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観心本尊抄 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2018年12月12日(水)10時35分1秒
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  「問うて曰く、教主釈尊は、三惑已断の仏なり。また十方世界の国主、一切の菩薩・二乗・人・天等の主君なり。かくのごとき仏陀をば、何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや」

法華経の迹門、爾前の経典に説かれた始成正覚の教主釈尊でさえ、譬えようもない年月の間に菩薩の修行を積まれて仏と成られたわけです。そのような菩薩界の功徳が、我々凡夫の己心に既に具わっているというのは信じられないことです。まして、本門に顕された教主釈尊は、十方世界において衆生を教化されてきた無始無終の久遠の本仏です。我等凡夫の一念に十界が具わっている、我等凡夫の己心に三千世界が具わっていると言っても、菩薩や声聞・縁覚、諸天乃至地獄までの九界のみならず、仏界が具わっている、この教主釈尊が我等凡夫の己心に住み給われているということは、甚だ信じ難きことです。私達は愚痴無明の心に閉ざされている、それに対して仏様の智慧広大無辺であり、慈悲も広大無辺です。私達は身勝手にして優しい精神は殆ど隠れ、時には人を叩き殺すというような根性も起こしますが、仏様は如何なる困難の中にあっても慈悲を失わずに一切衆生を我が子として眺められ、そして限りなき永い時間を通じて少しも懈怠なく働かれています。その仏の広大無辺の智慧と慈悲と、我々の利己的なる精神を比べれば、実に天地の相違がある。それでも法華経は斯くの如く腐れ果てたる心の中に仏性がある、私達の心の中には仏様が居られることを説くのです。法華経の信解品には、五十年の間彷徨って、その性根まで乞食が染み込んでいた者でも、方法をもってすれば長者の息子という自覚に戻るという譬えがあります。五百弟子受記品では、須梨槃特のような自分の名前も憶えられないような愚者も仏に成り、提婆達多品では、お釈迦様を殺そうとした実に極端な悪人・提婆達多も改心して仏に成ることを説きます。また陀羅尼品では、人の子を奪って食っていた鬼子母神が改心して、人を守り、法を護るというように、法華経は如何なる者にも仏性の現れがあることを説きます。客観的に実在すると観る本仏の教主釈尊は、実は我等が精神に居られるのである。そして仏というも菩薩というも、神というも魔というも、それらはすべてこの世界と別の所に居るのではなく、私達の心の中の存在するものである。この一念三千の法門を説かれたのは、仏教史上において天台大師ただ一人です。天親菩薩や竜樹菩薩という偉大な人も、内心では知っていたけれども、これを説き明かすことはありませんでした。それ故に日蓮聖人は、この法華経の正法を覚知され弘められたのは、印度に出現して成道を示された釈尊、そして中国の天台大師、日本の伝教大師だけであると言われたのです。

「善男子、この持経者もまたまたかくのごとし。諸仏の国王と、この経の夫人と和合してともにこの菩薩の子を生ず」

そして次に法華経の開経とされる無量義経を引かれて、国王と夫人が可愛い子供をお生みになったとすれば、その子供は未だ小さくとも大勢の人は挙って大切にするであろう、同様に、この法華経を持つ信者行者は、国王にあたる仏様と夫人にあたる経典が和合して生じたる菩薩の子であると言われます。即ち、本仏の有り難い意味合いと法華経の有り難い意味合いが分かってくると、人間の性が菩薩に変わるということを日蓮聖人は説かれているのです。これは片方だけでは起こりません。今の日蓮門下のように本仏釈尊を忘れてしまって、ただ「自我得仏来」などと言って題目を拝んでいる、仏様の偉大なる人格を渇仰しないで、狐などを拝み、鬼子母神を有り難いなどと思っていたならば、菩薩には成れる訳がありません。仏様を念ずることにおいて菩薩とも成れるのであって、幾ら法華経を読み、幾ら題目を唱えても、本仏を忘れるならば菩薩の子は生じないということが無量義経に説いてある、そこを日蓮聖人は引かれたのです。母である法華経ありといえども、父である仏がなければ、菩薩の子は生まれません。そこが一番大事な所です。一念三千の大事は仏性を顕すことにある、菩薩の子が生まれて来なければ駄目なのです。この堕落して、人でありながら餓鬼となり、人でありながら地獄に行く者を、人よりして直ちに菩薩にし、遂には仏にしようとするのが仏教の感化です。そのための方法が、法華経の如き広大なる教義をもって暖め、本仏釈尊の偉大なる暖かみをもって啓発する時に、人が菩薩に生まれ変わるということなのです。


 

明解「法華経要義」 化城喩品第七 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2018年12月10日(月)16時33分13秒
編集済
  (現代語)
仏は人々の心が弱く劣っていることを知って、方便力を以て、休息のために途中に二つの涅槃の境地を説いたのである。彼の導師が人々を休めさせるために神通力によって仮の都城を造り、すでに安息を得たことを知ると、「宝のある所は近くにある。この都城は真実のものではない。私が仮に造り出したものである。」と告げるのと同じである。

(要文)
仏是の心の怯弱下劣なるを知ろしめして、方便力を以て、中道に於て止息せんが為の故に、二涅槃を説く。彼の導師の止息せんが為の故に大城を化作し、既に息み已んぬと知って、之に告げて宝処は近きに在り、此の城は実に非ず、我が化作ならくのみと言わんが如し。

(要義)
ここに省略した経文には、宝を得ようと遠く険しき道を進む大勢の者の中で、一人の優れた指導者が人々を多くの難から救う「化城宝処の喩」が語られています。その指導者は、身も心も疲れて退き帰らんと欲する人々を見て、神通力を以て仮の都城を造って休息させましたが、今度は人々がその状況に満足して更に進む気力を無くしてしまいます。そこで指導者は、彼等が充分に休息したのを知ると、再び化城を滅して「前進すべし」と宝処へと向かはしめるのです。この導師とは釈迦如来を譬えたものであり、そして大勢の宝を得ようと進む者達とは、仏教に集まった人々のことです。仏教の最高の悟りに至らんとするには道は遠く険しいものですから、そこで釈尊は方便力を以て途中に小さな悟りに似た満足、小乗仏教の「有余の涅槃」と「無余の涅槃」を説いたのです。この有余涅槃とは、煩悩を断じて輪廻転生の原因は絶っているが未だ身体は残っている状態、そして無余涅槃とは灰身滅智と言って心身共に消滅した状態のことですが、このような消極的な二涅槃を釈尊が仏教の悟りのように説いたのは、人々を休息させるために造った化城と等しきものであって、真実のものではありません。そこで、そんな所に引っ掛かっているべきではない、更に進んで大いに積極的に菩薩の行に入り、活動を起こして仏に成って行かねばならないと、開権顕実、開三顕一の法華の理想がこの譬えに寄せて説かれているのです。

 

観心本尊抄 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2018年12月 5日(水)21時08分30秒
編集済
  「観心とは、我が己心を観じて十法界を見る。これを観心と云うなり」

天台大師の摩訶止観等に明らかにされた一念三千の観心とは、自分の心に具わっている地獄地界から仏界までの十法界を観察することです。日蓮聖人は法華経を引用して、提婆達多や鬼子母神、八歳の龍女や阿修羅などを挙げて、地獄界から菩薩界の九界、そして仏界の各々が十界を所具していることを説明し、九界所具の仏界、仏界所具の九界というものを明かされます。提婆達多も成仏した、龍女も成仏したと言って、如何なる者も悉く仏性を有している、即ち地獄から菩薩までの九界みな仏性を有していること、そして仏の方においても九界が無くなったのではないことが示されたのです。この仏様の心にも九界を有しているということは大事なところです。例えば、金持ちになったら金持ち根性だけで、貧乏の生活を味わったその意味合いが残っていなければ本当の親切というものが出て来ないように、仏様となっても、人間は斯かる事に苦しみ、地獄は斯かる事に悶えるということがありありと分からないと大慈大悲の活動が起こって来ません。そんな事まで説いたものが一念三千の法門なのです。

