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開目抄 その22

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 7月19日(木)09時18分35秒
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  「当世法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん」

南都の七大寺の僧侶は、自分達の宗旨を守らんと法華経に反対しましたが、公場の対決において「積年の疑い渙然として解けた、伝教大師によって、法華経によって、今までの疑点は悉く解決が付きました」と遂には帰服して起請文を出しています。ところが鎌倉時代における禅宗や念仏宗などは法華の悪口を言うばかりか、日蓮聖人を流し者にしようと企て、起請文どころか讒言状を幕府に持って出ました。伝教大師が一度仏教の統一を遂げられて、延暦寺という立派な寺が建って、法華経中心の仏教が日本に行われたにも拘わらず、横道に逸れては阿弥陀経や楞伽経のようなものに傾き、そして一切経最第一の法華経を圧迫せんとするのですから、彼らが何と言い訳をしても、今の勧持品に説いてある三類の怨敵であることは逃れようがありません。その上で、法難に遭うことは確かに日蓮が法華経の行者たるを証明することである、「御勘気を蒙(かほ)れば、いよいよ悦びを増すべし」と言われた。例えれば菩薩が、親が地獄に堕ちている時分には、敢えて地獄に行く悪業を犯して、そして親の身代わりになって苦を受けることを悦びとするのと同じである、そう述べられたのです。

「この疑はこの書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑を強くして答をかまうべし」

しかしながら、佐渡島の雪の中、風の吹き通す一間四面の荒ら屋で、食もなく布団も無く火鉢も無く、夜通しその中に居た時には、この法難には堪えられるかどうかは疑問であると、そう思いやられたに違いありません。しかしながら、その非常に辛労艱苦の中において、日蓮聖人は蓑を着て、吹き込む雪が身に積もるのを防いで、信仰の威力を発揮されたのです。これによって自分も仏様に成れる、人も仏にすることが出来る、日本の国のためにもなる、一身を犠牲として、そこから大きなものが生まれて来ることを考えれば、たとえ身体が冷え凍えて息の根が止まろうとも、悦びであると仰せられた。自ら身命を惜しまずして、ただ無上道を惜しむ、命は仏の道に捧げたということは、夜も昼も日蓮聖人の心より去ることはありません。そして、もう自分は何時死ぬか分からない、せめて息が通っている間に書き留めて置かねばならぬと、日蓮聖人は急いで筆を執られて、この開目抄を書かれたのです。確実に身命を法に捧げているという精神が、その日蓮聖人の大決心が、筆の先によって一字一字に染められて行ったものが、この開目抄です。そういう強い決心であるけれども、世間も疑い、自身も疑いを持つように、諸天善神が法華経の行者を必ず守ると誓いを立てられているにも拘わらず、今日蓮が迫害を受けていながら、その御守護が無いのは、我が身が法華経の行者ではないのかも知れない。もし日蓮が法華の行者に非ず、上行の再身に非ず、勝手に法螺を吹いているということになれば万事休すことになる。そこで、どうしても日蓮が法華経の行者である無いか、上行の再身であるか無いかということを四方八方に論究していくことが、この開目抄の大事であると仰せられたのです。

 

明解「法華経要義」 方便品第二 その9

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 7月17日(火)11時10分12秒
編集済
  (現代語)
今、私は喜び畏れることなく、菩薩達の中に於いて正直に方便を取り去り、ただ無上の教えのみを説く。菩薩はこの教えを聞いてすべての疑問を除き、そして千二百の阿羅漢も、また悉く仏となるであろう。

(要文)
今我喜んで畏れ無し、諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて但無上道を説く。菩薩は是の法を聞いて疑網皆已に除き、千二百の羅漢は悉くまた当に作仏すべし。

(要義)
人々を教化する手立てとして、仏は方便を交えて教えを説かれてきましたが、それ故にそこには欠点がありました。方便を以て説かれた教えは、時と場合によって、或いは教えを聞く者の性格や能力に様々に応じたものですから、種々の問題に出くわす度に疑問や矛盾が生じてしまうからです。もしも哲学者なり、宗教家なり、考え深き者が来て、そこに突っ込んだ追求をした時には、仏教そのものが壊れてしまう恐れもあります。しかしながら、理想として完全なる法華経を説き終わるならば、「今我喜んで畏れ無し」と、その教えは盤石となります。「方便を捨てて但無上道を説く」ならば、最早何者にも破られる余地は無くなるのです。今日にあっても、仏教の全体を良く把握し得ない者が、ある一角を捉えては様々に批評するようなことがありますが、そのような事は法華経に至ったならば皆解決のつくことなのです。したがって、菩薩はこの法を聞いて今まで心に引っ掛かっていた疑いが一切無くなり、完全なる仏教の知識、信解を得た訳です。そして続いてこれらの阿羅漢の人々も、法華経が完全なる教えであるが故に救われることになるのです。

(現代語)
舎利弗、当に知るべきである。諸々の仏の得たまえる法は、かくの如く数多の方便を以て、人それぞれに相応しく説かれたものである。このことを習い学ばざる者は、仏の教えを明らかに知ることは出来ないであろう。

(要文)
舎利弗当に知るべし。諸仏の法は是の如く、萬億の方便を以て宜しきに随って法を説きたもう。其の習学せざる者は此を暁了すること能わじ。

(要義)
この一節は、方便の教えに囚われてはならないとの楔を刺している所です。如何なる仏が現われても、始めには衆生の機根に応じて様々なる方便の教えが説かれ、そして最後には必ず真実を以てその教えが統一されます。仏教では、実に方便が自在に応用されていますので、「其の習学せざる者は此を暁了すること能わじ」とあるように、前に方便、後に真実という関係を理解していなければ、仏教を領解することは出来ません。教化の手立てである方便は、何時でも真実との疎通を図っておかなければ、方便の役を果たさなくなってしまう、方便に囚われて真実に達しない時には、それが弊害を生むことにもなるのです。

法華経は一切経に応用された方便の意義を開き、そして真実によって統一を図るので、これを開権顕実(権を開いて実を顕わす)、あるいは開三顕一(三乗の教えを開いて一乗の教えを顕わす)と言います。即ち、様々に分裂した仏教に纏まりをつけて統一した教えが法華経であるのです。それ故に法華経は、仏の智慧に於いて統一を説き、仏の誓願に於いて統一を説き、仏の慈悲に於いても統一を説き、そして最後に統一の本仏を顕わして纏まりをつけます。宗教は絶対ということを理想とする以上、比較や対立を絶するもの、即ち一に帰するものでなければなりません。それ故に法華経は、色々と教えが説かれても分裂的なるものではない、その方便を開顕すれば皆真実の一乗に帰着することを教えます。そのような事から考えれば、将来復活すべき仏教は、決して方便の一角に留まるべきものであってはなりません。仏教を維持せんとする内輪の者が、「あれも良かろう」「これも良かろう」と互いに方便を認容し合って、烏合の衆のような状態であったならば、必ず他の思想に打ち破られて、やがて人々から見向きもされなくなります。仏が「今我喜んで畏れ無し」と言われたように、方便より来る弊害の点を矯正して、吟味に吟味を重ねて、何処に持って行っても引けを取らない法華経に纏まりをつけて、そして仏教とは斯くなるものであると思想界に示す努力が必要です。

 

開目抄 その21

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 7月11日(水)09時59分34秒
編集済
  「還ってこの事を計りみれば我が身の法華経の行者にあらざるか。また諸天善神等のこの国をすてて去り給へるか」

智慧の方から言ったならば、天台大師・伝教大師には及ばないかも知れないが、如何なる迫害に遭おうとも、頸の座に据えられようとも、流し者に遭おうとも、身命を犠牲にして正義を主張する、この慈悲心においては誰にも引けを取らないと日蓮聖人は言われています。日蓮聖人が身命を惜しまずして仏教を統一する誓いを立てられたのは、自分の利益のためとか、あるいは名誉のためにというようなことから出発したのではありません。一切衆生のため、国家のために、法華経の本意、仏教の本意を明らかにするのは、慈悲の心を本に出発したものであるから、如何なる法難が起ころうとも堪え忍ぶことが出来ると言われています。この点は天台大師・伝教大師にも劣らぬはずである。幸いに賢主の世にお生まれになったため、天台大師は中国において仏教の統一を遂げ、伝教大師は我が国において南都の仏教を統一することが出来た。ところが、時利あらずして、鎌倉幕府の人達が法の邪正を見分けるだけの考えもなく、また我が国の大義名分を考えることもしないがために、日蓮の志は報いられずして却って迫害を受け、今や佐渡島に流され、この島の土となるかも分からぬような窮迫せる状態にある。日蓮が法華経の行者であるならば、諸天善神もお守りなさるべきであるのに、却って色々の難に遭うというのは、これは日蓮が法華経の行者ではないのであろうか、それとも日蓮は法華経の行者であるけれども、諸天善神がこの国を振り捨てて留守になっているのであろうか。このように日蓮聖人は、段々と疑を強くして設けられていきますが、これは大事な事柄であるがために、敢えて疑を設け、反対の議論を書き、次第にその疑を断って、確信を深くするという順序に進んでいくためです。この迫害といい法難というは、諸天善神が守らないがためではない、日蓮が法華経の行者にあらざるがためでもない。むしろ頸の座に坐らせられたこと、流し者にされたこと、迫害を通して法華経の予言をその身に証明することによって、日蓮が上行菩薩の再身であることが分かって来る、法華経の金言は皆確実なることが証明されるというわけです。

