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薬草喩品第五 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月26日(木)08時40分8秒
 編集済
  (現代語)

この人々は、この教えを聞くことを得て、現世には心安穏となり、後には善き所に生まれ、仏道を歩む楽しみを受けるであろう。

(要文)

是の諸の衆生、是の法を聞き已つて、現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受く。

(要義)

元来仏教は、無病息災・招福等の利益を与えるためのものでも、死後の世界を保証して安心を得させるものでもありません。同じ仏教と言っても、現世の利益のみに偏するもの、或いは来世の境界のみを願うようなものがありますが、「今世・後世、実の如く之を知る」と言われているように、釈尊の化導は、人々の現在の生活や精神のみならず、それに引き続く未来をも合わせて救うものであるのです。ただ魂の行く先だけを保証して、現在の生活の上に何等の救いも与えないような宗教では、人生に生きる悦びと希望を見出すことは出来ませんし、ただ現在の生活だけを取りあえず救うのであっては、無限の生命に基づいて、その生命の前途に保証を与えんとする宗教の第一義を失ってしまうからです。したがって、釈尊が仮に未来の事を説く場合にも、直ぐその裏には生命の無限性から導いて現在の生活を必ず善導するのであり、現在の事だけを説いているようであっても、必ず直ぐ根底に入って生命の無限性を忘れてはならぬことが説かれます。

釈尊の説かれた一切経は総てが現在未来に亘っての教化であるからこそ、法華経では特にこの点に注意を与えて、この法を聞き終った者は、けっして現世のみ安穏を得るのではない、後には善処に生まれる、善処といってもただ贅沢が出来るというような劣等な快楽でなくして、道を以て楽しみを受ける、崇高なる精神生活を楽しんで心の安らかさと豊かさを得られることが説かれます。日蓮聖人が立正安国論に「先ず生前を安んじて、更に没後を扶(たす)けん」と述べられた如く、仏教は決して厭世悲観となって未来に希望を託す教えではありません。「現世安穏にして後に善処に生じ」と、現在の苦悩や問題を悉く解決するために釈尊の教えは説かれ、そしてより良い未来の境涯を得るために釈尊の教えは説かれているのです。
 

薬草喩品第五 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月18日(水)12時42分24秒
 編集済
  (現代語)

私は如来なのである。未だ生死の苦海を渡れぬ者は渡らしめ、未だ人生を把握せざる者は把握せしめ、未だ心の落ち着かぬ者は安らかにせしめ、未だ涅槃せざる者には涅槃を得さしめる。私は、現在の世のことも、未来の世のことも確かに知るのである。私は、一切を知る者、一切を見る者である。悟りへの道を知る者、その道を開く者、その道を説く者である。

(要文)

我は是れ如来なり。未だ度せざる者は度せしめ、未だ解せざる者は解せしめ、未だ安ぜざる者は安ぜしめ、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ。今世・後世、実の如く之を知る。我は是れ一切知者・一切見者・知道者・開道者・説道者なり。

(要義)

妙法と言うべき真如実相、即ち真理そのものが人格となり衆生を救うために現われ来たるもの、その真理を極めて衆生済度の為に応現せるものを如来と言いますが、釈迦牟尼仏は自らがその偉大なる如来であることを此処に宣言されます。一面には真理に契合し、一面には衆生済度の為に働いているのが如来であるからこそ、未だ生死の海を渡らぬ者を渡らしめ、未だ解脱せざる者を解脱せしめることが出来るのです。苦・集・滅・道と称して、この四つの事によって人生を大観すべき教えを四諦観と言いますが、苦と集は迷いの原因結果を教え、滅と道は悟りの原因結果を教えるものです。苦諦とは自らの苦しみを認識し、集諦とはその原因を分析することであり、滅諦とは理想の境地を想起して、道諦とはそこに至る方法を実践することです。これを人生において観れば、過去世に欲望によって種々なる悪業を為しているが故に、苦しみの人生が今に現れているのであり、道を修して善を行うならば、その結果として安らいだ涅槃の境地に達することが出来ることとなるのです。

