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開目抄 その34

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月19日(金)15時29分47秒
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  「三類はすでにあり。法華経の行者は誰なるらむ。求めて師とすべし。一眼の亀の浮木に値うなるべし」

三類の敵人が現れることは、法華経をはじめとして涅槃経などにも預言されたことである。そうして今現に第一に、釈尊を仰がねばならぬと言う日蓮を、他宗を罵倒する坊主だと鎌倉幕府や在家の人が迫害し悪口を加えている。第二に根性の拗けたガラクタ坊主からの反対も明白である。第三に世間から生如来のように尊敬され、聖者を気取っている者も日蓮には反対している。日蓮は他宗を攻撃していると言うが、彼等の初めの態度は何れも法華経に対して悪口を言っているではないか。天台大師は摩訶止観に、「信がない者は、法華経のような優れた教えは己の智が及ぶところではないと言い、智のない者は、己は仏に均しいと増上慢を起こす」と言われているが、浄土門は、法華経は凡夫には難行の聖道門であると嫌って、衆生はただ念仏を唱えて阿弥陀仏に救って貰う以外にはないと説き、禅宗は教外別伝と称して経典に説かれた教義を蔑ろにし、自己は本来仏なりと悟るのだと言っている。御経を読むには、方便と真実をよく見分けて、同じ仏教に依るにも浅い所に落ち込まぬようにしなければならない。修行を積むにも、ただ座禅のようなことのみをやってはいけない、本当の菩薩行に進んで入っていかなければならない。ところが世間から尊敬を得ているような極楽寺の良観などが、日蓮を迫害するために偽りの訴状を将軍家に差し出した。また他の高僧達も権力を恐れて、彼等の邪義を認め、かえって誉め讃えてしまうような有様である。法華経の行者あれば、必ず三類の敵人はあるはずである。悪口を言われ罵られ、刀杖を加へられた僧とは誰であろうか、法華経のために権力者に訴えられた僧とは誰であろうか、「数数見擯出」と経文の通りに度々流罪に処せられた僧とは誰であろうか、日蓮より外に日本国に該当する者は居ないのではなかろうか。師とすべき法華経の行者に会うことは、一眼しかない亀が百年に一度海面に頭を出して、そして浮木の穴に入るほどに希なことである、仰いで師とすべきである、そのように日蓮聖人は宣示されたのです。

「詮するところは天も捨て給え、諸難にも遭え、身命を期とせん」

さらに日蓮聖人は、なお問を設けて法難は何のために起きるのかを論じます。法華経が正法なれば、これを信じる者は幸せでなければならない、諸天善神の御加護があらねばならぬのに、何故に日蓮が迫害に遭い流罪に処せられるは分からぬと言うであろう。しかしながら、そうではない。昔から聖人でも君子でも偉い人は、誤れる人達から反対を受ける、何の反対も受けない人に偉い人はないと、釈尊やその弟子、そして正義の諫言をした者が散々に反対を受けた例を列挙されます。それならば、悪いことをする反対者には罰が当たりそうなものであるのに、そうでないのはどういう訳かということについては、余りに罪が重い一闡提のような者は、必ず無間地獄に堕ちることが決まっているから現世では罰が現われないのではないか、あるいは正法が衰えて国を守護する諸天善神の力が弱まったためではないかと論じています。これは当時の人に疑いがあるが故に説明を加えられたものであって、日蓮聖人としては、こういうことは重き事と思っておられたわけではありません。事実には、日蓮聖人に反対した平頼綱は後に謀反を起こして一族は北条氏に滅ぼされ、鎌倉幕府の北条氏もまた悲惨な滅亡をしている、無論小松原法難で日蓮聖人を襲撃した東条影信もその時の落馬が原因で死んでいます。しかしながら、正法に反対した者には懲らしめがあるとは言わない、因果応報は説いても、そのような呪詛的なことは仏教の精神にはないからです。それで日蓮聖人の結論は如何になったかと言えば、「詮するところは天も捨て給え、諸難にも遭え、身命を期とせん」、どのような事があっても正法と国家と人類とのために尽くす、そのために一命を捧げても悔やむ所はないと言われたのです。ここが大事な所です。法華行者はそれでなければならない。大体善い事をやり出せば反対が起こり、そうして人は途中で心が変わりやすいものある。舎利弗尊者ほどの人でも、責めに堪えることが出来ずに菩薩の行を途中で退転してしまった。されば如何なることがあっても、この度法華経のために誠意を通すと考えたことは、やり損なってはならない。善かれ悪しかれ法華経を捨てるのは地獄に堕ちる罪である。日蓮は釈尊に大誓願を立てたのであるから、日本の国主の位を譲ろうと言ってきても、父母の頸を刎ねると言われても、決して法華経を捨てることはしない。我が主張する所の正義が破られたならばいざ知らず、そうでない限りは断じて屈服することはない。圧迫や威嚇によって日蓮はこの志を変えない。どれ程の難が起こって来ようとも、日蓮の誓いを立てた精神から見れば、あたかも風の前の塵の如し、直ちに吹き払われるであろうと述べられたのです。



 

明解「法華経要義」 薬草喩品第五 その5

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月18日(木)08時54分59秒
編集済
  (現代語)
我は如来、人・天の最も尊き者である。この世に現れること大雲の如く、枯れようとする一切の人々を潤し、苦しみより離れしめ、心安らかなる楽しみ、世間の楽と涅槃の楽を得させるのである。

(要文)
我は為れ如来、両足の尊なり、世間に出ずること猶大雲の如し。一切の枯槁の衆生を充潤して、皆苦を離れて、安穏の楽、世間の楽、及び涅槃の楽を得せしむ。

(要義)
印度で両足尊とは、二本足を持つ人間や天人の中で最も尊い人を称していましたが、後世は右も左も整っている、智も満足し、徳も満足しているというような知徳兼備の意味に解釈しています。その完全なる如来がこの世に出でるのは、日照りの時に天に現われた大雲の如くであり、その如来の説法は雨となって将に枯れんとする草木を潤すように、一切の枯槁の衆生を潤して、苦を離れて安穏の楽、世間の楽及び涅槃の楽を得さしめます。仏教が救わんとする「苦しみ」とは、生老病死の四苦、そして愛する者と離れる愛別離苦、怨み憎む者と関わり合う怨憎会苦、求めて得られぬ求不得苦、身心を有するが故に受ける様々な五陰盛苦を合わせた所謂四苦八苦の人生です。世間において「病気を治す」とか「金運をもたらす」等のみを殊更に宣伝するようなものは、迷信的かつ劣等な宗教のすることであって、釈尊は、如何なる健康体の人であっても、如何なる金持ちの人であっても逃れることを得ない所の苦しみを説いて、そしてどういう事に出会っても、どのような境界に置かれても精神の平和を破られることのない安穏の楽を与えるのです。

