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観心本尊抄 その15

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 2月21日(木)09時50分52秒
編集済
  「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」

日蓮聖人は、更に信仰の意義をまとめて言われています。この本尊は一概に智慧を斥ける訳ではありませんが、智慧観念を凝らせば最高の悟りが得られるというものでもありません。絶対の真理というのは、どうしても我々の智慧を超過した玄妙なものとなる、その言い難し玄々微妙の境界を自分の智識をもって修めようとすれば、必ず失敗します。時間というものが、幾ら移り変わっても、幾ら経過しても永遠にその終わりを見ないように、仰げばそこに益々高きものがあって、永遠に渇仰を捧げていかなければならないものが絶対の真理です。智慧によって真理を究めようとした西洋の哲学者は、すっかり昇り詰めたと思う時には他の批判に晒されて直ぐに失脚し、遂には真理の探求などということは投げ出してしまいました。それに対して広大な哲学者たる釈迦牟尼世尊が、智慧に誇らずして更に偉大なる信仰に進み入ったのが仏教です。それ故に、少なくとも私達仏教徒は、哲学的思想を研究すれば直ぐに失脚する、信仰を説けば哲学とは離れていくような西洋における哲学・宗教は、総掛かりになっても釈迦牟尼世尊の覚りには及ばない、そう信じることにおいて初めて仏教徒であると言えます。

そこで日蓮聖人は言われます。一念三千の事は理解に及ばぬでも、偉大なる本仏を信じなければならない。その本仏によって与えられた妙法の五字は、文字としては僅かであるけれども、絶対の釈尊が智慧を絞り、慈悲を絞って、私達のために留め置き下さったものである。この五字の中には一念三千の真理の珠も、釈尊が積んでおられる功徳の珠も、私達の迷いを去らしめる力も、皆悉く包み込まれているのである。そして、この妙法五字の袋と珠を、幼き私達の頸に懸けるために、日蓮聖人が出でて度重なる迫害をも忍び下さったのです。「懸けさしめる」とは、本仏釈尊が上行菩薩、即ち日蓮聖人に命じたということ、本仏釈尊に命ぜられて上行再身の日蓮聖人は働かれたということです。「五字の内にこの珠を裹(つつ)み」とは、結要付嘱と言って、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事を、本仏釈尊自らが妙法蓮華経の五字の中に包められたということです。そして「末代幼稚の頸」とは、難しいことは理解できなくとも真心から信仰する人のことです。「一念三千」とは、実相真如からいえば宇宙絶対の真理には違いありませんが、妙法蓮華経の五字には、ただ冷たい真理ばかりが入っているのではありません。この「一念三千の珠」とは、「一念三千の仏種」のことであり、そこに釈迦如来の無限の智慧と無限の慈悲、無限の力、そして永年積まれた功徳が込められていることが大事です。「何だが分からぬが、南無妙法蓮華経とは真理じゃ」などと威張ったところで、信仰としては何の意味もなしません。真理とは冷たいもので、石に蹴つまずけば転ぶ、悪行をなせば報いを受けるというのが真理です。人のことは知ったことじゃないと、どうか善いことをなし悪い事をせぬようにと考えないのであれば、それは温かき宗教とはなり得ません。故に日蓮聖人は観心本尊抄の結文を仏の大慈悲に結ばれて、そして四菩薩がこの末代幼稚の法華行者を守るということを述べておられるのです。斯くして観心本尊抄は完結しますが、この中に現れている所の様々な尊い教義は、幾度も繰り返して読んで、そして味わって下さることを希望致します。(完)


 

本多日生上人報恩法要

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 2月21日(木)09時10分54秒
編集済
  平成31年3月16日(土) 品川「天妙国寺」 京浜急行「青物横丁」徒歩5分 駐車場あり

参加費:無料 準備の都合上 出席の申し込みが必要です。
受付 :正午より 私も12:30までには入っています。
法要 :13時~
懇談 :14時~15時30分程度まで(茶菓、自由参加)

その後、場所を移して「法華行者の会」茶話会を少々予定してます。

 

明解「法華経要義」 法師品第十 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 2月19日(火)06時59分1秒
編集済
  (現代語)
当に知るべきである。このような人は、生まれようとする所に自在であって、敢えてこの悪しき世に於いて、広く無上の教えを説くのである。

(要文)
当に知るべし是の如き人は 生ぜんと欲する所に自在なれば、能く此の悪世に於て広く無上の法を説くなり。

(要義)
法華経を修行するような人は尋常な人間ではない、その中には覚れる者が降って人間と成って、そして法華経を宣伝している者が多いということが説かれています。法華経を弘めるような人は、実は既に大いなる功徳があり、生まれようと思う所に自由に生まれられる果報を有しているのです。しかしながら、衆生を憐れむが故に、清浄の国土を捨てて仏に成るのを見合わせ、そして悪世に於いて迫害を受けても法華経を弘めているわけです。このように法華経の行者は真に尊い者である、したがって仏に対するが如くに供養を為すべしということが説かれています。

(現代語)
薬王よ、今、汝に明らかに告げよう。私が説いた様々なる経典の中で、法華経は最も優れた第一の教えである。

(要文)
薬王、今汝に告ぐ。我が所説の諸経、而も此の経の中に於て法華最も第一なり。

(要義)
ここでは、法華経そのものを誉め称えられ、その法の貴きことが説かれています。天台大師が「法妙なるが故に人貴し」ということを「法華文句」に述べられていますが、法華行者が尊いのも法華経が優れているからです。釈迦牟尼仏は薬王菩薩に告げて、私が説いた経は沢山あるけれども、その一切経の中に於いて法華経は最も第一の貴い経であるということを明瞭に宣言されます。已今当の三説超過と言って、法華経は、已に説き今説き当に説かんとする経、即ち法華経以前に説かれた経、法華経と同時に説かれる経、法華経以降に説かんとする所の全ての経の中に於いて第一であると、仏御自身が説かれているのです。

 

観心本尊抄 その14

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 2月14日(木)09時34分40秒
  「この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となりて、一閻浮提第一の本尊、この国に立つべし」

今末法に至ったならば、本化上行等の菩薩が出現し、本門の釈尊の脇士となって、全世界第一の本尊がこの日本に現れる時である。本化の菩薩が本門の釈尊の脇士となるというのは、横綱が土俵入りする際の脇立ちと同じで、本仏釈尊の威徳を顕すためです。ところが、本尊の説明において「釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり」と日蓮聖人が述べられているにも拘わらず、この文を「地涌千界出現して本門の釈尊を脇士となす一閻浮提第一の本尊この国に立つ可し」と曲解して読ませ、お釈迦様を見下して上行菩薩の方が偉いなどと教義を立てる、あるいは釈尊を脇士とする南無妙法蓮華経如来が本尊だと主張する愚かな輩が日蓮門下には存在します。聖徳太子は四天王寺をお建てになったけれども、阿弥陀仏を本尊となさった。聖武天皇は東大寺をお建てになったけれども、華厳経の毘盧遮那仏を本尊とされた。そして伝教大師が出られて法華経の真実義が大分顕われたが、未だ時が至らぬが故に東方の薬師如来を本尊とされた。このように比較して日蓮聖人が力を入れて言われているのは、即ち本門の寿量品において顕本された絶対の釈尊を指してのことであるのは明白です。その本門の本仏を顕すためには、どうしても本化上行等の菩薩の出現を待たなければならない。もしこの本化の菩薩が仏に約束して置きながら出現しないということがあれば、大嘘つきの菩薩となってしまいます。ならば如何なる事があろうとも、神力品の時に付嘱を受けて「承知しました」と釈尊に約束したのであれば、どのような迫害困難が襲い来たろうとも、この使命は果たさなければならない。そのことを日蓮聖人は自ら任じて論じておられるわけです。