「未だ度せざる者」とは、苦しみの人生を海に譬えて、煩悶の中に惑い溺れて向こう岸に渡り得ない者であり、如何なる事に出会っても苦悩に悶えることなく、平和を破られずに此の世を渡らせる、そのような信仰の力を活かさせるのが如来です。如来は、人が此の世に在るのは偶然であるとか、神が創ったとか、原因は無くして唯物質的に存在している等と考えて自分の本来の面目を得ない者、即ち「未だ解せざる者」に対しては、我々の生命と言うべきものは無限であって、過去の世に為した自己の「業」に依って今の果報が定まっていることを了解せしめ、何故に此処に生まれ、何を為さんとしているのかを覚らしめます。また、物質的或いは感覚的な欲望に囚われて精神が悶えている「未だ安んぜざる者」には、道徳的宗教的な事を尊いと思い、場合によっては一切を犠牲にしても良いと覚悟して進むならば、そこに自己の平和満足があることを教えて宗教の精神生活の真価を味わうようにさせます。そして「涅槃を得せしむ」とは、一切の妄想、迷い等の心の穢れがすべて除かれて、何物にも動揺せられない涼やかなる人生の境界に至らしめ、仏の大覚に近づかせることです。

如来は、今在る人の人生の事柄も、またその人の来世の事柄も手に取って見るが如く知っています。諸法の実相をも悟り、衆生の心の奥をも悟り、それを教える方法をも悟り、総てに於いて達せざる所無きが故に、如来は「一切知者・一切見者」であるのです。そして、釈迦如来の意(こころ)の徳を言えば道を知れる人であり、身を以て救う方から言えば道を開く人であり、口を以て救う方から言えば道を説く人であるから、「知道者・開道者・説道者」とされます。その意(こころ)は道を知り、身は道を開き、口は道を説くが故に、これを身口意の「三輪の妙化」と言い、転輪聖王の輪宝が総ての悪しきものを打ち砕いて正義を打ち立てるが如く、釈尊は身口意に於いて総ての邪なるものを砕いて、正しきものを世に現す力があります。意には絶大の慈悲があり、口には無礙の説法を為し、身は千変万化して衆生を教化する、約して言えば仏教にどれ程多くの経があり、どんな仏の活動があり、何処に現れて働いたとしても、それは釈尊の身輪の活動、口輪の説法、意輪の慈悲である「三輪の妙化」に他(ほか)ならないのです。
 

(無題)

 投稿者:如説修行  投稿日:2009年 3月11日(水)16時16分23秒
  ahamon様、おきずかい有難うございます。川蝉上人のところに、コメント、見解をお書き下さって驚縮です。自分は自宗でこのような説明を求め、意見を言う立場ではないので(笑)
納得いたしました。ありがとうございます。合掌
 

薬草喩品第五 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月11日(水)16時09分31秒
 編集済
  (現代語)

善いぞ、善いことであるぞ。迦葉よ、善くぞ如来の真実の功徳を説いた。誠に汝の言う如くである。如来は、一切の物事の帰着する所、また一切の人々の心の奥底の働きを知って、通達せざる所は少しも無いのである。

(要文)

善哉、善哉。迦葉よ、善く如来の真実の功徳を説く、誠に所言の如し。如来は、一切諸法の帰趣する所を観知し、亦一切衆生の深心の所行を知って、通達無礙なり。

(要義)

困難に臨み奮闘せるにも拘わらず、度々陥いる境遇に苛(さいな)むばかりの自分が、常に釈尊の慈愛に満ちた導きと教化の下にあったことを覚った時には、実に愚かであったのは我こそと醒悟し、そこに非常な感謝の念と感応道交を起すものです。ここでは、慈愛を以て子供を救い上げる長者の譬えによって、その了解を説いた弟子達に対して、釈尊が「善くぞ如来の真実の功徳を説く」と誉め称えられています。

釈迦如来は、上には宇宙の真理を悟り、下には人々の心の奥を見通して、少しも誤りのない導きを行う広大な智慧を有して居られます。一切諸法、即ちこの宇宙に現れている総ての物事の帰着する所、押し詰めたならば如何なるものであるかという哲学的な真理をよくお悟りになられ、そして人々の機根に応じてそれを救うべき観察にも過ちがない、その人の心の奥より出でて行う所の総ての事柄に「通達無礙」であるのです。
 

お疲れ様です。

 投稿者:如説修行  投稿日:2009年 3月11日(水)02時32分3秒
  残念です。後楽園にと、ラグビーで鍛えた体でも、又、ボクシングは、スタミナが違うんですね。本当に行動力には、敬服します。再度チャレンジとのこと、頑張って下さい、常に応援しています。  

取り寄せました

 投稿者:川蝉  投稿日:2009年 3月10日(火)16時40分52秒
  リングに上がるとは凄いですね。

メタボを心配しながら、全くの運動不足でいる私が言うのも変ですが、ボクシングは怖くて、痛そうなので絶対にやりたくないです。
あと、マラソン大会でフラフラになって苦しそうに、頑張る選手が写ると、やはり、やりたくない種目だなと思います。