互いに十界を相具している、十界互具ということは信じ難きことです。そこで、果たして人間の心に事実として十界があるかということに問題に入って、日蓮聖人は人の顔について教えを説かれます。人は誰でも始終同じ顔をしている訳ではありません。ある時は陽気に喜び天上に居るが如く、ある時は憎しみ怒って地獄に居るが如くにあります。また、ある時は餓鬼の如くに貪欲の心を起こし、ある時は畜生の如くに愚痴の心を起こし、ある時は修羅の如くに拗けた根性を起こして争います。人として平穏を装うとしても、その顔の表情を見れば、そこに地獄界から天界までが具わっていることは明らかです。声聞・縁覚・菩薩・仏という四聖界は、顔の表情に現れるのを見ることは難しいかも知れません。しかしながら、この世の無常なることは目に見える事実です。歓楽極まって哀情多しで、桜の花を見に行っても、日暮れに花の散るところを見れば寂しいような感じがする。あるいは親しい友人が死んで、無常というものを感じるということがある。これは如何なる人にも人生無常を感じる心がある、声聞・縁覚の二乗界を具えているということです。また、如何に悪人であっても自分の女房や子供を可愛がることがある。他に対しては実に残忍なる者であっても、妻子を慈愛することにおいては、菩薩界の一分が現れていると言えるのです。

ただし、仏界ばかりは現れ難い。そこで日蓮聖人は言われます。十界互具は、石の中に火がある、木の中に花があるようなもので信じ難きものである。しかしながら、石は叩けば火が出る、桜の木も春になれば花が咲く。また、人界に仏界が具わっていることは、水の中の火、火の中の水が如きもので甚だ信じ難きものである。しかしながら、竜火は水より出で、竜水は火より生ず、大雨の中に稲妻は光り、稲妻が光れば大雨が降るように、現に証拠があるのならば、これを信じなければならない。中国古代の堯王や舜王の如き聖人は、「民を愛すること我が子の如し」と言われるような善政を行った。これは、人界に具わっている仏界の一分が現れたものである。不軽菩薩が如何なる人も皆仏性ありと言って拝んで回ったのは、人々の心の中に仏身を見たからである。また悉達太子が人間でありながら遂に菩提を成就して仏身を現じたことは、人間に仏性があることの活きた証拠である。如何に落ちぶれ果てた思える人の中にも、仏性は光を失っていません。もはや腐れ果てて仏性などは無いと思われても、方法をもってすれば必ずこの仏性は現れて来ます。一切の宗教なり道徳なりの中において、如何に人格が壊れ、社会に捨てられるようになっても、その者の息の通っているそこには仏性があるという事ほど有り難い教えはありません。財産が無くとも何が無くとも、自分の魂の中には仏様と同じ広大無辺の智慧もあり慈悲もあり活動もあり、無限の生命がある。仏性とは腐るものでもなければ死ぬものでもない。何時かは花咲く春に逢ってこの仏性が光顕し、無限絶対の仏陀となる時が来る。あとはただ時間の問題である、少し長く悶えるか短く苦しむかと言うだけの話である。これに敵対する者はない、実にこれは最後の光明である。そこを今日蓮聖人は説かれているのです。


 

明解「法華経要義」 化城喩品第七 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2018年12月 4日(火)09時46分32秒
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  (現代語)
この十六人の菩薩は、常に願って疲れることなく妙法蓮華経を説いた。そして、彼の仏の弟子の十六人の沙弥達は、皆無上の悟りを得て十方の世界において現在も法を説いているのである。そして、その第十六番目とは、我、釈迦牟尼仏である。この娑婆世界において、阿耨多羅三藐三菩提を成し遂げたのである。

(要文)
仏諸の比丘に告げたまわく、是の十六の菩薩は常に楽って是の妙法蓮華経を説く。彼の仏の弟子の十六の沙彌は、今皆阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土に於いて現在に法を説きたまう。第十六は、我釈迦牟尼仏なり。娑婆国土に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を成ぜり。

(要義)
この十六人の菩薩達は常に法華経を説き続け、今は何れも仏となって十方の世界で法を説き続けていることが説かれています。そして、経文には西方に阿弥陀仏の名も挙げられているわけですから、阿弥陀仏が法華経に反対することなどはありません。法華経に反対しないということは、方便を開いて真実を顕すということにも阿弥陀仏は賛成を表するということです。浄土門は「法華経は難行道」だと、これを斥けようとしますけれども、阿弥陀仏も常に楽って妙法蓮華経を説いて衆生を教化したとあるのですから、この法華経の文は彼等にとっては非常に困るものとなるはずです。

その最後の十六番目が釈迦如来であって、この娑婆世界に於いて菩提を成就したことが説かれています。そして、衆生は生まれ変わる度にその教化を受けた菩薩達に伴って信心を深めて行くのですから、釈迦牟尼仏が菩薩であった時に、その法座に於いて法華経を聴きし者は、今この娑婆世界に来て救われることとなるわけです。実は汝等下根の者達は、彼の大通智勝仏の時、私が菩薩として法華経を説いたその法座に来ていた者達である。その時に法座に集まった者の大抵は救われたけれども、汝等は退転し堕落して今日まで残ってしまった者である。私と汝等の関係は今に始まるものではない。汝等は遙かなる過去に私が法華経を与えたことを忘れて、方便の教えに流れてしまったけれども、それが今漸く私の本懐を悟って自らが発心を起した所の法華経に戻った、元の道に戻ったのである。それは長く流浪していた長者の子が、父に面会して家督を相続することを得たのと同じであり、迷いより悟りに帰ってきたのである。何も驚くことではないと、三千塵點劫の過去より、娑婆世界の衆生と釈迦如来には特別の結縁があることを教えています。

 

迷信

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月30日(金)13時57分23秒
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  Facebook友達のコメント欄から拾ってきましたが、未だにこんなことが宗教だと思っている人が、厳かに僧侶をやっているのでは、ますます世間から相手にされなくなるでしょうね。

>どんな宗教であれ 利益霊験がないと拝むに足りません。

>私は真言宗の僧侶ですが日蓮宗も好きですし身延山にも行きます。

>どれが優劣とか、もうそんな時代ではありません。

>なぜか?それは宗教そのものが世間で要らなくなってきているからです。

>宗教の優劣ではなく、効くか効かないか。そこに焦点が集まります。

自分の心といっても、自分の思い通りにならずに、貪・瞋・痴の心を起こし、憂悲苦悩に翻弄されるのが自分の心です。その結果は想像に難くありません。そこで仏教は、自分の心を自在にコントロールすることによって、困難を克服し、目の前の世界を自在に変えていく力を信仰によって与えます。それが優れた宗教です。

確かに信じる力によって、霊験が効いたとか、病気が癒えたと思うようなことがありますが、それは単なる自己暗示によるものです。自己暗示によって改善することも中にはありますが、霊験だとかそ霊力だとか、そういうものを宗教の売り物にしてはなりません。私が懇意にさせて頂いたインドの佐々井秀麗師などは、具合が悪いと信徒さんが相談に来ると、相変わらず南無妙法蓮華経と唱えながら「孫の手」で頭をパンパンと叩いていますが、皆さん治った気分になって喜んで帰ります(笑)。それは霊験ではありません。それは「病も気から」で、この人には自己暗示の力が効くかなと思ってやっている方便です。病気になったら、良い医者の所へ行きましょう。悩んだり、迷ったりしたら、坊さんとは限りません、お釈迦様の本当の弟子、強く正しく生きている人に相談しましょうね。

 

観心本尊抄 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月28日(水)17時56分38秒
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  「天台の難信難解に二あり、一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり」

難信難解ということを、ある宗旨の者は「信じ難し解し難しならば、一般の凡夫の器には合わない教えだ」などと批判しますが、「有り難い」という言葉と同様に、この難信難解ということも、教えを尊ぶ意味において使われているものです。教門の難信難解の一つは、如何なる者でも法華経に来たって成仏しない者はないということです。それはどういう事かと言うと、法華経より他の経では女人は仏になれないというようなことを言っていた、声聞・縁覚という二乗と一闡提は決して成仏出来ないと説いていた。しかしながらそれは仏教の本意ではないとして、法華経では女人成仏のみならず、悪人成仏、愚者成仏、十界みな悉く仏道を成ずることが説いてあります。法華経は一切衆生悉く成仏する所の妙法である、これが信じ難いことであるのです。