日蓮聖人が頸を切られんとする時に「これほどの悦びをば笑へかし」と言い、佐渡に流されて雪の中に閉じ込められても「悦び身に余れり」と述べられたのは、当にこの安穏の楽を体験せられたものです。ただ快適に生活することを楽しみとして、腹が減ったら飯を食い、寒ければ暖を取り、暑ければ涼む、眠くなったら寝るというような事であったならば、何も宗教も修養も必要ではありません。ところが人生は中々そうはいかない、次から次へと四苦八苦に襲われるものであるが故に、精神の力を発揮して、如何なる境遇の変化があろうとも、精神の安楽を破られぬだけの修養鍛錬が必要となるのです。そして、その修養鍛錬を与えるのが釈尊の為されてきた活動であるからこそ、皆苦を離れて安穏の楽を得せしめると述べられているわけです。だからと言って、この安穏の楽ということを、ただ偏った精神論的にのみ解釈したのでは我が釈迦牟尼仏の真意ではありません。安穏の楽の内容は二別すれば、「世間の楽」と「涅槃の楽」の二つとなります。そして世間の楽とは、今日の所謂物質的な幸福をも保障するものですから、釈尊は種々なる点に於いて人生の幸福を保全せんとして教えを説き、そして更に高い理想的かつ崇高な涅槃の楽を与えようとされているのです。



 

開目抄 その33

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月13日(土)08時26分19秒
編集済
  「宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諫暁あり」

釈迦牟尼仏は宝塔品に三度勅宣を下して法華経の行者を求められた、どうしても法華経を後代に弘めなければならないからこそ、誰か誓いを立てよと三度お告げになられたのです。それから進んで提婆達多品において、釈尊を殺めようとした提婆の成仏、そして竜女の成仏が説かれます。これは、ただ女人が成仏する、悪人が成仏するということを説いたものではありません。他の経典では否定されていた女人も極悪人も、そのままに成仏する、法華経はそれ程広大なる功徳のある御経であるから、如何なる迫害があっても法華経を伝道することを、我前において誓いを立てよと宣示されたのです。今の坊さんのように、迫害も無いのに法華経は説かず、祈祷師になったり、占い師になったり、カルト宗教の批判もせず、ただドンドコ太鼓を叩いて偽善を気取っているというのでは実に法華行者としては見苦しいことです。この悪人成仏と女人成仏は非常に大事な問題です。涅槃経において、一切衆生には悉く仏性ありということが説かれます。表面より見れば如何に罪深き人でも、その奥に仏性の玉を失っていることはありません。そして、それは如何に落ちぶれた時にも、己の頼みとなるものです。社会は常に変化し、人生は何時如何なる事が起こるか分からない、火事に遭えば家は焼けてしまうし、女房を病で亡くしてしまうかも知れない。人生は実に不安なるものであって、ただ人を頼みにして生きていくことなど出来ません。しかしながら、如何に様々な困難があったとして、お釈迦様のように必ず克服して立派な人間となれる、この魂の奥には仏性がある、これこそ自己の頼みとするべきものである、そこに信念を置くのが仏教です。

涅槃経にはそういう教えが立てられているものの、まだそれは言葉であり議論です。ところが法華経の提婆達多品は、すべての者に仏性があることを事実として現した、提婆達多という一番の悪人を挙げて、それにも仏性があるばかりでなく天王如来と成ると言う。それから女人には五つの障りがあると言って、梵天王となることを得ず、帝釈天、魔王、転輪聖王になることを得ず、仏身を成ずることを得ずとされてきましたが、八歳の竜王の娘を挙げて、すべての女性の象徴として彼女が成仏することを示したのです。智積菩薩、舎利弗尊者が女は成仏出来ぬと言って反対する中、竜王の娘は「汝が神通力を以て、我が成仏を観よ、またこれよりも速やかならん」と言って、彼等の前で仏に成って見せます。「これよりも速やかならん」というのは、その前に彼女は釈尊に珠を献上しますが、それは丁度手品師がやるように、手が触れたか触れぬ中にお釈迦様の手に移ったことを指してのことです。それよりも、私が仏に成ることは非常に速いから見損なってはならない、一生懸命あなたの神通力をもってよく見てお出でなさいと竜女は言い、そして彼女が忽ち仏になって見せると、智積菩薩、舎利弗尊者は黙然として信受す、黙って恐れ入りましたと頭を下げることとなります。このことを日蓮聖人は「涅槃経四十巻の現証はこの品にあり」と、女人でも如何なる境遇に立っている者でも、みな己の頼みになる仏性を持っている、悪事をした、人生をやり損なった、詰まらぬ事をして人を虐げて罪を作った、後悔の涙先に立たぬという時分にも、その奥には尊い仏性があることを、事実として現されたのだと述べています。

「この経は内典の孝経なり」

儒教においては親孝行を言うけれども、「孝行のしたい時分に親はなし」で、長く親の傍らに居たとしても、親が健在である時には本当に孝養の精神が起こらず、親が亡くなってから急に自覚を起こして、済まなかった思う人も多いわけです。その場合には儒教ではもう仕方がありません。その志は気の毒ではありますけれども、ただ慨嘆するしかない、魂の行方を考えていないのですから、父母の後生を助ける道がありません。それは仏教でしか出来ないことです。しかし残念ながら、他の経典は女人の成仏を拒んだり悪人の成仏を拒んだりしている、また成仏のことは説いても、成仏の意味をよく説いていません。そして、自分自身の得道さえ難しいというのですから、まして父母を成仏させることなど叶わないと言えます。それが法華経に至って、女人の成仏が許されて母の成仏も明らかになる、悪人の成仏が許されて父の成仏も明らかになる、法華経によって父母の魂までも救うことが出来るようになるのです。その意味において日蓮聖人は、法華経は仏教の中で親孝行を教えたる経典であると言われています。



 