アマゾンに注文した「黒い手帖」が今日、お昼に届きました。
先にセブンイレブンに注文したら、「欠品で注文取り消し」だったので、創価学会の買い占めや圧力が掛かっているのかなと一寸想像しました。

まだ目次を見ただけですが、政教一致の実体が分かりそうですね。

http://www.homyou.hello-work.jp/

 

黒い手帖

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月10日(火)15時26分20秒
 編集済
  元・公明党委員長であり、現在政治評論家である矢野絢也氏が、自ら当時は創価学会にマインドコントロールされていたと述べ、そして創価学会の国家権力支配の陰謀をあからさまに暴露した著書「黒い手帖」が漸く手元に来ました。

これって、政教分離の街宣運動に使えそうなものが沢山ありそうですよね。う〜ん、面白そう(笑)。
 

立て、立つんだ、ジョー!

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月 6日(金)13時51分38秒
 編集済
  後楽園ホールでお会いしましょう、負けたらお代は要りません(笑)。

3月8日、新木場ファーストリングでの「ザ・おやじファイト」デビュー戦、1Rは優勢に有効打を重ねて、「こりゃ、結構いけるな」と思う試合運びでしたが、問題は「おやじファイト」のグローブは大きく少々ソフトでダメージを与えにくいこと。今日が4戦目の相手選手は、2R中盤から、がむしゃらに前に出てきて左右のパンチを繰り出し、リーチに勝る相手との乱打戦に歯車が狂った私(キャプテン土屋)は得意のコンビネーションパンチも出せず、しかも接近戦で急激にスタミナを消耗してしまう羽目に!(要は対策・スタミナ不足ってこと!) 3R、電池切れとなった体からは、もう殆ど鋭いパンチが出せず、結局判定負けを帰してしてしまいましたぁ・・・何と情けない。

期待して応援して下さった皆さん、本当に申し訳ありません! ゴメンナサイ!

まあ、shamonは何時ものことながら「崖っぷち」の苦汁を嘗めて、反省して自分を責めてから、すべてが始まる運命のようです。去年までは47歳で区切っていましたから、47歳の私は47歳に勝つための練習量で良かったのですけれども、世の中甘くなく、今年からは40歳以上の区分に変更されましたので、47歳で40歳に勝てる運動量を確保しなければなりません。ここで引き下がって、お釈迦様、日蓮聖人を始め、応援をして下さった方々を裏切るようであっては、法華経の修行とはなりません。よ〜し、スタミナを付けるために、インターバル・ダッシュを更に追加だ! もうちょと、飯も食え! 嗚呼、でも東京の昨日はひどい花粉症で全然眠れませんでしたよ(ぐすん)。

最近は、またインド関連が動きそうな気配です。インドにおける布教において、釈尊の愛子として如何なる人も平等であることを説いた法華経と、人口の25%とも言われるアウトカースト(ダリット)の精神的救済と生活の向上は切り離すことは出来ないようです。日蓮聖人も、自らを「旃陀羅の子」と称して、下層階級に位置づけられた人々に慈悲を以て尽くされました。皆さんからの良い提案と御支援をお待ちしています。
 

(無題)

 投稿者:如説修行  投稿日:2009年 3月 6日(金)08時30分47秒
  shamon様、ご無沙汰しています。是非、おやじファイトをにいきたかったのですが、8
日に法要ができまして残念ですが。。。是非、後楽園の決勝まで、行って下さい。必ず応援に行かしてもらいます。又、16日の法要も参加したかったのですが、15日にお彼岸法要のために、関西に行っていますので、これも残念です。一度お会いしたいと、思っております。縁がありましたら必ずお会いできると思っております。今後も宜しくご指導宜しくお願い致します。
 

妙法蓮華経 信解品 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月 4日(水)11時52分40秒
 編集済
  (現代語)

世尊は大恩ある御方であります。得難き真実を以って、我等を憐れみ教化して利益を与えて下さりました。無量の限りなき歳月を尽くしたとしても、誰がこの恩に報いることが出来るでありましょうか。

(要文)

世尊は大恩まします。希有の事を以て憐愍教化して、我等を利益したもう。無量億劫にも、誰か能く報ずる者あらん。

(要義)

この品の最後は、教主釈尊の慈悲とその大恩に感謝を述べて締め括られています。釈尊は宇宙の真理についても究め、人々の心についても究めて、その真実の教えを以て私達を憐れみ教化されます。世間の教えは、その場その場の上辺の物事から論を立てますが、釈尊の教えは真実の法を以て私達を根底より救い下さるのです。それ故に、世間に無いところの希有の教え、「希有の事」であると述べているわけです。この御恩は幾億万劫を経ても報い尽くすことは出来ない、しかしながら先ずは力の及ぶ限りに於いて仏恩に報いなければならないと、四大声聞を代表して迦葉尊者が感謝を申し上げています。

