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惑わされる

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 2月16日(月)17時41分16秒
 編集済
  shamonさん、川蝉さん、助言、ご教示ありがとうございます。

「本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずいづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等にはよるべからず専ら経文を詮とせん」(破良観等御書・昭定1283頁)

ん〜解ってはいる筈、たとえ現代の高度の識者学者といえども、お釈迦様、日蓮聖人の金言と比較すべき次元の事ではないということ。知識浅いのは承知ながら、その信心も(まだまだ)あやふやである証拠。この調子だと、惑わされる様なことは、これからもあるだろうと予測…。その時には、この御遺文は、大変意味を成す内容であります。今一度この御文は原点とし、単に物覚えが悪いと言訳せず、心に留置きます。


平成版「立正安国論」とは恐れ入りました。相手も戦う相手を選んでいるのでしょうか^^)。・・彼の代議士は・・・その議員さんは有名なお方の何れかと存じます。民主党も時々問題扱いしていますが、どうも小出しで本気度が足りませんね。恐らく本気ではないのでしょう。それにしても、国会で創価の そ と出た途端、シーンと静まり返る場〜内。よほどタブーなのかと思いますが、その議員さん達の事もあるのでしょうね。あそこは"見せしめ"とか裏仕事が…。政治評論家のM氏もそうでしたね。正論を云えばTVマスコミ界から干されてしまうようです。今不況で、広告収入が落ち込んでいる中、取分け教団のCMは貴重な様であります。前回、石井一議員の発言中、このマスコミ界に自浄作用を求めたことは、一つ収穫だったと思います。政治、社会も創価学会が一枚岩でなくなった時には、もっと動きが出てくるのでしょうか。その為にはコツコツと小穴を開けていくことも大事でしょう。また純粋な会員ご信者さんにはその受け皿も必要だろうと存じます。
失礼しました。
 

御遺文の読み方

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月15日(日)10時16分27秒
 編集済
  「仏教を騙り、法華経を騙り、日蓮聖人の教えを騙る似非仏教集団の闊歩する時代。巧妙に嘘とデタラメを真実と偽る集団に、国政を任せてはなりません。」

上記は、「しられざる創価学会の教義」冊子の”物騒な”巻頭文です。これは、平成12年の自公連立政権に対して、全国会議員、全都議会議員に或る代議士を通じて私が配布して頂いたものです。勿論、これは「立正安国論」に準じて、創価学会に敢えて挑むために出版したものです。所謂、相手に反感を買わせて「法戦」の呼び水にするためですね。「これを配れば大変なことになる、覚悟は出来ているな。」と言っていた彼の代議士は、その後「反創価」の政党を創るために奔走しましたが、創価学会の徹底的な策略に遭って長期務めていた国会議員の座を落選しました。

日蓮聖人の御遺文を生齧(かじ)りで読んでいるような人は、やれカルト的だとか言ってみたり、或い逆にその御遺文を悪用したカルトに騙されてしまいます。現在のイスラムも同じですね。私も、最初に日蓮聖人の御遺文と言われるものを通読したときには、実際端くれさんのような感じを得たものですよ(笑)。しかしながら、日蓮聖人の御遺文を読み込んでいる私も川蝉さんも、ちっともカルト的にはならずに、日蓮聖人の教えの素晴らしさを伝え、しかも反カルトの立場を鮮明にしていますよね。

それは、日蓮聖人の御遺文を読む時に、何時、誰が(日蓮聖人本人か)、誰に、何を目的として、如何なる状況で書かれたかを把握するようにしているからです。何故ならば、日蓮聖人の御遺文の殆どが手紙形式で、聖僧と思われているような方が美辞麗句で書いたテキストや論文ではないからですね。そのかわり、信仰に命を懸けて活きる生身の人間の情熱や葛藤、慈悲や苦しみが直に伝わってくるからこそ、本当にこれを読む者に感動を与えることが出来るのですね。是非、そのように心掛けて御遺文を拝して下さい。
 

立正安国論の心情

 投稿者:川蝉  投稿日:2009年 2月14日(土)15時26分25秒
 編集済
  「立正安国論」は、諸宗との公式対論を行う為めに幕府と諸宗を動かそうと云う目的があったので、激しい批判の言葉があります。

伝教大師が桓武帝臨席の許に六宗の碩学と対論し、六宗の碩学が伝教大師に帰伏した先例に倣おうとしたのです。

公明正大な法論を行った上で、国家の枢柄にある者、各宗の指導者を一挙に、法華経・釈尊に帰依せしめようとしたのです。

諸宗との公明正大な対論を求めた書であることを見逃してはなりません。


「立正安国論」では、なぜ法華経を根本帰依の経とすべきなのか?の理由は明示していません。

法華経・釈尊を根本帰依すべき理由を縷述されている開目抄・本尊抄等の他の御遺文を、合わせ読めば、むやみやたらに自己の正義を言い張っているのではないことが知れましょう。

開目抄・本尊抄等を読まないと、「立正安国論」は、相手の主張を頭から認めず己の主張を言い張るならカルト傾向が強いと誤解する人も出てくるでしょう。


「本よりの願に諸宗何れの宗なりとも偏党執心あるべからずいづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用ゆべし論師訳者人師等には
よるべからず専ら経文を詮とせん」(破良観等御書・昭定1283頁)

との基本方針に立って

「日本国に渡れる処の仏経並に菩薩の論と人師の釈を習い見候はばや、又倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗華厳宗真言宗法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗浄土宗と申す宗も候なり、此等の宗宗枝葉をばこまかに習はずとも所詮肝要を知る身とならばやと思いし故に、随分にはしりまはり十二十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉京叡山園城寺高野天王寺等の国国寺寺あらあら習い回り候し程に」(妙法比丘尼御返事・1553頁)

との勉学研究の結果、法華経・釈尊を根本帰依すべきとの結論を得たわけです。

故に
「智者に我義やぶられずば用いじとなり、」(開目抄601頁)

「日蓮がひが事ならば、日天もしめし、彼等にもめしあは(召合)せ、其の理にまけ(負)てありとも、其の心ひるがへらずば天寿をもめしとれかし。」
(妙一女御返事1783頁)