「経に云、有諸無智人悪口罵詈等、加刀杖瓦石等。今の世を見るに、日蓮より外の諸僧、たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ、刀杖等を加る者ある。日蓮なくばこの一偈の未来記は妄語となりぬ」

法華経の第五巻、勧持品の所に二十行の偈がある。これは迹化の菩薩が述べたものだが、末代に法華の行者が現れた時に、その身に受ける迫害の有様が詳細に述べられている。即ち、この二十行の偈は、法華行者が身に受ける法難を予言した経文である。それには色々な事があるが、三類の怨敵と言って、まずは無知曖昧なる一般世俗の者の反対、あるいは政治家の反対、在家の人の反対がある。それから二つには一般の僧侶、思想家の反対、第三は非常に立派に見える生き如来のような人の反対であって、これらの三つの者が反対をし、そして政権を握っている者に讒言をして、法華経の行者を流し者にするのである。それも一度ではない、「数々(しばしば)擯出せられん」と書かれてある。悪口罵詈せられ、刀杖瓦石を加えられるようなことは今までも沢山あったが、この度々流されるという「数々」の二字が身読されてなければ話にならない。この二字は、天台大師も伝教大師も身に読んでおられない。事実法華経のために度々流されなければ、「数々」というのは嘘になってしまう。経文が嘘になれば、釈迦如来が妄語の人となってしまうのである。「ただ日蓮一人これをよめり」、佐渡島に流されるのは、一面から見れば誠にお気の毒なことでありますが、日蓮聖人の考えから言えば「法華経の行者であることに疑う余地はない」との喜びであったわけです。ところが大抵の者は法華経を読むと言っても、それは口で読んでいるだけで、数々どころか、一度も半分も法華経のために迫害を受けることはありません。受けることがないのみならず、そういうことを言われれば、益々歯ぎしりを噛んで「忌々しい」というようなことで、かえって法華経の行者を迫害するという実に滑稽なことになっているのです。

例えば仏滅後百年の後、阿育大王が出られて仏法を大いに興すことが付法蔵経に予言され、摩耶経という経には竜樹菩薩が六百年後に出でると説かれてある。その他にも沢山のことが、仏の予言された通りに事実に現れているから、今日まで仏法が世の中に栄えてきたのである。羅什訳の妙法蓮華経、法護訳の正法華経ともに、末法には法華経の行者に三類の怨敵が起こるということが説いてあるが、もし日蓮が世に出でずして、法華経のためにかくの如き法難を受けなかったならば、この正法華経、妙法蓮華経に説かれているところの仏の未来記は反古になってしまうのであろう。幸いに日蓮が出でてこの予言を身に実行した、不束な者であるけれども、これによって法華経の経説を証拠立てることを得たことは、如何にも嬉しいことである。これは日蓮聖人が、法華経を身に読んだからと威張っているのではありません。ところが後世の日蓮門下には、この開目抄によって日蓮が本仏だというような大馬鹿者が出て、そして今日ではそういう者達が非常に大きな勢力を持ち、日蓮聖人の思想が大変に誤解されています。日蓮聖人がそのようなことを聞いたならば、非常に情けなく考えられるどころか、怒り飛ばすことは間違いありません。少し日蓮聖人が自分の偉いことを述べられると、「そうれ、だから日蓮大聖人が釈迦より偉い」というようなことを考えるのは、非常に悪い病気です。日蓮聖人は本仏・釈迦如来に絶対の尊敬を持っているからこそ、そこに命を捨てても進む力が養われたのです。それが了解できぬようなことで、どうして日蓮聖人が北条に対して大義名分を説かれた真意が会得できましょうか。日蓮聖人が釈迦の権威を侵さんとするような者ならば、北条に対してその悪逆無道を責めることなどはあり得ません。そんな事も分からぬ者達が、どうして日本人の思想を善導することが出来ましょうか。ここは、余程明白に考えて置かねばなりません。そういう非道な思想を放置していてはいけません。曲がりなりにも日蓮の看板を掲げて供養を受けている坊主が、そんなことには関わりたくないと、万人受けしそうなことを言って誤魔化しているだけでは駄目なのです。

 

明解「法華経要義」 方便品第二 その8

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 7月10日(火)13時28分0秒
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  (現代語)
舎利弗、当に知らねばならない。私が仏眼をもって六種の境界にある衆生を見るに、その心は貧困にして福徳も知恵もなく、生死の険しき道に入って苦しみが断えることなく、また、五感の欲望に執着すること、ヤクなる牛が自らの尾を愛着するが如し。欲望によって自ら盲目となり、偉大なる力を有する仏と苦しみを断つ法を求めず、様々なる邪な考えに深く入り込み、苦によって苦より逃れようとしている。これらの人々のために、私は大いなる悲しみと憐れみの心を起こしたのである。

(要文)
舎利弗当に知るべし、我仏眼を以て観じて六道の衆生を見るに、貧窮にして福慧無し、生死の険道に入って相続して苦断えず、深く五欲に著すること犛牛の尾を愛するが如し。貧愛を以て自ら蔽い、盲瞑にして見る所なし、大勢の仏及び断苦の法を求めず、深く諸の邪見に入って苦を以て苦を捨てんと欲す。是の衆生の為の故に而も大悲心を起しき。

(要義)
仏の智慧の眼から見れば、殆どの衆生は功徳の上においては貧しき者であり、福も智慧もなく、生死の険しき道を辿って六道(天・修羅・人・餓鬼・畜生・地獄)の世界を流転して、その苦しみを繰り返しています。多くの衆生が、眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官から起こる肉体上の欲望のために、人生の意義や価値を認める精神生活を忘れて、所謂唯物主義に堕落してしまっています。ただ欲望を満すことを以て幸福だと思おうとすることは、犛牛(高原に生息する長毛牛)が自分の尾を舐り続け、傷付き爛れても止めることなく、やがてはそこから腐敗して死んでしまう如くに、自ら自分を傷付け損なうことなのです。そして、物欲のために高き精神の光を覆われているがために、盲目となって何度言って聞かせても判らない、大いなる力を有する尊い仏の有り難さも判らなければ、如何にすれば人生の苦痛を除くかという道も判らないのです。

「諸々の邪見」とは、広げれば六十二見とされる仏教以外の印度の思想だったもので、その根源は断見と常見の二つです。断見とは、一度死ねば二度と生まれ変わることもないと主張する所謂唯物主義で、人の魂は死んだら消えて断滅してしまうものである、そして魂の滅亡を説く位ですから、勿論神や仏の存在は認めません。その反対に常見とは、人は死んでも不変の我が永続すると主張する、人間という者は生まれるべき所が決まっていて、身分の高い低いは変わらない、富豪の者は何時も富豪、乞食は何時も乞食で、悪いことをすれば地獄に堕ちるとか、名誉とか栄華というものは一時的なものであって、永続きするものではないということは少しも考えません。この常見、或いは断見に囚われて、特権階級に属する者が徳を積まず善を行わず権力を振り回し、下層の人々が、神も仏もあるものか、人生は一回限りだ、不公平だと自棄になり騒動を起こしていたのでは、私達の住む社会は一向に良くなりません。それ故に、身分の高い者も低き者も皆共に道徳に生き宗教に戻れよ、富める者であれ貧しき者であれ、皆高き菩薩の行に入れよと説くのです。人々は邪見に惑わされて苦しみを生じ、苦しみを断つ教えを求めずして、こうしたら良い、ああしたら良いと盲目的に行って、やればやる程苦しみの増すことを繰り返します。それ故に、実に可哀想な者である、哀れなる者であると思って、仏は救済のために働かれるのです。今この所は先に説いた仏の智慧から出でて、明らかに仏の慈悲の事が説かれて行く所です。

 

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 7月 9日(月)20時30分53秒
  ご教示、本当に有り難うございました。
このmeditationは、while in chanting Daimokuとありますから、「唱題をしながら」行えばいいでしょうか。それとも、「勤行を始める前に」観念するものでしょうか。
このように具体的な観想法(言葉が間違っていたらすみません)を、日蓮聖人は教えておられたのですね。重ね重ね、心からお礼申し上げます。
 
    (shamon) はい、唱題をしている間で結構です。これが観心本尊ですね。  

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 7月 7日(土)23時34分32秒
  海外布教版のGongyo、とりわけMeditation While in chanting Daimokuの部分を、もしよろしかったら、日本語でご解説いただけないでしょうか。初めて読む(知る)内容に驚き、正しく日本語で理解し、実践したいと思っています。ぜひとも、よろしくお願いいたします。  
    (shamon) 日蓮聖人が御本尊に示されたように

Example:
1. You place the Four-Quater kings in the cardinal points to draw a boundary for protection against evil at first.