「天晴れぬれば、地明らかなり。法華を識る者は、世法を得べきか」

天台大師は、「雨の猛(たけ)きを見て竜の大なる知り、花の盛んなるを見て池の深きことを知る」と言われた。激しい雨が降れば龍の大きいことが分かる、また蓮の花が一杯に咲いていれば、池は深くして泥が肥えていることが知れるようなものである。そして妙楽大師は「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」と、賢い人は物の根源を知る、蛇の道は蛇というように、事の起こりの原因は何処にあるのかを突き止め、これから何が起こるのかを知ることが出来ると述べている。そして日蓮聖人は、今この日本の国に起きている色々な天変地妖、飢餓疫病は何のためであるかを知る者は他にあるまいということを言われたのです。外には蒙古が我が国を襲わんとし、内には人心が乱れている。天変起こり飢餓起こり、疫病が流行って如何にも嘆かわしいことではある。しかしながら、この禍は意味なくして起こっているのではない。そして、この禍の起こりを知っている者は、法華の行者たる日蓮より他にはないということを言われたのです。然らばその災難の起こりは何であるかと言えば、前にも述べた通り、正しい思想に導く法華行者の出現と、この正義を守る国家の威力、所謂正法と国家の結合が出来ていないためです。そこで驚きを与えて「これでもか、これでもか」と言う警告を与えて、そして立正安国を実現させるために、この如き災難が頻発しているのだと明言されたのです。神秘的な説明のようではありますが、信仰者ならばそこに深い意味を感じなければなりません。悪政なれば災異が起こる、これは必ずしも神秘的に説かなくとも、理論的に説いても、国家が邪法と結びついていたならば何時かは大変なことになります。それを力説することが、即ち「天晴れぬれば、地明らかなり。法華を識る者は、世法を得べきか」ということであり、国家が正法と結びついて善政を行えば、必ず世界の安定と繁栄が成し遂げられると信じることなのです。


 

明解「法華経要義」 法師品第十 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 2月12日(火)07時46分27秒
編集済
  (現代語)
もし、この善男子・善女人が私の入滅後に、密かに一人のためにも法華経の一句なりとも説くとするならば、当に知らねばならない。この人は則ち如来の使いであり、如来に遣わされて、如来のなすべき事を行う者である。まして、大勢の人の中において、広く人々のために法華経を説く者については言うまでもない。

(要文)
若し是の善男子・善女人、我が滅度の後に、能く窃かに一人の為にも、法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使いなり、如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや、大衆の中に於て、広く人の為に説かんをや。

(要義)
一人のために法華経の僅か一句を説くことも如来の仕事を手伝うことである、況や広く人々に説くことは如何にも尊いことであると、その功徳が述べられています。僧侶に限らずして在家の善男子・善女人が、我が釈迦牟尼仏の滅後に於いて、僅かに一人のために法華経の一句を説き聞かしても、その人は如来の使いとなるのです。如来に遣わされて如来の事を行ずるということは、仏教徒として非常に光栄なることであって、これ程に有り難い言葉はありません。普段は誤れる仕事を多くする凡夫であっても、法華経を説く場合には一転して如来の仕事を担う、最高の浄き仕事をする者となる訳です。況や、広く大衆の中に於いて説く場合は、言葉を以て誉めることも出来ない程に結構なことであると、法華経を広く宣伝することが鼓舞され奨励されています。

(現代語)
法華経を読誦する者あらば、当に知るべきである。この人は、仏の厳かな美しさを以て自らを飾る者である。即ち、この人は如来の肩に担われることを得る者である。この人が至らんとする、その方角には必ず向かって礼拝をすべきである。

(要文)
其れ法華経を読誦すること有らん者は、当に知るべし。是の人は、仏の荘厳を以て自らを荘厳するなり。則ち如来の肩に荷担せらるることを為ん。其の所至の方には随って向かい礼すべし。

(要義)
法華経を読誦する者は、その身は凡夫でありながら、仏の広大なる功徳の荘厳を自らの身に飾る者であることが述べられます。しかしながら、聖人の服を着ても、聖人の事を行わなければ聖人なりとは言われないのと同じように、法華経を読誦するのみならず、その上に法華経の行者となる者が、真の仏の荘厳を以て自らを荘厳する人となるのは言うまでもありません。日蓮聖人も「八巻一巻一品一偈の人、乃至題目を唱ふる人、如来の使ひなり。始中終すてずして大難をとをす人、如来の使ひなり。」と言われている通りです。その法華の行者を如来は肩に担って大切にして下さる、法華の行者であれば仏様が自ら担って下さるという、誠に恐れ入る程の光栄な言葉が与えられています。法華の行者となる者は、危うき時には私が必ず助けてやる、何も心配することはない、さぁ威厳を保って奮闘して来いと励まして下さっているわけです。それもやはり法華経を持ち、かつ宣伝せしめようとする如来の思し召しから出たことです。それ故に釈尊は菩薩達に、法華行者の後ろ姿を拝むのは宜しい、法華行者が何れに行くにしても、その行く方に向かって後ろ姿を拝むのは宜しいことだと仰っているのです。



 

観心本尊抄 その13

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 2月 7日(木)13時07分1秒
編集済
  「この四菩薩、折伏を現ずる時は、賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は、僧と成って正法を弘持す」