ところが浄土門では、この世界で仏様に成るなんてことは難しいから、いい加減に見限りをつけて、阿弥陀様の世界で気楽にやればよいというようなことを説く、そこが日蓮聖人の全く同意できない点です。浄土に行ってから善い事をするというようなことではいけない、この娑婆世界で人生を向上せしめる宗教でなければならない。「極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず」で、極楽で気楽に百年修行しても、娑婆世界での一日の功徳にも及ばない。娑婆世界では容易ならぬ面倒が付き纏う代わりに、一日正しき信仰を維持して善を積めば、その功徳は広大であると日蓮聖人は言われています。宗教には奮闘の精神がなければなりません。困難の多き所でも闘って行こうという人生でなければなりません。辛い所を逃げ回っていてはいけません。余所に逃げて行けばよいと安易に考える者に、立派になる者は居ません。そこにおいて、そこを改善し、そこを向上する努力が人間にとって最も大切なことです。浄土門のように、お前は罪が深いから駄目だ、業が深いから駄目だというようなことを言い、他力本願を説いて人を腰抜けにしてはいけません。人間には発奮努力する希望を与えなければならない、そこが教化の要訣です。

そして今一つは仏様のこと、本仏という意識です。釈迦如来は、この度始めて仏になったのではない、時間から言えば始めもなき以前よりの実在の仏であって、空間から言えばこの世界の働きのみではない、十方世界その果てを尽くして活動されている如来である。この縦には三世に高く、横には十方に遍く活動する所の偉大なる仏を認めること、これが本仏を信じるということになります。宗教は、宇宙の絶対の人格者を信じるものでなければなりません。お釈迦様は娑婆世界だが、阿弥陀様は安養世界、薬師様は浄瑠璃世界と、それぞれ持ち場が決まっているかのように考えるのはいけません。釈迦如来は、全法界の一人と雖も漏らさないで「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」言われている、これが即ち本仏です。この二乗作仏と久遠実成のことが教門の信じ難く、有り難い所です。

次に観門の難信難解とは百界千如・一念三千であり、そして今ひとつは心を持たない非情の物にも色心の二法があって十如是を具えている、即ち仏性があるということです。それは何の問題から起こって来たかというと、本尊の問題から起こってきた、字で書いてある曼荼羅でも、彫刻された仏像であっても、あれはただ字である、ただの木であるとは思っていたならば、本尊とはならないからです。そこで、草木も色心を具えている、因果があるということを、日蓮聖人は、天台大師や妙楽大師の論を引用して示されます。これは少々難しい議論で詳しくは説けず、また説いても理解し難いものになりますが、要するに仏性は人間ばかりが有しているのではない、植物の種には魂があるとは思えないけれども、芽が出て花を咲かせて果を得るように、また科学においては無生物から生命が誕生したと考えられているように、一方には宇宙の大生命というものがあり、そして如何なる物の中にも生命が通うということを述べたものです。



 

明解「法華経要義」 化城喩品第七 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月26日(月)20時17分4秒
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  (現代語)
その時に彼の仏は、沙弥となった王子達の願いを受け容れて、この大乗経の「妙法蓮華」、菩薩を教える法、仏が念じ護られるものと名付けた経典を説かれた。そして、この経を聞き終わった後、十六人の王子は阿耨多羅三藐三菩提(無上の完全な悟り)を得るために、皆共にこの経を受け持ち読み唱え、その内容に通じて利益を得たのであった。

(要文)
爾の時に彼の仏、沙彌の請を受けて、是の大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたまう。この経を説き已って、十六の沙彌、阿耨多羅三藐三菩提の為の故に、皆共に受持し諷誦・通利しき。

(要義)
王であった父は大通智勝如来となり、そしてその十六人の王子は出家して、この妙法蓮華経を聞いて受持し、その文句を覚えているばかりではなく、その意味についても滞りなく領解しました。即ち法華経に精通して、その教えを以て他の者を導いたのです。「阿耨多羅三藐三菩提」とは、サンスクリット語を音写したものであって、訳せば無上正遍知、即ち真理を究めた仏の無上なる智慧を意味します。その仏の智慧を得させるために、父の大通智勝如来は法華経を本位として説き、十六人の王子であった菩薩も法華経を中心に修学したのです。そして、その十六番目の王子が釈迦牟尼仏自身であることが明かされて、釈尊が法華経を説くのは今此処に始まったことではなく、過去を尋ねれば、大通智勝如来の時に発心したのも法華経であり、覆請といって菩薩として再説して来たのも法華経であったことが述べられます。始終法華経であるけれども、ただ今度の世界の者達は法華経を容易に受け入れ得ないが故に、止むを得ず方便の教えを先に施して、今ここに開権顕実をするのである。どちらかと言えば始めより法華経を説きたいのだけれども、娑婆世界の人々の機根を整えるがために、やむなく四十余年方便の説を為されたというわけです。


 

観心本尊抄 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月22日(木)13時51分41秒
  十界互具と言って、十界が各々十界を具えているから百界。一人の人間が地獄から仏様までの十の性質を有している、畜生もやはりその十の性質を有している、皆各々十界の性質を具するが故に百界となり、その百界の一々に十如是を具するから千如となります。そして「身土」と言われる三種世間、受けるべき身心を五陰世間とし、人間なら人間、畜生なら畜生が互いに生活する世界を衆生世間とし、それらが住む場所としての国土世間、この三種の世間を加えると三千世間となるのです。この如き三千世間が、始めの一念に具えられているというのが即ち一念三千です。天台大師は、その一念を観察することをもって諸法実相を悟る究極の法門とするのですが、最後の結論の所をまずは一言して置かなければなりません。人は自ら善良なる精神を愛する者も多いですけれども、実際には悲しいことに、どういう訳か高い方、善い方を余り考えません。贅沢をして高価な物で身を飾ることを考えたり、自分を誤解している相手に腹を立てたりと、我欲貪欲の精神を起こし、瞋恚の煩悩を燃やす。訳の分からぬことに頭を突っ込み、あるいは世を儚(はかな)み、へこたれては「詰まらない」というような考えを続々と起こします。そこで、そういう考えばかりではいけないから、菩薩の精神、慈悲の精神を起こして人のために尽くそう、社会や国家のために尽くすというような偉大な精神に立とうと思う考えも一寸出て来るわけです。ところが、善い精神は出ては来るけれども、直ぐに「パッ」と逃げて行ってしまう。一方、悪い方の精神は、なかなか逃げないで何時までも纏わり付く。そこで、この一念三千論において、今の一念何処へ行くやということを考えるならば、どうしても助けを求めなければならないという考えが起こってきます。自分の心を善い方へとは思うけれども、中々そうは上手く行かないから、善い心が逃げないような方法を案出しなければならない、そこに宗教というものが必要となるわけです。

御本尊を祭って拝むのは、それによって絶対の仏を渇仰し、仏の精神を我が心に移して、衆生を憐れむ大慈大悲の精神を一分でも余計に味わおうとするためです。朝に顔を洗って御本尊の前に行って拝めば、この眠っている精神が覚めてくる、それでも一通りでは精神の眼は覚めないから灯明を点す、それから香を焚いて精神を清らかにする、それでも未だ眠っているから鐘を打つ。そのように、宗教はあらゆる方法をもって善良なる精神を喚起しようとします。そして南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と繰り返し唱えて、善い精神が逃げ込もうとしても、どこまでも追いかけて逃がさないようにする。余計な考えが浮かんで来ても、有り難いと思う精神を声に移して、口の方が「南無妙法蓮華経」と続いているから、逃げた心がまた南無妙法蓮華の声を辿って戻って来る、宗教はそこを教えているのです。そのようにして、一念三千の意味合いを段々に信仰の方へ移して行く、信心を本尊と結び付けて、そして唱え言葉をもって善い精神を逃さないようにして、「今の一念いずくに行くや」と言った時には、「この通り、立派なものである」と言えるようにする。御経を読んで、一心に信心している時には、「法華経を渇仰讃歎している」「慈悲の心に満ちている」「国を愛し社会のために尽くす精神に輝いている」と言えるようにするのです。一念三千を学問や理屈で捏ね回している間は駄目です。精神を今言うような高き清き立派な精神に活躍せしめるには、座ってただひたすら観念観法を凝らすことよりも、本尊を安置して信念渇仰を捧げる方が良いということを、日蓮聖人は観心本尊として教えているのです。