日蓮聖人の信仰においても、「一切衆生の尊敬すべき者三つあり、所謂主・師・親これなり。」と「開目抄」に述べられている如く、この三徳を備えた大恩ある釈尊に何としても報いなければならぬことが強く説かれています。子供の後ろに付き従って、危ないことがあってならぬと少しも目を離さずにいることは恰も母親のようであり、子の成長のためには厳しき道であっても叱咤激励して導くことは父のようであり、ただ縁の浅い薄いによって時間の問題はあるにせよ、最後の最後には必ず釈迦牟尼仏の大慈悲の御手に依って私達は救われることとなる、何人であっても釈尊に依って救われざる者は無いからです。
 

「立正安国論」奏進 750年

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月 1日(日)10時10分16秒
 編集済
  創価学会・公明党が、連立政権として権力を有してから、この国の政治ならびに自民党の政策は全くデタラメなものとなり、様々な社会問題の噴出、世界規模での災害や紛争、そして遂には世界規模での恐慌が待っています。

ここまでヤバイ地方政治の実態!創価学会の支配は止まらず!

東京都議会:自民48人・創価学会公明党23人・民主34人
大阪府議会:自民49人・創価学会公明党23人・民主24人

大阪市議会:自民33人・創価学会公明党20人・民主19人
名古屋市議会:自民14人・創価学会公明党14人・民主27人
福岡市議会:自民20人・創価学会公明党12人・民主10人
大田区議会:自民18人・創価学会公明党12人・民主7人

市町村を含む創価学会公明党議員総数:3078人

「釈迦も釈迦の法華経も役に立たない」という邪法を弘める世界最大のカルト宗教団体を呵責せずして、何が上行菩薩・日蓮聖人の弟子でしょうか! 日蓮聖人の御遺文を読んでも、知らぬ存ぜずのスタンスは、一体何なのでしょうか!(陰口だけなら、猿でも出来る!)

護法・伝道の為と称して、精神的・肉体的な限界に挑んで百日加行を終えたはずの日蓮宗の修法師(祈祷師)は、宗門・寺院の収益の為に木剣を振り回して、現世利益の「お題目結縁運動」を展開するのでしょうか!

何のために今生にまれてきたのか、何のために尽くす人生なのか、何のために日蓮門下の僧侶をしているのか。言い訳の人生に、一体どんな意味があるのか。自ら実践せずして、他に教えを説くことが出来るのか。来たれ、真の同胞よ!・・・ちょっとだけ一歩踏む出すだけですよ、怖くない、怖くないって(笑)
 

本多日生上人 御報恩法要

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月 1日(日)09時32分52秒
  3月16日には品川の天妙国寺(京急・青物横丁徒歩5分)にて、(財)統一団主催による報恩法要と講習会が行われます。今回は、本多日生上人の事跡と時代についての講話が予定されております。無料で、どなたでも参加できます。・・・ちらし、お饅頭も何時ものように出ると思いますよ(笑)。

京浜急行「青物横丁」下車 徒歩5分(駐車場あり)

正午より受付、1時より3時です。ご希望の方、メールをお待ちしています。shamon幹事のオフ会もあり!
 

3月イベント その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 3月 1日(日)09時30分34秒
 編集済
  来る3月8日(日)11時開場、新木場のファーストリング(徒歩2分)にて行われる「ザ・おやじファイト」全10試合に、shamon(キャプテン土屋)がライト級(R40)でデビューします。(私47歳、対戦相手40歳) 目指せ、後楽園ホールでのチャンピオン戦! 不撓不屈、これも不惜身命の修行の一環ですよ〜(笑)。 応援に来てね!  