法華経は一切経の王様です。日蓮聖人は理想を高くして、そして一切の宗教を率いて立つ先覚者となられた方です。ただ信者を増やせば良いというような事を主張した方ではありません。正法を信じる者は爪の上の土ほどでも宜しい、正法を説く行者は一人でも構わない、しかしながら遂にこの正義は最後の勝利を占めて、そして一天四海悉く妙法に帰するのだということを宣言した人です。教えを曲げても信者を増やせばよいというような堕落した精神は、日蓮聖人の主義においては最も禁物です。一生涯正法の宣伝に従事して、一人の信者をも持ち得なくても、それは時不運の致す所で仕方がありません。信者が出来ないから法を曲げるというくらいならば、教えを弘めることは止めなければなりません。宗教というものは多数を味方にすることを目的としているものではありません。正しき法を宣伝して、一人と雖もこの正法の下に来れば宜しいという絶対の権威を保って、初めて宗教には値打ちがあるのです。本化の菩薩の現れ方には二通りがあります。折伏を現じる時には、賢き王となって愚かな王を攻めるとあるように、これは涅槃経にも説かれていることですが、仏教は正義を守るためには武力を使用することを認めています。平和主義を称して武力を否定する人がいますが、泥棒が入って来て直ぐに頸斬られるとか、敵国が侵略してくれば直ぐに滅ぼされるとか、如何に正義を訴えても直ちに打ち砕かれてしまうということでは何の価値もありません。日蓮聖人があの龍の口に坐らされた時、ピョンと頸が飛んで、穴を掘って放り込んで、それでお仕舞いであったら話になりません。日蓮聖人の正義の精神が天地を感動せしめて、江の島の方より月のごとく光りたる物が飛来して、兵士が怖じ気づくということが起こらなかったら何の意味もなしません。米国が如何に人道正義を標榜しても、テロ組織や国家が人々を迫害、殺害をしているのを放置して、地域の安定と秩序の回復のために軍隊を送らなかったならば、米国には何の値打ちもありません。そこを日蓮聖人は言われているのです。世が険悪であるならば、折伏のために正義の武力を持った王として現れ、間違った王を倒すのも本化の菩薩です。そして僧として現れた時には、摂受をもって愚かな王を導き、如何なる迫害も堪え忍んで法華経を宣伝するのが本化の菩薩なのです。涅槃経に説かれた有徳王と覚徳比丘の関係の如く、一方は正義を守る王、そして一方は正義を弘める沙門、この二つが結合するならば、実に鬼に金棒というべきものですが、時不運にして正義の沙門ありと雖も正義の威力を伴う王がない、ここが日蓮聖人の慨嘆した点です。そして天変地妖の起こるのも、国家に困難の起こるのも、この正義の沙門と正義の威力の結合が出来ないためであるということを説かれるのです。


 

明解「法華経要義」 法師品第十 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 2月 5日(火)15時18分1秒
編集済
  (現代語)
妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、そして一念にも心に歓喜を生じる者には、私は皆記別を授けよう。「まさに阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう」と。

(要文)
妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜する者には、我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。

(要義)
法師品は法華経を後の世に弘める者についての心得を説かれたものですが、その法師とは僧侶には限りません。在家の人であっても法華経を弘める人は皆法師であり、殊に女人も加えて「善男子、善女人」と説かれているように、法華経は在家と出家との区別をそう激しく立てないのが特色です。この思想は日蓮聖人の活動の上にもよく現れており、聖人当時の在家の信者が男女何れも法華経の宣伝に尽力を為したことが明らかに伝えられています。この所は法華経の功徳が説かれていますが、「一念随喜」と言って、僅かにその一偈一句を聞いて「嗚呼、そうであったか。何と有り難いことだ」と喜びを得て、その教えに心を委せて行く者ならば、仏と成る記別は与えられる、遂には菩提を成就し得ることが示されています。法華経は決して難行ではありません。一念随喜の成仏といえば、それ以上の易行は無いのです。釈迦牟尼仏は、法華経の僅かに一偈一句を聞いて一念随喜する者ならば菩提を保証される、殊に日蓮聖人の信行成仏の教えに於いては、この一段が大事な所となっています。

(現代語)
仏の如くに此の経巻を敬い視て、そして合掌して謹み敬うならば・・・

(要文)
此の経巻に於いて敬い視ること仏の如くして、乃至合掌恭敬せん。

(要義)
仏を敬うことは無論のことですが、法を敬う方法については未だ明らかではありません。そこで、仏を敬う気分を以て法華経を敬うべきことが説かれています。この経文から見ても、先ず敬うべきは仏であることは至極明らかなことです。それにも拘わらず、誤れる法華の徒に於いて、釈迦も法華経によって仏となった、故に法華経は敬うが仏は敬わないというような語弊を生じたことは甚だ遺憾なことであって、それは実に明らかなる誤解に基づいたものと言えます。例証するということは説明を用いずして承認せられるということが特色ですから、「仏の如くして」と例に引かれた点において、仏教徒が第一に仏を敬うことは最早説明を要しないことと考えなければなりません。



 

観心本尊抄 その12

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月31日(木)08時03分0秒
  「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し、出現して、迹門を以て面となし、本門を以て裏となして、百界千如・一念三千その義を尽くせり。ただ理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字、並に本門の本尊いまだ広くこれを行ぜず」

像法の時代に、観世音菩薩の生まれ変わりと言われた南岳大師、そして薬王菩薩の生まれ変わりと言われた天台大師が世に出られて法華経を弘められましたが、それは迹門を以て面(おもて)となし、本門を以て裏となすものでした。同じ法華経と言っても、歴史上の釈尊が始めて正覚を得て、即ち迹仏として説く法華経前半の迹門と、釈尊が本仏であることを顕して説く法華経後半の本門があります。天台大師は迹門を以て面として法華経を弘めたというのは、日蓮聖人は本門を面として法華経を弘めるということに他なりません。迹門を面にするということは、宇宙の実相真如から論じて行くということです。そして本門を面にするということであらば、どうしても本仏顕本の教義、人格実在の教義を面にして法華経を見なければなりません。そして「一念三千その義を尽くせりと雖も、ただ理具を論ず」と言われて、天台大師は実相論の方においては哲学的に深い事を論じられけれども、信仰として南無妙法蓮華経と唱え、そして本門の本尊に依って信行成仏するという意味は未だ現わしていないことを日蓮聖人は述べたのです。その本門の本尊を観心するために日蓮聖人は曼荼羅を描かれたわけですが、その本門の本尊とは仏法僧の三宝式となっています。即ち、本仏として久遠実成の釈迦牟尼仏、本法としての妙法蓮華経(五字)、本僧としての上行等の本化菩薩です。この仏法僧の三宝に帰依するということを表しているのが本尊なのです。日蓮聖人は、ただ題目を唱えよと言ったのではありません。この本仏を光顕し、そして妙法の五字を弘められたのです。浄土宗が称名念仏を教えたからと言っても、ただ南無阿弥陀仏と唱えているわけではありません。そこに慈悲誓願の力にとって一切衆生を救うという阿弥陀如来という人格を意識して、そして南無阿弥陀仏と唱えているのです。法然上人は念仏を唱えたが、日蓮聖人は題目を唱えたのだ、向こうは南無阿弥陀仏、こっちは南無妙法蓮華経、その他には何もない、ただ南無妙法蓮華経の字を拝んで、訳が分からぬとも題目さえ唱えれば良いのだと言うのであれば、それは極めて低級な思想となります。宗教の資格は、本尊の完全なる意義を説明することによって定まります。そして宗教の信仰を告白し、かつ自己が実在人格と結びつく方法として唱え言葉があるのです。それ故に私達は南無妙法蓮華経と本仏釈尊に唱えている、題目を唱える向こうに感応を垂れる仏様が無いということになれば、それは意味の無いものになってしまいます。日蓮聖人が「我弟子、これを惟え。地涌千界は、教主釈尊の初発心の弟子なり」と言われたのも、私達が本化菩薩の自覚に至ることを促すためである、そのことをよく噛みしめなければなりません。


 

明解「法華経要義」 授学無学人記品第九

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月29日(火)06時53分11秒
  (現代語)
今、私の前に集う二千の声聞達よ、汝等皆に悉く記別を授けよう。汝等は未来に必ず仏と成るであろう。