と、日蓮が義を教理上論破する智者が出てこない限りは、自分の教理的主張を取り下げないとの強い確信の言葉や、教理的に誤りを指摘されたも自分の考えを変えようとしない場合には日蓮の命を召し取ってもらいたいとの言葉があるのでしょう。

ご自分の得られた確信を強く主張された訳は

「又法門によりては設い王のせめなりともはばかるべからず何に況や其の已下の人をや、父母師兄等の教訓なりとも用ゆべからず、人の信不信はしらずありのままに申すべしと誓状を立てしゆへに」(破良観等御書1283頁)
とあるように、
虚空蔵菩薩、仏祖三宝に立てた誓状を実行するため。

「問うて云く念仏者禅宗等を責めて彼等にあだまれたるいかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。
 夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦多宝十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住故来至此」等云云、三仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に値うを見るよりも強盛にこそみへたるを法然いたはしともおもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじとせき狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とをみて制せざる者はかくのごとし「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。」(開目抄608頁)

とあるように、仏弟子の責任を果たすため。釈尊の大慈悲に応えるため。止むにやまれぬ慈悲に突き動かされたため。

などです。

単なる権力欲とか、自慢心などによるカルト的心情など「立正安国論」にはないでしょう。

http://www.homyou.hello-work.jp/

 

妙法蓮華経 信解品 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月14日(土)15時11分0秒
 編集済
  (現代語)

今ここに、類い希なる教えを聞くとは思いもよりませんでした。大いなる善き利益を得たことを、私達は深く喜んでおります。私達は、自ら求めざるに量り知れない程の貴重な宝を得たのです。

(要文)

謂(おも)わざりき、今、忽然に希有の法を聞くことを得んとは。深く自ら慶幸す。大善利を獲たりと。無量の珍宝、求めざるに自ら得たり。

(要義)

この信解品は、中根の須菩提、迦旃延、迦葉及び目連の四人の代表者が、譬喩品における人開会の教えによって成仏を許されたことを慶び、その信解した所を述べたものです。この信解ということは、仏教に於いて大変に重要なことです。智の結果に於いて信を求めるのではなく、信を以て真実の解を得る、信に依って完全なる智に達するというのが仏法の教えであるからです。

他の大乗経典では、釈迦牟尼仏の十大弟子でさえも二乗の徒は到底仏となることは出来ないとされ、悲しみに沈んでいた声聞達でしたが、今この法華経が説かれることによって忽ち成仏を許されて、恰も乞食のような者が長者に引き立てられ、財宝を譲り与えられ、しかも実は長者の息子であったことが明かされるという譬えを以て、その感謝を申し上げています。この長者窮子の譬えは、天台大師が法華経と一切経の関係を判釈した根拠と言われる所であり、釈尊一代の化導の有様が巧妙に説かれているものです。
 

つづき「立正安国論」

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 2月14日(土)11時31分19秒
  これは、少し前の mayaさんのご意見とも重なりますが、宜しくお願い致します。
前記しましたように、ネット界"日蓮、法華経"の文字が躍っております。そして、その殆どが創価学会員か元学会員のようであります。当然ブログ等を立ち上げる方々は当然教学知識高く、又自信もなければ出来ないと思います。しかしその方向は様ざまであります。そのなかに処理できないものがあります。以前にも少し触れたことがありましたが、その内容は「法華経は正しい教えだが、日蓮は誤っている」というものです。

その中身はひどいもので「日蓮そのものがカルトだった。立正安国論を読めばよく分かる。だから創価等の日蓮系がカルト化するのは当然である。日蓮に忠実であろうとすればするほど、教団はカルト化して行く」等々、終いには御聖人を人格障害とまで言い捨てます。もはや完全否定です。

確かに、日蓮聖人とは関係なく、法華経のみを教義にしている宗、新興宗教はあります。之は枝葉の類といえるかもしれません。しかし切り離してはならないと考える身としては、一考しなくてはなりません。

確かにこの論文、読んでみますと、なるほど納得をしてしまいます。弱ったことに間違ったことは述べていないようです。しかしそれは当時の時代背景とか社会通念上のことで、あえて仏教、法門(法華一仏乗根本)に限って考えますと論文には反論できるか?と思いました。

ただ「立正安国論」「撰時抄」と物騒な言動が際立っているは確かであります。私は日蓮聖人はあくまで原理主義〈仏教(法華経)=御釈迦様〉を貫いた。その一途さがある種、誤解を招きカルト呼ばわりされているのだろうと思います。ある程度やむ得ないことかとも思います(少しあやふやであります)。ただし「立正安国論」をもってカルトの原点みたいな扱い、低俗な新興宗教の教祖などと同じレベルで語られることには忍びないことであります。

他方、「・・華厳観経大日経等をよみ修行する人をばその経経の仏菩薩天等守護し給らん疑あるべからず、但し大日経観経等をよむ行者等法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし・・」「開目抄」と比較論でしょうか、他宗にも程度、寛容なことも見受けられます。一見矛盾するかとも思いますが如何でしょうか。乱文になりましたが、時間の許す時でかまいませんので、良いアドバイス等お願い致します。

一応参考に URLを貼りますが、不都合のものでしたら、削除してください。
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1131439444/
http://park5.wakwak.com/~soka/risshou.htm

失礼しました。
 

乱造滅裂

 投稿者:端くれ  投稿日:2009年 2月14日(土)11時21分36秒
  お久しぶりです。
いよいよリングデビューですか、おめでとうございます。私も含めて草臥れた中年族が多い中、青春×中春?を謳歌されておられるようで様でうらやましい限りであります。ともあれ、shamonさんは下地が確りなされていますので、大丈夫だと思います。堂々の試合をご期待しております^^)。

思うところあり少し書かせてください。
御聖人が末法時と位置付け、正法流布の時と精魂籠めて唱えました、鎌倉時代より今日まで約700有余年。
その願い通り、正法は流布し世の中は着実に仏教国へと近づいているのでしょうか。
善くも悪くも、創価学会のおかげで世間では「日蓮聖人・お題目・法華経」と広く世間に知らしめる事になりましたのは承知の事実だと思います。

さて、そこで創価学会が真に正法の発信者でありましたら、問題はなかったのだろう かと思いますーがしかしそれは主に(手段、悪く言えば手口)、現世利益(学会的には現証)を強調し信者を増やしました。人々(勿論私も含めて)も綺麗ごと建前はあっても、やはり、この現世利益は大きな魅力であります。