最初に、魔障を防ぐために四天王を配置して結界を張ります。

2. You send for guardian deities, Acala and Ragaraja that destroy evil spirits. Acala changes your anger to justice, Ragaraja change your love and hatred to mercy.

守護神として、不動明王と愛染明王を呼び込みます。不動明王は瞋恚を正義心に、愛染明王は愛憎を慈悲に転じます。

3. Many gods beat a heavenly-drum and heavenly-flowers are rained from the sky.

諸天は天鼓を鳴らし、天より曼荼羅華が降らされます。

4. Nichiren shonin and Nichijyu shonin and so on sit in front of you. Then invite the Buddha Sakyamuni, the Buddha of Many Treasures and four bodhisattvas together with them. A lot of your colleagues sit down with you and chant Daimoku with you.

貴方の前には、日蓮聖人、日什正師などにお座り頂き、そして釈迦牟尼仏、多宝如来ならびに四菩薩を勧請します。多くの同志と共に座り、共に題目を唱えます。

5. You hear the teachings from the Buddha Sakyamuni and receive the five character of Myoho renge kyo

釈尊より教えを聞き、そして妙法蓮華経の五字を授かります。
 

開目抄 その20

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 7月 5日(木)09時23分4秒
編集済
  「王難すでに二度にをよぶ。今度はすでに我が身命に及ぶ」

ただし法華経の行者の受けるべき迫害は容易なことではない。果たせるかな、そのことを言い出してから、この開目抄を書くに至るまでの約二十年に現れたる法難は、小難数知らず、大難四度に及ぶ。その大難の中においても二度は、逃げることもどうすることも出来ない王難であり、一度目は伊豆、二度目は龍ノ口の刑場から引き続く佐渡島への流罪でした。もう二つというのは、小松原の襲撃と松葉ヶ谷の焼き討ちです。小松原の法難では、東条景信が三十人ばかりの部下を引き連れて、日蓮聖人を待ち伏せして斬り付け、弟子の一人が即死。松葉ヶ谷の法難は、幕府の役人が裏から尻を押して、大勢の暴徒が日蓮聖人の草庵に押寄せて、火を放ち焼き殺そうと計ったものです。この松葉ヶ谷の焼き討ちと伊豆の流罪、そして小松原の襲撃、龍ノ口および佐渡と併せて、これを四度の大難と言います。その中で焼き討ちと襲撃の二つは、何とか逃げることも出来ましたが、伊豆の流罪と龍ノ口及び佐渡の流罪は、幕府の権力ある者が行っている迫害ですから、逃げ隠れが出来るものではありません。佐渡島も表向きは流罪であるけれども、我が身命を断とうとする考えであって、弟子も牢に入れられ、信者も領分を取られ、様々なる迫害に遭っている。しかし法華経を開いて見れば、様々なところに法華経の行者は斯く斯くの難を受けると説いてある。天台大師も妙楽大師も、その当時は怨まれ嫉まれた。天台の末学である智度法師は、何故に法華にそういう反対が多いかと言えば、「良薬は口に苦し」で、法華経は立派な教えであるが、小乗に固執することを叱り、二乗の成仏を否定する大乗を斥け、天魔を毒虫と言い、外道を悪鬼に譬え、法華経を聞かない菩薩を新発意の小僧のように言うから、天魔は憎み、外道は嫌い、二乗は怪しみ、菩薩は怯むのだと述べている。譬えてみれば、子供に灸を据えれば、子は母を怨むように、また病人に本当の良い薬を与えれば、苦いと文句を言うようなものである。末法の世では真の正義は受け容れられず、ただ甘心を買うような方便さえ言っておけば喜んで迎えられ、国家のためには大義名分を主張し、仏教のためには本仏顕本を主張するならば、色々な所がこれに難を加えて来ることは無理からぬ事です。しかしながら、この正邪を見分けるのが、政治を執る者の考えるべき事なのです。

天台大師にも多くの反対があったが、陳や隋の王が賛成されて是非を明らかにしたので、敵対するガラクタ坊主はいなくなって法華経は弘まった。伝教大師にも、南都六宗の偉い坊主が集まって反対したが、桓武天皇がお捌きになって比叡山が建ったのである。正義を主張する者は身に寸鉄も帯びず、何らの権力も持たず、ただ思想を以て戦っているのですから、この思想家が正義を唱える時には、それを助ける所の者は正邪を聞き分けて、そして正義の人に付かねばならないということを、日蓮聖人は極力論じています。今日の言論の自由、思想の自由というのも、それぞれ自分の好き勝手にして構わないということではなく、議論の中身をよく聞き分けて、そして判断するということが目的なのですから、ただ勢力のある方に付いたり、多数に付いたりするのではなく、一人の言う事といえども正義に従うということを心掛けなければなりません。一方の話だけを都合良く鵜呑みにして、感情的にワーワーと大勢に付いて行くというような頭では甚だ危険なことになります。また、正義を主張する者ありといえども、その主張の何たるを聞き分けることをせず、「偉そうなことを言うな、大きな事を言うな」と叩き込んでしまう、暴力を以て圧迫し、頸の座に据える、流し者にするというのであれば、これ正に国が亡びんとする前兆であると言えましょう。いやしくも国の興る時には、正義は一人が唱えても、それに反響が起こらなければならない。ただ雑然として騒いで、少しも耳を傾けないということであれば、その国危うしと言わなければならぬ、実に慨嘆に堪えないことであると仰せられて、そこに日蓮聖人は自分の決心を言明されたのです。


 

明解「法華経要義」 方便品第二 その7

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 7月 3日(火)10時28分51秒
  (現代語)
諸々の仏が菩薩の修行中に立てた誓願は、私が行じてきた所の仏の道を普く人々に知らしめて、同じくこの道を得させんとすることである。未来の世に、様々な仏が数限りなき教えを説いたとしても、それは実に皆、一乗の教えのためである。最も尊き仏は、この世に存在する総ての事物は、それ自身で本来より存在するものはなく、そして仏となるための種子も縁に従って起こると知るが故に、一乗の教えを説くのである。この法は不変にして永遠なるものであり、この法によって、この世界の様相も常に存在しているのである。

(要文)
諸仏の本誓願は、我が所行の仏道を普く衆生をして、また同じく此の道を得せしめんと欲す。未来世の諸仏、百千億無数の諸の法門を説きたもうと雖も、其れ実には一乗の為なり。諸仏両足尊、法は常に無性なり、仏種は縁に従って起こると知しめす。是の故に一乗を説きたまわん。是の法は法位に住して、世間の相常住なり。

(要義)
諸仏の本願というものはすべて統一したものであって、一切の人々に自分の行じた仏道と同じものを得せしめんとするものです。これが諸仏の本願であって、諸仏の説く所は実は同じものである、別願などという他に何か特別の願いを立てるというようなことは本当のものではありません。即ち仏教は一乗の教えによって人々を導いているものであるのです。この法とは、宇宙万有の一切であって、物的・心的現象と、そこに働く真理です。そして「法は常に無性なり」とは、何も無いという事ではなく、総ての物には定まった性というものは無い、総ては因果応報の理に依って循環して行くものであって、人間であれば美しい女性が何時までも美しいままであることはない、癇癪持ちの人が今度会った時には穏やかな人に成っていたというように、「これは善人」「これは悪人」などと極まったものは無い、縁や時の経過によって容姿も変わればその人格も如何様にも変わるということです。人に限らず、万物はその時々刻々の現れを見せているだけであって、総てのものは種々に変化していくものであり、本来より定まった性は有りません。ただし、定まった性は無いけれども、万有相関で一切の性を含んでいることになっているが故に、縁に従って、それらの様々なものが引き出されるのです。それは、米という物が縁の掛けようによっては、酢となり酒となるように、或いは真っ黒な原油から、様々に異なる性質の製品が生み出されるが如くです。したがって如来は、人は皆、仏の種を有している故に、善き縁を以て導きさえすれば、どんな者であっても善い方に向いて発達することを十分に知って、そして最も適切なる一乗の教え、仏性を顕すための仏教というものを与えるのです。