妙法蓮華経 信解品 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月28日(土)11時53分54秒
 編集済
  (現代語)

富豪なる長者が、子供の志の劣れることを知って、方便の力を用いてその心を柔らかにさせ、然る後に一切の財宝を与えるが如くであります。

我達は今、真に声聞となったのです。我達は今、真に阿羅漢となったのです。

(要文)

富める長者の子の志劣なるを知って、方便力を以て其の心を柔伏して、然して後に乃し一切の財宝を付するが如し。

我等は今、真にこれ声聞なり。我等は今、真に阿羅漢なり。

(要義)

上記は、弟子の迦葉が偈を以て述べている一節です。私達が今まで方便の教えを聞いて精進してきたのは、自分達の機根の然らしめた所であって、それは如来の誤りではない。それは、恰も富める長者が、その子供の志が劣ってしまっているが故に、いきなり我が子であると宣言しても容易に信じることが出来ないと考え、やむを得ず方便を用い、乞食ではない、他人ではないという風にして次第に番頭に取り立て、心が柔らかとなり家に親しみが付くのを待って、遂に親子の名乗りを挙げたことと同じである。如来は、我等が仏子の自覚に達し得ないが故に種々の方便を以て導き給うたのであって、長者が一日も早く家督を与えたいと考えていたけれども、それが延びたのと同じく、如来がこの真実の教えを説かれるのが遅れた原因は、如来に在るのではなく、我等自身の自覚が遅れたが為であると述べます。

声聞とは、仏の教えに従って進んでいく人に付けられた名称であり、その中で煩悩を尽くして「空」を悟った聖者を阿羅漢と言いますが、今法華経に来たって真実の仏の教えが説かれたことにより、一切衆生に皆仏性が有り、菩薩行を積んで仏に成れるというような、菩薩の自覚、仏子の自覚を得ることが出来たことによって、真の声聞である、真の阿羅漢であるとの悦びの声が挙げられています。小乗の教え、小乗の仏の声を聞いただけでは真の声聞ではない、煩悩を滅して苦より解脱しただけでは真の阿羅漢ではない、法華経の開顕の教えに依って菩薩行に入り、成仏を許された者が真の声聞であり、真の阿羅漢であるのです。今日に至っても仏教徒の中には、声聞だ、阿羅漢だといえば、何か菩薩とは違うというような考えが残っていますが、この法華経の経文を熟読するならば、一切経の上に差別の妄想が残らないようにされていることが分かります。声聞というも、阿羅漢というも、菩薩というも皆同じであると、三乗が等しく開顕統一されているのです。
 

妙法蓮華経 信解品 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月27日(金)13時40分9秒
  (現代語)

世尊よ、大いに富める長者とは、即ち如来のことであります。我等は皆、仏の子に等しき者であります。如来は常に我等を、これ我が子なりと説かれてきました。今、法王の大宝は自ずと私達の下に至りました。仏の子が得るべき所のものは、皆すでに得ることが出来たのです。

(要文)

世尊、大富長者は則ちこれ如来なり。我等は皆仏子に似たり。如来常に我等を為れ子なりと説きたまえり。

今法王の大宝、自然にして至れり。仏子の得べき所の如きは皆已に之を得たり。

(要義)

四大声聞の須菩提等は、この長者窮子の譬えを自ら説いて、この富豪の長者とは他ならぬ今法華経を説かれつつある釈迦牟尼如来のことであり、そして家督の相続を許された子供とは実は自分達のことであったと述べます。長者の家に雇われて僅かな賃金を得ては喜ぶことは、小乗の教えを受けて満足していたことに値するものであり、如来は常に我等をこれ子なりと思いやっていたにも関わらず、自分等の不心得にして仏子の自覚に達することが出来ていなかったからです。

しかしながら、今ここに法華経の開顕を聞いて、自らもまた真の仏子であることを了解し得たことは、恰も窮子が長者の財宝を悉く譲り受けたように、法王の大宝、即ち釈迦如来の悟られている所の智慧と慈悲の活動と功徳の一切が、自分に与えられたことになります。そこで須菩提等の長老は、仏子として得べき所のもの、智慧に於いても慈悲に於いても、或いはその相の美しさでも、仏として具えるべき事柄は皆、自分に与えられたものであるとの歓喜の意を述べて、大富長者であるところの釈迦如来の慈悲に対して感謝を申し上げているのです。
 

妙法蓮華経 信解品 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月23日(月)11時37分58秒
 編集済
  (現代語)

父を捨てて家出をしていた息子は、衣食を求めては四方を走り巡るような生活をしていましたが、彼方此方を巡って偶々本の国の方に向かっておりました。父は息子を捜し求めておりましたが叶わず、或る都市に留まっていました。父の家は大いに富んで、その蔵には金・銀・宝石・珊瑚等が満ちておりました。