しかしこの人々が本来持っている欲(→不安)、があるからこそ憑け入る隙があり、現世利益を謳う新興宗教、御守御札ご祈祷等を商売的に行う神社等(一部でしょうが)は、後を絶ちません。いや、こういうご時世だからこそ、逆に繁盛?興隆しているのかもしれませんね。とすると、最初に戻って御聖人が末法時、今こそ正法流布の時と宣言されたことを鑑みると、なんと皮肉なことだろうかと考えてしまいます。もちろん正法にはそれを妨げる者(三類の強敵は創価用語でしょうか?使わないことにします)も共に存在することを思えば納得できますが、そうするとこの構図は永遠的に続くのでしょうか?。

ネット界では、日蓮聖人、法華経を謳っているブログ等が沢山あります。しかしその方向は様ざまであります。この善し悪し不明入乱れたネット界(とりあえず)でも正法を探し見極めることも修行の内?。そうした状況の中、shamonさん、川蝉さんのブログは大変貴重であると存じます。まだ地の底よりご期待しております。とここまで書いてなんですが、是非お伺いことがあります。長くなりましたので続かせていただきます。
 

妙法蓮華経 譬喩品第三 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月13日(金)15時38分37秒
 編集済
  (現代語)

舎利弗よ、汝でさえ此の経においては、信をもって入ることを得たのである。況や他の声聞にとっては尚更である。他の声聞も、仏の言葉を信じるが故に此の経に従うのであって、自らの智慧に依るのではない。

(要文)

汝舎利弗、尚此の経に於いては信を以て入ることを得たり、況や余の声聞をや。其の余の声聞も、仏語を信じるが故に此の経に随順す、己が智分に非ず。

(要義)

この経文は、智慧と信仰の関係を示しています。釈迦牟尼仏の弟子中に於いて智慧第一とされる上根の舎利弗でさえ、この法華経に於いて覚りを得たのは、その智慧が優れているからではなく、その「信」によってであることが説かれています。智慧第一と言われる舎利弗でさえ、智慧に依らずして、信仰によって救われたのですから、その他の如何に智慧がある人であっても、仏道を行じるに於いては、仏の言葉を信じ、この仏の説かれた法華経に素直に随順して行かねばなりません。大事なることは、仏を信じ、その教えを崇める従順の心の上に、真の覚りは得られるということです。無論法華経は、智を排斥するものではありませんが、信を以て更に尊しと言うことが強調して説かれているのです。
 

妙法蓮華経 譬喩品第三 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月10日(火)13時24分12秒
 編集済
  (現代語)

私は仏法の王であり、その法に於いて自在である。人々を安らかに無事にあらしめんがために、この世に現れたのである。汝、舎利弗よ、我が説きし真実にして不変なる理(ことわり)は、世間の人々を救い、幸せを与えるために説くのである。

(要文)

我は為れ法王、法に於いて自在なり。衆生を安穏ならしめんが故に世に現ず。汝舎利弗、我が此の法印は、世間を利益せんと欲するをもっての故に説く。

(要義)

この一節は、釈迦牟尼如来が宇宙を支配するところの法と一体であり、そして宇宙の万有に対して自在である力を有し、しかもその偉大なる力を以て一切衆生を救わんがために世に出現されたことが説かれています。即ち上には宇宙の大真理を握り、それを応用する智慧を発揮して、下には慈悲を以て衆生済度の手を差し伸べられているのです。この釈尊が法王であること、そして釈尊の説かれる此の法印は世間を利するためであるという二点は、大事な教義として記憶すべきことです。

釈尊が法華経を説いて実相法印を示す、即ち哲学的なる高遠な真理を示すといえども、それは決して人生に懸け離れたことを説こうとするものではなく、私達のこの人生を利益せんが為に説かれるのです。人生というものは、上辺だけの事柄のみにおいて救うことは出来ません。実際問題は、表面上に起きていることですけれども、その奥にはすべて深き真理を有するのですから、その真理の根底よりして、表面に事実として現れている事柄を考えていかなければなりません。釈尊の説かれる真理というものは、一見して哲学的に非常に高いようではありますけれども、その目的は実際の人生を窮地より救い、悦びを与える為に説かれているのです。
 

梵我一如

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月 9日(月)11時53分27秒
 編集済
  真言宗の「森羅万象の総体」に仏教界全体が影響されて、かっては旧日蓮宗等も「宇宙の総体」とのような教義を打ち立て、そして今度は創価学会が「宇宙の大生命との一体」などと大宣伝をしています(苦笑)。

呼び名はどうであれ、「梵我一如」はバラモン教(ヒンズー教)の思想ですね。インドにおける仏教は、ヒンズー教の一部として取り込まれて滅び、そして釈尊は誤った思想を弘めた化身と汚名を着せられてしまいました。

誰一人として、宇宙から仏の智慧を得ることも、宇宙と一体となることも不可能でしょう。しかしながら、私達の心に本仏釈尊が住しているならば、仏の智慧を得ることも、釈尊と一体となることも可能です。歴史上の釈尊が宇宙の真理を悟ったからといって、それを真似すれば仏になれるならば、釈尊がこの世にお出でになって教えを説く必要もなかったわけですね。

仮に宇宙の総体などと言うものから釈尊が降誕されたとしても、一切衆生を救わんとこの私達の娑婆世界に顕現された釈尊を脇に置いて、他世界の仏を拝んだりすることは、日蓮聖人が言うまでもなく不知恩なことですし、まして宇宙崇拝にすり替えたようなものは仏教とは思えません。私達凡夫も宇宙の総体から生じたものであるから、本来は仏だという類も邪説ですね。大乗仏教の真髄である法華経では、常に私達は久遠の釈尊と共にあると説いています。

現在の日蓮門下では、誤って「禅」を批判するがために(日蓮聖人の批判の内容を理解していない)、端座しての観想を嫌う方がやたらと居りますが、日蓮聖人が修行中に意行として、真言系の瞑想や天台の止観を実践した上に、その思想を確立したことは間違い在りません。日蓮聖人が六老祖に伝授されたとされる祈祷経(撰法華経)にも、「一切の業障海は皆妄想より生ず。若し懺悔せんと欲せば端座して実相を思え。衆罪は霜露の如し。慧日能く消除す。」とあり、顕本法華宗もこれを毎回唱えていますが、一体どうしたことでしょうね(これも苦笑い)。