世尊は智慧の燈明であります。仏より成仏の予言を聞くことを得て、私達の心に歓喜が満ちること、それは甘露を身に灌がれるようなものでございます。

(要文)
是の二千の声聞、今我が前に於て住せる、悉く皆記を与え授く。未来に当に成仏すべし。

世尊は慧の燈明なり。我授記の音を聞きたてまつりて、心に歓喜充満せること、甘露を以て灌がるるが如し。

(要義)
小乗仏教の修行者の階位は四向四果と言って八通りに分かれ、その始めの七階級を学人、最後の阿羅漢を無学人としています。即ち阿羅漢とは、小乗仏教において修行を完成し、最早それ以上に学ぶ所が無い聖者のことです。その阿羅漢のみならず、釈尊はここに集いし二千の学・無学の声聞に悉く成仏の予言を与えます。そこで弟子達は感謝して「世尊は慧の燈明なり」と、私達は愚かな者であったけれども釈尊は智慧の光を与えて下さった、そして真実の悟りに向かうことが出来た、殊に法華経の方便を開いて真実の教えを顕わす教えによって、自らの身について本当によく領解することが出来た、その上に仏となる記別を授けて下さった、私達の心に歓喜の充ちることは、実に甘露を以て濯がれる如くであると述べています。非常に暑くて困っている時に、甘露を頭から全身に濯がれたように、一切の心の煩いも疑いも何も無くなって、実に一点の曇りも無い清い精神になったことを、弟子達は大満足を表して御礼を申し上げているのです。これで、上中下の三根に対する所の法説・譬説・因縁説の三周説法は終わりを告げます。迹門の開権顕実に関する大教義は、方便品より授学無学人記品に至る八品の正宗段で説かれました。そして次の法師品より五品は迹門流通の段となります。


 

観心本尊抄 その11

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月24日(木)17時58分34秒
編集済
  「今の遣使還告は地涌なり。是好良薬とは、寿量品の肝要たる名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経これなり」

この良薬を飲ませるために、経文に「使いを遣わして還って告ぐ」とあるのは、地涌の菩薩を指してのことです。寿量品の譬えは、毒薬を飲んで苦しんでいる子供達があり、その父が良き医者であって、良き薬を拵えてこれを飲まそうとしますが、子供達は毒のために心を失って飲もうとしません。そこで如何なる方法手段によって薬を飲まそうかということで、父は他国に身を隠して使いをよこし、「お前のお父さんは亡くなった。うかうかしていては誰も救ってはくれないぞ」という驚きを与えて薬を飲ませます。そして、子供達がその薬を飲んで毒の病が癒やされたことを聞くと、父は直ちに帰って再び子供達に見(まみ)えたのです。毒薬に中てられた子供というのは、色々な迷いのために心が転倒している私達衆生のことであり、毒薬とは私達の精神を惑わすところの自己の煩悩や、社会からの誘惑、誤った教えや偏った主義主張のことです。そして、その私達を迷いから救わんと智慧と慈悲をもって活動されているのが父であるお釈迦様です。その釈迦牟尼仏が大導師として良き薬を調合されて、それが四万八千の教えと言われる一切経となり、それを擣(つ)き篩(ふる )い和合して法華経とし、更に一丸の良薬としたものが本門寿量品の南無妙法蓮華経です。是の好き良薬とは、寿量品の肝要たる名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経であり、良き医者とは言うまでもなく本仏釈尊です。そして毒に中てられた子供達とは一切衆生であり、その良薬を飲ますべく遣わされたのが本化上行菩薩の再身日蓮聖人です。

如来神力品において釈尊が「要を以てこれを言わば、如来の一切所有の法、如来の一切自在の神力、如来の一切秘要の蔵、如来の一切甚深の事、皆この経において宣示し顕説す」と言われているように、妙法蓮華経の五字とは単なる題名ではありません。その五字の中に一切の大事なものが含まれている、妙法蓮華経という言葉は袋であって、その袋の中に広大なる仏の神力、仏の功徳がみな入っているのです。名・体・宗・用・教とは、天台大師が「法華玄義」で妙法蓮華経の題目を五重に解説したもので、これは如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事が、皆この妙法蓮華経の五字に込められていることを説いたものです。結要付嘱と言って、釈迦如来の有している一切の大事なものを妙法蓮華経の五字に込められて、そして上行等の菩薩に付嘱したのです。更に伝教大師は「果分の」ということを言われて、それはお釈迦様の覚りの上の大切なものであると説明されています。法華経を信じる人のために、釈迦牟尼仏が一世一代の智慧を絞り、慈悲を絞って、そして末法の衆生のために大切な教えを留め置き下さったのです。ならば私達が手を合わせて南無妙法蓮華経と唱える時には、父である釈迦牟尼仏に深き感謝の念を起こすことは当然のことです。そして南無妙法蓮華経と唱える所には、寿量品を説かれた霊山虚空会の説法の儀式が現れて来るようにしなければなりません。そうすれば、天台大師が「これ我が弟子なり。我が法を弘むべし」と言われたように、妙楽大師が「子 父の法を弘む」と言われたように、私達もまた本仏の子となれる、本仏釈尊の久遠の弟子、本化菩薩の自覚を得ることが出来るのです。


 

明解「法華経要義」 五百弟子受記品第八 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月22日(火)12時02分55秒
編集済
  (現代語)
世尊、譬えれば親友の家を尋ねて、酒に酔って寝てしまった者があるとします。この時、公用で出掛けなければならなかった親友は、彼を起こさずに非常に高価な宝珠をその男の衣の裏に結び付けて家を出ました。しかしながら、男は酔い潰れて何も知らず、目を醒ますと彼方此方を巡って他国に至ります。衣食のために仕事を探し求めますが甚だ困窮し、少しでも得るところあればそれで満足するという有様でした。その後、偶々出会った親友は、彼を見てこう嘆きました。「何と拙いことか、ただ衣食を得るためにこのような有様になるとは。私は昔の何年何月に、君が安楽に、そして五欲の恣に暮らせるようにと、値も付けられない程の高価な宝珠を君の衣の裏に結び付けておいたのだ。今もそこに在るではないか。それを知らずに、苦しみ憂い悩んで、その日暮らしに甘んじるとは、何と君は愚かであろうか。君は今、その宝を持って行って金や物に換えるがよい。そして常に思うように暮らして、乏しく生きることのないようにせよ」と。

私達もまた、当にその通りであります。世尊は煩悩に迷って生死の境界に彷徨っている私達を常に憐れんで教化され、この上なき誓願を私達に植え付けておられたのです。

(要文)
世尊、譬えば人あり、親友の家に至って酒に酔うて臥せり。是の時に親友官事の当に行くべきあって、無価の宝珠を以て其の衣の裏に繋け之を与えて去りぬ。其の人酔い臥して、都て覚知せず。起き已って遊行し他国に到りぬ。衣食の為の故に勤力求索すること甚だ大いに艱難なり。若し少し得る所在れば便ち以て足りぬと為す。後に親友会い遇うて之を見て、是の言を作さく、咄哉、丈夫、何ぞ衣食の為に乃ち是の如くなるに至る。我昔汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣ならしめんと欲して、某の年日月に於て無価の宝珠を以て汝が衣の裏に繋けぬ。今故お現にあり。而るを汝知らずして、勤苦・憂悩して以て自活を求めること、甚だこれ痴なり。汝今此の宝を以て所須に貿易すべし。常に意の如く乏短なる所なかるべしといわんが如し。