観心本尊抄は最初に天台大師の摩訶止観の一念三千から議論が進められます。一念三千の教義を極めようとすれば非常に広く深い事にもなりますが、読んでは見たが一体何が書いてあるのかも分からないような難しいものであったならば、普遍的に人間を教化するものとはなり得ません。難しい理屈や書物を離れて、誰の心に写るものでなければなりません。そこで開目抄に日蓮聖人が「一念三千の大綱骨髄たる二乗作仏・久遠実成」と示されているように、一念三千はこの二乗作仏と久遠実成の二つが押さえ所となります。二乗作仏ということは、如何なる者にも皆仏性があるということです。だからといって、凡夫も仏様と同じだというわけではありません。仏性を有している者と仏性が顕れている者とには大きな違いがあります。中古天台の本覚思想の影響を受けて、凡夫も仏も同じであるとか、仏性を有している凡夫の方が仏様よりも上だなどと無茶苦茶なことを言う者がありますが、それでは仏子の自覚に立つことは到底出来ません。本仏を意識せずして、「俺は菩薩だ」などと言い出したところで何も始まらないのです。そして、久遠実成とは、本仏のことを教えるものです。本仏とは一念三千の覚りの全体を事実に顕している所の仏であり、この全宇宙の絶対の支配者です。釈迦牟尼仏が「我はこれ法王、法に於いて自在なり」と名乗られたのは、天地宇宙万有を支配する所の王であるという意味を言い表したものです。したがって、法が仏様の上に位置するということはありません。如来とは真如、即ち法を覚って衆生を救済するために温かな慈悲をもって活躍している絶対の存在です。その如来よりも、凡夫には到底覚り得ない冷ややかな真如をただ有り難がっているようでは、そこに感応道交などが起こることはありません。本尊論を考える上で、日蓮門下が法仏勝劣などと法と仏を相対させて、どっちが偉いかなどという喧嘩みたいなことを何時までもしているのであれば、これは学問が足りないということになります。

 

明解「法華経要義」 化城喩品第七 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月20日(火)06時03分17秒
  (現代語)
世尊が未だ世に出現されなかった時は、十方の世界は常に暗黒の如くであり、餓鬼・畜生・地獄の三悪道が増長して、阿修羅による闘争もまた盛んでありました。願わくは、私達の為す功徳が普く一切の者に及ぼされ、私達と衆生とが皆共に仏の道を成し遂げることが出来ますように。

(要文)
世尊未だ出でたまわざりし時は十方常に闇瞑にして、三悪道増長し阿修羅も亦盛んなり。願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん。

(要義)
この一節は、大通智勝如来の事に寄せて教えが説かれていますが、これは釈迦牟尼仏が世に出て教えを説かれなかった場合も同じことです。十方は真っ暗で少しもそこに光明のある生活は開けて来ず、人々は益々堕落して三悪道の傾向を生じさせてしまいます。人間でありながら地獄・餓鬼・畜生の三悪道の性質を発達させる、地獄とは瞋恚、餓鬼とは貪欲、畜生とは愚痴ですから、貪・瞋・癡の三毒を盛んとして、高遠の理想を無くして低級なる思想に堕落してしまうのです。それ故に「阿修羅もまた盛んなり」で、国と国の間には意味無く戦争が開かれ、階級闘争は激しくなり、権力利益の争奪、その他政権などの争奪が盛んとなって、高潔なる道徳や平和な生活というものが無くなってしまいます。今の娑婆世界に釈迦牟尼仏が出現されて教えを説かれなかったならば、この世はそのような有様になっていたのであり、そしてまた、仏の教えがあってもそれが振るわない時、それを信心せざる時には、やはり同じ傾向となってしまうのです。そこで仏教を修行する者は、人々が三悪道または修羅の境界に堕落して、死してはまたそのような悪しき世界に生まれて行くような哀れなことでは、現在および未来共に大失敗に終わる訳ですから、どうかこれを救いたい、現在の生活に真の平和と光明を与え、死後には永遠の悟り、幸福に至らしめなければならぬとの精神に立たなければなりません。「願わくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし」とあるように、私達が仏教を修行し仏教を宣伝していくのは、自己一人の利己的なためでも、独善的に振る舞うためでもありません。無論自分も救われようとはするけれども、その功徳は他に及ばさんとするものである、所謂自利利他の精神、その広く知られた「我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」との菩薩的精神が、此処に言い表されています。

 

観心本尊抄 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月15日(木)15時20分12秒
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  この観心本尊抄は、大聖人御年五十二歳、文永十年四月二十五日、佐渡島のおいて著された御書で、開目抄と共に御遺文中最も有力なるものです。日蓮聖人は本門の本尊を図顕するに先立って、この御書をお書きになり、日蓮が顕す本尊の意味は、これによって了解せよという趣意を込められました。詳しくは「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」という長い題号で、釈迦如来が御入滅なさって、四つの五百歳が済んで第五番目の五百年、即ち二千年乃至二千五百年までの間、その始めの頃に顕す本門の本尊という意味です。したがって、日蓮聖人は御本尊の脇書にも「仏滅後二千二百余年之間一閻浮提之内未曾有の大曼荼羅也」と書かれています。この広い閻浮提に、釈迦如来入滅以後、高僧碩徳雲の如く現れて、色々と立派な意義を仏教において発揚せられ、実に仰ぐべき人は多いけれども、この本尊の大事については未だ嘗て誰も顕しになっていなかったという、その日蓮聖人の確信がこの観心本尊抄に言い表されています。本来宗教の本尊というものは、即ち仰いで満腔の真心を捧げて渇仰讃歎すべきものであって、理智をもって観察する、観念を凝らして宇宙の真理を悟るというようなことは、観心の一部であって全体ではありません。宗教の信仰において、信心以上に理智観念が大切だなどと言うことはありません。それは一部の学者ぶった者の言うことであって、信心を忘れて理智観念ばかりに陥った、そういう弊害を破ったのが日蓮聖人の天台学から出て日蓮教学を築いたところの大進展です。日蓮聖人は、この信仰の絶対の価値を現すために観心という言葉を使われた、私達が絶対の信仰をする本尊、その本尊を心に観ることを「観心本尊」と言われたのです。

「摩訶止観の第五に曰く、夫れ一心に十法界を具す。一法界にまた十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。この三千、一念の心にあり」

観心本尊抄は、まず始めに天台大師の摩訶止観第五の「一念三千」に関する文が挙げられています。日蓮門下には、「一念三千」ということは非常に難しいことであるとか、一番優れたものだとか大層に言う者が多いですが、天台大師の一念三千論から進展して、日蓮聖人の信仰ということをもって極致とする場合には、そのような解釈は必ずしも的を射たものではありません。「一念」とは、寒いとか暑いとか、嬉しいとか悲しいというような、私達の心の刹那な働きです。そして「三千」というのは、宇宙に現れているすべての万有を指してのことです。その一念の中に万有が具わっているということ、一心法界を包むということを「一念三千」と言います。即ち、これは心を基にして宇宙を説明した思想であって、所謂西洋哲学で言うところの心的一元論ですが、心的なものだけが実在であるとする唯心論とは異なります。天台大師は「一心に十法界を具す」、即ち地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界を己心に具足しているとして観心を立てますが、この十界は地獄から菩薩までの九つの迷える者と仏の悟れる者、即ち「迷悟の関係」です。そして、その迷える者と悟れる者は、根本から違っているものではない、根本は同じものであるけれども、縁によって迷える者と迷わぬ者の差別があるわけです。「事」の現れとしては時に地獄あり餓鬼あり十界の差別があるけれども、「理」としては内面には悉く仏性を持っている、そこに平等があるわけです。本は同じでも刹那の一念によって、事実に現れて行く所に非常な違いが起きる、そこで今の心何処に行くや観察せよというのが、一念三千論となって来るのです。

そして十界の因果を説いたものが、方便品の最後に読み上げている「十如是」、如是相,如是性,如是体,如是力,如是作,如是因,如是縁,如是果,如是報,如是本末究竟等です。物事には原因があります。その原因は何らかの作用によって生じたものであり、その作用は力がなければ起こりません。力を出すために体があり、体には体の持つ性質があります。そして、その上には相があります。この「相・性・体・力・作」が一つとなって、「因」となります。因には作(しわざ)があり、作には力があり、力には体(からだ)があり、体には性(こころ)があり、性には相(すがた)があるわけです。卑近な例を以て言えば、ここに刑事に捕まり、判決を受けて刑務所に入っている者があるとしましょう。その結果は、味を占めて泥棒を繰り返したことが縁であり、最初の泥棒が原因です。余所の家に入り込んで泥棒をするというのは作用であり、それには泥棒が出来るような力と体がなければなりません。そして、そこに至るに培われた気性というものがあり相がある、例えば険しい眼などがあって、それが一つのものとなって原因に現れて来るのです。泥棒をするほどですから、本来からして金には乏しく、むさい服装もしていたでしょう。泥棒で一儲けして派手に遊んだとしても、結局は刑務所で惨めな生活を送る報いを受ける、それが本と末には違いがない、「本末究竟して等しい」ということです。正直に勉強した者は立派な者にもなりますが、泥棒根性を持った奴が非常に偉くなって、人から尊敬を受けるようなことはないのと同じです。「始めよければ終わりよし」、何事も一番最初が肝心であり、悪い縁を断ち切って、何時でも振り返って改心し、良い縁を結んでいかねばならぬことは言うまでもありません。