釈尊が心を修養するために、静坐・沈思黙考することは大事なことであると弟子達に申し渡していたことは紛れもない事実です。ですから、釈尊の弟子として人々を導く立場にある僧がこれを基本的実践とすることは大切なことですね。その上で釈尊の教えを深く理解して人々に教えを説くことが、大乗仏教の僧侶に求められていることだと思います。静坐・沈思黙考による心の修養を、僧侶でない方々にも正しく指導することも、大乗仏教の僧侶の役割でありましょう。

今後のmayaさんの御精進を期待しております。
 

(無題)

 投稿者:maya  投稿日:2009年 2月 5日(木)14時12分58秒
  shamonさん、川蝉さん(お言葉に甘えて、さんづけで書かせていただきます)、ありがとうございました。
おふたりの書き込みを読んで、大づかみで書かせていただきます。


もちろん日蓮聖人にあっても諸仏そのものを否定しているとは考えていません。文字曼荼羅(…と真言に属する私が言うとどの曼荼羅かわかりにくいので、仮に「文字曼荼羅」と書かせて頂きます)にも諸仏諸天高僧方の名もありますし。要は、それぞれの位置づけの問題なんですね。
恐らく「一世界一仏」ということをどう考えるのか、という点だと思います。真言宗では娑婆世界だけではなく、すべての他土も含めたすべての仏及び森羅万象の総体としての「ダルマ」を、六大円融した大日法身として立てるという立場なのでしょう。その是非はともかく、考え方として。この観点で考えるならば、釈尊を大日如来の顕れのひとつとして位置づけるのも、理屈としては一理でしょうから。
古来より宗論に水かけ論が多発するのも、そもそもの前提の相違に由来するんでしょうね。

問題は、個々人がどう考えて納得して信受するか、に尽きるのでしょう。
布教とは理論戦でもありますが、結局はひとりひとりの人間のありかたの選択を迫るもので、形而上学的な点で最終結論を完璧に客観的に証明するという類のものではないのかもしれません(明らかな逸脱はともかくとして、宗教・宗派間のそれぞれの前提が違う以上、それは無理なことでしょうし)。
私自身は、真言宗教学というよりは、ひとまずゼロから仏教を洗い直すということをしたいので、教理教学上、あまり「前提」に拘泥するつもりはないのですが。

因みに、多仏を並べると混乱するというのは、現実としてあります。
真言宗では大日如来が根本ですが、それを知っている信者さんがどれだけいるかは微妙ですし、僧侶でも「不動行者」の類が大日如来を常に意識して実践しているかは、甚だ疑問です。
このことは、日蓮宗等においても同様の問題があるとは思います(私の知見の範囲ですけれど)。

ただ、教理教学の問題はともかくとして、僧侶の実践と信徒の実践を分離し、覚りのための必須の実践方法を僧侶(已潅頂僧)に限定するという立場は、非常に問題があるのは事実です。
仮にそれで即身成仏できるにしても、そもそも閉じられた実践方法であるのならば、意味はあれども意義がない、ということになってしまいます。
また、三密行法というのは非常に複雑難解(とりわけ道場観から本尊観に至るまでの諸の観想が)ですので、仮に私の一存ですべて公開したとしても、現実には誰でも出来る、ということにはならないでしょう。印と真言のまねごとはできるでしょうが。
これは、密教の思想が正しいか間違っているか以前の、大乗仏教としての大問題だと思っています。

今は根本から私も仏教をゼロベースで見直したいと思っていますが、その結果として仮に真言宗が世界観として正しいという結論になったとしても、実践論の問題点に関しては批判していかざるを得ないと思っています。
法具がない場所では最善の実践ができないのであれば、何の宗教か、何の仏教かというふうに思いますので(私はインド滞在中にこれを痛感しました)。

まとまらない書き込みで申し訳ありません。。。
 

他仏のあつかい

 投稿者:川蝉  投稿日:2009年 2月 5日(木)09時18分15秒
 編集済
  諸仏について日蓮聖人の見方は、

1,諸仏は久遠釈尊の分身で、久成釈尊は天月に相当し分身の諸仏は池月(池に映った月)に譬えられる。
2,他土の教主である(他土の教導が受け持ちである)。

です。
大曼荼羅御本尊にも十方の諸仏が記されているので、頭から諸仏を否定していないことが分かります。

幾年か前ですが、四十九日法事と納骨を頼まれました。霊園の祭礼場に行ってみると、大きな阿弥陀三尊が本尊の礼拝場でした。
仕方ないので、持参した曼荼羅御本尊を立て、正面の阿弥陀さんは大曼荼羅中の阿弥陀さん(釈尊の分身)だと観想しながら、法事を済ませたことがあります。

しかし、
『開目抄』に
「華厳経の台上十方阿含経の小釈迦方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを諸宗の学者等近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんとをもひ或は縄をつけてつなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云。」

と云って、久成釈尊を主師親三徳の根本教主として仰がない者は水に映った月を実月と想い、天月より地月を本物の月と想うようなものと指摘されてます。


『下山御消息』に
「教主釈尊の御屋敷の内に居して師主をば指し置き奉りて阿弥陀堂を釈迦如来の御所領の内に国毎に郷毎に家家毎に並べ立て或は一万二万或は七万返或は一生の間一向に修行して主師親をわすれたるだに不思議なるに、剰へ親父たる教主釈尊の御誕生後入滅の両日を奪い取りて、十五日は阿弥陀仏の日八日は薬師仏の日等云云、一仏誕入の両日を東西二仏の死生の日となせり是豈に不孝の者にあらずや逆路七逆の者にあらずや」

『善無畏三蔵抄』に、
「釈迦如来は我等が親父阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非ずや、中中山人海人なんどが東西をしらず一善をも修せざる者は還つて罪浅き者なるべし、当世の道心者が後世を願ふとも法華経釈迦仏をば打ち捨て阿弥陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、打ち見る処は善人とは見えたれども親を捨てて他人につく失免るべしとは見えず、」