散り椿

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月12日(金)06時59分56秒
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  散り椿、見てきましたよ~。ほんと観客は年配の方ばかりでしたが、日本人としての高潔で美しい武士道と大和撫子を伝承するためにも、多くの若い人に是非見て貰いたいですね。まあ、根性の腐った輩は、媚びない・靡かない者を、権力を使って徹底的に潰しに掛かってくるのは、よくある話ですが、忘れないでください、「負けなければ勝ち」です。本当の正義は、やられるものなんです。相手は、いつか必ずボロを出しますから、その時に備えて自分をいつも鍛えておくことです。私も宗教に限らず、実は仕事上においても一部の者から執拗にやられてきましたが、権力を笠に着る者からの弾圧を克服することは、人に教えを説く宗教者になるならば必須のことですから、これも運命、修行修行と自分に言い聞かせています(笑)。
http://chiritsubaki.jp

 

創価学会

 投稿者:もり  投稿日:2018年10月10日(水)21時47分15秒
  興味深い雑誌記事がありました。
学会も公明党との間で安保法制などで乖離があるようですし、学会員にもいろいろ動揺があったりするのかもしれませんね。
先の沖縄知事選挙でも玉城デニー氏を支持した学会員がいたと報じられていました。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181010-00181607-diamond-soci&p=1

 
    (shamon) 私の管理するFBグループ「創価学会・日蓮正宗を批判する」から転載です。

10月4日)辺野古基地建設反対を訴えたオール沖縄の玉城デニー氏(58)が、基地推進の安倍政権が推す佐喜真淳氏(54)を破った沖縄県知事選。玉城勝利を導いたのは、公明党本部や創価学会幹部から、意に反する選挙運動を強いられた学会員の造反だった。公明は全国から数千人規模の動員をかけ、創価学会の原田稔会長も沖縄を訪れるなど「史上最大規模」(党関係者)の佐喜真当選の大キャンペーンを展開した。しかし「基地のない沖縄」は創価学会の基本理念。(2018年10月3日 日刊ゲンダイ)

平和という言葉に熱狂する人たちを利用して来た創価学会。沖縄の人々を創価学会に入会させるため、池田大作のゴーストライターたちは、沖縄の人に真摯に寄り添う池田大作の姿を描いた。その結果、10万人の沖縄の人が、創価学会員となっている。

核も、基地もない、平和で豊かな沖縄になってこそ本土復帰である---それが、沖縄の人々の思いであり、また、伸一の信念であった。(『新・人間革命』第13巻 楽土)
戦争の辛酸をなめた人ほど、平和を渇望している。いな、最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利があるばずだ。(『人間革命』第1巻 旭日の章)

10月5日)対話がなければ、人間は独善という暗闇の中を歩き続けねばならない。対話とは、その暗闇にあって互いの足元を照らし合い、歩むべき道を見出す灯火といえる。動くことだ。語ることだ。「分断」から「結合」へ、「対立」から「融和」へ、「戦争」から「平和」へ。(2017年8月13日 聖教新聞 平和の潮流を対話の力で 池田大作先生)

「青年よ、仏敵を打ち砕け。学会迫害の悪人は厳罰でのたれ死ぬまで攻め抜け」(2004年11月14日 聖教新聞)
「私も戸田先生のもとで、阿修羅の如く戦った。この『創価精神』を受け継ぐのは君たちしかいない!」(1999年6月21日 聖教新聞 池田大作)

最初の記事は、青年を騙すための池田大作の偽善メッセージ、そして後のものが青年を兵隊にして戦わせる池田大作の本音メッセージ。マインドコントロールするカルト宗教も勿論だが、マインドコントロールされる青年達にも問題がありそうだ。

10月7日)誰もが否定することのない絶対善というものを掲げて人々の気持ちを正義感で高揚させ、そしてそれに反対するものは、悪なる敵として徹底的に戦うように仕向けるのは、マインドコントロールの典型的な手法です。ISなどが宗教を利用するのも同じ、また日本の左巻きの組織やマスゴミも、平和や人権といったものを利用してマインドコントロールをします。創価学会の池田大作は、共産主義自体には全く興味がありませんが、革命を成功させるために共産主義者がとった大衆のマインドコントロールを実によく真似ています。ちなみに、池田大作を分析すれば、宗教を利用しているだけで、宗教の教えには全く興味を持っていないことが分かりますよ。そういうところが、石原慎太郎に言わせれば、悪しき天才、巨大な俗物ということなのですね。

 

明解「法華経要義」 薬草喩品第五 その4

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月10日(水)05時33分44秒
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  (現代語)
それは、大いなる雲が一切の草木・叢林及び諸々の薬草などに等しく雨を降らすに、各々はそれぞれの種別や性質に従って潤い生長するが如くである。如来の説法は唯一つの有り様、同一の味のものである。それは、煩悩からの束縛を解くもの、悪業から離れるもの、苦を滅するものであり、究極にして一切を知る仏の智慧に至らしめるものである。

(要文)
彼の大雲の一切の卉木・叢林及び諸の薬草に雨るに、其の種性の如く具足して潤いを蒙り、各生長することを得るが如し。如来の説法は、一相一味なり。所謂、解脱相・離相・滅相なり。究竟して一切種智に至る。

(要義)
天より降る雨が、すべての草木を潤すに於いて平等であるように、如来の説法に表面上浅い深いがあるように見えても、よくよく考えれば同じ相、同じ味である、よく見、よく味わうならば、一相一味の教えであるのです。大観すれば、如来の説法は円満に統一された教えであって、解脱相、離相、滅相ということに他なりません。「解脱相」とは、煩悩から解脱させて幸福に導き、善を積む人に至らしめようという働きであり、「離相」とは罪悪より離れしめ、人は縁によって変わるが故に悪縁より遠ざからなければならぬことを説き、そして「滅相」は、人格の欠点となる一切の不純なるもの、その穢れを滅し、月を覆う雲を払い、鏡を覆う塵を除くならば、真の心の本体である美しき仏性が輝くことを教えます。そして、「究竟して一切種智に至る」と、如何なる者でも如来の大覚に至らしめようとして説かれたものです。この「一切種智」とは統一の知識であって、総ての事柄を把握し、一つのものに纏め上げて、そして一切の事柄に判断がつく所の智慧です。宇宙の真理が一元に帰するならば、智慧も磨いて磨き上げるならば一元の智に帰する、一を以て万を察し得るものとなります。その智慧を発動するならば千万無量にして量ることの出来ないものとなり、本に帰すれば絶対無上唯一の智であるものを一切種智と称しているのです。その根本絶対の智慧に至らしめようとして如来は教えを説いているのですが、これを受ける人々の性質や能力の違いによって、その利益は様々に違って来ます。それは雨が平等に降るけれども、草木はその分に応じて潤いを受けるのと同じです。しかしながら、各々の今の得益に差別が生じると雖も、それぞれが、それぞれの分に応じて潤い成長していることに変わりはありません。