ある時、立派な家の椅子に腰掛けていた長者は、父の顔も忘れてしまった息子を一目見て気付き、急ぎ使者を以て連れ帰らせようとしましたが、貧窮の子は怨みある者に捉えられて殺されるのかと思い、驚愕し遂に悶絶して地に倒れてしまいました。そこで父は、今度は方便をもって二人の威徳無き者を遣わし、親子であることを告げずに、倍の賃金を以て使用人として雇い、まずは便所の掃除から始めさせたのです。やがて二十年が過ぎ、その心は互いに信頼することを経て、病によって自らの死期が久しくないことを知った長者は、財産の管理をすべて任せました。長者は、息子の心が次第に安らかになることを経て大いなる志を持ち、これまでの心を卑しきものと恥じていることを知り、そして命が終わらんとする時に、親族並びに国王・大臣・武士・資産家達を集めて宣言したのです。「この者は、実の我が子です。私は、この者の本当の父親なのです。今、私の所有する一切の財物は、すべて我が子のものとなります。」

(要文)

四方に馳騁(ちちょう)して以て衣食を求め、漸漸に遊行して本国に遇い向いぬ。その父、先よりこのかた、子を求むるに得ずして、一城に中止す。その家大いに富んで財宝無量なり。金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・頗梨珠等、その諸々の倉庫に悉く皆盈溢(よういつ)せり。

時に富める長者師子の座に於いて、子を見て便ち識りぬ。即ち傍人を遣わして、急に追うて将いて還らしむ。窮子驚愕して、怨なりと称して大いに喚ばう。これ必定して死せん。転た更に惶怖し、悶絶して地に躄る。爾の時に長者、将に其の子を誘引せんと欲して、方便を設けて、密かに二人の形色憔悴して威徳なき者を遣わす。倍して汝に直を与えん。汝を雇うことは、糞を除わしめんとなり。二十年の中に於いて、常に糞を除わしむ。是れを過ぎて已後、心相体信して入出に難りなし。爾の時に長者疾有って、自ら将に死せんこと久しからじと知って、窮子に語って言わく、我今多く金・銀・珍宝有って倉庫に盈溢せり。其の中の多少、取与すべき所、汝悉く之を知れ。復少時を経て、父、子の意漸く已に通泰して大志を成就し、自ら先の心を鄙んずと知って、終らんと欲するときに臨んで其の子に命じ、並びに親族・国王・大臣・刹利・居士を会むるに皆悉く已に集りぬ。即ち自ら宣言すらく、

此れ実に我が子なり。我、実に其の父なり。今吾が所有の一切の財物は皆是れ子の有なり。

(要義)

上記は有名な「長者窮子」の譬えを略して挙げた経文です。長者の子は小さい時に家を抜け出て四方に流浪し、五十歳に至ってもその日その日の僅かな衣食を求めては汲々と暮らす有様でした。一方の父は、これを非常に悲しんで我が子を探さんと方々を尋ね歩いておりましたが叶わず、常に子を念いながらも、やがて或る都市に留まって商いを続けることになります。長者の家は大いに富んで倉には財宝が溢れる程であり、多くの使用人があり、大勢の商人や客で賑わっています。これは即ち、仏の功徳、正覚の豊富にして且つ偉大なることを譬えているものです。

子供が巡り巡って長者の家に近づいた時、長者はその乞食のように落ちぶれている者が、朝夕探し求めていた我が子であることに気が付き、使用人を遣わして連れてくるように命じます。ところが、乞食のように落ちぶれている子は、あらぬ疑いを掛けられて捕まるのではないかと思い、逆に怖れを懐いて暴れるような有様でした。直ぐ様親子の名乗りをして家督を相続させようと思いましたが、そのように愚かなる子供なれば、容易に長者の子であることを信じ得ない、その自覚を得ることは難しいであろうと考えた父は、色々と手立てを以て我が子を使用人として雇います。そして、親子であることを明かさずに初めは便所の掃除をさせ、次第に引き立てて家の支配人の地位にまで育て、最後に親族や賓客を集めた席で、実は我が子であることを告げて、すべての財産を子供に譲り与えると宣言したのです。
 

どちらが?

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 2月20日(金)17時42分46秒
  shamonさん、川蝉さん、
愚問に対しまして一々に、ご教示くださいまして有難うございます。語ひとつでも様々、深く意味がありますね。私、なんでも単純に捉えてしまいます××。
「不受不施派」については、原理主義と重ねてみましたが、私如きがそうそう判断できる事でもありません。あくまで、お釈迦様、日蓮聖人、法華経の事(唯一の正法、御義)を、前提にお話をしておりましたが、仰せのように、その根本そのものが誤っていたり、歪曲されていてはどうにもこうにも…であります。

ただ、今を観ますと、教義を逸脱した派、教団が表向きにはー、日蓮聖人及び教義に忠実である様に見えてしまうことは、今一釈然としないのですね(勿論、みなさん夫々が、その様に主張していますけど^^)。