と主師親三徳具足の釈尊をないがしろにして他土の教主を大事しすることは親不孝に譬えられる、と指摘されてます。

国などは、本地身はともかく、正法守護の神の立場の神なので、仏より下位(仏は主、神は所従)に置かれます。ですから祀っても、主師親三徳の釈尊を根本の教導主と仰ぐことと反しないですね。

しかし、垂迹身(分身)としても、神と異なり他仏は仏そのもので、他土の教導主です。
釈尊と他仏を並べ尊崇すると、釈尊を根本の教導主と仰ぐことを否定することにつながると思います。

また、「一世界に一仏」という仏教の決まりを無視することになるだろうと思われます。

御存知のように、
二仏が同時に教導しては、どちらの仏が有り難いのか?どちらの教えが優れているのか?どちらに帰依したら良いのか?と云う事になり帰依尊崇の中心が定まらないので「一世界に一仏」と決まっていると考えられています。


密呪や複雑な印契も多種有るようなので、在家の人への相伝は無理でしょうね。僧侶にしか出来ないのも無理ないと思います。

日蓮聖人の教えでは、御存知のように、成仏の為めに実践の難しい密呪や印契は必要有りません。信が成仏の根本要件なので、僧俗ともに信があれば成仏出来るとしています。
末法の下根下機救済を目指した鎌倉仏教の特色ですね。

http://www.homyou.hello-work.jp/

 

法華経の教理

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月 4日(水)22時32分36秒
 編集済
  川蝉さんのフォローには何時も感謝しています。今回は、なんと前もってフォローがあったようですね(笑)。

日本の長い仏教史に伝承されてきた薬師如来等の本尊を打ち壊してというのは、現実問題としては無理な話だと思います。薬師如来も阿弥陀仏も、日本の仏教として既に定着したものですから、この場は、私どもが日蓮聖人の教えを宣揚するものとして捉えて下されば良いと思います。

仰る通り法華経は、釈尊以外の仏は否定するのではなく抱擁して、これを方便の仏として認めています。しかしながら、実際には大乗仏教の歴史の中で、それらの他仏は他の仏国土と共に、現実からの救済という人々の願望のため、神話のように仮作或いは創作されたものであって実在する仏でも仏国土でもありませんね。

ですから、大乗仏教が成仏を目的としている以上、日蓮聖人において迹仏を本尊として拝むということは、残念ながら教理上有り得ません。私も、薬師仏等の仏像を本仏釈尊の迹仏として手を合わすことはありますが、釈尊を迹仏とする教義には厳しく臨みます。法華経も、方便の仏を釈尊に回帰統一させるものであって、その説くところの本仏釈尊とは、我等衆生の精神の根底に等しく実在する唯一絶対のものであり、他の如何なるものにも置き換えることが出来ません。歴史上の釈尊は、一切衆生の精神の根底に存在する本仏がその身に顕われた姿であり、故に私達も己心の本仏釈尊の実在を覚って、本仏釈尊が我が身その身に顕れることによって成仏を図ることが出来るとしています。

一念三千と言い、三界唯一心と言い、大乗仏教では心と外境には違いがないと説くが故に、己心の根底に実在する仏は、宇宙の背景にも法身として存在することを認める、この世にお釈迦様は実在するとの意識をします。日蓮宗等も真言宗に影響されて、過去に法身中心の教義を唱えたことがありましたが、キリスト教やイスラム教、或いはヒンズー教のように、法身なる絶対神のようなものが前提として宇宙に存在するというのではありませんね。宇宙にあるのは、ただ冷たい宇宙の真理、即ち機能する「法」であって、私達の己心にその法を悟っている仏が、智慧を有し慈悲を以て住しているわけです。ですから、己心の本仏釈尊は、法・報・応の三身即一の仏であって、日蓮聖人にも法身が中心であるとの考えはありません。

法華経にしても、日蓮聖人の本来の教義にしても、それは皆、過去の神話的宗教から離れて、哲学的にも心理的にも、現在にも通じる、未来永劫に通じる宗教として仏教の真髄を顕そうとしたものです。そもそも、仏教は因果の道理を説くものであり、私も理知的なものを最大に尊重した情操的信仰であると捉えていますので、「何でも信じれば救われる」とのような寛容的な、或いは感情論的な教えは弘めることは出来ませんし、そのような教えでは、いよいよ今後仏教は人々から遠ざかって単なる儀式・風習になってしまうと思っています。

勿論、キリスト教もイスラム教も、仏教の他宗も、偏狭な教義を有するカルト系を除いて、人々の救済と社会の平和を目的として存在する善なるものですから、今後もその存在自体を否定することはありません。しかしながら、宗教の存在意義と宗教の未来を考えれば、一歩も二歩も優れたものを提示していく必要があります。まして、仏教は教主釈尊を中心としなければ、国内ばかりか各国の仏教徒との統一的連携も形ばかりで、実際には実現も機能もしないであろうとも考えています。

さて、本題である「密教の三密行が潅頂を受けた僧侶にしか出来ない、信心があろうと学があろうと、僧侶になって潅頂を受けなくては実践できない」とのmayaさんの疑問は、言ってみれば僧侶である自分たちだけが成仏しようというのですから、明らかに大乗仏教の精神に反するでありましょうね。日蓮門下にも、特別の修行した僧であれば鬼子母神の霊力を扱える僧になれる等という迷信が大変尊重されていますが、大乗仏教とは、秘密の行とか、秘密の力によるものではなく、皆が信心の力で、内外の魔を払い、本仏との感応道交を果たして、僧俗に拘わらず成仏を目指すものだと思います。既に御存知であると思いますが、私が在俗僧として活動することが釈尊に許されているのも、そこに理由があると考えています。

少し厳しい言い方で反発をお感じになると思いますが、以下は私の疑問として捉えて頂ければ有り難く思います。どうでしょう、そもそも仏を真似て、手印を結び、真言を唱え、心に本尊を観想する三密行で本当に即身成仏できるでしょうか。例え僧俗一体という理想の下、檀信徒が僧侶と一緒に三密行をしたとして、それで本当に皆さん即身成仏出来るでしょうか。禅宗でも、自分は本来仏だと覚るために只管打坐する所があります。日蓮門下にも、自分は本来仏だと覚るために唱題行をする所があります。果たして、そのようなことで即身成仏できるでしょうか。そのような教えに、現代の実社会のリーダーが納得して追随するでしょうか。