我等もまた是の如し。世尊は長夜に於て、常に愍んで教化せられ、無上の願を種えしめたまえり。

(要義)
五百人の阿羅漢が、その領解を述べた「衣裏繋珠の喩」です。親友の家を尋ねた男は酒に酔って寝てしまいますが、その親友は公務で余所に出掛けなければなりません。そこで、男を不憫に思った親友は、彼の衣の裏に貴い珠を繋けて出掛けたのです。ところが男は酒に酔って寝込んでいるから何も知らない、目が覚めた所が友人も居なくなっており、これは困ったということで流浪して他国へと到ります。衣食のために仕事を求めるも甚だ困窮し、乞食のように生きては何とかその日暮らしをしていました。後にこの男に偶然出会った親友は、その有様に驚いて言いました。私はお前に安楽を得せしめよう、美味い物が食いたいと思えば食べられるように、綺麗な服が着たいと思えば着られるように、世間的なことはすべて満たされるようにと、何年何月に非常に貴い珠を着物の裏に結びつけておいたのだ。それは今もなお在るはずだから、よく探して見ろ。そこで男が袂を探って見た所が、そこに立派な珠が在った。それではその珠を銭に替えて欲しい物を求めたら良かろうということで、一時に男は富める者となって幸福を得たのです。

この譬えにおける親友とは釈尊のことであり、酔って彷徨える人とは、前の化城喩品の譬喩にもあった如く、釈迦牟尼仏によって既に法華経を与えられていたことを知らず覚らずに、今なお迷いを繰り返して流転する衆生のことです。したがって私達衆生は、本来の仏性がある上に、新たに仏から善き教えが与えられていたという、その自覚に帰らなければなりません。また、一旦善き教えを与えられても途中で退転し、貴い珠を持ちながらも乞食のようになっていることもあります。今の日本も確かにそうで、聖徳太子や伝教大師、そして日蓮聖人が出て、このような結構な教えがあるということを説いたにも拘わらず、分けの分からぬ宗教が出て来て流行り、そのような浅薄な教えに人々が行くというのは、実に貴い珠を繋けながら乞食のように生きる酔人と同じです。私達は善き教えを受けて、その教えをそのままに使いさえすれば立派な者になるのに、その教えを忘れて詰まらぬ方へ行くなどというのは、この酔人の珠に気付かない愚かさと同じことであるのです。弟子達は「我等もまた是の如し」と、釈迦牟尼世尊は常に我等を憐れんで教化を垂れて下さり、私達も一旦は発心して無上菩提の願を起してやりますという所まで導かれたのに、そのことを打ち忘れて今日に至っていることを慚愧します。そして今日また一時発心しては再び忘れてしまうような、そのような過ちを私達は二度と繰り返すべきではないということを述べているのです。

 

観心本尊抄 その10

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月17日(木)07時19分3秒
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  「本門を以てこれを論ずれば、一向に末法の初を以て正機となす」

次に日蓮聖人は、この法華経が何れの時何れの人のために説かれたものであるかを論じていきます。「在世の本門と末法の初は、一同に純円なり。ただし彼は脱、これは種なり。彼は一品二半、これはただ題目の五字なり」とあるから、釈尊の在世に説かれた一品二半は解脱のためであって末法の衆生には必要ない、末法は下種のために日蓮聖人の題目さえあればよいと主張する人達が居ますが、それは大きな間違いです。これは、仏の在世に説かれた本門と末法の初めの本門は、共に完全なる教えである。ただし、在世の機根の者は一品二半によって解脱を得、末法初めの機根の者は題目の五字をもって下種を受けると言われたものです。これまで述べてきたように、題目の五字とは寿量品の肝心であり、南無妙法蓮華経とは即ち寿量品への信念であることは疑いありません。一通り考えれば、約二千五百年前に釈迦牟尼仏が印度の人に向かって説かれたように思えますが、深く立ち入って法華経の目的を考えれば、今日生まれている私達のために釈迦牟尼仏が説き給うた経典であると日蓮聖人は解釈したのです。そして、それを法華経の迹門と本門との二段に割って説明をされます。法華経の迹門十四品中の正宗分、方便品第二より学無学人記品第九に至るまでの八品は、一通り考えると当時の二乗の人、即ち声聞・縁覚の人を第一の目的とし、加えて菩薩と凡夫を救うために説かれているようですが、立ち入って考えてみれば、やはり迹門も釈尊が入滅以後の凡夫を救う目的で説かれたことが分かると言われています。その証拠は法師品第十に「この経は、如来の現在すらなお怨嫉多し。いわんや滅度の後をや」と言われ、そして見宝塔品第十一では「法をして久住せしむ」ために、多宝如来ならびに十方分身の諸仏が集められたことが説かれているからです。即ち迹門もまた末法のため、現在の人のために説かれたものであるわけです。

そして更に本門は、正しく今日の私達のために説かれたものであることが、在り在りと分かると言われています。一通り見れば、久遠の過去に下種された者が、法華経以前の諸経典と法華経の迹門によって調熟され、法華経の本門に至って解脱を得たようですが、涌出品において迹化・他方の大菩薩が「我れ身命を愛せず、ただ無上道を惜しむ」と仏の滅度に法華経を弘めることを誓うと、釈尊はこれを制止して、大地より召し出した地涌千界の大菩薩に釈尊の内証である寿量品を託し、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字をもって世界中の衆生に授与せしめることを仰せつけられます。また、涌出品において弥勒菩薩が、この地涌の菩薩達を釈尊が久遠の過去より教化されたということを説明して下されなければ、私達は信じるとはいえども、滅後の菩薩、未来世の善男子は疑いを起こして悪道に墜ちてしまうということを申して、それから寿量品の久遠実成ということが顕かにされることからも、寿量品の法門は釈尊滅後の人々ために説かれているわけです。その寿量品には「この好き良薬を今留めてここに在(お)く」と言われている。留め置くということは在世の者のためではありません、後代の人のためにこの寿量品の良薬は留められたということです。更に分別功徳品には「悪世末法の時」と言われているように、どこから見ても寿量品をお説きになる趣旨は、仏の滅後のためである、滅後の中には末法のためであることを日蓮聖人は色々に論証されたのです。

 

明解「法華経要義」 五百弟子受記品第八 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月15日(火)09時11分14秒
編集済
  (現代語)
迦葉よ、汝は既に五百人の自在を得た者達のことを知ったのだ。他の諸々の声聞達もまた、必ずその如くになるであろう。今この法座に在らざる者達には、汝からこの事を説き明かすがよい。

(要文)
迦葉汝已に、五百の自在者を知りぬ。余の諸々の声聞衆も、また当に復是の如くなるべし。其の此の会に在らざるは、汝当に為に宣説すべし。

(要義)
釈迦牟尼仏は、化城喩品の説法を理解した下根の阿羅漢千二百人に記別を与えられますが、まずは五百人の阿羅漢に直接授記することから、この章は「五百弟子受記品」と名付けられています。そして、残りの七百人の阿羅漢のみならず、この法座に居らない声聞達にも間接的に仏は記別を与えると言われているのですから、如何に法華経が行き届いて残る隈のない経典であるかを示していると言えましょう。一切の仏弟子は、釈尊の下で仏と成るために修行している菩薩です。そのために「上求菩提下化衆生」と言って、菩薩は上には菩提を求めて仏国土を浄め、下には衆生を教化するために諸難に赴くのです。その菩薩としての自覚を改めて得て、そして社会において、それぞれが自己の役割を大いに発揮することが法華経の理想であるのです。