 

明解「法華経要義」 化城喩品第七 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月14日(水)04時42分42秒
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  (現代語)
量り知ることの出来ぬ遠い劫の昔に、大通智勝如来という名の仏が在った。私は如来の知見の力によって、彼の遥かなる過去の出来事を、恰も今日のように観ることが出来るのである。

  (要文)
乃往過去無量無辺不可思議阿僧祇劫、爾の時に仏いましき。大通智勝如来と名く。我如来の知見力を以ての故に、彼の久遠を観ること猶お今日の如し。

(要義)
法華経の迹門において釈尊は、人々を導き救済するために、法説周・譬説周・因縁周という三通りの説き方(三周説法)をされます。これは教えを受ける人々の能力や性質、即ち機根に違いがあるためであって、法説周とは方便品において智慧第一とされている舎利弗等の上根の者に対して諸法実相を説くものであり、譬説周とは譬喩品において中根の者の理解のために三車火宅の喩を以て一乗思想を説いたものです。そして因縁周では、今度は下根の者を教え導くために、この化城喩品において衆生と釈迦如来との三千塵點劫という遠い過去からの深い因縁を説いて行きます。前提として説かれる迹門の三千塵點劫とは三千大千世界を塵とし、その一塵を一劫と数えたもので、後に本門の寿量品では、この意味を更に深くして、五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を塵として、その一塵を一劫とする、五百塵點劫の過去を以て釈尊の無始久遠と私達の関係が説かれます。

三千塵點劫の久遠の事がありありと自分の心に浮かぶ、「彼の久遠を観ること猶お今日の如し」と、釈迦如来は大通智勝如来の事に寄せて非常に古い話をされますが、真理というものに古今は無く、嘗てありし事は今もある事であって、その原理原則なるものは今も少しも変わるものではありません。それは結縁の関係であって、私達は縁有る所の仏の下に救われて行く、仏と衆生の関係が一時的なものではなくして、廻り廻りして長い関係を結んで行くものであることを、釈尊は大通仏の昔の因縁を挙げて人々に教えて行きます。仏と衆生の関係に限らず、この縁というものは何処にも当て嵌まるものであって、私達お互いの間に救い救われるという事も、やはりその時に始めて関係が起きたのではなく、前世からの種々なる経歴を経て、そうして互いに救われるような関係になっているわけです。それ故に、ある人が話をしても感服しない人間が、他のある人が同じことを不味く話しても大いに感激して発心する場合もあるというように、能化所化の関係は因縁が背景となって、そこに強い力が働きます。それは悪い方にも言えることであって、何故にあの人が詰まらぬ思想に引っ掛かり、迷信に引っ掛かり、あんな態度を取るかと思われることも、やはりその人の現在の力だけではなくして、其処に悪業の因縁が背景となって、その人をして過ちを取らしめていることが非常に多くあるのです。


 

開目抄 その37

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月 8日(木)06時45分19秒
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  涅槃経に云く「もし善比丘、法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し、挙処せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨(あだ)なり。もし能く駈遣し、呵責し、挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」

朝に晩に法華経を読んで殊勝な顔をしていても、法敵を見てもそのままにしている、法華経に反対する思想、悪い教義が蔓延しつつあるのに、これを撲滅する運動に参加しないのならば、仏法を害する者となります。そこが分からなければ、日蓮聖人の弟子、信者とは言えません。皆が皆、鉢巻きをして飛び出して行けとは言いませんが、何も出来なくとも心だけでも、日蓮聖人の主義のために尽くさなければなりません。日蓮聖人が正法のためにあれだけの艱難苦労をなさったのに、保身を強くして力のある者には諂い、その志を忘れるようであったならば、とても成仏など出来ないのです。ただし折伏は増悪のためにするのではない、慈悲をもって行うことは、子を叱る親と同じであると日蓮聖人は述べられています。そして、釈迦如来が、法華経によらなければ末代の人は苦しみを除いて成仏など出来ないと明示され、懇ろに法華経を弘める導師を求められているというのに、その先に回って法華経は役に立たぬ、捨てよと説き回る法然こそ、実に無慚にして無慈悲であると日蓮聖人は言われたのです。末法の時に法華経を千人信じるとも一人も利益は得られないと言うのは、毒に中って苦しんでいる子供を騙して、医者である親が拵えた大切な薬を捨てさせるのと同じです。日蓮聖人の折伏は、そこから出て来るのであって、こちらから喧嘩を仕掛けているのではありません。親が可愛がっている子供、救おうとしている子供を井戸の中に突き落とそうとしているから憤るのです。そして、その謗法を制せざる者もまた、仏法の敵であると言われているのです。ところが、どうでしょうか。現代においては念仏宗どころか、日蓮を騙って「釈迦の説いた法華経は役に立たぬ、これを使用するから生活に破綻をきたす」と、仏教に無知な者を騙して日本最大の宗教団体となった創価学会が、政党を作って政権に与している事態となっています。しかも、宗教家のみならず、政治家もマスコミも、今や彼等を表立って批判する者は殆どいません。日本人には、模範的宗教、模範的道徳、模範的文明を作って世界の信頼を得るべき国民とならなければならない責任があります。ただ南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土を夢見れば良い、ただ南無妙法蓮華経と唱えれば幸福になると信じれば良いという、そのような低俗な国民ではないのです。世界に範を示して旭日と共に輝く国民であるならば、日蓮聖人の如く「彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり」という慈悲を、私達は決して忘れてはならないはずです。

「日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大いに悦ばし」

更に進んで、道念のない者、法を愛する考えのない者は、駄目だということを日蓮聖人は説かれます。信心が進むと道を愛し法を護る所の精神に進んで来る、信心を続けていればそれが発達して道を思う精神となり道念堅固となるはずです。お勤めの言葉には、朝夕道念堅固と祈るけれども、事実には頗る不堅固であったならば意味はありません。そして、日蓮が御勘気を被って、それ見たことかと悦ぶような手合いは、無慚であり奇怪であると言われたのです。羅什三蔵は印度に行き、亀茲国を経て秦に入り、そして法華経を翻訳するために心血を注がれた。伝教大師は三千余里の波濤を渡って支那に入り、そして日本に正法を伝えられた。その他偉人の事績を挙げて、その事柄は各々違うけれどもその志は一つである、天台大師が「時に適うのみ」と言われたように、時に当て嵌まるようにして法のために尽くされたのです。ならば、思想界の混乱がある時には、適切なる活動を私達は起こさなければなりません。何時までも太鼓を叩いて万灯を舁くばかりでは駄目です。生きたる功徳善根を積まなければなりません。何時までも一字一石の塔を建てたり、塔婆ばかりを書いたりしていては駄目だということを日蓮聖人は示されているのです。如何に迫害に遭うとも法悦と満足とに生きよ。一切経中最第一の法華経を時に適うように活用せよ。そして道念に生きて如何なる困難があっても、法悦と満足とを謳歌して働くべきである。日蓮が佐渡島の辛苦は堪え難きものであるかも知れぬが、法華経の御為に尽くす功徳によって成仏の希望を達し得るのであれば、こんな悦ばしいことはない。佐渡島において日蓮聖人がこの書を著し終わり、筆を擱(お)かれたのは実に文永九年の二月です。二月であれば非常に寒い、墓場にある塚原三昧堂は雪が積もって埋まり氷柱が下がっている、そのような状況の中にあって、凍った筆を溶かしつつ書き納められた開目抄は、「大いに悦ばし」という言葉で結ばれています。筆を持つ手は凍っているけれども、正義の志は凛然として輝き、仏法活用の知見は鋭く光を放っていたのです。これが開目抄の大精神であり、またこれ日蓮魂であり、これこそ宗教信仰の妙致でありましょう。(完)


 

明解「法華経要義」 授記品第六 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月 6日(火)07時06分4秒
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  (現代語)
もし私達の心の深き所をお知りになられ、成仏の予言を授けてくださるならば、それは甘露を灌いで熱を除き、清涼を得られるが如くになりましょう。飢饉の国より来て王の食膳を施されたとしても、心は疑い恐れて直ちに食べることは出来ません。もし王より再び許しを得られるならば、その後に憚りなく食することが出来るようなものです。偉大な勇者である世尊は、常に世間を安らかにしようとされております。願わくは、私達に仏となる予言を与えて下さい。飢えたる者は、その仰せを待って食するが如くになりましょう。