勿論、日蓮聖人の本来の教えにおいては、僧俗共に、曼陀羅本尊を前に、合掌し、題目(本仏との綱となる誓願)を唱え、本仏釈尊とその仏界を観想しますが、それは成仏のための第一歩、信心という初めの肝心です。単に観想でなくて、それが宗教的な体験として事実目の前に顕れるためには、即ち仏の顕現を感得するためには、上記修行を信心の力に変えて、仏の弟子として、仏の子として、即ち仏の用(はたらき)として、自らの人生や社会に信心の力を実践して、本仏釈尊が実在することを人々に知らしめる姿勢が望まれます。

PS:この掲示板は、互いに○○さんで構いませんよ。
 

(無題)

 投稿者:maya  投稿日:2009年 2月 4日(水)13時53分22秒
  川蝉様のブログによると、神社参詣の順序については『三沢抄』という遺文に出ているようです。

私は現在、真言宗寺院住職です。境内には社もありますので、朝には御法楽をあげるのですが、この場合も現世利益的なお願いごとをするというより、護法神であるわけですから、ひたすらに「仏法守護・興隆」「真実の仏道を示し給え」これだけです。
神祇に対する姿勢は日蓮門流の方達とそう変わりはないのかも知れません(守護すべき仏法の当否についての細目はともかく、姿勢そのものに限定すれば)。
また、拙寺の本尊は薬師如来なのですが、確かに釈尊のみが三徳を備えた本仏と考えれば、主徳のみの余の仏菩薩を敢えて本尊とする必要性はないでしょうね。
ただ、例えば薬師如来を本尊としているのは人間の側の(勝手な)都合であって、薬師如来という仏そのものまでを法華経や日蓮聖人は否定されているわけではないですよね? 阿弥陀仏なども法華経に出て来たと思いますし…あくまでも本尊論として考えた場合に、釈尊を差し置いてそれらを本尊としては祀る意義がない、ということで。
だとすれば、釈尊を中心(法身の位置)に据えた者が薬師仏に対して、それを「迹仏」として手を合わせることはしても良い、ということでしょうか。…まぁ、これは非常に真言的な考え方(普門・一門の考え方)になってしまうのかも知れないですが。

因みに、大釈同体・別体論についてですが、伝統教学においては台密は同体、東密は別体の立場が多いようですね。まあ、曼荼羅の思想そのものから言えばどちらとも言い得るので論争する方がおかしい問題ではあるのですが、ただ、少なくとも現実論としては別体として信仰されているのは事実ですから、筋目を正しておくべきことではあるでしょう。



私の場合、そういう教理的な部分も問題ではありますが、それとともに実践論としての密教の三密行(真言宗における成仏の行の根本)がそもそも潅頂を受けた僧侶にしか出来ない、つまりいくら信心があろうと学があろうと、僧侶になって潅頂を受けなくては実践できない(壇信徒は祈祷を頼む、あるいは真言を唱えるだけでお茶を濁される)ことが、大乗仏教の行きかたとして果たして正しいのか、という点で悩んでいるところです。
実際の寺院での活動においては、僧俗一体、ということが私の理想なのですが。
そこの問題意識を起点として縷々この掲示板に書き込ませていただいておりますが、他宗派に属する者でもあり、相応しい書き込みではないのでは、御迷惑ではないかと危惧しております。

にも関わらず、丁寧な回答をしていただいていることに感謝しております。
 

神社参詣・他宗寺院参詣

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月 4日(水)11時29分37秒
 編集済
  大石寺系の日蓮正宗や創価学会では、弟子日興の「原殿御返事」を根拠として、神社参詣を「魔の住むところ」であるから謗法と非難していますが、日蓮聖人は、天照太神や八幡大菩薩を日本の守護神として、曼陀羅本尊にも書き入れている程ですから、神社参詣を禁じたことはありません。

ただし、あくまでも善神は、本仏釈尊に仕える垂迹の立場の神ですから、参詣に問題はありませんが、その順序は弁えなければなりませんね。典拠が思い出せませんが、日蓮聖人の下に「神社参詣の序(つい)でに立ち寄った」と言ったことに対しては、「序でとは何事か。汝の信仰の主は何であるか。」と厳しく叱られたようです。当然の事ですね。大晦日を寺で、新年を神社ならば特に信仰上問題は無いでしょう。ただ、神社参詣をする場合には、「仏の子として一生懸命精進致します。ですから、どうか私どもを御守護下さりますよう。」と守護の利益を願うのが良いでしょう。もし、「良いことがありましように」と賽銭を投じて願ったら、神々は賄賂を貰って願い事を聞く存在となってしまいますね(笑)。正義を助けるのが神であって、そういうものは神とは言いません。

一般に日本の神社というのは本来民間信仰で、仏教のように哲学や心理学を主体とした宗教でも、人間としての道徳を説く宗教でもありません。(昨今は、仏教も民間信仰と変わらぬ体裁ですか・・)。それが、法華経によって、その神々に仏教に於ける役割を与えられたのが、仏教国における所謂「神仏融合」です。廃仏毀釈で、その日本の伝統は覆されましたが、もし「神道」というものが、仏教とは完全に独立した宗教であって、他宗教のように教義を以て「神」を崇拝するものであるなら、仏教徒ならば参詣は出来なくなるでしょう。それは、仏教徒が、キリスト教やイスラム教、或いはヒンズー教の寺院を参詣して「神」に祈りを捧げるようなものとなるからです。

私としては、キリスト教やイスラム教の唯一神は、久遠釈尊の方便としての分身であると思っています。西洋の近代哲学者が、世界の創造と支配・全知全能とされる神について、漸く「神とは如何なるものか」と説き出した時に、法華経に説く久遠釈尊に近づいているからですね。

さて、他宗寺院参詣ですが。私など釈尊・日蓮聖人の弟子は、久遠釈尊を主・師・親の三徳を備えた唯一の本尊として拝しています。したがって、所謂釈尊の分身仏等を信仰の本尊として祀ってある場合には、当然の事ながら大きな抵抗があります。願い事を叶えるような優柔不断な信仰では、成仏が定まらないからですね。ですから、もし何らかの事情で、お参りすることがあれば、不軽菩薩のように「どうか釈尊の分身として、皆が法華経に回帰するように本来の務めを果たされよ。法華経のために尽力する我を助けた給え」と、手を合わせて折伏することになるでしょう。

