論的に解釈したのでは我が仏陀の真意ではない、その精神に力を与えなければ人生の幸福は無いが故に、釈尊は日常的な人生の幸福である「世間の楽」を保証せんとして教えを説き、そして更に高い理想的かつ崇高な涅槃の楽を与えようと教えを説かれるのです。
 

薬草喩品第五 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月31日(火)17時53分34秒
 編集済
  (現代語)

譬えば、大いなる雲は一切の草木・叢林及び諸々の薬草などに等しく雨を降らすが、各々はそれぞれの種別に従って潤い生長するが如くである。そのように、如来の説法は実は唯一つの有り様であり、同一の味なのである。所謂、如来の説法は、煩悩の束縛を免れるもの、悪業を離れるもの、清浄なる境地となるものであり、究極にして仏の智慧に至らしめるものなのである。

(要文)

彼の大雲の一切の卉木・叢林及び諸の薬草に雨るに、其の種性の如く具足して潤いを蒙り、各生長することを得るが如し。如来の説法は、一相一味なり。所謂、解脱相・離相・滅相なり。究竟して一切種智に至る。

(要義)

薬草喩品には、三草二木の譬えが説かれています。大地の草木には、上中下、大小あれども、天より降る雨は、すべての草木を潤すに於いて平等です。如来の説法も表面上浅い深いがあるように見えても、よく見、よく味わうならば、一相一味の教えであるのです。これを受ける人々の気根の違いによって、様々に見え、その味わいも変わって、それぞれに応じた成長を得ることになるのですが、よくよく大観するならば、如来の説法は開顕統一の円満なる教えなのです。それは、如何なるものかと言えば、苦しみを生じさせる煩悩から解脱させ、罪悪に陥る者をして善を積む人に至らしめる「解脱相」であり、人は縁によって変わるが故に、悪縁より遠ざけるための「離相」であり、人格の欠点となる一切の穢れを滅して心の本体である仏性を美しく輝かせる「滅相」であり、「究竟して一切種智に至る」即ち、如何なる者でも仏の子として如来の大覚に至らしめようとして説かれたものです。

この「一切種智」とは、総ての事柄を総体的に把握して統一し、そして一切の事柄に判断がつく所の智慧であり、所謂宇宙の真理が一元に帰するならば、智慧も磨いて磨き上げるならば一元の智に帰する所となります。その智慧を発動するならば千万無量にして量ることの出来ないものとなり、本に帰すれば絶対無上唯一の智であるものを一切種智と称しています。その根本絶対の智慧に至らしめようとして如来は教えを説いているのですが、これを受ける人々の性質や能力の違いによって、その利益に様々な違いが生じることは免れません。それは雨が平等に降るけれども、草木はその分に応じて潤いを受けるのと同じことであるのです。しかしながら、各々の得益に差別が生じると雖も、それぞれが、それぞれの分に応じて潤い成長していることに変わりはありません。
 

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