 

観心本尊抄 その9

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月 9日(水)19時25分55秒
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  「たとい法は甚深なりと称すとも、いまだ種・熟・脱を論ぜず。還つて灰断(けだん)に同じ。化に始終なしとはこれなり」

日蓮聖人は、如何に尊い法であると言っても、種熟脱の三益を明かさなければ、灰身滅智を説く小乗の思想と同じになってしまうと言われています。これは小乗教のすべてがそうであると言うわけではありませんが、習い損ねた小乗には、体があるから罪を作る、心があるから迷いが起こる、故に身体を灰にして心の働きを滅するならば何も無くなる、何も無くなれば罪が無くなるというような思想があったからです。この「種熟脱」は、どういうことかと言えば、先ず苗代に種をまく、それから田植えして、肥料をやったり、草を採ったりして米が実る、それを刈って蔵に入れるということです。これを人間に譬えるならば、私達の心を田地として、そこに仏と成るべき種を植える(下種)、それから段々と菩薩行によって培われて(調熟)、遂に仏様に成る(解脱)というわけです。私達は皆仏性を有していますが、仏種には二種があって、本来私達が有している仏性は、仏と成る可能性としての「性種」であって、そこに本当の悟りを開くための教法である「乗種」というものが加わらなければなりません。それは例えば、雌鳥は卵を産むと言っても、雄鶏が居なければ卵が孵(かえ)らないのと同じです。この乗種を加えることを下種と言います。したがって、妙法蓮華経の五字が仏種になると言っても、そこに本仏釈尊の智慧なり慈悲なりが加わらなければ、下種とはなり得ないのです。ただ徒に文字神聖論のようなものを振り回し、妙法の字が有り難いなどということをやっていては意味がありません。そういうものは屁理屈、誤魔化しであって、決して法華経の精神ではありません。

下種というものは本仏から来るものであり、そして調熟のための菩薩行を刺激せられているも本仏の慈悲感応です。日蓮聖人が頸の座に坐らされた時でも、雪中の佐渡島に流された時においても「教主釈尊衣を以てこれを覆いたまわんか」と言われているように、いよいよ大事の時となれば、必ず本仏釈尊を念じて菩薩の精神を奮い起こさなければなりません。ただ南無妙法蓮華経の文字が有り難いというのではいけません。活躍せる如来の実在を意識しなければならないのです。親の手紙が有り難いと言っても、手紙の文字が有り難いのではありません。そこに親の真心が込められているからこそ感激するのです。妙法蓮華経の五字が有り難いのは、その僅かな文字に釈尊の無限の慈悲、無限の智慧、無限の力が込められているからです。即ち本仏釈尊が「如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事」を皆この妙法五字の中に込めて与えて下さっているからです。それを日蓮聖人は「仏大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹(つつ)みて、末代幼稚の頸に懸けさしめたもう」と言われているのですから、ああ実に有り難い、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えるものでなければなりません。その本元の所を忘れてしまっては駄目です。菩薩行というものは、本仏から刺激されて生まれるのですから、どうしてもこの寿量品において顕本せられた所の本仏を意識しなければならないのです。

それから「解脱」ということになって私達はいよいよ成仏することになる訳ですが、蒔かぬ種は生えぬと言われるように、この「種熟脱」の中においては最初の下種ということが一番大事なことです。如何に大日経などが立派だと言おうとも、種熟脱が論じられていないのであれば、仏種が与えられているとは言えない、大日如来も阿弥陀如来もこれを与えてはいないのです。「化に始終なし」と言って何時から私達は教化されるのかということも分からないのです。しかしながら、私達が釈迦如来と縁を結んだのは、仏教を聞いて有り難いと思う今日が始めではありません。迷っているが故に私達は少しも知らなかっただけであって、釈迦如来は昨日も一昨日も去年も、私達がこの世に生まれる千年前、万年前から、「毎(つね)に自らこの念を作す」との慈悲をもって、「この哀れなる流転を辿る子供を、どうにかして苦しみより免れさせたい、成道せしめたい」と考えて活動しておられたのです。こちらが気付いたのは昨日今日のことかも知れませんが、本仏は始め無き以前より温かき慈悲をもって私達に導いて下さったのです。二千五百年程前に印度でお釈迦様が仏教を開いた時から、私達は関係を結ぶことになったのではありません。私達の久遠の生命が、久遠の本仏との関係を有していたことを私達が知らなかったのです。日蓮聖人が下種の大導師だとか、南無妙法蓮華経が下種の法だとか、そんな事を言っているのでは駄目なのです。法華経を信じると言うならば、本仏釈尊の絶対を意識しなければなりません。自我偈は「我れ仏を得てよりこのかた」から始まって、「毎に自らこの念をなす、何をもってか衆生をして」と終わるまで、釈尊の大慈悲の活動を説かざるものはありません。その自我偈を唱えながら、釈尊のことはちっとも考えないで、「教主釈尊と言っても日蓮大聖人のことだ」とか、「ただ南無妙法蓮華経と唱えさえすれば成仏するのだ」とか拗くれたことを言っていては話になりません。それでは寿量品の精神は分からぬことになる、観心本尊抄も開目抄も一切分からないことになってしまいます。彼の人達には、今後は断固として一切の疑いの心を持たないで、日蓮聖人の仰せられる通りに、釈尊の大慈大悲を信念して、そして南無妙法蓮華経と唱えるよう決心せられんことを願うばかりです。

 

明解「法華経要義」 五百弟子受記品第八 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月 8日(火)07時39分2秒
  (現代語)
内には菩薩の修行を秘して、外には声聞であると現われ、少欲にして生死を厭うように見せながらも、実には自ら仏の国土を浄めているのである。また、人に貪欲・瞋恚・愚痴の三毒があることを自らに示したり、また誤った見解に陥っている様相を現したりもする。私の弟子達は、このような方便を用いて人々を救うのである。

(要文)
内に菩薩の行を秘し、外に是れ声聞なりと現ず。少欲にして生死を厭えども、実には自ら仏土を浄む。衆に三毒ありと示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く、方便して衆生を度す。

(要義)
法華経以前の大乗経典では、声聞等を自己の解脱のみに執着する者として、成仏は出来ないと呵責してきました。この文は法華経の理想を表しているもので、彼等は表には声聞の相を現じてはいるけれども、心の中には菩薩の精神を維持していた者である、菩薩の相を敢えて避けていたのは外の者を導くためであったのだと説きます。そして、それは方便化導の上から起ることで、我が弟子は大勢の者に対して、自らに貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩が有ることを示して導くこともあれば、敢えて邪な見解に陥っている相を現わして導くこともある。如来の衆生を教化する慈悲の上にあっては、様々な手段を取らなければならないのであるから、これらの弟子が阿羅漢の仲間入りをして彼等を導いてくる位は尋常の事である。決して侮蔑すべきではない、寧ろそういう仲間に下って行って、そうして彼等を導いたとすれば、方便化導として尊いことであると言われています。