「是の法」という総ての事柄も皆一時の現れのようであるけれども、徹底して考えると、その奥底には不滅のものがあります。例えば、出来ては消える大海の波飛沫が大海そのものの現れであるように、ある時は憎いと思い、ある時は可愛いと思うように始終波立つ心の働きも皆心の中の現れであって、消えたと思ってもまた何時でも顔を出します。そして、人間なら人間が此処に出る、自分がこの世に生まれていることも、一時の現象のようではあるけれども、その奥底には不滅のものがあるのです。世間相常住とは、世間の夢か幻かと思うような一時の事柄にも、そこには尊い意味が存在しているということを教えています。そのようなことが解ってくれば、人間が互いに親子となり夫婦となって社会を作りだしている事も、決して夢や幻というものではない、そこに大いなる意義を見出すことが出来、無限の価値が生じてくることになるのです。そのためには、何よりも善き縁を得ることが非常に大事です。道徳を重んじる社会にするにしても、政治を良くするというようなことも、皆それは縁に従って変わって行くものです。今日のように、「勝ち組」と「負け組」を生み出すような唯物論的な思想が勝って本来の宗教思想が人心より去っていくことを放置しておくならば、如何なる政治を施して法律を適用しても、警察力を応用しても、社会が荒廃して行くことは防げません。今日の社会に宗教を復活させる、宗教の必要を自覚させるためには、迷信的なる、或いは低級なる信仰を是正して、そして十分な研鑽を経たる理想的な最高の宗教を盛ならしめることが第一義です。日蓮聖人が、白法隠没・闘諍堅固の時には必ず法華経を広宣流布すべしと言われた事は、当に今日の時代にも活きているのです。

 

お礼

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 6月29日(金)11時16分21秒
編集済
  回向文についてご教示くださり、有り難うございました。

三身即一の本仏を応身を正面に見る。目からウロコと言いますか、肚に落ちると言いますか、一気に顕本法華宗の信仰の世界に筋が通り、視界が開けたように思います。心から、感謝しております。

実は、参考までにと思い、植木雅俊さん翻訳によるサンスクリット原典からの翻訳も読んでみましたが、ますますshamonさん、ひいては本多猊下の法華経理解の正しいことに心底驚嘆させられました(植木さんの信仰的背景を知っていますが、それとの整合性をどう図っているのか、読んでいて、少し不思議な気持ちにはなりました。橋爪大三郎さんとの対談(『ほんとうの法華経』)も、ただただ、日蓮大聖人、日什大正師の正しいことを裏打ちしているだけに思えます)。

とまれ、これからも正しい日蓮聖人の信仰のあり方を、ご教示ください。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
 

開目抄 その19

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月28日(木)16時01分21秒
編集済
  「いわずわ今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕べし。いうならば三障四魔必ず競い起るべしと知ぬ」

そこで日蓮聖人は、この如き有様を座視するには忍びぬ、どうしても志を立てて、この紛乱せる仏教を覚醒し、そうして仏教には統一的帰着があることを教えなければならないと志を立てられます。生まれ変わり死に変わりする間には色々なことがあったが、何時もそれは一時々々に過ぎ去った。権力を得て多数の者を靡かせたこともあったが、大した善いこともせず、権力を失うと同時に自分は滅びてしまったに違いない。あるいは仏道の修行に入っても、途中にして退く心が出来て、やり損なったことも度々あったであろう。思い返せばこの永き始めもなき以前より我が生命は存続しつつ、幾千遍幾億万遍生まれ変わったか分からないが、今なお人間に来て煩悩多くして迷っているというのでは、また生まれ変わっても限りなき迷いの道を巡るだけである。ここは一つ、何が一番大事なことなのかを心を落ち着けて考えなければならない。法華経に照らして見れば、釈尊との久遠の師弟関係を忘れ、五百塵点という始め無き過去に釈尊から仏種を受けながら、途中で退転してしまったから今に至っているのかも知れない。仏教を学んで戒定慧の三学がどうだとか、座禅はこう組むのだとか、木魚の叩き方はこうだとか、そんなことを講釈して上手くなったとしても、仏教徒として絶対の信仰を捧げるべき本尊、本仏を信じる一時を失脚するようでは全く話になりません。ところが見渡す限り、小さな善い事と悪い事については、あれこれと言うけれども、一番善い所の大事に至っては、多くはこれを忘れているかの如き有様です。日蓮は排他的だ、法華の坊主は激しいことを言うと嘲る人もいますが、仏祖であるお釈迦様を侮辱する者が出た時には、命を捨ててもその大逆罪を責めるのは筋でありましょう。その大義名分を忘れてしまって、まあ善かれ悪かれ問題は起こさないことに越したことはないと気取り、勢力のある者の前では頭を下げているのが日本の宗教家の代表ならば、いよいよ一大事が起こった時には何の役にも立ちません。だからこそ日蓮聖人は、どうしてもこの寿量品に顕本せられたる釈迦牟尼の名において、絶対本仏の光を顕さなければならないと絶叫されたのです。

浄土教の中国は道綽、善導、そして日本の法然は法華経を強く褒めながら、法華経は末法の劣った人間には理解できない、未だ誰も得道した者はいない、念仏以外の修行をする者は千人に一人として往生しないと偉ぶるものだから、人々はみな権経の教えに墜ちてしまった。いや権経よりも小乗経の、小乗経よりも仏教に及ばぬ外道に、しいては悪道に墜ちてしまったのである。日本国でこのことを知っているのは日蓮一人だけである。ただし、これを言い出せば必ず反対が起こるであろう。そうして目に見えない悪魔までも反対者に与して、国王の難が迫害として必ず現れて来る。あるいは自分の父母兄弟や師匠が反対するとか、退っ引きならぬような所から「まぁまぁ、そんな事は言うな、後ろへ寄っておれ」と言われ、正義のために奮闘しようとすれば、必ずこれを抑制する者が起こって来るのです。迫害や困難を恐れて何もしないことになれば、それはそれで無事の生活は出来るかも知れませんが、それは国家から言えば、国家の危機を見逃したる不忠の者となり、教えから見たならば、教えが混乱しているにも拘わらずに護法の本分を忘れた者となります。それ故に日蓮聖人は、今これを言わなければ、命が終わったならば必ず無間地獄に墜ちてしまう、人の命は僅かに三十年か五十年であるが、その間の平凡な生活を貪るがよいか、如何なる迫害に遭うにも、永遠の栄に就くがよいかということを、心静かに考えなければならないと思いを巡らせたのです。そして京都から帰ると三七日の間虚空蔵堂に参籠し、この身は粉砕されようとも正義を貫くという決心を鍛錬され、時を計って建長五年四月二十八日、東天に向かって南無妙法蓮華経と唱え出されました。言うか、言うまいか、言わなければ今生は事なしと雖も、未来は無間地獄に疑いない。もし、これを言い出すならば、様々なる所の迫害が現れてくるが、法華経の見宝塔品に「六難九易」と、須弥山を他の仏土に投げることが出来ても、枯れ草を荷って大火の中に入ることが出来ても、法華経のために尽くすことは難しいと説かれている。ならば、如何なる事が起ころうとも「本より存知の旨」である。この覚悟が実に立派なのです。こういう思想は、自分の利益とか、自我というようなものに執着していては出て来ません。どうにかして本仏の恩に報じたい、大義名分を明らかにしたいという東洋一流の道徳観念の結果として現れてくるものです。その上で日蓮聖人は、今度こそは強盛の菩提心を起こして、如何なる事があっても退転はしないと声を大にして誓われたのです。


 

明解「法華経要義」 方便品第二 その6

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月27日(水)10時00分56秒
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  (現代語)
子供達が戯れに砂を集めて仏塔を造ったとしよう。そのような人々は、皆すでに仏道を成就しているのである。もし、仏のために様々な仏像を建立し、数多の姿を彫り上げる人があるとすれば、皆すでに仏道を成就しているのである。

(要文)
乃至童子の戯れに沙を聚めて仏塔と為る、是の如き諸人等、皆已に仏道を成じき。若し人、仏の為の故に諸の形像を建立し、刻彫して衆相を成せる、皆已に仏道を成じき。