 

開目抄 その32

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月 5日(金)15時06分21秒
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  「これらの経文を法華経の已今当・六難九易に相対すれば、月に星をならべ、九山に須弥を合せたるに似たり」

他の経にも似通った経文があって、それぞれが第一の経典であることを書いているがために、世間の学者は迷いを起こしている。しかしながら、それは法華経が一切経の中で第一であることとはまるで違う意味である。王に小王と大王とがあり、一切といっても、部分に対しての場合と全体に対する場合があるように、その違いを弁えなければならないと日蓮聖人は言われています。そして、そこにありありと説かれている経文を基として、その経の浅いか深いかを見なければならない、誤魔化しの議論に惑わされることなく、道徳から見ても、哲学から見ても、宗教から見ても、時代の進運から見ても、法華経のように申し分のないものを中心に立てて、仏教とは斯くあるものと日本人の思想を導いていかなければならないと説かれているのです。ところが弘法大師は六波羅蜜経の経文に迷い、仏教を五段階に分けて総持門即ち密教の真言、陀羅尼が法華経よりも尊いということを言い出します。真言というのも陀羅尼というのも、短いか長いかの違いの呪文であって、梵語をそのまま音写したものです。無論簡単な言葉に色々の意味を込めると言うことはありますが、必ずしも梵語で言わなければならない、意味の分からない呪文で唱えなければ有り難くないというものではありません。ノウマクとは南無、南無とは帰命のことであり、サンマンダとは諸仏のことですから、ノウマクサンマンダとは、南無諸仏ということです。ですから、仏に帰依し奉るということを、南無仏陀と唱えても値打ちに違いはありません。ノウマクサンマンダと言わなければならないなどということは、全く意味の無いことです。法華経に種々に説かれたことも究極には妙法の二字に納まる訳ですが、阿(アー)とか吽(ウン)という言葉に、宇宙のすべてが納まるからなどと理屈を立てて、ただ言葉だけを争っても何の価値もありません。然るに、どんなに善い道徳上の教えがあっても、宗教上の教えがあっても、哲学上の真理があっても、真言・陀羅尼という呪文を唱えること以上に優れたものはないと弘法大師はやり出した、そこを日蓮聖人は非難されたのです。そういうものには深い教義もなく意味もありません。護摩を焚いて呪文を唱える婆羅門の方から来た形式論であって、決して仏教の大事ではないのです。

「当世日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」

この富めるということは、勿論金持ちになるということではありません。日蓮聖人が言われているのは、人間に生まれてきて何が一番大事かといえば、正しい所の教えを得て、それによって自分も救われ、大勢の人もそれによって導く、大にしては国家、人類までに光を与えるようなことをした者は、果報の上において最も富める者であるということです。大金を持っていても、徳に欠け、近所からも悪口を言われ、その人が世に存在していることが何にも利益をもたらしていないとすれば、その人は果報において貧しい憐れな人間と言わなければなりません。今ここ佐渡島に流し者となっている日蓮は、物質的には貧しく、食う物もなければ布団もない、実に憐れな者であるけれども、徳をもって論じ、精神上の富からすれば、日本第一の富者である。万里の海を渡って宋に入った人もあれば、天竺に渡って法を求めた偉い人もある、沢山の書物を書いた立派な人もあるけれども、彼等が仏法の真実を知ることが出来るかと言えば、必ずしもそうではない。蛇は洪水が起こることを知り、鳥が吉凶を知ることが出来るように、日蓮は一切経の勝劣浅深を見分けることにおいては不思議に各宗の高僧より優れている。天台大師・伝教大師の跡を慕び、仏教の方便と真実とを見分けて、正しい意味において仏法を人々に紹介する、釈尊の真精神を誤らぬように宣伝することにおいては、日蓮に及ぶ者はないということを宣言されたのです。そして、六難九易を説いて釈尊が法華経の弘通を命ぜられたのであれば、たとえ一切経を読まざるとも、他の経典との勝劣を弁えて従うべきであると仰せられます。法華経を弘めることは容易なことではありません。即ち六難九易とは、正しいものは容易に信じられることがない、ただ何でも弘まりさえすれば良いのではないということです。仏教が迷信的なものとなって今日廃れてきたのは、これは聴く人の思想の程度が低かったのと、本当に訳の分かっていない僧侶が言うままに任せて置いたからです。何も坊主などに任せて置くことはありません。自分自身が法華経を信じ、日蓮聖人の教えを信じれば良いのです。殊に今日は教育も進んで、日蓮聖人の教義を知ることには、そう困らないのですから、坊さんや宗教指導者の間違ったことを言うままに任せて置くのではなく、自ら日蓮聖人の書かれた文章を読んで、正しい教えに近づくことが出来るはずです。それを何時までも「解らない、解らない」と言って、ドンドコ太鼓を叩いて題目を唱えたり、陀羅尼を唱えて現世利益を願うだけであったりするならば、これは法華経の在家菩薩の精神に大きく違背することになります。そういう意味が了解せられて来ないと、この開目抄などを読んでも少しも有り難く感じることがないのです。


 

明解「法華経要義」 薬草喩品第五 その3

 投稿者:shamon  投稿日:2018年10月 4日(木)16時09分10秒
  (現代語)
この人々は、この教えを聞くことを得て、現世は安穏となり、後には善き所に生まれ、仏道を以て悦楽を受けるであろう。