仏についての顕本は寿量品で為されますが、ここでは弟子についての顕本がされています。法華経は、二乗を一概に堕落した者として卑しむのではありません。そのような呵責を受けても忍び忍んで、そして大勢の者と共に法華経の開顕の席まで来て、漸く喜びを述べる声聞達の苦心は、非常な侮辱を受けるようなことがあっても、それを堪え忍ばなければ大なる目的を達することは出来ない、方便教化の為には一時的に外部がどう見ようとも、その場に応じて自在に変化し適応することが、仏教の化導にはあることを教えています。行い澄まして、ただ仏は清いもの、正しいものという単調なことを言っていたのでは、悪逆なる者を教化することは出来ません。この思想は、法華経や涅槃経によく現れている所であって、そのような上辺だけの仏教を盛んにしていたのでは、却って国は弱くなり、社会は偏ったものになり、やがて悪しき者のために引っ繰り返されてしまうことにもなります。根本は慈悲であり清浄なる精神であるけれども、実際の上には様々なる手段方法を具備せねばならないということ、そのような意味合いが備わって、初めて仏教の教化上において過ちを取らぬことになって行くのです。

 

観心本尊抄 その8

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月 3日(木)15時43分18秒
編集済
  「かくのごとき本尊は、在世五十余年にこれなし。八年の間、ただ八品に限る。正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士となし、権大乗並に涅槃、法華経の迹門等の釈尊は、文殊・普賢等を以て脇士となす。これらの仏をば正像に造り画けども、いまだ寿量の仏あらず、末法に来入して、始めてこの仏像出現せしむべきか」

ここで大事なのは、釈迦牟尼仏と妙法蓮華経と上行等の菩薩が揃っているということです。「ただ八品に限る」と言われたのは、上行等の菩薩は涌出品第十五の時に出現し、嘱累品第二十二の時にお帰りになられるから、八品に限って現れたと言われたに過ぎません。ですから、八品派なんというような一つの宗派を立てて、末法に上行菩薩の再身・日蓮聖人が南無妙法蓮華経を下種することのみが大事であるように主張するのは、全く健全な思想とは言えません。彼の宗旨では、釈尊のことなど忘れて仕舞いには法華経も要らぬ、寿量品も要らぬ、題目のみ唱えればよいと言う人達もいますが、それでは法華経も日蓮聖人の教えも台無しになってしまいます。すぐ後に「いまだ寿量の仏あらず」とあるように、この一文は本門の教主釈尊を顕かにするためのものです。小乗仏教の釈尊は迦葉尊者と阿難尊者を脇立ちとし、迹門以下・権大乗の釈尊は文殊菩薩と普賢菩薩を脇立ちとしていますが、上行等の四菩薩を脇立ちにしていれば、これは本門の釈尊であることが分かります。本門の釈尊は上行等の四菩薩を脇士とせられた、そこを日蓮聖人は非常に力を入れて述べられているのです。久遠実成の釈迦牟尼仏、妙法蓮華経の五字、上行等の諸菩薩、これを本門の本尊における仏法僧の三宝と言いますが、上行菩薩の再身・日蓮聖人の教えに導かれる者ならば、久遠実成の釈迦牟尼仏に帰依して、南無妙法蓮華経と唱えることは疑いようもないことです。それを色々なことを言うのは、どうしても常識に欠けている、何の因果か学問しながら左様なことになっているというのは、実に気の毒に堪えない次第です。今後は縁があって入り口は違ったとしても、各々の古い宗旨に拘ることなく、日蓮聖人本来の宗旨に統一されていくべきであろうと思います。

「その教主を論ずれば始成正覚の仏。本無今有の百界千如を説いて、已・今・当に超過せる随自意・難信難解の正法なり」

それから次に日蓮聖人は五重の三段ということを説かれます。三段とは、序分、正宗分、流通分のことで、論文で言えば序論、本論、結論というような具合で、お経は皆このように三段に分けて見ます。第一に仏教の全体、釈迦一代の説法を三段にして見る場合は、始めの華厳から阿含、方等、般若の四十年間の説法は序分とし、法華経の三部、即ち無量義経と法華経と観普賢経を正宗分、以下の涅槃経等が流通分とします。そして第二に、法華経八巻と開結二巻の十巻については、開経の無量義経と法華経の序品を序文とし、法華経の方便品より分別功徳品の半ばに至る十五品半を正宗分、分別功徳品の四信を説くところから結経の観普賢経までを流通分とします。また第三に法華経等の十巻において、迹門三段は無量義経と序品を序分とし、方便品より授学無学人記品に至るまでの八品を正宗分、それから法師品より安楽行品までの五品を流通分とします。この迹門の場合には、釈尊はこの度始めて正覚を成じた仏であって、百界千如という優れた法門を説かれましたが、本仏であることは顕してはいません。しかも、迹門の釈尊は大通智証仏の十六王子の中で末っ子ですから、九番目の阿弥陀仏の方が兄貴分ということになってしまいます。

「本門十四品の一経に序・正・流通あり。涌出品の半品を序分となし、寿量品と前後の二半と、これを正宗となし、その余は流通分なり。その教主を論ずれば、始成正覚の釈尊にあらず。所説の法門もまた天地のごとし。十界久遠の上に、国土世間すでに顕る」

そして第四に本門三段を述べて、釈尊は久遠実成の本仏である、迹門と本門の違いは天地の如しであると日蓮聖人は論じられます。ところが日蓮宗は本迹一致ということを主張してきたがために、今なお何も知らぬ者は、一致派であるとか勝劣派だとか下らないことに頭が引っ掛かって、本当のことが分からなくなっています。天地の如くに違うと言っているにも拘わらず「一致だ」ということに固執するのも滑稽ですが、勝劣派を名乗っていても、久遠の釈尊を脇に追いやって、日蓮聖人による滅後末法の下種益を強調する、あるいは日蓮聖人を末法下種の本仏と主張するために本勝迹劣を立てている門下もあるわけです。そのような詰まらぬ議論に無駄な努力を費やしてきたがために、法華経を信じる、日蓮聖人の教えを信じると言っても、信者の方は何を信じるのかさっぱり訳が分からなくなってしまったのです。

「また本門において序・正・流通あり。過去大通仏の法華経より、乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品、涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世の諸仏の微塵の経々は、皆寿量の序分なり」

第五に日蓮聖人は、この本門三段に更なる解釈をします。これを法界三段と言いますが、本門三段の中心である寿量品と前後の二半を加えた一品二半が非常に尊いものだということを説いて、「十方三世の諸仏の微塵の経々は、皆寿量の序分なり」と、この寿量品は天地宇宙全体の経典であるということを明らかにされます。この寿量品というのが仏教の本質であり、幾らお経があっても、それらは皆この寿量品を説かんがための下拵えであり、この寿量品を弘めて行くための流通分ということです。それ故に日蓮聖人は、一品二半よりの外は、同じ法華経と雖も、また大乗経と雖も、強いて言えば小乗経に等しい、邪見の教えであり、未得道教、覆相教であると随分と激しく論じられたのです。