(要義)
排他的に他を斥けるのではなくして、大きな理想から見て総てのものを開顕して、一つの仏道に導くことが法華経の一乗の思想です。この所は、世間の道徳、小さな善、皆仏道に来たれば役立つという、即ち小善成仏を説いたものです。禅宗では、中国(梁)の仏教信仰に厚かった武帝が「朕、寺を造り、経を写し、僧を度する、何の功徳ありや」と問い、達磨大師が「無功徳」と答えたという逸話が作られています。しかしながら、法華経では「仏塔を作ったところで、仏像を彫刻したところで大した功徳にはならない」、有為の善根は無功徳というような理屈を立てるのではなく、一つの大きな所に達した時には総ての善が皆役立ってくる、更なる高き理想と信念に導かれているのならば、それらは皆必ず活きて来るというように穏やかに教えを説きます。六波羅蜜を修行して高い徳を得ている菩薩のみでなく、子供が戯れに砂で仏塔を造ることでさえも、また尊い仏様の姿を彫刻する者も、皆偉大なる功徳に一致して進んでいるものである、それらは皆仏道を成ずる力となると抱擁していくのが法華経です。小さな善と大きな善の違いというような相対的関係は十分に知った上で、寧ろ小善を活かして成仏へと導く、小善成仏を説く所に法華経の特色があります。

ここには、子供の砂遊びのことが挙げられていますが、人に親切にすることや社会の改善のために尽くすというようなことも皆世間の善です。世間の善を有為の善根などと斥けていては、政治の改善、経済の発展というようなことも含めて、社会との調節が取れ得なくなります。日蓮聖人が武士の四条金吾に「宮づかい(仕官)を法華経と思し召せ」と言われて、天台大師の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と引用しているように、政治に尽くすのも、経済に尽くすのも、教育に尽くすのも、そこにもう一つ大きな思想信念があって行うことであれば、皆結構な事となるのです。即ち法華経は、世間の道徳に成仏という宗教的信念の理想を与えているわけです。法華経は、宗教を嘲って世間の善に立て籠もるような考えもいかぬ、宗教の信念を高しとして世間の善を嘲るのもいかぬ、世間の善と調整を取って、そして高き理想信念と日常の種々なる道徳行為とに連絡統一を保たねばならぬとの大切な思想を説いているのです。

 

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 6月26日(火)00時45分41秒
  いつも有り難うございます。
回向文についての質問です。要品にある「某六親眷属の諸精霊」とは、父方母方すべてのご先祖を意味していると考えてよろしいでしょうか。また、この「某」は「それがし」のまま、とくに「〇〇家」に置き換えたりしなくてもよろしいでしょうか(ご先祖には、父方だけではなく母方、さらにその上の父方母方がいるわけで、やはり「〇〇家」ではおかしいと思い、「私」という意味で、そのまま「それがし」とお唱えしています)。
実は、このくだりは省略してよい、と言われておりまして(檀那寺からいただいた本山のCDでは、このくだりに加え、「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏」の一節も省略されています)、私は勝手にお唱えしています。それで、お上人におたずねするわけにもいかず、ここでお伺いする次第です。
また、具体的な故人への回向は、六親眷属の諸精霊と有縁無縁の萬霊への回向を祈ったあと、「重ねて願わくば」と(勝手に)付け加えています。それで間違っていないでしょうか。

このところのshamonさんの書き込みは、本仏釈尊の絶対性を教えるもの、さらにその「応身を正面に見る」日蓮聖人の信仰の面目躍如たるものがあると思います。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
 
    (shamon) 顕本法華宗要品(赤本)と顕本法華宗義弘通所の使用している要品(財団法人・統一団→本多日生記念財団)の回向文には少々違いがあり、こちらは「○○家先祖代々六親眷属の諸精霊」となっています。

結論から言えば、某でも、いきなり先祖代々でも(私の通常のお勤め)でも、問題ないでしょう。「○○家」と読むのは、僧侶が他の家に出向いて行って、回向文を読むときに必要なものでしょうね。

「南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏」からの「安心起請」の文、とても大事ですので省略しないでくださいね。

故人の回向をする場合は、六親眷属の諸精霊の前にするのが一般的のようです。
 

開目抄 その18

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月21日(木)12時54分35秒
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  「いかんが広博の爾前・本迹・涅槃等の諸大乗経をば捨てて、ただ涌出・寿量の二品には付くべき」

法華経以前に広く説かれた多くの経典には方便が多い。また法華経を信じると言っても、一々の文言に引っ掛かっていては駄目である。そういうものは捨て去って、ただ涌出・寿量の二品には従えというのは難しいことであるかも知れない。難しいことかも知れないけれども、何としても付かねばならぬ。日蓮聖人が、ここまで言われているにも拘わらず、日蓮門下には頭の突っ込み所を間違えて、一番大事な涌出・寿量の二品には力を入れずして、神力品などを引いて随分と固い理屈を言っている八品派というものがあります。また日蓮正宗や創価学会に代表される興門派は、寿量品には文に表された文上と、そうでない秘された文底があると言い、何を言い出すのかと思えば釈尊は末法には無用の存在で日蓮が本仏だなどと馬鹿げた理屈を頑なに主張します。これは最早宗派の分裂の議論というよりは、その人の学問をする所の素養が足りないのであって、失敬ではありますが学者などではなく俗物であって、みな素人の集まりです。このように日蓮門下でさえ法華経の寿量品に徹底することを考えずして、下らぬ理屈を並べる学者が多いのですから、他の宗旨の人達に色々間違いが起こって来るのも無理がありません。

そこで日蓮聖人は、第一に法相宗、それから真言、華厳について論ぜられます。今日の法相宗は細々と存続している宗旨ですが、中国においては玄奘三蔵、慈恩大師が出て一時は非常に勢力を得て、日本でも道慈・道昭というような偉い人があって、奈良時代に南都七大寺の出来た時分には、これらの人の勢力は非常なものでした。ところが、それらの思想としては、どうしても二乗は仏にならないものである、一旦声聞なり縁覚の位に入った者は、永遠に成仏出来ないということを盛んに説きました。そして法華経や涅槃経に説いてある所の十界皆成仏道、所謂二乗作仏、女人作仏、如何なる者でも法華経の教えに依れば悉く成仏するという思想に反対をしたのです。それから華厳宗と真言宗はどういう態度に出たかと言えば、二乗作仏と久遠実成というのは良いことだけれども、何も法華経に限ったことではない、華厳経にも大日経にもそれと同じ事があると言い、その上で大日経に至っては、寿量品の本仏より更に偉い大日如来があると言って人を迷わすようになったのです。本仏の顕本は、法華経の寿量品より他に無いということは、今現に一切経を広げても頗る明白なことです。天台大師は一切経を十五遍も繰り返し読んだと言われていますが、よくよく調べても久遠実成ということは法華経に限ると言われている。天台大師に次いだ大学者の妙楽大師も、本仏の顕本は寿量品に限ると言われている。然るに華厳宗、真言宗の人が出て来て、そのような誤魔化しを言うのは何故かと、日蓮聖人は憤慨せられたのです。

法華経は信じ難い上に世も末となれば、聖人・賢人も少なくなって愚者が多くなる。世間の浅いことでも間違いが多くなるのだから、況してや深い仏法のことでは尚更である。小乗と大乗、方便と真実の関係を誤解して、相当名高い人でも恥を後世に晒している者がある。況んや今日の者は、貪瞋痴の三毒を倍増させている。現代においても、学界の通説を覆す論文を発表することが学者として有名になる早道だと考えているような節があり、また坊さんの世界でも、「実は学問の方はチョイと出来が悪かったけれども、うまいことやってこんな大きな寺の和尚になったのだから、まあ押し通してしまえ」と威張っている者がいるのですから、末法に間違った了見を起こす者は多く、正しい理解をしている者は非常に少なくなってくるわけです。それを日蓮聖人は、末法の時になれば、正法を守る者は爪上の土、仏法を誤る者は十方世界の土ほど、正しい者は小石の一つか二つあるほどで、他はガンジス川の砂の如くであると釈迦如来は予言された、今は正にその通りの有様であると慨嘆されたのです。そして、そのような事であれば在家の人よりは出家の方が余計に地獄に堕ちる、在家の女性より尼さんの方が多く悪道に堕ちるであろうと説かれています。ならば日蓮聖人の主義に立つ者が仏教を信じる以上は、絶対の本仏に達せなければなりません。仏教徒であって本仏の恩恵を忘れるに至っては、これ皆日蓮聖人がいう謗法の輩となるのです。

 