日蓮聖人は密教の修行もして、当初法華と真言のみが真の仏教であると言われていました。報恩抄では「入我我入の事即身頓証の疑いこの日釈然たり。」と言われた弘法大師について、「予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。」とも述べています。しかしながら、真言宗が釈尊と大日如来を別体とし、釈尊を大日如来の垂迹・応身仏の一つとしている事実から、真言宗は最も脅威であるとして厳しい批判を起こします。それは、インドの仏教が密教化して滅び、ヒンズー教が、釈尊をビシュヌ神の九番目の化身としてしまったことと同じことだからですね。

本多猊下も、真言宗との法論をしましたが、問題視されたのは別体とすることでした。大日如来とは中国語意訳で、本来は毘盧遮那仏であり、それは我等己心に住する本仏釈尊の智慧を称えた異名とされるからですね。仏教の教主釈尊を脇に追いやってしまったら、仏教は統一できぬ、益々分裂して廃れてしまうというのが、日蓮聖人の持たれた重大な危機感です。
 

(無題)

 投稿者:maya  投稿日:2009年 2月 3日(火)16時44分59秒
  川蝉様、ありがとうございます。大変参考になります。
ブログの方も少しですが、目を通させていただきました。
法華経や日蓮教学に関して、私なりに色々と不明なところや疑問点があります。神社参詣が是であるなら、他宗寺院参詣はどうか、とか。

素朴と言えば素朴な疑問も多いですが、これからも学ばせていただけたら、と思います。
ありがとうございました。
 

妙法蓮華経 譬喩品第三 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月 3日(火)13時28分7秒
 編集済
  (現代語)

舎利弗に告ぐ、我もまた、今述べた通りなのである。如来は、聖なる者の最も尊き者にして世間の父である。一切の人々は皆我が子であるが、深くこの世の快楽に執着して智慧を求める心がない。この三界という一切世間の実際は、けっして安らかなものではなく、あたかも燃えつつある家の如くである。様々なる苦しみに満ち溢れ、怖れるべきものであり、常に生・老・病・死の憂いがある。しかも、その燃え盛る火が止むことはない。如来はすでに、三界という燃え盛る家を離れて、静かなる心を得て一人林野に安かに在る。しかし今、衆生が生きている三界は、皆私の所有するところである。そして、その中の人々は、悉く我が子である。しかも今、この様々な患いや苦しみが多い世界を救い護ることが出来るのは、ただ私一人のみなのである。

(要文)

舎利弗に告ぐ、我もまた是の如し、衆聖の中の尊、世間の父なり。一切衆生は  皆是れ吾が子なり。深く世楽に著して慧心有ること無し。三界は安きこと無し、猶火宅の如し。衆苦充満して甚だ怖畏すべし、常に生・老・病・死の憂患あり。是の如き等の火熾然(しねん)として息まず。如来は已に三界の火宅を離れて、寂然として閑居し林野に安処せり。今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は皆是れ吾が子なり。而も今此の処は諸の患難多し。唯我一人のみ能く救護を為す。

(要義)

この一節は、釈尊の主・師・親の三徳の義を明かす所の最も大切な経文です。燃え盛ろうとする火宅の中において、これに気付かずに遊び戯れる子供達を救わんとする長者の如く、釈迦牟尼仏は、この三界(欲界・色界・無色界という衆生が生死を繰り返す世界)の主であり、聖者の中の最も高い地位にあり、しかも一切衆生の父であるのです。しかしながら、我が子である所の一切衆生は、深く世間の五欲の楽しみに貧著し、世間の実相を看破しようともせず、解脱するための智慧を有していません。元来この三界は、決して安穏の世界ではありません。人生を大観すれば、燃え上がる火のように何人も生老病死の苦しみを逃れることは出来ず、また要文には挙げていませんが、三界に譬えられた朽ちた家には、悪鬼、悪獣等が叫び走り回り、互いに争い殺し合い、食い合う恐ろしい様子が経文中に詳しく述べられています。

ただ釈尊のみが、この三界の生老病死の火より離れて、真に平和安穏の境地に達しているが故に、この三界は釈尊の領有する所であり、その中の一切衆生は、悉く釈尊の子であるのです。そして、如来は諸々の患難多き三界の衆生の苦を救わんと衆生済度の活動に就いているのです。しかも、その偉大なる慈悲の力によって、すべての衆生を救い得ることが出来るは、ただ我一人のみであると説かれています。この釈尊の主・師・親の三徳は、日蓮聖人が特に強調されたことですが、その中に於いて、何を最も大切な事として私達の宗教心を定めるかと言えば、この経文に「世間の父なり」「皆是れ吾が子なり」と説かれ、寿量品には「我もまた為(これ)世の父、諸の苦患を救う者なり」と、三徳を父の一つに纏めて説明されているように、釈尊と私達の父子の関係を強く意識することにあります。
 

横から失礼します

 投稿者:川蝉  投稿日:2009年 2月 3日(火)13時15分30秒
  maya さんshamonさん横から失礼します。


maya さんが挙げられた文は昭和定本日蓮聖人遺文第三巻の続編に収録されている「真言宗私見聞」の文ですね。
第三巻続編は偽書を収めています。

六弟子の日向上人の「金網集」の「真言見聞集」を参考に偽作したようです。日向上人の「真言見聞集」には、件の文は有りません。

聖人は強く誤りを糺しましたが、件の文のような「小猿云々」などの単なる悪態など記さなかったと思います。

信徒に対して問注所での対応について
「設い敵人等悪口を吐くと雖も各各当身の事一二度までは聞かざるが如くすべし、三度に及ぶの時顔貌を変ぜず・言を出さず・語を以て申す可し」(問注得意抄439)
と注意しています。これは問注所(裁判)における態度の注意ですが、聖人も法論の時には、同じ心構えで応じたことでしょう。

「種種御振舞御書」に、佐渡流罪中に行われた諸宗との法論の様子が記されています(昭定974頁)が、聖人は雑言・悪口を吐かなかったことがわかります。

「頼基陳状」にも信徒の四条金吾殿と弟子の三位房が竜象房と問答した時の様子が記されていますが(昭定1346頁)
四条金吾殿や三位房が礼を守り雑言悪口など吐いていない事がわかります。