 

明解「法華経要義」 五百弟子受記品第八 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月 2日(水)10時24分52秒
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  (現代語)
仏国土には七宝の高楼が満ちて、天の神々の宮殿は近くの虚空に在り、人と天人が互いに相接して見合うことが出来るであろう。

(要文)
七宝の台観其の中に充満し、諸天の宮殿近く虚空に処し、人・天交接して両(ふた)つながら相見ることを得ん。

(要義)
この所は富楼那が仏となった時の仏国土の様子を述べて、人々が悟った場合の浄土の美しき光景を説いています。それは今見る娑婆世界のように愚劣な世界ではなく、もっと高等なる美しい世界であって、人と天の神々が交わり接することが出来る所です。この世界では人が天から離れて餓鬼・畜生の方へと向かっている、下ばかりを向いて上を向かなくなっている者が非常に多いですが、仏と成って行く人々の世界は、皆上を向いて天と交わっているのです。世間の人が「神を信じる」と言って、ただ瞑目して掌を合わせているようなものではありません。人と天の神々とが相交わって「相見ることを得ん」とは、人間が非常に向上して、偽り無き天に近付いている様子を現しています。この部分は、本来は「神々も人々を見、人々も神々を見る」という単純な文章でしたが、それでは何のことか分からない、この中に含まれている意味を言い表すことが出来ないと考えて、鳩摩羅什が法華経を翻訳する際に非常に苦心したと伝えられている所です。

 

謹賀新年

 投稿者:shamon  投稿日:2019年 1月 1日(火)17時26分34秒
  幸せな一年になりますよう 心よりお祈り申し上げます! 元旦  

新年おめでとうございます

 投稿者:giniro_syounen  投稿日:2019年 1月 1日(火)12時03分9秒
  shamon様 皆様、旧年中はご指導いただきまして誠にありがとうございました。
本年も、仏様の御心の鼓動に触れることができるように努めて参ります。
どうぞ宜しくお願い申し上げます。

南無釈迦牟尼仏 南無妙法蓮華経!!合掌
 

観心本尊抄 その7

 投稿者:shamon  投稿日:2018年12月26日(水)06時59分27秒
編集済
  「今 本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。これ即ち己心の三千具足、三種の世間なり」

浄土宗で言う安養世界、阿弥陀如来が拵えた極楽浄土などというものは、宇宙の西の果てを幾ら探してもありません。それは、お釈迦様が方便として語られた世界であって、架空の世界に実際に往生などは出来ません。私達の心は汚れているようであっても、磨けばそこに仏性が現れるのと同じで、自分の果報なり功徳の力をもって進めば、浄土はこの娑婆世界の中より現れる、即ち浄土というのもこの世界の他にある訳ではないのです。穢土と浄土は全然違うものである、凡夫と仏とは全く別のものであると言うならば、それは間違いです。穢土の中に浄土が存する、凡夫の中に仏が在る、廃れている社会であっても秩序立てれば立派な社会になる、凡夫であっても功徳を積めば仏になるのです。ところが方便の教えに執着する者は、この穢土と浄土を全く分離し、穢土の娑婆世界を離れて西方十万億仏国を隔てた所の安養世界に行けると喜んでいる、厭離穢土・欣求(ごんぐ)浄土と言って、穢土を厭うてこの土を離れたい、安養の極楽浄土を願い求めるのが、浄土宗・浄土真宗の根本教義です。此方の世界は悪いから向こうの世界に行きたいという、阿弥陀仏の極楽浄土に限らず、薬師如来の浄瑠璃浄土、大日如来の密厳浄土など、名前は色々と違いますが、そういう浄土へ娑婆世界を捨てて行こうとする教えは駄目だということを日蓮聖人は言われています。しかも、それらは仮に拵えた浄土であって本当にあるものではありません。諸仏は皆、釈迦如来から身を分けている所の分身の仏ですから、「能変の教主涅槃に入れば、所変の諸仏随つて滅尽す。土もまた以てかくのごとし」で、釈迦如来が涅槃して、何処に消えたのかも分からないというのであれば、その分身の仏も消えてしまう、したがってその浄土も消えてしまうわけです。だからこそ、十方分身の諸仏を活かそうとすれば、どうしても根本の釈迦牟尼仏の実在であり、本仏であるということが立証されなければならないと日蓮聖人は力説されたのです。釈迦を倒して喜んでいるようでは、天月を雲に包んでしまうようなもので、盥(たらい)に映った月も池に映った月も悉く無くなってしまいます。仏教徒は釈迦牟尼仏の尊厳を維持することによってのみ、仏教の教義が活躍するということを念頭に置かなければなりません。常に統一を図る中心を明らかにして、そして秩序を保たねばならないのです。日蓮聖人は、そこを述べられています。この娑婆世界においても、自分の果報が上がってさえ来れば、そこに立派な浄土が現れる。仏様も常住であらされて「近しと雖もしかも見えざらしむ」で、私達のすぐ側においでなさっている。浄土というのも娑婆の外にあるのではない。汝等の果報が拙き故に、大火に焼かれて、この世界が灰になってしまうと思うような時も、「我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」とあるように、この世界は決して壊れるということはないのです。

「その本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。文殊・弥勒等の四菩薩は、眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は、万民の大地に処して雲閣・月胃を見るがごとし。十方の諸仏は、大地の上に処したもう」

日蓮門下には、「娑婆即寂光」だからと言って、南無妙法蓮華経さえ唱えていれば仏様だ、自分が仏に成ったと思って、娑婆が即ち浄土だ、仏もへちまもあるものかと威張っているような劣悪なる思想に陥っている者がありますが、それでは、ただの酔っ払いと同じです。そこで日蓮聖人は、今度は南無妙法蓮華経の五字において観心するところの御本尊について示されます。前に「本時の娑婆世界」と言われているように、釈迦牟尼仏の覚りから見れば「我が此の土」である娑婆世界は、即ち始め無き以前より仏が常住に居られる所の真の浄土です。その本時の娑婆世界の上に宝塔が現れ、妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏が座られ、上行等の四菩薩が釈尊の脇士として立たれている、それを他の迹化・他方の菩薩は仰ぎ見るようにして、そして十方の諸仏も集まって居られる光景が、「本門の本尊」の有様であることが説かれています。即ちこれは、本仏釈尊の久遠実成が顕され、妙法蓮華経の五字が地涌の菩薩に付属される霊山虚空会の説法と儀式です。ここで「妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏」とあることから、間違いを起こして南無妙法蓮華経の大きな旗がブラ下がっている所に、釈迦牟尼仏と多宝仏が座られているかのように思っている者もありますが、宝塔の中にそんな旗などは立ってはいません。また曼荼羅本尊の中央に大きく書いてあるから、釈尊より偉い南無妙法蓮華経如来だなどという日蓮宗の学者もありましたが、日蓮聖人がそのようなことを言ったことは後にも先にも一度もありません。釈迦牟尼仏が説かれる法華経が、纏めれば妙法蓮華経の五字に納まっているからこそ、日蓮聖人は釈尊の説法を妙法蓮華経の文字で顕しているのです。



 

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