(要文)
若し我が深心を知しめして授記せられば、甘露を以て灑ぐに熱を除いて清涼を得るが如くならん。飢えたる国より来って忽ちに大王の膳に遇わんに、心猶お疑懼を懐いて未だ敢えて即便ち食せず。若し復王の教えを得ば然して後に乃ち敢て食せんが如し。大雄猛世尊、常に世間を安ぜんと欲す。願わくは我等に記を賜え。飢えて教えを須って食するが如くならん。

(要義)
甘露を灌がれれば熱を除いて気分が快くなるとは、煩悩の熱より覚めて不死を得ることが出来る如来の教えを、天の霊水である甘露に譬えたものです。今この法華経に至って殆どの者に仏の記別が与えられることとなりますが、自分達も釈尊より直接お言葉を頂かなければ不安に感じる、それは飢饉の国から来た者が王様の召し上がる御馳走を目の前にしながらも、「さあ、お上がりなさい」という許しを受けないものであるから、黙って手を出すのは行儀の悪いことだと躊躇して空腹に堪えているようなものである。もし許しが与えられれば喜んで食するようなもので、自分達も仏の記別を与えられるべき者だとは思うけれども、その言葉が無い為に非常に心苦しく考えている、どうかはっきりと記別を与えて下さいと釈尊に嘆願しています。よくお盆の施餓鬼などの旗に書かれているのが、この「如以甘露灑、除熱得清涼、如従飢国来、忽遇大王膳」の四句ですが、甘露を以て灌がれると言い、飢饉の国より来るというのは、宗教の法悦を言い表す言葉として大変良い譬えであると思います。様々な欲望に渇して悶えているのは丁度飢饉に遇っているが如くであり、物質的には十分である今日においても、なお人心が不安であるのは、その精神が物質以上に飢えているからです。そして、その渇したる人生に甘露を与えるが如く、飢饉の国より来たる者に大王の御馳走を与えるが如く、法華経の教えはあるのです。

ここでは釈迦如来を大雄猛世尊と申し上げているように、仏様は優しいと言わずして、非常に勇気のある猛々しい方であると言い表して讃歎しています。それは何故かと言えば、「常に世間を安んぜんと欲す」と、死んでから先が云々などとは言わずして、奮闘的に人生の罪を滅ぼして、人を皆道徳の人たらしめ、煩悶を打ち破って幸福の人とするために闘っている勇ましい仏様であると意識しているからです。今の日本仏教の大部分の人のように、釈迦の仏教は死んでからのものだとか、釈迦はただ寛容で柔和な人だとかと思うことは、仏教を知らないで言う者の誤解であって、釈迦如来に対する真の仏教徒の意識というものは、ここに明らかに述べられている通りです。したがって、私達が仏教より得るものも、苦悩する者がただ優しい言葉で一時的に慰められるようなことではなく、未来の幸福を他の世界に託すようなものでもなく、困難なる人生に奮闘して臨む勇気を得て、しかも悦びある人生を送れるものでなければなりません。



 

開目抄 その36

 投稿者:shamon  投稿日:2018年11月 1日(木)10時02分27秒
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  「我並びに我弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ」

如何に反対があるとも、それは人生の習い、正義を唱える者には必ず伴うことである。たとえ難があっても、けっして疑を起こしてはならない。天はご守護下さるに違いないが、事実それが見えない場合であっても、時に貧しい生活に陥ろうとも、そんなことに心を動かしてはならない。正義を貫く者は、時に形の上においては不幸薄命であっても、精神の上において富めることを喜ぶべきである。この如き教えを朝夕弟子に与えたけれども、心の足らない者は迫害が起こって来ると、疑いを起こして法華経の信心を捨ててしまった。愚かな者は約束した事を大事な時には忘れてしまうようである。事無き時はどうでも良いのです。無事平穏の時ならば、何も問題は起きません。しかしながら、一大事の時には、修養の力、信仰の力が現れて来なければなりません。何の波も立たず風も吹かずという時ならば、どうにでも済みます。そこに波風が激しく起こった時に、それを凌いで行く力を発揮できるかどうか、それが宗教なり道徳の値打ちなのです。日蓮聖人が首の座から佐渡島に流された時には、二百人ばかりの信者が大分動揺をしました。動揺するのは、妻や子供が不憫だと思い、それと正義を貫こうとする精神が衝突するからです。両方全うし得られるならば、それに越したことはありません。正法を信じて家庭も円満であるならば、こんな結構なことはありません。今は法華経を信じるとも何の迫害を受けることもありませんが、当時はそうでなかった、迫害の中に法華の正義を貫かなければならなかったのです。そこで日蓮聖人は諭して言われているのです。よく考えて見よ、何遍も生まれ変わりしても、妻子と嘆き別れることになるのは、いつでも同じことであろう。ならば今度こそは法華経の信心を破らずして霊山浄土に参り、それから可愛いと思う妻子を導いてやれば良いではないか、今度こそは正しい信心を破らないで貫徹して行くことを心掛けなければならぬと、諄々として説かれたのです。人生は単に無事平和を頼みとしては駄目です。如何に平穏無事に過ごそうと思っていても、そうは済まされないのが人生なのです。だからこそ、人生の修養においては、どんな激変に遭遇しても迷いを起こさぬという所まで、自らを鍛え込んで置かなければなりません。故に今の教訓の通り、万一正義を貫くに愛著が邪魔をするようならば、愛著の絆を切っても正義を貫くことが法華行者の覚悟でなければなりません。両方全う出来るのならば、それ程有り難いことはありませんが、もし愛著の一方に心が奪われて、正義を貫くことが出来ないのならば、結局は魔に唆されて妻子共々に身を滅ぼすことにもなるのです。

「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前とす」

日蓮が念仏宗や禅宗を無間地獄に墜ちる罪だと言うのは、日蓮に争う心があるからである、それは法華経の安楽行品に「人及び経典の過を説かざれ。また諸余の法師を軽慢せざれ」と説かれた経文に相違するではないか、そのような批判に答えて日蓮聖人は述べられます。仏法には、摂受と折伏という法門がある。無智であるが故に悪人が多い時には、安楽行の時のように、摂受を前面としなければならない。しかしながら、邪智あって謗法の者が多いときには、折伏を前面としなければならない。法華経を和やかに弘める時もあるけれども、和やかに教えを弘めるだけでは世を救うことは出来ない時があることを知らねばならない。ただし折伏は決して人を恨むのでもなければ、喧嘩をするのでもない、飽くまでも彼等を哀れむがために折伏の布教をするのであるから、一貫して慈悲心をもってやらねばならないことを説いています。ところが、今日の日蓮門下には、未だに摂受なりや折伏なりやと言って、ぐずぐずと議論をしている者があります。日蓮聖人が「仏法は時によるべし」と言われているにもかかわらず、仏教の布教は摂受が正しいのであって、日蓮聖人も折伏より摂受を重んじていたと言い出す者、日蓮聖人は折伏を行ったが自分は穏やかに摂受で行くという者が後を絶ちません。法華経の正義をもって国家のため人類のために貢献するためには、日蓮聖人の血が通っていなければなりません。道徳の根幹である宗教信仰が廃れる一方で、カルトな宗教に嵌まる人も多い時代というのに、今日の多数の僧俗のようにナマクラになったのは実に意外なことです。いやしくも日蓮聖人の主義という栄冠に頂く以上は、飽くまでも理義正しく威容堂々たる折伏の気骨を忘れてはならないのです。


 

明解「法華経要義」 授記品第六 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月30日(火)13時51分15秒
  (現代語)
我がこの弟子摩訶迦葉は、最後の身において仏となるであろう。名を光明如来・応具・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と言う。その仏の国土は厳かに飾られ、穢れなく、瓦礫なく、茨なく、不浄なる汚物もなく、その地は平らかに開け高低無く、穴や窪みが無く、堆い丘も無いであろう。瑠璃を以て大地と為し、列を作って宝樹は並び、道の辺は黄金の縄を以て飾られ、様々な宝華が遍く散じられて清浄となっているであろう。魔による仕業もなく、魔及び魔の眷属ありといえども、そこでは皆、仏法を護るであろう。