仏教会?でしたか何かの行事で、各宗派のご僧侶が一堂に会する場面を拝見したことがあります。少々複雑ではありますが、これはこれ、長〜い目 で見ましたら 有り でしょうか。少なくとも、超〜醜い内輪もめ、争い事を繰り広げている、某宗門と某教団等よりは、より良しでありましょう(とりあえず 某 としときます^^)。

根が単純、理想論と現実をゴッチャにして考えてしまい、時折に支離滅裂になるような…。失礼をしました。
 

如説修行と原理主義

 投稿者:川蝉  投稿日:2009年 2月18日(水)13時57分26秒
  原理主義と云っても、
1,正しく教えを把握理解して、教えのままに実践する者。
2,教えを不正確に理解して実践する。
の二つがあるでしょう。

1の場合は、信者自身や社会を真実に益するものですが、不正な点(欠陥)がある教えを基としている場合は信者自身や社会にとっても有害でしょう。

日蓮聖人や天台大師が純円教を求め、それに基づくべきと主張された所以ですね。

法華経では「如説修行」を云います。「如説修行」は、良い意味の原理主義と云えなくもないですね。

日蓮聖人は、法華経如説修行の見本ですね。

純円教法華経の如説修行を、欠陥・低級な教えを、そのまま信じ実行し社会に実害、争いをもたらす所の、いわゆる原理主義の範疇に入るものと見ている人が居ることは残念なことです。

「此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし」(曾谷入道殿許御書)

「仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし」(破良観等御書)

と有るように、
道理・文証・現証の三証をもって道を探求し、自分の考えに対しても道理・文証・現証の三証をもって検討続けた人だと云えましょう。
たとえば、開目抄に於ける「自分が法華経の行者であるか否か」の検討はその例です。

法華経如説修行の日蓮聖人には、聞く耳を持たない、道理無視、頑迷・固執性、デタラメな排斥闘争性、無根拠の自慢性などないと思います。

http://www.homyou.hello-work.jp/

 

日蓮聖人に対する誤解と偏見

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月18日(水)12時56分48秒
 編集済
  一般的に、それぞれの用語が世間的なイメージだけで使われているために、端くれさん同様に多くの方々に混乱があるようですね。

本来、原理主義とは「Fundamentalism(根本主義)」のことで、キリスト教による神の「天地創造」等の神話的なものを、哲学的・心理学的或いは科学的な解釈を許さずに、進化論なども否定して、不変の真実として信仰するものですね。例えば仏教では、西方に阿弥陀仏の極楽浄土が事実あって、そこに我々は救われるということから一歩も二歩も進まない場合には、所謂原理主義ということになります。イメージ的な用語として、イスラム法のみによる国家建設に固執する過激な人々を「イスラム原理主義者」と呼んだマスコミの誤りから、原理主義=偏狭的、反社会的、危険思想との誤解が生じているのですね。

上記に対して法華経というものは、本来理智的な仏教が、その哲学的・心理学的なものを信仰(観想)の必要性から神話的・瞑想的に経典にしたもの、即ち真実を顕した方便ですから、これを極めても決して原理主義にはなりません、それは極めて真実に至るものです。勿論、経典の表面上のみに固執すれば原理主義的なものになりますが、そのような人々は殆どいないでしょう。寧ろ、経典の神話的な表面上に囚われて、こんなものは現実に有り得ない、現代には信じられないと、僧侶も含めて本当の信仰に入れずに、結局哲学的・心理学的に達し得ない人が殆どではないでしょうか。

日蓮聖人の御遺文にしても、天台大師の著作にしても、社会の現象と私達の精神の関係を説き、私達の精神と仏の関係を説く、理智の上に哲学的・心理学的解明をして、所謂上根の人がその上で「信」を強調していることを分からない人が多いのは非常に残念なことですね。下根の者ならば、難しいことは理解できずとも、少なくとも背景にそのような高度なものがあることを理解して、「信」を採らねば救われることはないでしょう。信を以て下根も救わんとする宗教(大乗仏教)を原理主義と言うならば、宗教はすべて原理主義と名前を変えなければならなくなりますね。