(要文)
是の諸の衆生、是の法を聞き已つて、現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受く。

(要義)
同じ仏教と言っても、現世の利益のみに偏したような教えがあれば、未来のみを救うようなものもありますが、元来釈尊の化導は「今世・後世、実の如く之を知る」と言われているように、現在と未来を合わせて救うものであって、無限の生命に基づいて、その生命の前途に保証を与えるものです。ただ魂の行く先だけを保証して、現在の生活の上に何等の救いも与えないような宗教では、人生に悦びと希望を見出すことは出来ませんし、ただ現在だけを救うのであれば宗教の第一義を失ってしまいます。どの経でも心して読めば、釈尊は仮に未来の事を説くようでも、直ぐその裏には生命の無限から導いて現在生活を善導している、また現在の事だけを説いているようであっても、直ぐ根底に入って生命の無限を忘れてはならないと説いていることが分かります。釈尊の説かれた一切経は総てが現在未来に亘っての教化であるからこそ、法華経はそのような点に特に注意を与えて、この法を聞き終った者は、決して死んだ先とか、現在だけではない、現世は安穏であり後には善処に生まれる、善い所に生まれるといっても、ただ美味いものが食える、贅沢が出来るというような劣等な快楽でなくして、道を以て楽しみを受ける、崇高なる精神生活の悦楽を受けることを説くのです。日蓮聖人が立正安国論に「先ず生前を安んじ、更に没後を扶けん」と述べられたことは、まさに仏教の教化をよく言い表したものであって、釈尊の説かれた仏教は決して厭世悲観となって未来に希望を託すような教えではありません。これは非常に大事なことで、将来の宗教の立場は「現世安穏にして後に善処に生じ」という両面を含んで、そして宗教の効用を発揮して行くものでなければなりません。


 

戦争

 投稿者:もり  投稿日:2018年 9月30日(日)23時34分10秒
  憲法9条信奉者の方は中国の問題には無関心なんですよね。
中国のチベット侵略問題、ウイグル問題には見て見ぬふりをする。
同じように中国が現に尖閣諸島を脅かしています。
中国のエージェント・オブ・インフルエンスなんでしょうか。
 

う~ん(苦笑)

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 9月30日(日)17時44分2秒
編集済
  九条を守れ、辺野古基地反対と叫ぶ「平和主義」の方から、Facebookにコメント頂きました。

>あなたの言われる段階から、さらにまた時代は変わっていると思いますよ。アメリカは自国に核ミサイルを撃ち込める国とは戦いません。ソ連(ロシア)、中国に続き北朝鮮とも戦わない決断がトランプ金正恩会談でしょう。朝鮮戦争が終結したら「日米同盟」など有名無実化しますから、米軍や自衛隊関係者はあせっていますね。日中の経済の緊密な相互依存の深化と併せてある面「お花畑だった9条」がはじめて現実化する条件が育ってきていると思います。戦争など誰にとっても不幸ですから、戦わなくてもすむ環境作りに励みませんか。

返信)誰も焦っていませんよ。あなた方や日教組は自衛隊を侮辱するところから直さないと議論は出来ませんね。勿論、時代は変わっていますよ。独裁国家である北朝鮮は核開発を成功させ、しかも一方的な破棄はしないと宣言しています。中国の軍事費は、公表されているだけでも20倍となり、軍事力を背景とした支配権を拡大させています。相変わらず、世界中で紛争やテロは止むことはありません。あなた方が言わなくとも、世界中の人が戦争回避のために日々努力しています。防衛力の整備もその一環ですね。米国は軍事力を背景に、北朝鮮の暴走を止めさせたのですね。仮に警察力を廃止したら、再び構築することは非常に困難であることぐらいは理解しましょうね。戦う術を捨てたら、守ってくれる人を嫌ったら、強盗に殺されることもなく、いじめで殺されることもないって理屈は全く通用しないですよ。


 

開目抄 その31

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 9月28日(金)10時23分6秒
編集済
  「諸の善男子、我が滅後において、誰か能くこの経を護持し読誦せん。今仏前において、自ら誓言を説け等云云。第三の諫敕なり」

然るに日蓮に御守護が無いのはどうしたことだろうか、我が身に失があるのであろうかと益々疑いを強くして、その後に日蓮聖人は法華経の行者であるとの確信を明らかにして行きます。法華経の宝塔品において、釈尊は三度にわたって「誰か能くこの経を護持し読誦せん。今仏前において、自ら誓言を説け」と仏勅を下されている。それにも拘わらず、浄土宗などは法華経を抛てよと言い、禅宗は教化別伝という言葉に捉われて、法華経を蔑ろにしている。ならば、念仏あるいは禅の人達が法華経の敵であることは如何にも明白なことであろう。日蓮聖人には、何か利するところあって他宗を攻撃するというような、そういう小さな考えはありません。法華経の正法たる所以を明らかにせねばならない、日本には教えの中心がなければならない、そう考えるからこそ他の宗旨の過ちを正しているのです。惟神(かんながら)の道も結構ですが、何時までも「鏡です」とか「玉です」と言っているだけでは、様々な思想が襲ってくることを凌ぐことは出来ません。論語も宜しいかも知れませんが、仏教に比べれば未だ根底の浅い所があります。惟神の教えにある様々なもの、儒教の三千余巻、そして仏教の七千余巻を統合して考えるならば、法華経は最高点に位する尊い経典です。その教えを捨ててしまえ、抛って置けと言って、想像の極楽浄土に往生を願うような信仰は幾ら普及しても、宗教なり道徳なりの思想の根底とはなり得ません。あるいは禅宗の公案のように「隻手声あり、その声を聞け」、両手を打ち合わせると音がする、では片手ではどんな音がするかというようなことで、人心を導き得ると信じていたならば、様々なる思想が襲って来る時には、到底太刀打ちが出来ずに、日本人の思想は攪乱されてしまいます。それ故に日蓮聖人は、日本の思想の中堅に法華経を据え付けていかねばならぬという戦いは、漢の溢公と項羽の争い、日本の源平の戦い、あるいは阿修羅と帝釈天、金翅鳥と竜王の争いが及ばぬ程の大きな戦いであると述べられたのです。

「我等が慈父、双林最後の御遣言に云く、法に依つて人に依らざれ」

そして日蓮聖人は、更に法華経の宝塔品に説いてある六難九易を挙げて、法華経の尊いことを述べられます。須弥山を手に取って他方にある無数の仏国土に投げ置くことが出来たとしても、それは未だ難しいことではない。大火の中で枯れ草を背負っていても焼けないでいることが出来たとしても、それは未だ難しいことではない。それ程に仏の滅後に法華経を説くことは非常に困難であるということを説いて、なお釈尊は法華経弘通の誓願を立てることを三度勧めて命じられたのである。ところが華厳宗の学者は、華厳経も法華経と同じ六難に値する優れた教えである、法相宗は深密経が、三論宗は般若経が、真言宗は大日経が、法華経と同じ六難に値する優れた教えであると言う。そればかりではない、日本の弘法大師は、大日経は六難に値するどころか、釈迦が説いた経典以外の、法身の大日如来が説いた教えだと言い出す始末である。諸宗の学者が説くことを直ちに過ちであると言えば、世間の人は顔を背け、日蓮に迫害を加えてくることもあるであろう。しかしながら、仏は「法に依つて人に依らざれ」と涅槃経に遺言されたではないか。