(要文)
我が此の弟子摩訶迦葉は、最後身に於いて仏となることを得ん。名を光明如来・応具・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊といわん。国界厳飾にして、諸の穢悪・瓦礫・荊棘・便利の不浄なく、其の土平正にして、高下・坑坎・堆阜あることなけん。瑠璃を地と為して宝樹行列し、黄金を縄と為して以て道の側を界い、諸の宝華を散じ、周偏して清浄ならん。魔事あること無く、魔及び魔民ありと雖も皆仏法を護らん。

(要義)
この一節は、迦葉尊者が未来に光明如来として成仏する記別(予言)を受けるところです。如来の十号である応供とは供養に値する者、正遍知とは広く正しい智慧を有する者、明行足とは智慧と実践を兼ね備えた者、善逝とは迷いを断ち切って悟りを得た者、世間解とは世の中の全てに通じている者、無上士とはこの上なく優れた者、調御丈夫とは衆生を導き救済するに巧みなる者、天人師とは人間と神々の師である者、仏とは覚者、世尊とは世間において尊敬される者を意味します。そして、光明如来となった時のその浄土の有様は、実に美しく、穢れた所が少しも無い素晴らしき所であることが説かれています。

この中に注意すべきは「魔及び魔民ありと雖も皆仏法を護らん」とあるように、悪魔があったとしても皆仏に降伏して仏法に味方するようになるという、仏教の理想が現されていることです。何処までも魔は仏に対抗的であるのではなく、悪魔のような者でさえも、漸次に教化されて正法を護る人に成るということが示されています。これは、私達の人生の闘いに於いても非常に大事な点です。私達は、如何に危険な思想に囚われ、罪悪に陥った者でも、これを教化して行けば遂に正法に帰依して、必ず世は平和の春を迎え得るという信念に立たなければなりません。互いに相闘って残害を恣にして行ったならば、人生や社会は遂に暗黒と成り果ててしまいます。それ故に、法華経は非常に浄い信念を以て、悪魔も仏法を護るということを示しているのです。だからこそ日蓮聖人も、第六天魔王までも御本尊の中に書き入れているわけです。法華経は、如何なる悪人もまた改心して正義に基づくことを認めます。釈尊を亡き者にしようとした提婆達多の成仏を説き、他人の子を喰らっていた鬼子母神が法師を守護することを説き、如何なる悪と雖も、最早取り柄も捨て果てた者と雖も、尚これを活かして来たのが法華経なのです。闘う時には、如何なる時でも強く正邪を明らかにして闘って行かねばならない、正義を確立するためには厳正でなければなりませんが、その正義が十分に打ち立てられ、それによって他を救済し包容して行く時には、如何に反対した者でも、悪魔のような者でも、これを導いて保護を与えて行く程の大慈悲を法華経は理想とします。国家や社会の理想とすべき指導者も、この法華経と同じ精神であり、そしてまた同じように人々を導くべきでありましょう。



 

開目抄 その35

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月25日(木)15時16分15秒
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  「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ等と誓いし願、やぶるべからず」

仏教は広く一切衆生を憐れむ宗教ですが、その広大な精神を現すには、この日蓮聖人の宣誓のように、まず国家を通して行くというのが日蓮聖人の主義に立つ者の主張となります。それは排外的・好戦的愛国主義のように、自国を愛して他の国や民族を苦しめるというような意味ではありません。また国を忘れて単に広く世界をという理想主義を夢見るような思想でもありません。日本の国に正法を打ち立てて、正しい理想、模範的文明を打ち立てて、その国の力と人の徳をもって世界の人類を救おう、ただ宗教を宗教としては力が足りない、ただ国家は国家としていたのでは我武者に陥り易いから、国家の男性的なるものに宗教の女性的なる信仰を合わせて、そうして理想的文明を世界に及ぼそうというのが、日蓮聖人の主義に立つ者の主張です。故に我れ日本の柱とならむ等と言われたのは、けっして尊大な志などではなく、外に衆生を救う精神と、内に国家を思う精神を結び付けて宣言されたものです。現在の国際連合というのも、世界の人道のためにする思想と、国家を擁護する思想の融合、国家観念と人道観念との調和を如何にするかということが最大の課題となります。これが了解されなければ、秩序のある平和な世界を築くことは出来ません。国の観念と人道の理想が了解されなければ、単に国家単に宗教と言っても駄目なのです。斯くて日蓮聖人の我れ日本の柱とならむとの理想は、現代においても益々光輝を放つものであると言えるわけです。

「今、日蓮強盛に国土の謗法を責れば大難の来るは、過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし」

それからまた疑を設けて、今日蓮が迫害に遭うのはどういう訳かということについて答えられます。悪業を作れば、その罪報がある。日蓮は過去世に法華経の行者を迫害した重罪があったに違いない。生死を離れる時は必ずこの重罪は消し去らねばならない。今、日蓮が厳しく謗法を責めて護法のために迫害に遭うのは、その過去の重罪を招き出して徹底的に償っているからである。涅槃経には、病苦と飢えに悩まされ、物乞いをして過ごす貧女の譬えがある。宿で赤子を産んで追い出され、他国に行こうとしたが風雨寒さに苦しめられ、蚊や虻や蜂、毒虫に刺されて、子を抱きしめて河を渡ろうとしたものの流れが速く、母子共に没してしまった。しかしながら、女人は子を慈しむその功徳によって死後梵天に生まれかわったのである。子とは、法華経の信心了因である。母子共に没すとは、法華経の信心を破らずして頸を刎ねられんとした日蓮と同じである。日蓮聖人は、迫害に遭う訳を色々と答えられていますが、それは大した事ではありません。ここで日蓮聖人が結局言われていることは、法相の唯識観や真言の五輪観等では、到底成仏が出来るとは思えない、「ただ天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」ということです。その天台大師の一念三千の法門は、我等凡夫には一分も理解し難いことですが、大切なのは人々に仏性があるということと、本仏の加護があるということです。一念三千とは、前々に述べられた通り、二乗作仏と久遠実成の二つが骨子です。一代諸経の中ではこの法華経だけが一念三千の玉を抱いている、この二大教義こそが一切経の心髄なのです。日蓮聖人はそこを論じて、他の経典は色々と結構なことを言って玉に似ているようだけれども、それはただの黄色い石である、仏性のことが分からなければ、仏因を種えなければ、どんなにしても仏には成れない、「沙をしぼるに油なし」と言われています。浄土宗のように、どんなに悪業をなしても阿弥陀仏に救われる、阿弥陀仏の名を唱えれば極楽浄土へ行けると言っても、それで罪が帳消しになることありません、成仏などは決して叶わないのです。


 

明解「法華経要義」 薬草喩品第五 その6

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月24日(水)15時39分15秒
  (現代語)
貴き者にも賎しき者にも、身分の高き者にも低き者にも、戒を守る者にも戒を破る者にも、威厳のある者にも無き者にも、正しき見解を持つ者にも邪な見解を持つ者にも、才知に優れた者にも劣れる者にも、等しく教えの雨を降らして、しかも怠ることなく疲れることもない。仏の説く教えは、譬えれば大いなる雲が一味の雨を降らせて、人なる花を潤し、各々に実を成らしめるようなものである。

(要文)
貴賤、上下、持戒・毀戒、威儀具足せる及び具足せざる、正見・邪見、利根・鈍根に、等しく法雨を雨らして懈倦なし。仏の所説の法は、譬えば大雲の一味の雨を以て、人華を潤して各々実を成ずることを得せしむるが如し。

(要義)
仏は、ただ善人や賢き者だけを救うのではありません。雨が如何なる草木をも潤すが如く、貴き者にも賤しき者にも、善き者にも悪しき者にも、賢き者にも愚かな者にも、如何なる者に対しても、仏は平等に教えを与えて少しも倦み疲れる所はありません。この「正見・邪見、利根・鈍根」というようなことは、実に法華経の理想をよく顕しているものであって、仏教が最高の宗教であるのは、「悪事を為す者は地獄に叩き落とす」というのではなく、その悪しき者も等しく法雨に潤してやらねばならぬという所にあります。仏は大雲であり、その説法は雨であり、人間を華に譬えて「人華を潤して」と言い、各々にその実を成ずることを得せしめます。そして釈迦牟尼仏は、一切の衆生は仏性を有しているが故に、実は各々が行っている修行は皆菩薩の道であるという真実を明かして、順次修行して行くならば必ず仏に成ることを説かれるのです。

 