明解「法華経要義」 方便品第二 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月20日(水)06時12分59秒
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  (現代語)
諸々の仏は、唯一つの大事の目的のために、この世に現れるのである。舎利弗、仏のこの世に現れたもう唯一つの大事とは何でろうか。仏は、人々に仏の知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、この世に現われたまうのである。人々に仏の知見を示さんと欲するが故に、仏の知見を悟らしめんと欲するが故に、仏の知見への道に入らしめんと欲するが故に、この世に現れるのである。舎利弗よ、これが仏の世に出現する唯一大事の目的である。仏は舎利弗に告げました。諸仏は、ただひたすら菩薩を教化したまうのである。仏が様々に為すことは、常に一つの目的のためである。仏の知見を、人々に示し悟らしめんためである。舎利弗、如来は仏の智慧を得させようと、ただ一仏乗の教えを以て、衆生のために法を説いているのである。その他に、第二・第三とされるような教えはない。

(要文)
諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名づくる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したまうと為く。仏、舎利弗に告げたまわく、諸仏如来は、但菩薩を教化したもう。諸々の所作あるは常に一事の為なり。唯仏の知見を以て衆生に示悟したまわんとなり。舎利弗、如来は但一仏乗を以ての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三あること無し。

(要義)
この所は「一大事因縁」とされる一節です。仏は一つの大きな目的があってこの世に出られたのです。それは「開示悟入」と言って、一切衆生の有している所の仏知見、即ち仏の智慧を開き、そして示し、悟らせ、道に入らしめんがためです。その意味は少しずつ違いますが、要するに先ず仏知見を開くということが主な点となります。仏知見を開くということは、即ち人々が有している所の仏性を開発することが仏陀出現の唯一の目的だということです。それ故に、如来は色々な化導をなされたけれども、纏めればそれは但だ菩薩を教化することである、但だ菩薩を教化するというのは、すべての人々に菩薩の自覚を得せしめ、そして菩薩の行に進ませるために如来は活動されているということです。孟子の名言にも「能わざるに非ず、為さざるなり」とありますが、「汝達みな仏性があり菩薩たり得るのに何故に躊躇するぞ」と、釈尊が如何なる人間にも菩薩的向上心を促しているにも拘わらず、それを菩薩行ということを無闇に難しく解釈して、威かし文句を並べるということは大きな間違いです。「貴様のような者は何をやっても駄目だ」と自暴自棄にせしめることは、人心の教化上においても非常に悪いことです。また、「所詮、人間というものは偉そうなことを言っても立派に成れるものではない、色欲・貪欲に覆われているのが普通である」などと言っていては、自己の能力を発揮することも、社会の理想を実現することも遠きものとなってしまいます。

仏は少しの所からでも菩薩の行に入り得ることを説き、どんなに僅かな所からでも菩薩の自覚に入れよと説き、そして如何なる者にも菩薩としての教化を与えます。そして「仏の知見を以て示悟する」とは、究極すれば人々は皆、仏と同じ尊い智慧を持っているから、それを悟らせようとすることに外なりません。即ち仏教とは、活ける人々の仏性を顕動し、皆菩薩の行に入らせて信念による成仏を教える所のものであって、声聞の教え、縁覚の教え、菩薩の教えが別個にあるわけではありません。教えに様々なものを立てて、やれ小乗だ、大乗だと、それぞれの機根に応じて異なる利益を得るような乗り物を拵えているわけではないのです。如何なる者でも仏に成るという一番大きな教えに至らしめる、低き者にも高き者にも一つの大きな乗り物を与えて、それによって満足せしめることが如来の真意であると、これまでに様々に説かれた仏教をここに開顕し統一をされているのです。

 

開目抄 その17

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月13日(水)14時36分5秒
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  「法身の無始無終は説けども応身報身の顕本は説かれず」

法華経の寿量品に尊い意味が説かれたけれども、どうも悲しいことには人間の凡情は多い方へ付いて行く。何でもぞろぞろと人が行けば、それは良いものだと思って有り難がる傾向があります。そのようなことを考えれば、多勢の人間を標準にして、高い道徳や宗教などを判断する、あるいは高い政治判断を行うのは非常に危険なことです。日蓮聖人の当時、多数の意見に従えば日蓮聖人の頸は幾つ斬っても足らない程であり、釈尊が世に出られた時にも反対する者は非常に多かったのですから、何時も多数を標準として判断するならば、人間の歴史に現れたる偉人は悉く何の仕事もせずに葬られてしまったでありましょう。故に今日の社会でも、多くの者をなびき従わせようとして民意、民意と叫ぶようなことには十分に警戒しなければなりません。多数これ神聖なりということは、一部の真理であるけれども、決して絶対の真理ではないことを認識しておく必要があります。そのことを日蓮聖人は開目抄の中で度々述べられて、法華経より前の諸経について考えれば、二乗が仏に成るということは分が悪く、法華経の涌出品・寿量品の二つを除けば、お釈迦様が絶対本仏であるということも意味がよく分からないようになっている。あらゆる経典は法身常住論と言って、何か真理のようなものが永遠に存在しているとは考えるけれども、人格があって慈悲があり智慧があり、どうかして一切衆生を救おうとする温かき精神を有している仏様が、始めなく終わりなく存在して活動しておられるという味合いをハッキリとは説いていない。「応身」とは慈悲を現し、身を現して衆生を済度する仏であり、「報身」とは智慧を現し、そこに現れぬでも人格を有している仏です。人格のある如来であって、心というものがあって、そこに初めて智慧も慈悲も出て来るのです。一切皆有りの儘が真理であると言うならば、人が道を踏み外すことも、世の中で悲惨な出来事が起こることも、止めることは余計な事だということになります。真理は尊いと言っても冷ややかなものであって、そこに智慧といい、慈悲といい、即ち報身、応身という人格の如来が何時も働いている、そういう尊い仏の絶対を現さなければ宗教は成り立たない、この応身・報身の顕本こそが日蓮聖人の真精神を現すものです。ところが、こういう事は顕本法華宗しか余り言いません。真言宗あたりでは「釈迦の悟った真理そのものが仏様だ、それが大日如来様だ」と言い、日蓮門下においても上行所伝の南無妙法蓮華経だとか、直達正観の南無妙法蓮華経だとか、何とか面倒くさいことを言い、言わぬでもよい事ばかりを言って、肝心な本元である絶対の大人格者を十分に明らかにしません。宗教を信じるのに、絶対の人格者を忘れるようであっては何の価値もありません。日蓮聖人はこの一つに依って一切経の興廃が分かれる、寿量品無くば天に日月無きが如くであると命懸けで教えておられるのに、そんなことも分からない位の者が、屁理屈を並べては枝葉の所で争って来たのです。


 

明解「法華経要義」 方便品第二 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月11日(月)14時20分10秒
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  (現代語)
仏が法を説かれようとした時、その中の五千人の僧侶・尼僧・信士・信女の者達は、そそくさと立ち上がると、仏に礼をして立ち去りました。この者達は自惚れが高く、未だ得ざるを得ている、未だ悟っていないものを悟っていると過って思っているからです。世尊は、黙したまま制止することもなく、そして舎利弗に告げました。「今此処に残った人々は、枝葉に囚われることなく、純粋に信念を持つことが出来る誠実な者のみである。舎利弗、彼の如き思い上がった者達は退ち去ってもよい。汝よ、今より善く聴くがよい。当に汝のために法を説こう」と。「世尊、願わくば、是非ともお聞かせ下さい」と舎利弗が申し上げると、仏は次のように告げました。「この優れた法を、諸仏・如来が今此処に説きたまうのは、優曇鉢の花が三千年に一度咲く時の如くである。」

(要文)
此の語を説きたもう時、会中に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷、五千人等あり。即ち座より起つて仏を礼して退きぬ。所以は何ん、此の輩は罪根深重に及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと思い、未だ証せざるを証せりと思えり。此の如く失あり、是を以て住せず。世尊、黙然として制止したまわず。その時に仏、舎利弗に告げたまわく、我が今此の衆はまた枝葉なく、純ら貞実のみあり。舎利弗、是の如き増上慢の人は、退くもまた佳し(矣)。汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし。舎利弗の言さく、唯然世尊、願楽わくは聞きたてまつらんと欲す。仏、舎利弗に告げたまわく、是の如き妙法は、諸仏如来、時に乃し之を説きたまう。優曇鉢華の時に一たび現ずるが如きのみ。

(要義)
仏は、常に人々に教えを与えたいと考えているのですから、如何なる場合にも聴衆が席を立って去るというようなことは望まないはずです。しかしながら、この法華経に限っては、退席する者があっても構わない、「留めるには及ばぬ」と強く仰せられます。それは、法華経(真読)の「退くもまた佳し」の語尾に付加された、きっぱりと言い切る語気を表わす助字「矣」が、法華経八巻全部に渡って他の部分には一つもない程です。何故ならば、自惚れの高き者や誠実な信の無き者には説くことの出来ない、いよいよ大事な真実がこれから法華経に説かれるからです。「どうか説いて頂きたい」との舎利弗の再三の願いがあり、五千人が退席して所謂「滓」が居なくなっても、仏は猶この妙法を容易には説かれず、「優曇華の三千年に一度花を開くが如く、法華経を聴くことは容易に得られる事ではないから、有り難き悦びの心を以て聴かねばならぬ」との注意を与えられます。