涅槃経ばかりではありません。阿含の初めから釈尊はそのように説いています。法とは、釈迦如来の説かれた教えです。その釈迦如来が説かれた教えの筋に従って行かなければならないことは、一切経を通じて大事なることです。弘法大師が偉いとか、法然上人が偉いとか、何とかという学者が偉いと言っても、仏教の中において偉いという場合には、釈迦牟尼仏の教えを間違いなく奉戴することが前提です。例えば裁判官は、定められた法律によって「この者は有罪である」とか「無罪である」とか判ずるのであって、己の学識に偏って判決を左右すべきではありません。法律を間違いなく適用する人をもって、良き裁判官としなければなりません。同様に仏教において、釈迦如来を除け者にして、俺の考えの方が偉いなどという者が出てくることはあってはならないのです。龍樹菩薩は「経文に基づかない論に依ってはならない」と言われている。天台大師も「経文に合致するものを用い、そうでないものは信じてはならない」と言われ、伝教大師も「仏の説をよりどころし、口伝を信じてはならない」と言われています。しかしながら、みな各々自分の宗旨を堅く信受して先師の誤りを正さず、曲解された経典の勝劣を述べている。諸宗の学者は、実教である法華経の文を曲解して権経の義と同じであると言い、法華経の中身など知らなくても良いと言っているのです。法華経を読むにしても、ただ法華経を棒読みするばかりでは駄目です。読むだけならば、禅宗も他の宗も法華経を読みます。ただ法華経の字を読むばかりで、釈迦如来の絶対の力を信じて行かなければ何にもなりません。法華経の大事な教えは守らなければならない、法華経に背いては意味が無いのです。それ故に日蓮聖人は、仏道を修めようとする人は、よく考えなければならない、自分たちの宗旨に偏ることを捨て、釈尊の教えに素直に従い、他の宗旨と勝劣を争ったり、人を侮ったりしてはならないと言われているのです。



 

明解「法華経要義」 薬草喩品第五 その2

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 9月27日(木)09時19分54秒
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  (現代語)
私は如来である。未だ生死の苦海を渡れぬ者は渡らしめ、未だ解脱せざる者は解脱せしめ、未だ心の安らかざる者は安らかにせしめ、未だ涅槃せざる者には涅槃を得さしめる。私は、現在の世、未来の世のことを有りの儘に知る。私は、一切を知る者、一切を見る者、悟りへの道を知る者、道を開く者、道を説く者である。

(要文)
我は是れ如来なり。未だ度せざる者は度せしめ、未だ解せざる者は解せしめ、未だ安ぜざる者は安ぜしめ、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ。今世・後世、実の如く之を知る。我は是れ一切知者・一切見者・知道者・開道者・説道者なり。

(要義)
釈迦牟尼仏自らが、如来であることを宣言せられた一節です。如来とは、妙法と言うべき真如実相が人格となって我等衆生を救うために現われ来たるもの、真如を極めて衆生済度の為に来現せるものを言います。如来は、一面には真理に契合し、一面には衆生済度の為に働くが故に、未だ生死の海を渡らぬ者は渡らしめ、未だ解脱せざる者は解脱せしめるのです。仏教では苦・集・滅・道と称してこれを四諦観といい、迷える方の原因結果と悟りに行く原因結果を説き、この四つの事によって人生を大観することが出来ることを教えます。苦諦と集諦は迷いの原因と結果で、過去世に種々なる罪業を集めて自分の身に引き寄せているが故に、それが原因となって現世には苦しみの人生が現れてくることを教え、滅諦と道諦は悟りの原因と結果で、道を修して善を行うが故に、その結果寂滅涅槃に達することが出きることを教えるのです。「未だ度せざる者」とは、この人生を苦しみの海に譬えて、煩悶の中に惑溺して向こう岸に行けない者であり、そのような者を如来は、如何なる事に出会っても平和を破られないように、煩悶を起こさないように信仰の力に活きさせて、この世を度らしめます。そして「未だ解せざる者」、人がこの世に在るのは一回限りの偶然であるとか、神が創ったとか、原因は無くして存在する、物質的であるというような愚なる事を言って、自分の本来の面目を得ない者に対しては、我々の生命と言うべきものは無限であって、久遠よりの生命が自己の為した「業」によって、ここに果報が定まっていることを領解せしめ、如何に為せば自在となるかを覚らしめます。また、物質的或いは感覚的な欲望に囚われて精神が悶えている者、「未だ安んぜざる者」には、道徳的宗教的な事を尊いと思い、場合によっては一切を犠牲にしても良いと覚悟して進み行くならば、そこに自己の平和満足があることを教えて宗教の精神生活の真価を味はしめます。そして「涅槃を得せしむ」とは、一切の妄想なり、苦痛なり、迷いなりの不純なるものが全て除かれて、何物にも動揺せられない涼やかなる人生の境界に至らしめることです。その涅槃を推し究めて行けば仏様となるわけですが、まずは現在生活の中に涅槃の境界、完全なる宗教安心の境界を得させるのです。

如来は、今在る人の人生の事柄も、またその人の死んで行く先の事柄も事実にこれを知っています。諸法の実相をも悟り、衆生の心の奥をも悟り、それを教える方法をも悟り、総てに於いて達せざる所無きが故に、如来を「一切知者」というのです。それは、キリスト教の「神は全知全能である」というような、無から有を生じせしめるとか、有をして無に帰せしめるというような、真理に逆行してもそれが可能であるというような乱暴な意味を持つものではありません。仏教では、真実の帰趣する所を知り、衆生の心の行く所を知り、原因と結果の関係を知り、それを導く方法を知るが故に「一切知者」といい、その事が手に取って見るように有り有りと分かるが故に「一切見者」というのです。そして、釈迦如来の意の徳を言えば道を知れる人であり、身を以て救う方から言えば道を開く人であり、口を以て救う方から言えば道を説く人であるから、一切衆生に対しては「知道者・開道者・説道者」という地位に立つわけです。転輪聖王の輪宝が総ての悪しきものを打ち砕いて正義を打ち立てるが如く、釈尊は身口意に於いて総ての邪なるものを砕いて、正しきものを世に現す力があるが故に、これを身口意の三輪と言い、不思議なる教化をなさるが故に、これを三輪の妙化と言います。意には絶大の慈悲があり、口には無礙の説法を為し、身は千変万化して衆生を教化する、約して言えば仏教にどれ程多くの経があり、どんな仏の活動があり、何処に現れて働いたとしても、それは釈尊の三輪の妙化に他ならないのです。