菩薩行

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月23日(火)22時13分55秒
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  TV「世界ナゼそこに日本人が」、ミャンマーで1日4時間の睡眠で、貧困層の人々を救うため病院に泊まり込み、無償で15年間も毎日18件以上の手術をしてきた吉岡秀人先生。NPO法人「ジャパンハート」設立。奥様もお医者さんで、彼の菩薩行を支えています。世の中には、決して善人ぶって名を売るようなことなく、地道に素晴らしい活動をしている人が沢山いることに感動の涙が止まりません。自利利他です。私にも出来ることがあります。皆さんも出来ることがあります。共に少しでも貢献して参りましょう!

http://www.japanheart.org/about/message/

 

開目抄 その34

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月19日(金)15時29分47秒
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  「三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の亀の浮木に値うなるべし」

三類の敵人が現れることは、法華経をはじめとして涅槃経などにも預言されたことである。そうして今現に第一に、釈尊を仰がねばならぬと言う日蓮を、他宗を罵倒する坊主だと鎌倉幕府や在家の人が迫害し悪口を加えている。第二に根性の拗けたガラクタ坊主からの反対も明白である。第三に世間から生如来のように尊敬され、聖者を気取っている者も日蓮には反対している。日蓮は他宗を攻撃していると言うが、彼等の初めの態度は何れも法華経に対して悪口を言っているではないか。天台大師は摩訶止観に、「信がない者は、法華経のような優れた教えは己の智が及ぶところではないと言い、智のない者は、己は仏に均しいと増上慢を起こす」と言われているが、浄土門は、法華経は凡夫には難行の聖道門であると嫌って、衆生はただ念仏を唱えて阿弥陀仏に救って貰う以外にはないと説き、禅宗は教外別伝と称して経典に説かれた教義を蔑ろにし、自己は本来仏なりと悟るのだと言っている。御経を読むには、方便と真実をよく見分けて、同じ仏教に依るにも浅い所に落ち込まぬようにしなければならない。修行を積むにも、ただ座禅のようなことのみをやってはいけない、本当の菩薩行に進んで入っていかなければならない。ところが世間から尊敬を得ているような極楽寺の良観などが、日蓮を迫害するために偽りの訴状を将軍家に差し出した。また他の高僧達も権力を恐れて、彼等の邪義を認め、かえって誉め讃えてしまうような有様である。法華経の行者あれば、必ず三類の敵人はあるはずである。悪口を言われ罵られ、刀杖を加へられた僧とは誰であろうか、法華経のために権力者に訴えられた僧とは誰であろうか、「数数見擯出」と経文の通りに度々流罪に処せられた僧とは誰であろうか、日蓮より外に日本国に該当する者は居ないのではなかろうか。師とすべき法華経の行者に会うことは、一眼しかない亀が百年に一度海面に頭を出して、そして浮木の穴に入るほどに希なことである、仰いで師とすべきである、そのように日蓮聖人は宣示されたのです。

「詮するところは天も捨て給え、諸難にも遭え、身命を期とせん」

さらに日蓮聖人は、なお問を設けて法難は何のために起きるのかを論じます。法華経が正法なれば、これを信じる者は幸せでなければならない、諸天善神の御加護があらねばならぬのに、何故に日蓮が迫害に遭い流罪に処せられるは分からぬと言うであろう。しかしながら、そうではない。昔から聖人でも君子でも偉い人は、誤れる人達から反対を受ける、何の反対も受けない人に偉い人はないと、釈尊やその弟子、そして正義の諫言をした者が散々に反対を受けた例を列挙されます。それならば、悪いことをする反対者には罰が当たりそうなものであるのに、そうでないのはどういう訳かということについては、余りに罪が重い一闡提のような者は、必ず無間地獄に堕ちることが決まっているから現世では罰が現われないのではないか、あるいは正法が衰えて国を守護する諸天善神の力が弱まったためではないかと論じています。これは当時の人に疑いがあるが故に説明を加えられたものであって、日蓮聖人としては、こういうことは重き事と思っておられたわけではありません。事実には、日蓮聖人に反対した平頼綱は後に謀反を起こして一族は北条氏に滅ぼされ、鎌倉幕府の北条氏もまた悲惨な滅亡をしている、無論小松原法難で日蓮聖人を襲撃した東条影信もその時の落馬が原因で死んでいます。しかしながら、正法に反対した者には懲らしめがあるとは言わない、因果応報は説いても、そのような呪詛的なことは仏教の精神にはないからです。それで日蓮聖人の結論は如何になったかと言えば、「詮するところは天も捨て給え、諸難にも遭え、身命を期とせん」、どのような事があっても正法と国家と人類とのために尽くす、そのために一命を捧げても悔やむ所はないと言われたのです。ここが大事な所です。法華行者はそれでなければならない。大体善い事をやり出せば反対が起こり、そうして人は途中で心が変わりやすいものある。舎利弗尊者ほどの人でも、責めに堪えることが出来ずに菩薩の行を途中で退転してしまった。されば如何なることがあっても、この度法華経のために誠意を通すと考えたことは、やり損なってはならない。善かれ悪しかれ法華経を捨てるのは地獄に堕ちる罪である。日蓮は釈尊に大誓願を立てたのであるから、日本の国主の位を譲ろうと言ってきても、父母の頸を刎ねると言われても、決して法華経を捨てることはしない。我が主張する所の正義が破られたならばいざ知らず、そうでない限りは断じて屈服することはない。圧迫や威嚇によって日蓮はこの志を変えない。どれ程の難が起こって来ようとも、日蓮の誓いを立てた精神から見れば、あたかも風の前の塵の如し、直ちに吹き払われるであろうと述べられたのです。



 

明解「法華経要義」 薬草喩品第五 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月18日(木)08時54分59秒
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  (現代語)
我は如来、人・天の最も尊き者である。この世に現れること大雲の如く、枯れようとする一切の人々を潤し、苦しみより離れしめ、心安らかなる楽しみ、世間の楽と涅槃の楽を得させるのである。

(要文)
我は為れ如来、両足の尊なり、世間に出ずること猶大雲の如し。一切の枯槁の衆生を充潤して、皆苦を離れて、安穏の楽、世間の楽、及び涅槃の楽を得せしむ。

(要義)
印度で両足尊とは、二本足を持つ人間や天人の中で最も尊い人を称していましたが、後世は右も左も整っている、智も満足し、徳も満足しているというような知徳兼備の意味に解釈しています。その完全なる如来がこの世に出でるのは、日照りの時に天に現われた大雲の如くであり、その如来の説法は雨となって将に枯れんとする草木を潤すように、一切の枯槁の衆生を潤して、苦を離れて安穏の楽、世間の楽及び涅槃の楽を得さしめます。仏教が救わんとする「苦しみ」とは、生老病死の四苦、そして愛する者と離れる愛別離苦、怨み憎む者と関わり合う怨憎会苦、求めて得られぬ求不得苦、身心を有するが故に受ける様々な五陰盛苦を合わせた所謂四苦八苦の人生です。世間において「病気を治す」とか「金運をもたらす」等のみを殊更に宣伝するようなものは、迷信的かつ劣等な宗教のすることであって、釈尊は、如何なる健康体の人であっても、如何なる金持ちの人であっても逃れることを得ない所の苦しみを説いて、そしてどういう事に出会っても、どのような境界に置かれても精神の平和を破られることのない安穏の楽を与えるのです。

日蓮聖人が頸を切られんとする時に「これほどの悦びをば笑へかし」と言い、佐渡に流されて雪の中に閉じ込められても「悦び身に余れり」と述べられたのは、当にこの安穏の楽を体験せられたものです。ただ快適に生活することを楽しみとして、腹が減ったら飯を食い、寒ければ暖を取り、暑ければ涼む、眠くなったら寝るというような事であったならば、何も宗教も修養も必要ではありません。ところが人生は中々そうはいかない、次から次へと四苦八苦に襲われるものであるが故に、精神の力を発揮して、如何なる境遇の変化があろうとも、精神の安楽を破られぬだけの修養鍛錬が必要となるのです。そして、その修養鍛錬を与えるのが釈尊の為されてきた活動であるからこそ、皆苦を離れて安穏の楽を得せしめると述べられているわけです。だからと言って、この安穏の楽ということを、ただ偏った精神論的にのみ解釈したのでは我が釈迦牟尼仏の真意ではありません。安穏の楽の内容は二別すれば、「世間の楽」と「涅槃の楽」の二つとなります。そして世間の楽とは、今日の所謂物質的な幸福をも保障するものですから、釈尊は種々なる点に於いて人生の幸福を保全せんとして教えを説き、そして更に高い理想的かつ崇高な涅槃の楽を与えようとされているのです。



 

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