 

開目抄 その16

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月 7日(木)08時32分31秒
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  「諸宗の学者等近くは自宗に迷い、遠くは法華経の寿量品を知らず」

「諸宗の学者等近くは自宗に迷い」と言うのは、自分の拠り所としている御経の精神さえもよく分かっていないということです。例えば大日経によって弘法大師は大日如来を崇めたと言うけれども、大日経を十分に研究してみれば、お釈迦様の向こうを張るような仏様は何処にも居ません。「大日」とは、お釈迦様の徳を誉めた言葉に過ぎません。「大日」とは毘盧遮那の中国における意訳であって、法華経の結経である「観普賢経」に「釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけ」とあるように、お釈迦様の人を救われる智慧がお日様の光のように優れている、お釈迦様は人間の心の中の暗黒を照らす光を有しているから「大日」という異名があるのであって、それを別の仏のように言い立てた所に大きな間違いがあります。また、阿弥陀経によって浄土宗や浄土真宗を立てたわけですが、その阿弥陀経なるものをよく見れば、ただ阿弥陀様の有り難いことだけが説いてあるようであっても、直ぐにこれはお釈迦様の慈悲から説かれたことが分かるように出来ています。それは、提婆達多に唆されて父である頻婆娑羅王を殺した阿闍世、その阿闍世に座敷牢に押し込められた母の韋提希夫人に慰安を与えるための、お釈迦様の一時の方便であったことが明白です。親不孝な息子は父を殺し、母である汝を座敷牢に閉じ込めてしまった。彼は王となって権力を振るっているが故に、今はどうすることも出来ないが、この牢の中で何時死んでも、汝は後悔の無いようにしなければならない、牢に閉じ込められたからとて力を落としてはならないと言うために、お釈迦様は阿弥陀仏と極楽浄土の話をされたのです。その哀れなる一婦人に与えた方便の教えを取って来て、お釈迦様の向こうを張って、兎にも角にも「ナンマイダー、ナンマイダー」と阿弥陀仏の名前を唱えて、お釈迦様の事など振り向いてもいかぬと言い出すところに間違いが起こったのです。

「遠くは法華経の寿量品をしらず」というのは、お釈迦様に対する観念が間違っていることを述べています。釈迦如来とは天竺に現れた小さな仏である、八十歳で死なれて、その後はどうなられたかは分からないというのでは、実に粗末なことです。親が死んでも、自分が死んでも、その行き先は如何にということは、宗教の永遠の課題です。凡夫である私達でさえも、死んで消えてしまうのものではない、必ずそこに「ある意味の存在」が続くということを信じて、初めて宗教に入っているのです。その根本であるお釈迦様が涅槃せられて、それっきりパッと消えてしまうようなことならば、私達のような凡夫の人生は正にそれっきりのものとなってしまいます。釈迦如来は涅槃せぬ内から涅槃を告げられた、そのことを懇切に説明されたものに、大涅槃経という四十巻の経典があります。涅槃とは死んで消えることではない。為すべき仕事が終わって、説くべき法は説き終わり、済度すべき者は悉く済度し終わって、この世に出でた用事が済んだから涅槃に入るのであって、それは丁度お日様が東の山に朝出て、日暮に西の海に入るようなものである。決してお日様が生まれたのでも無くなってしまったのでもない。東より出でて西に入るということは、お日様は東の山の向こうでも光っている、西の海の向こうでも光っている、その如くお釈迦様は永遠の光明を放って衆生を済度しているものであるということが説かれています。その釈迦如来の涅槃について、法華経寿量品の自我偈では「方便して涅槃を現ず、而も実には滅度せず、常に此に住して法を説く。我常に此に住すれども、諸の神通力を以て、転倒の衆生をして、近しと雖も而も見ざらしむ」と説かれた、「常住此説法」「我常住於此」「実在而言死」「実在而言滅」と、「常住」という言葉と「実在」という言葉とが行列しているのが自我偈です。釈迦如来は涅槃すると言っても滅びてしまうものではない、何時も此処に在って私達を導き護って下さるものだけれども、煩悩の眼を以てしては、その実在を見ることが出来ないということです。顕本すれば、釈迦如来は始めも無き以前より、終わりも無き後にも、この娑婆世界のみならず、三世十方の世界に大活動を起こす所の本仏です。その本仏が身を分けて様々な活動をなされるから、天月の万水に影を宿すが如きものであると言われているのです。如何なる仏が出て来ても、それは我が釈迦如来の働きである。宝塔品の時に十方から沢山の仏を呼び寄せて、「これらは我が身を分けて活動していたものである」と説き、涌出品の時に大勢の偉い弟子が現れて来れば、「これらは我が釈迦牟尼仏が、遠い過去より教化した弟子である」と説き、あらゆる仏も、あらゆる仏の弟子も、みな此処に現れし釈迦牟尼仏の活動に他ならない、我は本仏なりということを現したことが顕本です。その意味を弘法大師や法然・親鸞は分からずに兎にも角にも宗旨を開いた、それらの宗旨の人に大日如来とは如何なるものかと問えば、「山でも川でも何でも、森羅万象はみな大日如来だ」と言い、阿弥陀如来とはどんなものかと問えば「善いことをしなくとも、悪いことをしていても、ナンマイダーと唱えさえすれば救ってくれる仏だ」と言う。法華経寿量品を以て、お釈迦様の尊い意味を説けば「飛んだことを言いやがる」と癇癪などを起こす。もう日本の仏教は何を信じているのか分からない状態にあります。そのことを日蓮聖人は慨嘆せられたのです。


 

要品について

 投稿者:眞信  投稿日:2018年 6月 5日(火)17時14分34秒
  顕本法華宗の要品はどこで買うことができるのでしょうか?
菩提寺も無く聞く相手も居ません。
調べても見つからないもので困っています。
知っていらっしゃるようでしたら教えていただけませんか?
ちなみに、私は神奈川在住です、宜しくお願いします。
 
    (shamon) 顕本法華宗の宗務院(本山妙満寺)に申し込めば、通称「赤本」と言われる簡易な要品が購入出来ると思います。

当会(顕本法華宗義弘通所)で、会員さんにお配りしているのは「本多日生記念財団」として制作している立派なものです。
問い合わせ http://otowatid.u.cnet-ta.ne.jp/
 

明解「法華経要義」 方便品第二 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 6月 5日(火)08時05分36秒
編集済
  (現代語)
舎利弗よ、如来は未曾有の法をよく種々に分別し、巧みに諸法を説き示し、その言葉はしなやかにして人々の心を喜ばし従わせることができる。舎利弗よ、仏は限りなく量り知ることのできない最高の法を得ることを成し遂げているのだ。舎利弗よ、説くのは止めておこう。何故ならば、仏の成し遂げたところのものは、人には理解し難き最も優れたものであり、唯、仏と仏のみが究めつくすことのできる「あらゆる事物の真実の在り方」だからである。それらが如何なる属性のものであり、如何なる性質のものであり、如何なる形体のものであり、如何なる能力があり、如何なる作用をなし、如何なる原因により、如何なる条件によって、如何なる結果を導き、如何なる報いを生じさせるかであり、そしてこれら様々なるものが互いに関係して生起している、変わることのなき宇宙の普遍的真理である。

(要文)
舎利弗、如来はよく種々に分別し、巧みに諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ。舎利弗、要を取ってこれを言わば、無量無辺未曾有の法を、仏、悉く成就したまえり。止みなん、舎利弗、また説くべからず。所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂、諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。

(要義)
釈迦如来は、人の容易に説き得ない崇高な真理を分別して説き分けて、巧みに様々な事物の本質や道理を説いていきます。その言葉は軟らかにして心地よく、そして人々が平易だと思う中に無限の真理を教えていくことは、一雨が総ての草木を潤す如くであって、如来は一つの言葉を以て法を説いても、如何なる智者もこれに心服し、如何なる愚者も悦びを以て了解していくように教化をされます。その仏の成就した未曾有の法は、余りにも偉大な教えであって順序を立てて説こうとしても説き尽くせるものではありません。また、仏の悟った諸法の実相は、仏同士なれば肯き合って判ることが出来るものであって、仏以下の者に了解を与えることは非常に困難なことです。それは少しも音楽を学ばざる者に、或は絵画を学ばざる者に、その何が非常に優れているかを教えるのと同じように難しきことです。したがって、「説くべからず」と如来は躊躇せられるのですが、慈悲の心に促されて、後にその真実の詳細を説くに至る、そして今は僅かにその真実の一部を説明されます。