また「教行証御書」にも
「公場にして理運の法門申し候へばとて雑言強言自讃気なる体人目に見すべからず浅・しき事なるべし、弥身口意を調え謹んで主人に向うべし主人に向うべし。」(昭定1489頁)

と、注意されています。

http://www.homyou.hello-work.jp/

 

(無題)

 投稿者:maya  投稿日:2009年 2月 3日(火)10時30分27秒
  丁寧なお返事、ありがとうございます。

日蓮聖人の遺文の録内・録外ですが、これもなかなか判断が難しいものですよね。
まぁ、、、これは真宗であれ真言宗であれ、どこにでもある問題ですが(真言宗にも、例えば『即身成仏義』類書が六本ほどあり、三種成仏という教理が説かれているものは恐らく天台密教系の「偽書」とされていますが、この扱いについて古来、色々と議論があるようです)。

真蹟が残っているものならまだしも、恣意的な判断を避けつつ、妥当なものを取捨選択するのは至難だと思います。shamon様の研究が実を結び浸透することを切にお祈りいたします。
私としては、まずは「開目抄」等、基礎的なものを読ませていただこうかと思います。
「聖語録」は隙間の時間にめくって読むのに丁度いいのですが、真偽混淆のようですし、私にはそのあたりの判断が難しいですから、しばらくは措いておきます(偽書を元にとやかく言うのも明後日の方向でしょうし)。

今後とも、大乗仏教の正道の在り方を模索して行きたいと思います。
改めて、ありがとうございました。
 

真蹟重要

 投稿者:shamon  投稿日:2009年 2月 3日(火)00時34分54秒
 編集済
  mayaさん 初めまして。真摯な求道に、新たな友人を得た想いです。

さて、引用の御遺文は「真言宗私見聞」ですが、これには日蓮聖人の真蹟はなく、しかも重要な御遺文ではありません。日蓮聖人の思想を良く理解するには、真蹟を以て知らねばなりません。彼の他を罵倒中傷して止まない日蓮正宗や創価学会が重んじるのは、殆ど真蹟の無い日蓮聖人の御遺文ですね。

恥ずべき事ですが、日蓮聖人亡き後、日蓮聖人の名を借りて多くの遺文と称されるものが残されました。それは、親鸞聖人の名著とされる「歎異抄」が親鸞聖人によって書かれたものでないことを、浄土真宗の真摯な学者が認めているのと同じです。恐らく、日蓮聖人の「行きすぎ」「引っ掛かる」と思われる御遺文は、日蓮聖人亡き後の教団の低落ぶりを嘆いた強信の弟子達が、門下の奮闘を促す為に筆を誤って書いたものと思われます。

本多猊下は、録内御書(真蹟の可能性が高い御遺文)中心の主義でしたが、「聖語録」を発刊した明治の時点では、まだ本多猊下の唱導で真蹟かどうかの研究が日蓮門下で始まったばかりでした。ですから、「聖語録」にも録内・録外を明確に示し、そして本多猊下は真蹟と定まらない録外の御遺文等を解釈するには、十分な注意が必要であることを度々教示しています。ですから、真蹟かどうかの研究が進んだ現在では、顕本法華宗の私としては、本多猊下の意志に従って、真蹟中心に日蓮聖人の教義を明らかにして行く努力をしています。
 

はじめまして

 投稿者:maya  投稿日:2009年 2月 2日(月)16時32分1秒
  お邪魔いたします。

私は密教系の寺院住職ですが、色々と(とりわけ大乗仏教の理念に鑑みた時、行法・加持という秘密伝法的な実践の当否、つまり実践上僧俗を分けてしまうことについて)疑念を抱き、もう一度根本的に仏教そのものを見直し学び直そうと日々、勉強しております。
その中で当然、大乗仏教の基礎経典である法華経も拝読しておりますが、法華経の理念は非常に素晴らしいと改めて認識をしているところです。
法華経を拝読する上において原典や天台法華はもちろん、日蓮聖人の解釈も外すことができないと考えて、本多日生師や中川日史師のご著書も参照させていただいております。

ところで、折伏というものは某巨大団体の如く罵詈雑言や誹謗中傷ではなく、あくまでも理論的に、経文に即した冷静な議論を通して為されるものだと私は理解しています。
shamon様が「宗祖のされた折伏というのは道理に基づく批判であります。矛盾せる思想を道理を以て露わにする批判精神があってこそ、融和統一せる正しき思想も顕れてくるものと考えます。謗法の輩から瞋恚され害されても、正法を護持せんとするのが宗祖の折伏義であり、他宗や創価学会や今成先生が言われるように、相手を罵倒したり暴力を以てすることが折伏なのではありません」というのも尊く受け止めさせていただきます。

ただ、罵倒かどうかはともかく、外部の視点では中傷に近い書き方が御遺文に散見されるのも事実ではないでしょうか。
例えば「物語に云く、真言には阿字肝要なりと云々、阿の字は偏にこざるを書いて旁にべしと書き候、さては真言宗は小猿なるべきか云々是は鎌倉の宮の御所の大工左衛門尉宗親が義なり」とのことばが御書にありますが、取り立てて批判をされていないということは、日蓮聖人はそれを暗に認めておられると思ってよろしいのでしょうか。
この程度は中傷ではないとのことであれば、それは主観の問題でもありますから私は何とも言えないのですが、「聖語録」を読んでいて少し引っ掛かりました。
恐らく、日蓮聖人の流れにない立場の仏教徒であれば引っかかる部分かと思いますし、他にもいくつか気になる文章があったかと思います。
激しい言葉がダメとは申しません。龍樹菩薩など大乗論師も対論する時にはかなりのものだったと思いますし…ただ、論理的な論破ならともかくも、少し行きすぎの表現も多いように感じます。

私も現在は真言宗に属しながらも、色々と真の大乗仏教・仏道を模索している者です。法華経はもちろんのこと、日蓮聖人の遺文などからも真摯に学ばせていただきたく考えています。
私は浅学ですし、ここで議論をしたいわけではございませんが、私のように「引っかかってしまう」外部の者が、これらの文に関して例えばどのような考え方(解釈)をすればいいのか、ご教示いただければと思います。
 

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