さて、カルトの本来の意味は、正当な宗教に対して異質なる教義を持つセクトを言います。ですから、原理主義と対局にあるものと言えましょう。しかしながら、その方法論としては反社会的な原理主義に似ていて、セクトの人々を排他的にさせるために経典や聖典等の解釈を歪曲して教え、或いは独自の霊的な力による現世利益等を強調し、カリスマ的な指導者を立てて従わせ、さらに組織維持のために社会的な権力を得ようと策略します。故に、社会から危険視されるわけですね。ですから、仏教の教主である釈尊を本尊とし、天台大師等の先師の教えを伝承し、経巻相承を旨とする日蓮聖人のスタンスがカルト扱いされるとすれば、それは世間の無知によるものです。そして、その無知の責任は、原因となっている日蓮正宗・創価学会等だけではなく、同様な日蓮門下の僧侶、それを放置している日蓮門下全体の僧侶にあります。

何れにしても、原理主義もカルトも宗教から派生したものですから、指導者や指導する組織によって、宗教は幾らでも原理主義化・カルト化する可能性があります。それを防ぐのが、本当の釈尊の弟子であり、日蓮聖人の弟子ではないでしょうか。そのために、私も僧侶として努力をし、皆さんに声を掛けているのですが、まあ、なかなか上手く行かないのは、私の器が小さいからかも知れません(笑)。

富士派のみが「不受不施派」であるように思えるのは、創価学会や日蓮正宗が独善排他的であるからでしょうね。本来の不受不施義は、在家であるならば、法華経を謗り、教主である釈尊を謗る、即ち謗法の僧侶には布施をするべきではない、出家であるならば謗法の信者から布施を受けるべきではないということです。それは、日蓮聖人の教えと言うよりも、釈尊の弟子として当然のことを日蓮聖人が述べただけですね。私も、創価学会の信者から御布施を頂くことは有りませんし、池田大作に御布施することは有りませんから「不受不施派」です(笑)。

他宗の僧侶や信徒とお付き合いをするにしても、法華経や日蓮聖人の教えを主張することもなく、ただ仲良く助け合って上手くやりましょうということになれば日蓮聖人の教えに反することになります。「貴方の所の宗教も宗旨も、皆尊重するのが法華経です」などと言って「平和、共存」などのプラカードを掲げている僧侶が昨今は目立ちますが、「与同」という言葉は日蓮聖人の真蹟には出てきませんから、そういう事に危機感を懐いた弟子達が「与同罪」ということを発展的に使い出し、それを今度は排他的に利用するカルト系が乱用するのでありましょうね。
 

つづき

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 2月17日(火)18時08分42秒
  クリントン国務長官の明治神宮参拝の様子をTVニュースでみてー、立正安国はまだ××かと。

>単なる権力欲とか、自慢心などによるカルト的心情など「立正安国論」にはないでしょう。

僅かでもぐらついたことを悔やんでいます。そんなことで少し気が引けるのですが、今一度お邪魔します。
原理主義そのものはどうでしょう。一般的に、原理主義=カルト(思想)=反社会的(危険)と固定しているようですが、言葉の定義からは、必ずしも イコール ではないようです。

先日お伺いしました、日蓮聖人をカルト呼ばわりする方々。その誤解する主な要因が「立正安国論」に代表される、御書ご遺文等の物騒な言動等でした。しかし法華経の「正直捨方便」「法華一仏乗」として一途に守り進めば自ずと、原理主義者となります?(と思います)。しかしこれは、「法華開会」「まさしく実乗の一善!」と確信している者には、当り前のことで違和感は無いのかもしれません。そうでない方々からすれば、上記のように原理主義、即、危険思想となるのでしょうか(勿論その内容のこともありますが)。

そうなると原理主義を貫けばカルト扱い(誤解)をされてしまうのはやむ得ないことか?。ちょっと筋は、ずれるかもしれませんが、これは「不受不施義」を貫いた日奥、日親上人方々のことに重なって考えています。不受不施義を貫き、結果、カルト扱いをされ、時の幕府から弾圧されました。私的に、この不受不施義は法華経、日蓮聖人御義に、より忠実(悪く言えば盲目的?)だった結果だろうと思います。
それならばと(気持ち的には)「不受不施」だが、表には「受不施派」かと。これも正統では無いような気がします。しかし現実社会の中では、折り合い(大人の付き合い?)も付けなければならないのでしょう。難しい事をいい始めております、何が言いたいのかといいますと、現代では、日蓮宗(一般)が「受不施派」、富士派(正宗系)が「不受不施派」という構図なのかと考えます。

日蓮聖人(教義)に忠実であったろう「不受不施派」が、今は、そうではないと思われる、富士派(正宗創価学会等)になっているという矛盾を感じるのです。しかも承知のように一部は、為政に諫言して弾圧されることなく、旨〜く取り入ってしまっています。逆転していないかな??。ちょっと思ってしまいました。私も誤認、偏見あると思います。大層な事を申しました。失礼します。
 

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