この方便品の十如是、「諸法の如是相乃至如是本末究竟等」は、天台大師が「一念三千」を説明された根拠となるものであって、様々に宇宙に現れている現象、それらの種々の相と性質と原因結果の関係を明らかにして行くものです。「一念三千」について一往述べるならば、一心に仏界から地獄界までの十法界を具し、十法界が互いに十法界を具するが故に百界、その百界が十如是を具して千界、それに三種の世間、業因によって生じる衆生世間、依報として衆生の住む国土世間、それらを構成する色・受・想・行・識の五陰世間を具するが故に三千世間となり、それが一念に具わっていることを言われたものです。要するに三千とは、有情に千差万別あり、住む世界の違いがあり、そこに多くの段階があり感覚の違いがあって、互いに相関して千変万化している全体、森羅万象・宇宙全体を数にしたものです。そして、それが時々に起こる所の私達の一念に具わっていることを説きます。森羅万象を心に具するということは、宇宙の全体に於いて心的一元を説くのも、個人の内に有している一念について論じるのも同じです。また、一心法界に遍するという方から考える時には、総じて宇宙を説く場合も、個人の心を説く場合も同じ関係になります。即ちこの現象の世界・宇宙全体を映し出したものが私達の今の心であり、私達の今の心を映し出しているものがこの宇宙全体であるということです。そして、宇宙全体で説いた方が分かり易いが故に、まずは宇宙全体を説き、そして個人の上に持ち来たって説明をする順序を立てるのです。

法界の万象を照らして、仏の覚りと諸法実相とは一つになっている。そこで天台大師は、宇宙実相の相互関係を観念観法して行くために、まず懺悔を為して自我を除く法華三昧の行を積み、一心に十法界を観る摩訶止観の観法を修して一念三千を悟ろうとします。ところが日蓮聖人は、十界の相互関係というような宇宙の状態を観念観法して行くということは、非常に智力を要する行であって、余程の修行を積んで行かなければならないものだと言われ、また、開目抄に「発迹顕本せざれば、真の一念三千もあらはれず」と言われるように、本門寿量品に至って本仏の実在が顕されない限りにおいては、一念三千の極意は徹底しないと論じます。私達の心は、分類すれば十界、仏の世界、菩薩・縁覚・声聞の修行者の世界、天・修羅・人、そして所謂三悪道と言われる餓鬼・畜生・地獄の世界を互具しています。しかしながら、日蓮聖人の教義に依れば、詰まる所は迷悟の二者に帰着するのですから、十界が互具する上で主なるものは、九界の迷える者ではなくて悟れる仏です。したがって、ただ機械的に自然に人々の心の中には十界がある、そしてそこに相互関係があるというのを観て行くのではなく、仏の方には迷える者を救おうとする慈悲救済の精神があり、また衆生の方には内なる仏性に眼を覚まして向上しようとし、外には本仏を渇仰するという、この衆生の渇仰と本仏の救済の結びつく所に生じる精神的関係を説きます。それ故に、日蓮聖人の教えに依る場合は信仰中心の行となるのです。「一切衆生悉有仏性」と、私達が如何に潜在的に仏性(仏となる可能性)を有していようとも、それを顕すことが出来ないのならば無きに等しいものです。本仏と衆生の精神的関係を理解する所に、それは信仰となり渇仰となって本仏に向かわんとし、本仏は慈悲を以て救済するために十分の力を与えられる、私達の功徳の力、そして本仏の力によって、自分の有している仏性は開発されるというのが日蓮聖人の教えであるのです。

本仏を認めない時には、宇宙の本源を説明するにしても迷いの方が起点になる、即ち無明縁起を以て説明しなければなりませんが、本仏を最初より認める所に於いて仏界縁起の思想があります。それは、本仏が広く宇宙に慈悲の光を放って導かれていることを、高き所に置いてこれを崇めることではありません。その絶対なる仏の精神と我とが一致してくるという所に法華経の思想はあります。法師品に「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是なり」とあるように、客観的に認めて渇仰を捧げ得た偉大な仏が、私達の主観的な慈悲心に融合してくる、即ち仏が私達の精神の中に来たって働き給う、それが非常に有り難い意味となって来るのです。最初は本仏というものを向こうに置いて拝んでいるものの、終には仏と我等とが所謂抱擁して、自分の精神の中に仏が働くのです。これを精神的に説かずして、ただ機械的、理論的に「仏とは即ち我等の慈悲心だ」とか「凡夫は即ち仏だ」としたのでは宗教としては成立たず、したがって信仰も起こらなければ道徳上も何も起こりません。それでは「頼んだものでも何でもない、生まれながらに持っているものだ」となって、有り難い意味にはなって来ないからです。仏の慈悲を渇仰して、自らも下に向かって慈悲心を現す、その慈悲が自分の心に発動している所に如来は在します。本仏の慈悲が源となって私達の慈悲心が働き、そして菩薩の行として現われるのです。私達は何時もただ凡夫という立場ではありません。一面は凡夫であるけれども、法華経の信仰に入ったならば菩薩の一分に加えられて、菩薩の行に入りし者であるとの自覚を徹底して、そして実行の力を得て行かねばなりません。



 

開目抄 その15

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 5月28日(月)10時18分24秒
編集済
  「これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」

寿量品に本仏が顕されることによって、真の一念三千が顕れる。諸法の実相と云い、一念三千と云い、妙法と云って、色々と天地宇宙を説明して、そこに偉大なる絶対の真理、実相があると言っても、そこに本仏が顕されることがなければ、真実の意味合いは成り立たない。本仏が無始より存在せられていること、即ち本仏の実在が認められない限りは、真の実相は了解されるものではない、即ち真の一念三千は、本仏の顕本によって定まるということを、日蓮聖人は説かれています。そのことを理解するならば、この本仏より上に存するものは一つもありません。諸仏も皆、本仏の垂迹であり枝葉であり、場合によれば仏の上に立ちそうに思われる法もまた、本仏が顕れなければ破壊されてしまうものです。本因本果とは、本仏釈尊の因行と果徳であって、寿量品の「我れ本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶いまだ尽きず、復上の数に倍せり」の修行を本因とし、「我れ実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由陀劫なり」を本果とします。そして日蓮聖人は観心本尊抄に、この本果の文をもって「我等が己心の釈尊、五百塵点、乃至、所顕の三身にして無始の古仏なり」と述べ、本因の文をもって「我等が己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は、己心の釈尊の眷属なり」と述べられたのです。ところが多くの者が実相とか真如とかの言葉に引っ掛かって、面倒なことをゴタゴタと言い出し、仏の上に法があると言い、迷える衆生の有している仏性を、本覚の如来などと称して仏よりも高しなどと言うようになったのです。それは大理想を以て法界全体を導いている絶対的人格者が客観的に実在すると観ることが出来ない、その大理想を抱く絶対的な人格者が私達一人一人の心に宿しているということを理解することが出来ないことによります。

「この寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給う」

そういうような事は仏教の権大乗や迹門の思想であって、法身の無始無終、法身常住などというのは諸経の常談であると日蓮聖人は言われた、即ちこの法華経寿量品に釈迦牟尼仏の名において光顕されたる所の絶対の仏は、あらゆる仏の上に立つのみならず、法と一致したる所のものであって、法仏不二の本仏であるということです。その意味が現れたならば、華厳経に説く毘盧遮那という大きな仏、阿含経に現れた小さな釈迦仏、方等経、般若経、金光明経、阿弥陀経、大日経等に現れている沢山の仏様は、いずれも本仏の影であり、本仏の身を分けたる所の迹仏である、天月の水に映るが如きである。阿弥陀様が偉い、大日如来が偉いと言っても、この寿量品の本仏が現れた時には、水中の月を見るが如きものであるということを命懸けで教えたのが日蓮聖人です。そうであるのに、日蓮門下でありながら鬼子母神だ、帝釈様だと、池の中の月どころか芋の葉に映った月を拝むような信仰に落ち込んで行くようでは、とても日蓮聖人の主義を了解することは出来ません。何もそれを捨てろと言うのではないですが、根本の思想を了解することなくして、ただ題目を信じると言って、盲滅法にドンドコと法華の太鼓を叩いているようならば、それはとても日蓮聖人の主義に立つ態度とは言えません。法華の信者でありながら教えを聴くのが嫌いだというのならば、その態度は最早神聖なる日蓮聖人の主義に奉ずる人ではないと考えて良いでしょう。

 

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