 

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 9月22日(土)13時16分17秒
  ご案内いただいたページの本多日生上人のご著作7点を購入したいと、財団にメールさせていただきました。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

彼岸に入り、墓参でのお唱えごとについて、お伺いさせてください。御本尊を前にしているわけではなく、仏壇と同じ要品では違うと思いますし、顕本法華宗ではどのように教えられているのか、あるいは差し支えなければ、shamonさんはどのようなお唱えごとをなさっているのか、ご教示いただけたら、幸いです。
 
    (shamon) 私の場合は、(方便品) 、自我偈、お題目ですね。  

開目抄 その30

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 9月21日(金)10時15分49秒
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  「華厳経乃至諸大乗経・大日経等の諸尊の種子みな一念三千なり。天台智者大師一人この法門を得給えり」

ところが他の宗旨の人達が、この仏の種を奪わんとして、一念三千の義理を盗み始めます。しかしながら、「発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらはれず」と先に日蓮聖人が述べられているように、他の宗旨の人が一念三千を盗もうとしても、顕本した本仏を奉戴しなければ盗むことは出来ない、無始無終の本仏、己心の釈尊というものが現れなければ真の一念三千は現れないのです。天親菩薩は法華経によって、「種子無上」ということを論じられましたが、真の成仏をしようと言うのであれば、この本当の種は本仏を通して現れて来なければなりません、即ち本仏の智慧なり慈悲なり力なりを要するのです。天台大師の一念三千というのも、この種子のことを説いたものです。他の宗旨は天台大師の一念三千の法門を盗んで、華厳経や大日経の文に引っ付けて、色々と骨を折って誤魔化していますが、そのことを伝教大師は「依憑天台集」に暴露して、新来の真言宗は、善無畏三蔵が元・天台の学者一行阿闍梨を取り込んで大日経の講釈を書かせたことを隠し、そして旧来の華厳宗は天台の四教判に影響を受けて法蔵が五教判を立てたことを隠していると述べています。華厳宗は天台の影響を受けて教義を焼き直し、真言宗は天台の教義を取り入れて、大日経の教理は法華経と同じだけれども、印と真言があるから事相において法華経より優れていると言いますが、大日経には二乗作仏・十界互具はなく、一念三千の法門も説かれていません。それ故に日蓮聖人は、このことを批評して次のように言われています。柿本人麿の「ほのぼのとあかしの浦のあさぎりに 島がくれゆく舟をしぞ思ふ」という名高い和歌を、蝦夷の島に行って「俺が詠んだのだ」と言えば、蝦夷のことしか知らない人は何も分からずに、そうかと思うに違いない。漢土や日本の学者が誑かされているのも、これと同じことである。その上で日蓮聖人は、各宗の高僧、そして真言の善無畏三蔵や弘法大師も表面では法華経に反対して威張ったりもしているけれども、一方には心の中で後悔し、実は法華経の教えに頭を下げていることを、次々と根拠を挙げて述べて行かれます。

「大日経・観経等を読む行者等、法華経の行者に敵対をなさば、彼の行者を捨てて法華経の行者を守護すべし」

他の経を修行する人が、その経に現れた仏様や菩薩、神様から守られるのは当然だが、もし彼等が法華経の行者に敵対するというのであれば、彼等を捨てて法華経の行者を守るのが筋であると日蓮聖人は述べられます。それは孝行な息子であっても、父が王の敵となれば、父を捨てて王のもとに参るのと同じである。これが孝行の本領であると言われたのです。浄土宗の人は反対しても、その浄土宗の本尊である阿弥陀如来は法華経に賛成している、他の宗旨の菩薩もみな法華経の方を向いているのですから、法華経の行者を守らないはずがありません。日蓮門下には、「本仏釈尊を信じ、妙法蓮華経を信じ、法華経の行者の本領に立てよ、然らば鬼子母神もその正しい行者を守られるであろう」と説き聞かせても、「何を言うか、鬼子母神様が有り難いのだ。こっちは鬼子母神様の霊力を信心しているのだ」という間違った者がおりますが、そういう者は鬼子母神も守る道理はありません。日蓮聖人は、間違った信心をする者には、仏様も、菩薩も諸天善神も、みな反対するという意味を言い表して、法華経が一番尊いことには異論がないということを説かれた。そして七宗の守護神が伝教大師を守られたことを挙げて、様々の経に現れている所の仏、菩薩、善神は皆、法華経の行者を守られるという意味を日蓮聖人は一層明らかにします。法華経の守護神が伝教大師を守るのは当然だが、華厳、法相、三論というような南都六宗の守護神も「法華経を中心とすることは宜しい」というので、法華行者の方へ賛成した。然らば、如何に日蓮に反対しようとも、一切の諸天善神は必ず日蓮を守護するはずである。ここが日蓮聖人の主義に立つ者の真面目です。例え親であっても朝敵となるのであれば捨てなければならない。日蓮聖人の主義に立つ者は、このように正しい筋道を立てて、そこに諸天善神が守護なさるという正義の観念を持って、その感応と加護を認めることになるのです。


 

祖師像

 投稿者:もり  投稿日:2018年 9月20日(木)22時43分33秒
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  お返事ありがとうございます。
佛立宗で祀っているのは黒い祖師像ですよね。
私の通っていたお寺は日蓮宗でした。
そのお寺の祖師像も日法師が彫刻したとありました。
その祖師像が作られた年を調べてみると、日法師が
子供の頃に彫ったことになってしまうんですよね。
もっともWikipediaによると日法師は幼少の頃から日蓮聖人に随身していたとありましたが。
今となってふと疑問にが浮かんで来ました。

>shamonさま、ありがとうございました。
そのお寺では、自ら開眼された祖師像も言っちゃ悪いですが「売り」になっていたもので。
 
    (shamon) 日蓮聖人の彫刻した鬼子母神像なんてのも、堂々とありますからね(笑)。まあ、常識から考えれば、日蓮聖人が御自分の像を開眼することはないでしょうね。

調べたら日法作・祖師像が随分と沢山の日蓮宗寺院にあるようですね。顕本法華宗の本山にも、安珍清姫の鐘とはチト違うものが、最近は立派にお宝として宣伝されていますが・・・(苦笑)。
 

祖師像

 投稿者:もり  投稿日:2018年 9月20日(木)21時48分42秒
  こんばんは。
明解法華経要義、楽天ブックスで入手致しました。
拝読致します。
さて、お伺いしたいことが一点あります。
私がかつて通っていた日蓮宗のお寺ですが、日蓮聖人自ら開眼されたという祖師像がありました。
果たして日蓮聖人がご自身の像を開眼するというようなことが史実としてあったのでしょうか?
 
    (shamon) 仏立宗(元仏立講)のお寺ではないですか? 日法上人が彫刻し、日蓮聖人自ら開眼したと言っている宥清寺の祖師像のことですかね。それを写した御尊像が各寺に祀られているそうですが、開導の長松清風(日扇)という方は、最近の方だからですね・・・(笑)。  

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 9月20日(木)20時54分49秒
  重ね重ね、有り難うございます。

実は、「直授」か「直受」か、どちらか迷って、顕本法華宗の公式ホームページを確認し、書き込みました。そうですか、これからは迷わず「直授」と書きます。

ご教示の書籍、求めさせていただきます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
 

明解「法華経要義」 薬草喩品第五 その1

 投稿者:shamon  投稿日:2018年 9月20日(木)07時57分22秒
  (現代語)
善いぞ、善いことであるぞ。迦葉よ、よくぞ如来の真実の功徳を説いた。誠に汝の言う通りである。如来は、一切の物事の帰着する所、また一切の人々の心の奥底の働きを知って、通達せざる所は少しも無いのである。

(要文)
善哉、善哉。迦葉よ、善く如来の真実の功徳を説く、誠に所言の如し。如来は、一切諸法の帰趣する所を観知し、亦一切衆生の深心の所行を知って、通達無礙なり。

(要義)
この品では、汝等が信解品に於いて領解した意味には間違いが無いということを、三草二木の譬喩として説かれます。それは、天より降る一つの雨がすべての草木を生長させるが如く、その成長する草木には大小があるけれども雨は平等に降るという、平等と差別の関係です。雨というのは、釈尊の慈悲より出たる説法教化であって、それは常に平等に与えられるものであるけれども、そこに生える種の性質によって草木の大小が分かれる、衆生の仏性は平等であるけれども、その得益には差別があることを説くものです。それは現在の人生も同じで、如何に人権が平等であり制度が平等であっても、その人々の勤惰によって、その人々の賢不肖によって種々なる差別が生じるのと同じです。

この一節は長者窮子の譬喩によって、小乗・権大乗・実大乗という所謂教相上の相違を教えるよりも、慈愛を以て子供を救い上げる所の如来の功徳、その領解を説いた弟子達に対して「善くぞ如来の真実の功徳を説く」と、釈迦牟尼仏が誉め称えられた所です。従来は信解品などの解釈をするにしても、ただ教相の相違、経典の優劣のみに重きを置くような傾向がありましたが、経文の順序によって見て行くと、信解品全体の要点は「如来の真実の功徳」を説いたことが明らかになります。その境遇に苛む者達が、実は常に如来の慈悲に満ちた巧みな導きの下にあったことを覚って、非常な感謝の念を起したものであるのです。その釈迦如来は、上には宇宙の真理を悟り、下には人々の心の奥を見通して、少しも誤りのない広大な智慧を有して居られる、即ち実相の真理原則を観る智慧もあれば、人々の機根に応じて救うべき観察にも過ちをしないという意味が説かれています。如来は、一切諸法即ちこの宇宙に現れている総ての物事の帰着する所、それを押し詰めたならば如何なるものであるかという哲学的な真理をよくお悟りになっている。そして一切衆生の、その心の奥より出て行う所の総ての事柄を見透かして、そして少しも過ちをすることがない、「通達無礙」にこれを照覧し給うことが説かれているのです。


 

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 9月19日(水)00時56分51秒
  そうですか、よかったです。ぜひ、お参りさせていただこうと思います。

経巻相承、直受日蓮の宗是は、とても素晴らしく、顕本法華宗でよかったと思う反面、日蓮宗のほうが、まだ若いお坊さんに活力があるというのでしょうか、(相対的にですが)布教に熱心な気がします。日蓮宗にとどまったまま、改革していく努力したほうがよかったと思うのですが。。。

質問ばかりで恐縮ですが、日蓮聖人のご遺文を勉強するのに、適した(できれば一般書の)著者はおられますか?
中尾堯先生の本などは、いかがでしょうか。忌憚なくご意見をお聞かせいただけたら、幸いです。

 
    (shamon) 本多猊下のものに勝るものはありません(笑)。ただ当時のものは、時代背景の影響を大きく受けている場合や、殆どが講演録であるがために、一部の内容に正確でないものも含まれているので、誤解を招かぬよう大幅な編集・加筆が必要です。現在投稿しているものが完結次第、五大部の解説書として出版致します。勿論、立正大学の著名な教授陣の専門書を多く読んだ上での結論ですよ。

本多猊下の「法華経の心髄」と「教義信条の精束」は必須ですので、是非財団の方から購入してください。http://www.kempon.net/newpage28%20shoseki.htm

ちなみに、正しくは「直授」です。「直受」は日蓮正宗が使用する語ですね。ある猊下が直受と文章に誤って書き、ある学者ぶっている方が、直受で問題ないと言ったものですから、今の不勉強な顕本法華宗の僧侶は「直受」を違和感なく公式に使っています。情けないですね(苦笑)。
 

(無題)

 投稿者:征尚  投稿日:2018年 9月18日(火)00時24分5秒
編集済
  大変お世話になっております。

『日蓮聖人の宗旨』、入手して読ませていただいております。

今日、お伺いしたいのは、日蓮聖人のご霊跡についてです。身延山や池上本門寺など、日蓮聖人のご遺跡を訪ね、拝ませていただくことについて、顕本法華宗では、どのように考えたらよろしいでしょうか。京都岩倉の本山は、歴史的に日什正師のご霊跡としての意味も薄く、できれば日蓮聖人のお住まいになった、あるいはお亡くなりになった地を実際に拝してみたい、という思い、願いがあります。直受日蓮の信仰に生きるなら、聖地信仰に意味はないとは思いつつ、初信の者として、お伺いする次第です。
 
    (shamon) 全然大丈夫ですよ、問題ありません。私は身延山も池上本門寺も勿論行っています。身延は山門を入ると本多猊下の像があります。池上は祖師堂が中心で釈迦堂が傍にあるのは残念ですね。池上の日蓮宗宗務院は、顕本法華宗の統一閣を売却して建設したものです。

 

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